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布田天神にて~アンドウ、行くな~

作者: 北 教之

「恋する調布」シリーズ第四作目、今回の舞台は、調布の氏神、布田天神です。

 授業中に回ってきた丸めた紙切れには、サトルの名前があって、「放課後、校門に集合」とあった。タダオとミッチーのサインが入っていて、僕は紙切れの端に自分のサインを書いて、丸めてサトルに戻した。何が話題かは分かっていたけど、何が目的かは分からない。サトルはいつも、僕らの数歩先のアイデアを出してきて、僕らの度肝を抜く。その日もそうだった。

 「お百度参りをしないか」校門で待っていたサトルは言った。

 「おひゃくど?」ミッチーが、コンビニで買った丸いガムを口に放り込んで言った。「なんだそれ?」

 「アンドウのためにさ」サトルが言った。

 僕ら3人は黙った。それが話題になるのは分かっていたけど、お百度参り、というのが何で、アンドウとそれがどうつながるのか、3人ともさっぱり分からなかった。サトルは3人が分かっていないことを、自分だけが分かっている、という事実をしっかり自分で確かめて、しっかり3人にも確かめさせてから、口を開いた。「お百度参りっていうのは、要するに御祈りだよ。神社の境内にある百度石から、神社の本殿まで行って、御祈りをして、また百度石に戻る。それを100回繰り返す。」

 「アンドウのためにやるのか?」タダオが言った。サトルがうなずく。

 「でもそれで何になる?」タダオが重ねて言った。

 「じゃあ、他に何ができる?」サトルが聞き返した。

 僕ら3人はまた黙った。サトルの言うとおりだ。僕らには何もできない。

 アンドウは、僕らのクラスで、一番ちっこくて、一番弱くて、でも一番しっかりものの女の子だ。いつもうるさく騒いでばかりのシノミヤとかヤスダとかと違って、いつも自分の席に座ったまま、じっとニコニコみんなを眺めている。だけどみんな、決してアンドウをシカトしたりしない。おしゃべりが本気の言いあいになって、右か左かどっちかに決めないといけない時には、誰ともなしに誰かが言う。「ねぇ、アンドウはどう思う?」そうするとアンドウは、ニコニコ笑顔を崩さないまま、「えー、そうだなー」と考え込む。そして、静かに自分の考えを言う。その考えに反論できる奴は、クラスには一人もいない。考え抜かれた、誰もが納得できる道筋を、アンドウは必ず示してくれる。

 みんな、アンドウを、ちっこいけど、弱いけど、でも頼りになる女の子、として見ていた。そのアンドウを、女として、いいよな、と言いだしたのは、サトルだ。

 「アンドウって、いいよな」と、サトルは言った。その時、僕の中で心臓が跳ね上がったのを、僕ははっきり覚えている。後で聞けば、タダオもミッチーも、同じだったらしい。僕は、自分は違う、と言いたかったけど、他の3人と比べて、自分のどこが違うか、はっきり主張することができなかった。

 僕は自分でも覚えていないくらい低学年の頃から、アンドウをはっきり、女として意識していた。体育の時間、体の弱いアンドウは見学していることが多い。見学して休んでいるはずなのに、アンドウは、ドッチボールが白熱してきたりすると、大声でみんなを応援したりする。頬を真っ赤に染めて、大声を上げる口にあてたアンドウの手の甲に、サラサラの髪が幾筋か流れ落ちている、その手の白さがまぶしくて、何だかドキドキした。そんなことを考えているのは僕だけだ、と、僕は胸を張って言えるんだろうか。

 「アンドウって、いいよな」と、サトルが言った時、僕ら3人はサトルの顔を穴が開くほど見つめた。その3人の顔を順繰りに眺めて、サトルは笑いだした。「分かったよ。みんながライバルなら、抜け駆けはしないよ。」

 そんな会話をしてから、数か月後に、アンドウは入院した。小さい頃から持っていた持病を、しっかり治すための入院だ、と先生は説明してくれた。僕らは誰も、それ以上のことは聞いていなかった。サトル以外は。

 「職員室で、偶然聞いたんだ」サトルは言った。「今日、手術らしい」

 「手術するのか?」ミッチーが言った。声が震えた。「それって、大丈夫なのか?」

 「先生たちの会話によると」と、サトルは言った。「かなりの大手術らしい。」

 サトルが聞いているのに気づいたヤスコ先生は、慌てて言ったそうだ。確かに大きな手術だけどね、大丈夫よ、きっと。

 そのヤスコ先生の「きっと」に、ヤスコ先生自身が、まるで自信を持っていないのが分かった、とサトルは言った。サトルはいつも、人の言葉の裏にある真実を読みとる。僕らには見えないものを見て、僕らの知らないものを僕らに教えてくれる。アンドウが光を照らし、サトルが、そこに見えるものが何かを教えてくれる。そう。僕には分かってる。アンドウには、サトルがお似合いだ。ミッチーも。タダオも、それが分かっている。ひょっとしたら、抜け駆けしない、なんて言いながら、サトル自身もそう思っているかもしれない。

 「お百度参りって」と、タダオが言った。「どこでやるんだ?」

 「布田天神でやろう」と、サトルが言った。「学校から一番近いし、大きいし。」

 「大きいってことは、百度石からの距離も長いんじゃないのか?」ミッチーが、ガムをくちゃくちゃやりながら不安げに言った。

 「4人で分担してやろう」サトルが言った。「それなら大した距離じゃない。」

 「お賽銭はどうするんだ?」と、タダオが言った。タダオはいつもこうだ。サトルが何かやろう、と言いだすと、色んな障害や問題を見つける。自分がそれに気付いたことに得意になってひけらかす。でも、自分で解決策を見つけることはしない。それはサトルの役目だ、と思っている。

 「用意してある」と、サトルは言った。「500円玉を、100枚の五円玉に換えた。」

 「そりゃすげえ」と、3人が声を合わせた。

 「どこで両替したんだ?」僕は言った。

 「近所のコンビニ」と、サトルが言った。「友達の病気が治るように、お百度参りをしたいんですって言ったら、おばちゃんが泣きながら両替してくれたよ。」

 嘘は言ってない。でも、泣きながら両替してくれそうなおばちゃんのいるコンビニを、抜け目なく見つけ出すところが、サトルのサトルたる所以だ。

 「日が暮れるまでに済ませよう」と、布田天神の鳥居をくぐって、サトルが言った。「塾の時間とかを考えると、それがギリギリだろ?」

 サトルらしい現実的な判断だったけど、あとから起こったことを考えると、ずいぶんのんびりしたコメントだったと思う。僕らはまだ、自分たちがやろうとしていることが、どれほど大変なことか、よく分かっていなかった。アンドウの手術、ということの持つ意味を、本当に分かっていなかった。

 「で、どうするんだ?」と、境内を見渡して、どこから出してきたのか分からない飴玉を口に放り込んで、ミッチーが言った。

 「お百度石ってのがあるはずなんだけど、分からないな」とサトルが言った。

 「巫女さんに聞くか?」タダオが言った。

 「気持ちが神様に伝わればいいんだ」サトルが言った。「この木の切り株をお百度石、ということにしよう。ここがスタート地点。」

 「で、本殿まで百回往復するんだな」と、僕は言った。

 「いや」とサトルが言った。「本殿だけじゃない。裏手にある、末社の方も回るんだ。一通り、全ての末社で御祈りをして、本殿でお賽銭を上げて、戻ってくる。そう決めよう。」

 これで、僕らのお百度参りのルールが決まった。4人で分担するわけだから、一人25回。楽勝だと思った。実際、第一走者のサトルが小走りに末社の方に駆けだしてから、ご神木の切り株の所に戻ってくるまで、1分ほどしかかからなかった。1分×100回で、100分。1時間40分。楽勝だ。

 第二走者がタダオ。境内に横たわっている牛の銅像の頭をぽん、と叩いて、タダオが末社の方に向かって駆けていく。ふざけてスキップを踏んだりしている後姿に、サトルが、「真剣に祈れよ!」と叫んだ。そうだ。これはゲームじゃない。アンドウのために、僕らができる、精いっぱいのこと。アンドウのちっこい体が、メスに切り開かれる。ぶるっと体が震えた。ひょっとして。

 ひょっとして、アンドウの病気って、ものすごく重い病気なんじゃないだろうか。大手術で、アンドウは元気になるんだろうか。死、という単語が頭に浮かんだ時、この前TVで見た、戦争のドラマを思い浮かべた。燃える街の中を逃げまどう人々が、次々に死んでいくシーンを思い浮かべた。そこに、アンドウの姿を重ねてみた。全然現実感がない。アンドウが死ぬわけがない。だって、僕らはまだ10歳なのに。

 第三走者のミッチーは、ちょっと息を切らして戻ってきた。「意外としんどいな」とミッチーは言った。「楽勝じゃん」とタダオが笑った。次は僕だ。まず末社から。

 小さなお社の前で、これも小さな鈴を鳴らして、頭を下げて、手をたたく。そこで初めて、御祈りの言葉を考えていなかったことに気がついた。何て言えばいい?他の三人は何て言ったのかな。迷っている時間はない。適当に、アンドウをよろしくお願いします、と呟いて、次のお社に向かう。何をよろしくか、よくわからない御祈りだったな、と反省して、今度はちゃんと、アンドウの手術が成功しますように、とお祈りした。末社はみんなで五つ。そして、本殿へ。

 楽勝、と思ったけど、ミッチーが言う、意外ときつい、というのも分かる気がした。本殿のお賽銭箱に向かう短い階段を上がる時に、少し足に負担がかかる。これを25回やるのは確かにしんどいかもしれない。でも、と思った。でも、アンドウはきっと、もっと大変なことに耐えている。

 境内の中を行きかう人たちは、僕らのことは気にもとめずに、すたすたと自分の道を行く。子供が神社の境内で、何かのゲームをしている、としか思っていないんだろう。変に注目されると気が散るから、かえってありがたい。僕らは黙々と、同じコースを小走りにたどり続けた。石畳の参道をたどり、小さな鈴をならし、お辞儀をし、隣の末社に移動し、同じことを繰り返し、手に握りしめた五円玉をお賽銭箱に投げいれて、お辞儀をして、戻ってくる。ひとつ前のミッチーが、五円玉が一杯入ったコンビニ袋を渡してくれる。一枚取り出して、握りしめる。五円玉はすぐ、汗にじっとり濡れる。

 異変に最初に気付いたのは、タダオだった。「なんか、おかしい」と、首を傾げた。「なんだよ」と僕が言った。そろそろ息を切らし始めたミッチーが、末社に向かって駆けだしていく。

 「末社が遠くなった気がしたんだ」タダオが言った。

 「遠いって?」サトルが言った。

 「末社のお稲荷さんの前のキツネから、お稲荷さんの社まで」タダオが言った。そこで、ミッチーが戻ってきた。かなり息が切れている。「なんか、今までで一番しんどかったなぁ」と大きな声で言う。僕は駆けだす。まず、末社の端から。

 一つ末社をクリアして、隣のお稲荷さんに向かう。向かい合うキツネの石像の間を抜けて、小さなお社まで。数歩で行ける。全然遠くなんかない。タダオのやつ、何を言ってるんだろう。

 末社を抜けて、本殿に向かおうと振り返って、おや、と思った。牛の銅像の背中が目の前にある。本殿に向かう通り道をふさぐように、銅像が横たわっている。こんな場所にあったっけ。銅像の脇を通り抜けると、本殿の裏手に出た。

 おかしい。そんなはずはない。本殿の正面に戻って、牛の銅像をもう一度見る。本殿を見る。さっきと場所が違う。牛の像と本殿の間隔は、10メートルはゆうにある。でも、さっき、確かに牛の像が、僕の前に立ち塞がった。

 ぞっとした。本殿の階段をお賽銭箱まで行って、戻ってくると、ミッチーが、ガムをくちゃくちゃやりながら、コンビニ袋を渡してくれた。僕は黙っていた。タダオも、黙っていた。僕が行っていた間、タダオとサトルがどんな話をしたか、聞きたかった。でも、タダオは黙っていた。ミッチーは、ガムをくちゃくちゃやっていた。

 「サトル、遅いな」タダオが言った。

 僕らは振り返った。サトルは、本殿のお賽銭箱の前にいる。何かやっているが、よく分からない。やがて、ちゃりん、と音がした。柏手の音。そして、サトルが駆け戻ってきた。顔に血の気がない。

 「おかしい」走りだそうとするタダオを制して、サトルが言った。

 「何かあったか?」僕は言った。

 「鈴を鳴らそうとしたんだ」サトルが言った。「でも鳴らせないんだ。普通に目の前に垂れている綱をつかもうとしても、全然つかめないんだ。理由が分からないけど、つかめないんだ。」

 僕らは顔を見合わせた。僕はおずおず言った。「俺も、おかしなことになった。」そして、牛の像の話をした。

 「何かが、俺たちの邪魔をしている」サトルが言った。

 「気のせいじゃないの?」ミッチーが言った。「俺の時は何も起こらなかったぞ。」

 「じゃあ、お前行ってみろよ」タダオが言った。

 「でも、お前の番だろ?」ミッチーが言った。

 「ミッチーなら何も起こらないっていうなら、ミッチーに行ってもらった方がいい」サトルが言った。

 ミッチーは口をとがらせて、駆けだして行った。

 「どういうことだろう?」僕はサトルに言った。

 「分からない」サトルは言った。「ただの勘違いかも」

 「三人して、同時に勘違いするのか?」タダオが言った。

 「ミッチーはどうしてる?」サトルが言った。

 僕らは振り返った。ミッチーは、階段の下に座り込んでいた。泣きそうな顔で、僕らの方を見て、よろよろと立ちあがった。「どうした?」と、タダオが言った。

 「階段が続くんだ」ミッチーは、倒れこむように僕らの間に座り込んだ。「上がっても上がっても、気がついたら、一番下にいるんだ。上がれないんだ。目をつむって、這って上がったら、やっと上れた。」ぜいぜいと息を切らしながら、ミッチーは言った。

 「何が起こってる?」タダオが言った。

 「まだ42回だ」サトルが言った。「あと58回」

 「神様が怒ってるんだ」ミッチーが言った。「神様か何か分からないけど、何かが邪魔してる。何かが怒ってる。やめろって言ってるんだ。」 

 「ということは」僕は言った。「アンドウはどうなる?」

 僕らは顔を見合わせた。

 「ひょっとして」サトルが低い声で言った。「願ってはいけないことを願っているのか?」

 「だからやめようって言ってるんだ」ミッチーが泣き声で言った。

 「待て」僕は言った。頭の芯が、すうっと冷えていくような気がした。「僕らがやめたら、アンドウは死ぬ。」

 「そうか」しばらくの沈黙の後、サトルが言った。「何かが、アンドウをあの世に連れて行こうとしている。そいつが僕らを邪魔している。邪魔しなきゃいけない理由がある。」

 「どういうことだよ」タダオが言った。

 「分からないか?」サトルが言った。「やつらは僕らを邪魔しなければならない。僕らが成功したら、やつらの目的が達成できないからだ。僕らがこのお百度参りを終わらせることができれば、アンドウは助かる。やつらはアンドウを連れていくことができない。だから邪魔している。」

 「僕らがやめたら」僕は言った。ゆっくりと、さっきの言葉を繰り返した。「アンドウは死ぬ。」

 頭の中が冴え冴えと澄み切ってくるのが分かる。こんなに冷静になったことはない気がした。自分たちがやらなければならないことが、こんなにはっきり見えた瞬間はなかった。

 タダオが立ち上がった。手のひらの五百円玉を見つめて、握りなおした。「俺の番だったな」そして、駆けだした。

 境内の中の空気が重くなっている。気がつけば、境内には人影がない。帰宅ラッシュで、境内を通り道にしている会社員の姿が絶えない時間帯なのに、僕ら以外の人影が見えない。ねっとりした空気の中で、タダオがゆっくり駆けていくのが見える。きっと精いっぱい早く走っているのに、恐ろしくゆっくり見える。

 「祈るんだ」サトルが叫ぶ。「スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま、僕らの祈りをお聞き届けください。アンドウを助けてください。手術を成功させてください。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま」

 タダオが戻ってくる。何が起こったのかは聞かずに、僕は駆けだした。手のひらの五円玉が熱く火照っている。スクナヒコナノカミさま、と口の中で呟く。末社の周りの空気が重い。かき分けるようにして進む。空気が重いだけで、今度は異変はない。末社から振り返っても、牛の像はそのまま左手にある。本殿に向かう。階段は4段。しっかり踏みしめる。大丈夫。顔を上げて、茫然とする。

 本殿がどんどん大きくなる。違う。僕がどんどん小さくなっているんだ。お賽銭箱がずんずん大きくなり、家のように、ビルのように、僕の前にのしかかってくる。僕自身がアリみたいに小さくなる。何か大きなものが、僕の上に影を落とす。誰かの巨大な靴の底が、僕を踏みつぶそうと天から落ちてくる・・・

 祈れ、祈るんだ。サトルの声がする。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。

 目をつぶって唱えて、目を開けると、本殿は何事もなかったようにそこにある。激しく高鳴る心臓を押さえて、鈴を鳴らし、お賽銭を投げいれる。

 「祈ればいいんだ」僕は駆け戻ってきて言った。「神様の名前を唱えれば、異変は消える。やつらも邪魔はできなくなる。」

 スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。何度も唱えながら、僕らは走り続けた。空気はどんどん重くなり、一歩一歩進める足は重りのようでも、僕らは歯を食いしばって前に進んだ。ひたひたと、僕らの傍に死神の足音がした。アンドウを連れて行こうとする奴の足音が聞こえた。

 「75回」サトルが言った。「あと少し」

 どーん、と音がしたような気がして、僕の足は動かなくなった。空気はすでに実体のある塊のようで、黒くねばねばと、アメーバーのように足に絡みついた。スクナヒコナノカミさま。叫ぶように神様の名前を言っても、足の重さは変わらない。振り返れば、粘着質の空気が、境内を超えて布田天神の参道を埋め尽くしているのが見える。黒いタールの海のように波打っているのが見える。そして鳥居の向こう、明るく輝いているはずの繁華街の方角に、闇が見えた。

 「アンドウ」と、サトルが囁くように言った。

 「だからやめようって言ったんだ」ミッチーは泣き出していた。

 闇の中に、白い小さな影が見えた。こっちに向かって歩いてくる。黒いタールの空気の海に向かって、ゆっくりと歩いてくる。アンドウだ。真っ白い服、真っ白い血の気のない顔。表情もなく、光もない瞳に、真黒い波打つ空気が映る。空気の波の一つ一つが、うねうねと何かの形になっていく。何か得体のしれないもの、しかし確かに意志あるものの形になって、ぐにゃぐにゃとうごめき、アンドウを迎え入れようとする。

 「いけ、ヒカル」と、サトルが叫ぶ。「あと25回」僕は駆けだす。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。

 アンドウの顔を夕日が照らす。絡みつく空気をかき分けるようにして前に進み、神様の名前を絶え間なく叫びながら、僕は同じルートをたどる。空気ははっきりとした邪悪な意思をもって、僕の足取りを遮ろうとする。アンドウの周りを照らしている夕日の色が、次第にあせていく。それに従って、アンドウの周りの黒い者たちの輪が、次第に狭まっていくのが分かる。

 「あと5回」サトルが叫ぶ。「もうすぐだ。日没までに終わらせないと」

 足を地面からひきはがすのがつらい。その足をまた、地面に下ろすのがつらい。体を前に進めるのがつらい。息をするのがつらい。タダオが這うようにして戻ってくる。ミッチーが泣きながら進んでいく。戦車のようにじりじりと進んでいく。

 「おかしい」サトルが言う。

 「どうした」一つの言葉を発するのもつらい。アンドウの周りを闇が包んでいく。

 「五円玉がない」サトルが言う。

 「じゃあこれで終わりってことか?」タダオが言う。「ミッチー、がんばれ、お前で最後だ」しわがれ声で叫ぶ。

 「違う、そんなはずない」サトルが叫ぶ。「4人で100回回るんだ。4で割り切れるはずだ。終わりはヒカルのはずだ。五円玉の数が間違っていたんだ。1枚足りないんだ」

 「五円玉もってないのか?」タダオが叫ぶ。

 「僕は持ってない。ヒカルは?」サトルが聞く。僕は首をふる。膝ががくがくする。五円玉じゃないとだめだ。同じことを100回繰り返す、だから意味がある。だから願いはかなう。途中でルールは変えられない。

 ミッチーが、息も絶え絶えになって階段を下りてくる。僕らは駆け寄る。3人でミッチーの体を支える。「五円玉持ってないか」サトルが泣き声で言う。あの冷静なサトルが泣いている。ミッチーは首を横に振る。駄目だ、タダオが叫ぶ。コンビニのおばちゃん、数え間違えやがって、ばかやろう。

 夕闇が降りてくる。アンドウが両手を天に伸ばしているのが見える。生きたい、という意思のように、死にたくない、という叫びのように、天に向かって。その指先に、夕日のかけらが引っ掛かっている。アンドウの足元から、黒い闇が這いあがってくるのが見える。

 「駄目だ」僕は叫ぶ。「行っちゃだめだ、アンドウ、行っちゃだめだ」

 僕は末社に向かって走り出す。五円玉はない。でもとにかく走り出す。一つ目のお社。アンドウを助けてください。叫びながら走る。アンドウを行かせないでください。死なせないでください。あいつを助けてやってください。クラスのみんながわいわい騒いでいる傍で、ひっそり微笑んでいるアンドウ。ちっこいのに、大きな上級生が下級生をいじめているのを体を張って止めたアンドウ。僕はずっと小さい頃から、アンドウのことをずっと見てきたんだ。アンドウのことがずっと好きだったんだ。スクナヒコナノカミさま、スガワラノミチザネコウさま。畜生、俺の好きなアンドウを、あいつらの手に渡すな。

 ちゃりん、と音がする。気がつくと、稲荷神社の傍らで、狐の像が首を振っている。首を振って、あっち、あっち、と指しているように見える。指している方向を見ると、牛の像が、境内の石畳の上に鼻をこすりつけているのが見える。その鼻のすぐ先に、何かが光っている。そこだけ、タールの黒い空気がない。

 近付くと、金色に光る五円玉が見える。飛びつくように拾い上げて、本堂への階段を駆け上がった。「行け、ヒカル!」サトルの叫び声がした。ミッチーも叫んでいた。タダオも叫んでいた。階段をかけあがり、お賽銭箱の前に立つ。五円玉を投げ入れる。スクナヒコナノカミさま。鈴を鳴らして、二回おじぎ。後ろで夕闇がさらさらと降りてくる音がする。落ち着け。同じことを100回、きちんと繰り返さないと、お百度参りは完成しない。二回拍手。そして、手を合わせて、しっかり祈る。スガワラノミチザネコウさま、アンドウを助けてください。手術を成功させてください。振り返って、駆けだす。切り株が遠い。三人がこっちに手を伸ばしてくる。サトルが手を伸ばしてくる。その手に、その指に、精いっぱい伸ばした僕の指が、触れた。

 どーん、と音がした気がした。勢いあまって、僕はサトルの胸に向かって頭から突っ込んだ。一緒に吹っ飛んだサトルと僕を、タダオとミッチーが受け止めた。僕ら四人は団子のようになって、切り株の脇に倒れこんだ。脇をせかせか歩いているサラリーマン風のおじさんが、くすくす笑いながら振り返って、そのまま歩いて行った。

 気がつくと、境内はすっかり夜で、街灯の灯りと駅前の繁華街の光の中を、たくさんの人影が行きかっているのが見える。僕ら四人は立ち上がった。汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を見合わせる。しばらく、口もきけずに見つめあっていた。そして、誰ともなく、にやっと微笑み合った。

 「アンドウにさ」ミッチーが言う。「オレ、コクったことあるんだ」

 「はあ?」3人同時に声を上げる。

 「抜け駆けしてたのか」サトルが言う。

 「悪い」ミッチーは肩をすくめる。「でもさ。その時、アンドウが言ったんだ。私のこと、ずっと見てくれている人がいるのって。低学年の頃からずっと、私のこと見てくれてて、そっと守ってくれている人がいるんだって。その人が見てると思うと、私、強くなれる気がするんだって。」そうして、僕を見つめる。タダオが笑いながら、僕の脇腹をつつく。サトルが微笑む。あの冷静なサトルの頬に、涙の跡が残っている。その頬に、深いえくぼを浮かべて、サトルが言う。

 「結局、ヒカルがいつも、アンドウを守ってたんだな」

 そんなことない、と言おうとして、僕は耳たぶが真っ赤に火照るのを感じていた。


(了)

小学生を主人公にした冒険物語を書きたい・・・と思って書いてみました。

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