ディードの苦悩
「ディード教官! どこまで連れていくつもりなんですか?」
抵抗できず引きずられるように引っ張られながら、ヴァンが問い掛けると同時に、ディードはつかんでいた腕を引き、彼を校舎の裏の壁に叩きつけた。
「ぐっ……!」
ヴァンは脇腹を押さえてうなり、気丈に顔を上げると、わざと笑顔をみせた。
「忘れてませんか? 僕は怪我人なんですよ? もうちょっといたわってくれてもいいんじゃないですか?」
迷惑そうにおどけるヴァンを見るディードの目は、笑ってはいなかった。 ヴァンの顔の横に勢いよく手を付くと、凄んだ。 しばらく無言で睨み付けた後、ディードは体を離して背中を向けた。
「確かに俺は、クレディアに何もしてやれなかった。 皇族の護衛に、この学校の生徒が駆り出されるのは珍しいことじゃなかった。 だから、アスカルもすぐに任務を終えて帰ってくると思っていた。 でも、あいつは帰って来なかった。 帰ってきたのは、皇族が襲撃にあったことと、護衛に付いていた兵士たちはほとんど命を落としたという報告だけだった」
ディードは遠い目をして空を見上げた。
「クレディアはただ放心状態だった。 当たり前にいたアスカルがまさかと信じられなかったのは、俺も同じだった。 ただ、彼の何か遺品が帰ってきたわけでも、アスカルの死が確認されたわけじゃない。 だからクレディアも俺も、どう受けとめていいのか分からなかった。 アスカルは死んだのか、いつか生きて帰ってくるのか」
ヴァンは脇腹を押さえながら、拳を押さえて震えるディードの背中を見つめていた。 しばらくそうしていた後、彼はゆっくりと振り返った。
「だから俺は、クレディアの傍にいてやるしかなかったんだ」
固い表情のディードに、ヴァンは小さく息を吐いた。
「じゃあ、ディード教官はクレディア教官から笑顔が消えたことも、何とも思っていなかったんですか?」
「何とも思っていなかったわけがないだろう! 俺だって……俺だって、苦しかったんだ……」
「本当は、アスカルなんて帰って来なければ良いと思っていた」
「何っ!」
次の瞬間、ディードはヴァンの胸ぐらをつかんでいた。 だがそれ以上何もできず、すぐに震えた手を離した。
「俺は馬鹿だ。 唯一の親友にさえ、黒い気持ちを持ってしまった」
ヴァンから離した手は、行き場のない気持ちと共に、固く握られた。 ヴァンはそれを見つめ、襟を正した。
「じゃあ、クレディアは僕がいただきます」
「なんだと?」
ディードはヴァンを睨んだ。 意に介さず、ヴァンは軽い口調で返した。
「だって、あなたがこのままクレディアの傍にいても何も変わらないでしょう? これは、アスカルの弟としてではなく、一人の男としての気持ちです」
ディードは、少し力が抜けたように肩を落とし、ヴァンを見つめた。
「お前……本気か?」
「最初はただ、兄さんの気持ちを和ませたくて近づきました。 けれど、今は違います。 僕は自分の意志で言えます。 クレディアが好きだと」
「お前は何も分かっちゃいない。 クレディアは、今も昔も、アスカルしか見ていない。 どう足掻こうとも、俺はアスカルには勝てない。 それはお前もだ、ヴァン」
諭すように言うディードに、ヴァンは肩をすくめた。
「それはどうでしょう?」
「なに? どういうことだ?」
「教えてあげましょうか? クレディアがアスカル兄さんのことを忘れられないのは、あなたがいるからです」
「お……俺が?」
ディードは唇を震わせ、ヴァンは不敵に笑った。
「あなたの隣にアスカル兄さんが見えるんですよ、クレディアは。 だから、あなたが居なくなれば、アスカル兄さんのことは忘れられる」
「…………」
衝撃を受け言葉を失うディードの後ろから、不意にクレディアの声がした。
「勝手に人の名前を呼び捨てにするな!」
驚いて振り返るディードに、クレディアは言った。
「ディードもディードだ。 何を動揺してる? お前らしくないぞ」
「クレディア……」
力なく立ちすくむディードにため息を吐き、クレディアは腰に手を当てた。
「私の気持ちは決まっている。 ディード、それはお前も充分分かっているはずだ」
「クレディア教官、それじゃあ何も――」
変わらない、と言いかけたヴァンをクレディアは遮った。
「ヴァン!」
「は、はい?」
思わず背中を伸ばしたヴァンを、クレディアはじっと見据えた。 そして一言呟いた。
「ありがとう」
「えっ?」
ヴァンが驚いて聞き返すのを、クレディアは照れたようにふいっときびすを返した。
「怪我、早く治せ! また明日から通常授業だぞ!」
背中越しにいつものように冷たく言い放った後、彼女は立ち去った。 ヴァンは初め驚いていたが、やがてその顔は笑顔になった。
「はいっ!」
元気な返事をしたヴァンは、思い出したように再び激痛に襲われて脇腹を押さえたが、その顔は清々しい笑顔を湛えていた。
そしてディードは困惑した表情で、じっとクレディアの背中を見つめていた。