おかえりなさい、おにいちゃん 3
すっっっんごい時間を空けてしまいました。まだ続きます。
気がついたら自分の部屋で寝かされていた。
窓から見える景色は西日のオレンジ色に染まっていて、夕方を告げている。
隣では小さな男の子が眉間に皺を寄せてうなされていた。昨日から一緒に住むことになったホタルという男の子だ。
そう、確か今朝は店先の掃除をしていたらお兄ちゃんが帰ってきて、それから――
お兄ちゃんとホタルたんが盛大にケンカしたんだった。
いや、ケンカなんて軽いものじゃない。
ホタルの一方的な暴力だった。兄を見た矢先に飛び出して、いっぱい殴っていた。
あまりにもそれが怖くて、でも、そのまま見ていることも出来なくて、気がついたらホタルを止めようとして抱きついていた。
ホタルの周りでは風がナイフのようになっていて、自分にも傷が幾つか出来ている。幸いどれも深い傷ではないけれど、あれが精霊の力というものなのかと改めて思う。
普通の人では扱えはしない特別な能力、魔術のような、それでもかなりの技術を持った人でなければ使えないような能力をホタルは使っていたのではないだろうか?
魔術使いと言われるような、そんな能力を。
そんな存在を、バイエラは知らずに呼び出していた。
トゥランの姿はどこにもいない。あれだけホタルに殴られていて、無事とも思えなかった。
気だるい体を起き上がらせ、バイエラは梯子に足をかけて上段のベッドに顔を覗かせる。本来だったら上段が彼女のベッドなのだが、下段に二人が寝かされていることを考えればトゥランが上にいるのが普通に考えられた。が、――
今朝折り畳んだ布団とバイエラの着替えが入った袋がきちんと置いてあるだけで、兄の姿はどこにもなかった。
「どうしよ…、ドコいったんだろ、お兄ちゃん」
急に不安になる。
やっと帰ってきたのに、会えるのが待ち遠しくてたまらなかったのに、あんなことがあって、またいなくなってしまったら、それを考えたらぞっとする。
「やだっ、やだやだやだやだやだっ!」
梯子から飛び降りるとバイエラは部屋を飛び出した。
灯りの燈された仄暗い廊下に人の姿は見えない。板張りの廊下が砂埃でざらついているのも気にせずに裸足で走り、階段を飛び降りる。
瓦礫の片付けられた中庭から冷たい冬の名残の風が吹き込んでくる。
いつもは綺麗に見える夕日が赤黒い雲を浮かび上がらせて不吉さを煽り立てる。
トゥランはいないと--。また別の街へ向かってしまったのだと。
バイエラを置き去りにして消えてしまったのだと、夕日がほのめかしているようだった。
「うっ…っひくっ」
凍えた体なのに、耳の上に熱がこもる。
「うああああああああああああん! あああああああああああああああっ」
悲しい。寂しい。会いたい。会いたい。
頭をなでてもらいたい。ぎゅって抱きしめたい。
トゥランの笑顔が見たい。ちょっと困ったようにはにかむ優しい兄とここでのことを話したい。ほかにもトゥランにしたいこと、してもらいことが沢山あったのに。
大声を上げたって、泣いたって、どこにもいない。
出てきてくれやしない。もう、いなくなってしまったのだから。
「うるっっさいわね! 静かにしてよ馬鹿エラ!」
後ろの事務所からフルーナが怒鳴り散らす。
勢い余って扉が大きな音を立てて開くと、部屋の入り口に仁王立ちした女はバイエラのただならぬ雰囲気にその威勢を失った。
「何あなた。 マジ泣きしてんの?」
フルーナの登場に虚を突かれたバイエラだったが、再び
「フルたんのばかぁああああっ」
「え、えぇっ! 私?
私が何で…、えええっ?」
「ばかばかばかばかああああああん!
フルたんも、ほたるたんも、みんな、みんなばかあああああああああああああああっ」
「ちょっ、バイエラ落ち着いて、ね?
ほら、いい子だからっ」
前掛けのポケットからハンカチを取り出すとフルーナはバイエラの鼻水をぬぐう。
「大の女が大声で泣くもんじゃないっての。
しかも鼻水って」
「だって、…だってぇぇぇ」
「あぁもう。
もっとおしとやかにできないの、あなたはっ?
ここは宿屋よ。疲れた旅人様がお休みされる場所なの。給仕係のあなたが自分勝手に泣きわめいていいと思う?」
「う~~~」
赤く腫らした大きな瞳が訴えかける。
「あとね、静かにしてほしい理由はあっち」
フルーナは困ったように部屋の奥を親指で指さした。
その先にある応接用のソファーにぐったりと横たわる人物がいる。
裸足の足を手すりから投げ出し、簡素な服装の成人の男。顔は広げられた厚みのある本が被さって窺い知れないが、その隙間から飛び出るように見える棘を連想させる堅い髪が人物を特定させた。
「お…にい…ちゃ」
「そう、朝何か一騒動起こしたらしいじゃないのあなたたち。
長旅から疲れて帰って来た矢先に倒れたあなたたちを部屋まで運んでくれたのよ?
しかも手当もしてたっていうしさぁ。
そりゃこっちも居眠りくらいするって」
「一応ここ事務所なんだけどねぇ」とため息をつくフルーナをよそに、少女はトゥランの胸に飛び込んだ。
「ごほっ、ぐふっ!
なっ、ちょっと待って、あのっ!」
バイエラが飛び込んだ拍子に分厚い本が重い音を出して床に落ちる。
何事かと咳き込みもがくトゥランだったが、相手が誰だかわかるやその動きを止めた。
「…バイエラさん?」
「……った」
「はい?」
「会いたかった!
ずっと、とっても、すっごく会いたかったの!」
「はい」
「服も繕ったし、刺繍いっぱいしたし、いっぱい売れたし、お店だっていっぱいいい子で働いたもん!」
「はい」
「だから…だからぁぁぁっ」
「はい、大丈夫ですよ」
そっと、細く大きな手が少女のふわふわとした髪を撫でる。
「ちょっと仕事で疲れちゃいました。しばらくはここでゆっくりしようと思います。
懐かしい友人も折角訪ねてきてくれたことですしね」
ぼろぼろと涙をこぼすバイエラとは対象に、トゥランは穏やかに口元をほころばせた。
「ホタたんのこと?」
「はい。以前、別れ際に大変怒らせてしまったのですが…僕の大切な友人です。
彼のこと、責めないであげてくださいね」
「でも…お兄ちゃんのこと」
「僕なら大丈夫ですよ。 ほら、怪我も全然してないでしょ?」
確かに、今朝ホタルに散々殴られていた顔は血色が悪いものの無傷そのもの。
上着もめくってみるが血どころか痣の一つも出来ていなかった。
ただ一つ
「首…どうしたの?」
バイエラの茶色い瞳がトゥランの右首筋に出来た小さな傷を見つける。
縦に並んだ少し血が滲んでいる二つの点。
虫刺されや縫い針で刺された傷よりも太い、赤い傷がトゥランの白い首筋に出来ていた。
「これですか?
さぁ…気づいたらあったんですよね。
何でしょう?」
つんつんと遠慮なくトゥランが触る。
「お兄ちゃん…」
「はい?」
折角おさまったバイエラの赤い目からまた大粒の涙がぼろぼろとこぼれだす。
「えと、バイエラさん?」
「怪我してるとこ触っちゃダメ!
アキチが手当てするんだからじっとしててね!」
「はいっ」
不気味な夕日は完全に影をひそめ夜のとばりが降りていた。
微笑ましい兄妹の様子を確認すると、一人フルーナは自分の仕事場へと向かっていった。
そっと口元に手を当てて。