出して
目覚ましが鳴った。
被っていた布団から手を伸ばし、目覚ましを止める。静かになった部屋に、鳥の声が聞こえてくる。
「もう朝か…」
布団から顔を出す。カーテン越しでも明るい部屋。椅子に掛けてあるランドセル、本棚の漫画、壁に立てかけたバットとグローブ。夜眠る時にはやる気を失い、古びたように見える物たちが息を吹き返している。活き活きしていないのは僕だけだ。
「朝って何で来るんだろう」
明るい光を浴びたって、気分が晴れる事はない。運動は下手だし、勉強も出来ないし、喋るのが苦手で友達も居ない。国語の授業で教科書を読まされるとクラスメイトはいつも笑う。こんなのも読めないのかって。からかっているだけかも知れないけれど辛い。毎晩、このまま朝が来なければいいのにと願う。
「健斗! 早く起きなさい!」
下からお母さんの声がする。ちょっと怒った声。
「今行くー」
でも朝は来る。さぼることなく毎日。ベッドから起き上がると、気が重くなる。今から着替えてご飯を食べてランドセルを背負うのかと思うと、もう一度布団を被って1人になりたいと思う。お母さんはいつも怒っていて、その事が余計に気分を暗くする。起きるのが遅くても、ご飯を食べるのが遅くても怒鳴られて、もういらないと言ったらもっと怒るし、美味しいとかきれいとか、感想を言わないといけない。いつも眉間に皺を寄せて、怒れば怒る程声が大きくなっていって、最後には食器を投げる。お皿とかコップとか、割れるやつばっかり。そして片付けながら僕のせいで割れたって泣くんだ。うんざりする。
学校も家も嫌。部屋で1人で居る時が一番幸せ。毎日誰にも会わずに、誰とも喋らずに過ごせたらどんなにいいだろうと想像する。そんな場所、どこにもないけれど。
嫌々用意をして1階に下りると、お母さんが居なかった。さっき僕を呼んでいたのに、おかしいな。いつもならキッチンに立って朝食の仕上げをしているのに。テレビもついていなくて誰も居ないリビングって、こんなに静かなんだ。
机の上に紙が置いてある。置き手紙か何かかなと思い手に取ると、裏野ドリームランド招待券と書いてある。
「あ。これ、この前出来た遊園地だ」
家の近くの森に、廃園になっていた遊園地がある。壊すお金がないから放ってあるんだと聞いていたが、再開が決まってずっと工事中だった。昔はこの辺も賑やかで、子供も沢山いて、遊園地も儲かっていたんだそうだ。でもお客さんが減って、潰れてしまった。この夏再開すると聞いて、楽しみにしていたんだ。
「招待券って、お金が要らないって事?」
お母さんは何故だか居ない。学校に行かずにこのまま遊園地に行っても怒られない。帰って怒られるだろうけど、でも今は止める人が居ない。これって夢? それともご褒美? チケットを眺めながら、考えてしまう。毎日辛い学校に行って、お母さんに怒られる事にも耐えている僕へのプレゼントかも知れないと。だったらこれくらい、罰が当たるわけない。頭の隅でそう思う。自転車で行ける距離だし、遠い所へ家出する訳でもないんだからいいよね。こんなチャンスなかなかない。部屋から持って来たランドセルを床に放って、家を出た。
自転車に跨がると、驚く程体が軽く感じた。ランドセルを背負っていないからなのか、学校に行かなくていいという解放感なのかは分からない。でも今までで一番わくわくしているのは確かだった。
遊園地に着くと、入口が眩しいくらいに光っていた。
「URANO DREAM LAND」という文字の電飾が、ピンクや紫や黄緑色に光っている。その上には立体の大きなうさぎのキャラクターが付いていて、上半身が乗り出しているような恰好だった。両手を広げて、お客さんを歓迎している。
でも朝早いからか、柵は閉まっていた。まだ入れないのかな。チケットに開園時間が書いてあるかも、とポケットに手を入れた時、遊園地の中から看板と同じうさぎの着ぐるみが歩いてくるのが見えた。僕を見ると、手を振ってくる。
「わぁ、可愛い」
思わず駆け寄る。
「もう入れる?」
そう聞くと、首を大きく横に振る。
「そっか…。何時に開くのかな。これ持ってるんだけど、お金が無くても入れるよね?」
柵の間から手を入れて、チケットを見せる。すると両手を上げて喜んだように跳ねた。そして中に入れてくれる。
「え、いいの?」
うさぎは大きく頷く。このチケットすごい。やっぱりこれはご褒美だったんだと確信する。
中に入ると、大きなメリーゴーラウンドが楽し気な音楽を奏でながら回っていた。
「わあーすごい!」
その他にも、カラフルできらびやかな乗り物が沢山見えた。罰が当たるとか夢だとか、そんな事を忘れてしまうくらいときめいている。うさぎは館内地図をくれた。楽しそうなアトラクションばっかりだ。
「ジェットコースター! アクアツアーもある! ミラーハウスかあ、ちょっと怖いなあ。ドリームキャッスルってなんだろう? メリーゴーラウンドは絶対だよね。あと観覧車! 何から乗ろう? 何がおススメ?」
そう言って顔を上げると、うさぎは居なくなっていた。
「あれ…」
誰も居ない遊園地って初めてかも。もう開園しているのかというくらいいろんな場所から楽しい音楽が流れていて、不思議な気持ちになった。
「開園時間まであとどのくらいあるんだろう」
メリーゴーラウンドの横に、観覧車がそびえ立っている。ゴンドラはピンクや黄緑や紫、青色がある。これはまだ動いていない。係の人は居ないのかな。乗り口に近付いてきょろきょろしていると、急に横から人が現れた。
「わっ!」
驚いて大きな声が出てしまう。
現れたのは、僕より少し年上に見える男の子だった。半袖に半ズボンで、汗をかいていた。顔や手足が土で汚れている。
「どうして…」
男の子はすごく驚いた顔をして言った。
「どうしてって… 僕はさっきチケットを見せたら入れたんだ。何か汚れてるみたいだけど大丈夫?」
「… 大丈夫」
絞り出したような、かすれた声。
「君はいつ来たの? 開園はまだしてないみたいなんだけど、乗り物って乗れるのかな」
そう言うと、彼はまばたきもせずじっと見つめて来た。
「何? 何か僕の顔に付いてる?」
わざと笑ってみる。でも彼は全く笑わない。何なんだ。
「1人で来たんだね」
疑問形じゃなく、確信しているように彼は言う。
「学校に行かずに」
そう言われると、急に後ろめたさを感じた。
「そうだけど… それは君もだろ?」
さぼっているのは僕だけじゃない。
「そうだね。そうかもね」
「そうかもねって、君何年生なの? 僕より年上みたいだけど、学校は行ってるでしょ」
「あはははは!」
彼は突然笑い始めた。お腹を抱えて地面に崩れ落ちる。
「よっしゃー!」
大きな声で叫ぶ。
「何? 急にどうしたの?!」
聞いてみても笑い続けている。寝っ転がって、足をばたつかせて。
「ねえってば」
体を揺さぶると、急に動きを止めた。両目から涙が流れている。
「泣いてるの?」
ちょっと変な子かも知れない。ここから離れた方が良さそうだ。そう考えたと同時に、「動けないよ」と彼が強い口調で言う。
「もう動けないはずだよ。だってここに僕と君が居るんだから」
涙をこすりながら起き上がる。後ずさりしようとしても、足が全く動かない。
「出られないんだよ、もう」
何で? 何で動かないんだよ。
「僕が何年生か聞いたよね。答えてあげようか」
彼が顔を寄せてくる。近くで見ると、彼の顔は老けているように見えた。体は子供なのに。
「分からないんだ。ここに来て何年経つのか。10年くらいは経つかな。いや、もっと長い気がする。ここは時計もないし、計れない。時間の概念がないのかも知れない」
嘘だ、そんなの。
「嘘じゃない。君が望んだことだろ? かつての僕もそう強く望んだんだ。そうしたら遊園地への招待状が届いた」
彼はポケットから古びた招待券を取り出す。くしゃくしゃで、茶色く色褪せているけれど、僕が持っているのと同じだった。
「ずっと1人だった。この観覧車の中で」
細い腕で、ゴンドラを指さす。そしてそのまま僕の首を掴んだ。
「僕がここに来た時、遊園地は栄えていた。毎日沢山の人が来ては帰って行った。でもその間、誰も僕に気付かなかった。閉じ込められていることに。そのうち客が減って開園時間が短くなってやがて廃園になった。廃園になっても、僕はこの中に居た。何で僕が? 家族は誰も心配しないの? どうして迎えに来ないの。警察は? 何で誰も僕の事が見えないの?!」
彼はだんだん大きな声になって、僕の首を強く握った。そして顔を近付けられて、おでことおでこがぶつかる鈍い音がした。
「… いってえ」
そう言って彼は手を離す。すると僕は人形のように地面に倒れた。
「でもやっと分かったんだ。これは、僕が望んだことなんだって」
今度は足を掴んで、ゴンドラの方へ引っ張られる。やめて! やめてくれ。
「1人になりたいと強く願ったからなんだ。だから1人になった。誰にも気づかれない、たった1人の場所に。答えに気付いたら、急にゴンドラから出された。そして君が居た。僕が入った時と同じ、開園前の遊園地にたった一人で」
ゴンドラの中に入れられる。抵抗出来ない。
扉を閉められると、床と壁面に無数に「出して」という文字が彫られていた。
彼が外から覗き込み、笑っている。
「そこは僕がずっと居た場所だ。1人になりたかったんだろ? 良かったな。もうずっと、1人で居られるよ」
その言葉と共に、ゴンドラが動き始める。嫌だ。ずっとこの中に? するとやっと体が動いた。扉を開けようとして見るも、内側にはドアノブがない。立ち上がると、入り口の方へ走って行く彼が見えた。
機械を操縦する小部屋から、うさぎの着ぐるみが出て来るのが見える。ゴンドラはゆっくり上がって行く。
「うさぎ! 扉を開けて! こんなところで1人は嫌だよ!」
窓を叩いて叫ぶ。
するとうさぎは両手を上げて、喜んだように跳ねた。そして背を向けると、入り口の方へ歩いて行く。
「何で? ちょっと待って。行かないでよ。ここから出して! 出してよぉ!」
僕の声はもう、誰にも届かない。
ーねえ、裏野ドリームランドの噂、知ってる?
あそこからの招待券が届いたら、絶対使っちゃだめらしいよ。一生、出られなくなるんだって。ー