おかえりなさい、おにいちゃん 2
連日投稿失礼します。不定期更新ですがご了承ください。汗)
眠る必要なんて無い。
仮初めの身体で、その眼を閉じること無く現の世を主の命令が解けるまで動き続ける存在。
それが精霊。
この世界で、ホタルは自分が眠るとは思っても見なかった。
まして、夢を見るなんて――
「東の国に夜に光る虫がいるというの。名前はホタル」
凛と透き通る高い声。澄み渡る空色の瞳がこちらを見つめた。
瞳と同じ空色の煌びやかなドレスを纏った女神。
「あなたの瞳は、その虫の光に似ていると思うの。だから、ホタル。
これから、そう呼ばせてもらうわ」
ふっと、彼女はホタルに笑みを向けた。
静かで、優しい微笑。もう二度と会うことの出来ない雪原の女神が夢という幻の力を借りてホタルに笑いかける。
それがたまらなくうれしくて、
たまらなく悲しかった。
☆
風の音が聞こえた。
気ままに梢を揺らす、自由な風の音色だとホタルは思った。
自分とは違う、人に縛られることの無い、柵の無い、自由な風。
「…生きてる?」
薄暗い明かり。間近に見える木の天井。どこか見覚えのある部屋の光景だった。
ふと首を上げると、壁に大きな白い反物と散らかった作業机が見えた。
バイエラの部屋。ホタルはそこのベッドの下段に寝かされていた。
「おはようございます」
落ち着いた、静かな声が部屋に響く。
聞き違えようもない耳障りな男の声。
「っ…何のつもりだお前」
ホタルが寝かされているベッドの脇で椅子に腰掛けた男が読書をしている。
名をトゥラン・アンビル。
ホタルが憎しみをぶつける相手であった。
「あなたが倒れたので部屋に運んだまでです。今日一日は安静にしてください」
「はっ! 俺がお前の言うことを聞くと思ってんのかよ」
「聞いてください」
「ふざっけんな! お前が俺に指図してんじゃねぇ!」
ホタルの怒号など気にもせず、トゥランはページをめくる。
「では言い換えますか」
淡々とトゥランはホタルに告げる。
「貴方を殺すことなんて簡単だ」
脅しも覇気も無い、事実をそのままに告げる言葉は相手に妙な納得を抱かせるには充分な重みが備わっていた。
漆黒の髪で覆われた赤い澱んだ瞳は文字を追うことに集中している。
「さっき自滅しかけましたしね。
僕が目の前にいるだけで、貴方の理性は飛び限界を超えた力で自身を殺してしまう。
もう少し大人な方かと思っていたのですが、単細胞なんですね」
「お前っ…」
「ほら、今も殺気を抑えやしない。
分かってると思いたいのですが、今の貴方の攻撃は僕に効きません。
多少の痛みは受けるでしょうが、それだって貴方が未遂に終わったあの攻撃くらいでしょう」
言葉にしなくてもトゥランは告げていた。「貴方など、僕の足元にも及ばない」と――。
「目を覚ましたら、彼女にお礼を言ってあげてくださいね。
貴方が受けた負担を彼女だって受けているんですから」
そこでホタルは自分の隣で眠っている人物に気が付いた。
ふわふわとしたクセのある黄土色の髪をした少女。バイエラがすやすやと寝息を立てていた。
健康的だった小麦色の肌は少し青白くなっているようにも見える。手首に巻かれた包帯が痛々しかった。
「…っ、バイエラ……」
「現在の貴方の能力が低くて助かりました。本来の力を出していたら、彼女はこの程度で済みませんでしたからね」
「敵が目の前にいるのに、みすみす見逃すバカがドコにいるっつうんだ」
「敵…ですか」
ぱたんっ、と厚みのある本が閉じられる。
「ミュートとの関係であれば、既に終わったことです。
貴方にとやかく言われる筋合いはありませんね」
じっと感情の無い顔でトゥランはやっとホタルを見やった。
「終わった…?」
腕に力をこめる。重くなった身体を無理矢理寝返りうち、ベッドの上でホタルは起き上がる。
たったそれだけの動作にもかかわらず、ホタルの息は上がり、じっとりと汗が浮かぶ。
「ああ、確かに終わったよな。ミュートは死んじまった。
トゥラン、お前に殺されたんだからな!」
悲鳴を上げる身体で目の前の男に食って掛かるホタル。
ホタルの創造主を、雪原の女神を、愛しい女性――ミュートを殺した男。
たとえこの身が消え去りようとも、目の前のこの男に一矢報わなければミュートに顔向け出来やしない。
「それがどうした」
「なっ」
「僕と彼女の間のことだ。
お前が踏み込むのはミュートへの冒涜さ。
自分の勝手に彼女の魂を巻き込むな」
真っ直ぐに、厚く覆われた髪の奥から赤眼がホタルを射抜く。
周囲の温度が一気に騰がる感覚。炎の中に投げ込まれたような灼熱がホタルを蝕む。
この男が得意とする能力、幻惑。トゥランと目線の合わせた相手を彼が作り出した幻に引きずりこむ異能の力。
「哀れだな。
以前のお前ならこの程度の幻惑、跳ね返せたはずだ。
それすら出来ないお前は僕の敵に値しない」
すっと、トゥランは左手で目線を遮る。
ホタルに襲い掛かっていた灼熱の炎が消えてなくなる。だが、たとえ幻であろうともホタルには充分な攻撃だった。再びベッドに倒れこみ、滝のように噴き出した汗がシーツに模様を作っていく。
「少しは分かったでしょう。
今日は安静にしてください。元気になったらバイエラさんが倒れない程度に相手しますよ」
トゥランは椅子の脇から紙の束を取り出すと、ホタルの枕元に置いた。
「新聞です。国内のことしか書かれていませんがそれなりに面白いですよ。
読み終わったら食堂に戻してください」
立ち上がると、トゥランは本の山から数冊をショルダーバックに詰めはじめる。
「…ら、は――」
もう虫の息のホタルが声を上げる。
「バイ…エラは、お…まえのっ、……何な…んだっ」
「妹です。バイエラさんから聞いてませんか?」
「聞いた…が、っお前…っはぁ」
「ええ、僕は貴方の創造主、ミュートと同じ時代を生きた。
一方のバイエラさんは、ただの民間人です。
でも、紛れもなく僕たちは兄妹ですよ」
本を詰め終わるとトゥランは部屋を後にした。
静かになった部屋でホタルは再び意識を失い眠りに付いた。