幻夢抄録―目覚め―異界の風
「ねえ、ちょっと!聞いてる?どこ行くのよっ」
氷魚と瑪瑙は、砂利道を歩いていた。辺りはもう、すでに暗い。
「どこって、今説明したろ?よし、ここらでいいか」
瑪瑙は、橋の側に立つと、小声で、なにかを唱え始めた。
川は、月の光をうけ、白銀の花びらを散らし、仄青く輝きながら、水面に門を浮かび上がらせた。
門、といっても、決して石造りの物ではない。水そのものが、門の形をとっているのだ。
「なに、これ?」
「出口を開いた、水を媒介にしてな。こいよ、氷魚」
瑪瑙は、橋から飛び降りた。橋は高く、川も大きくて、深い。
しかし、水にぶつかる、衝撃音がないところを見ると、平気のようだ。
「やだっ!怖いしっ…この橋って、高いのよぉ」
氷魚は、後じさった。
「やれやれ、しょうがねぇなぁ…」
瑪瑙は、一蹴りで、橋の上にいる氷魚の側に着地すると、やにわに氷魚を抱き上げた。
「んなっ!?ちょっと、離しなさいよっ…バカっ、変態っ!」
「ったく、ちっとは落ちつけ…早くしねぇと、門が閉じちまうだろうが!」
「も―――‐いやっ!」
「はいはい…通るぞ〜」
まだ暴れる氷魚を抱き込み、瑪瑙は、再び橋から飛んだ。
高く虚ろな、水音によく似た音がして、止まっていた時間に、色彩が戻る。しかし、そこにはもう、水の門も、二人の姿もなくなっていた。
「ん、う…」
(あったかい、心臓の音が、心地いい…誰の、だっけ?)
長時間揺られて、うとうとしていた氷魚は、頬に、温もりを感じて、目を覚ました。
「お、目ぇ覚めたか。今、丁度着いたところだ」
氷魚は、目を見張った。
「な、な、何よここ―――!?」
砂漠、だった。二人の前には、広大な砂漠が、広がっていた。
「見りゃ分かンだろ〜?砂漠だよ」
瑪瑙は、氷魚を降ろす。
「まさか、今から砂漠渡るなんて言わないわよねぇ?」
皮肉たっぷりに、言ってやったつもりだが、瑪瑙は、真顔で「そうだ」と返してきた。
「ああ、もう…殴ってやりたい」
氷魚は、がっくりと項垂れた。
(なんの準備もなくて、進めるワケないじゃない!)
内心、氷魚はひどく毒づいた。
確かに、氷魚の服装は、およそ砂漠に向いた物ではなかった。
タンクトップに、膝丈より短いスカート、そして、履き古したスニーカー。
「ホレ、これ被ってろ。日よけだ」
瑪瑙は、氷魚に、白い布地を投げ渡した。
「あ、ありがとう…」
「いいよ、大丈夫なら、行くぞ?」
「そういう瑪瑙は、なにも被ってなくても、平気なの?」
瑪瑙の隣に並んで、氷魚は問うた。
「あ?俺はいいンだよ、慣れてる」
「そうなんだ、ホントに?」
「ああ…」
「ねぇ、これから行く場所って、どのくらい?近いの?」
「近い、ことになるかな。三ヶ月くらいで着く」
「もう、驚かないわよ…そう、三ヶ月ね。それで、その間ってやっぱり…」
「野宿になるな」
「食べ物とか、どうするの?」
「ま、何とかするさ」
「何それ〜…」
砂漠の、寒暖の温度差は激しく、夜の冷え込みは厳しい。
二人は、焚き火の側で、野営していた。
「さっ、寒いぃ〜…冬みたい、ううん、冬よりも寒い」
「冬は、これよりもっと厳しいぜ?一定の、動植物しか生きられん気候になる」
「じゃあ、他の動物は、死んじゃうって事?」
「家畜以外はな…多分」
「ふぁ…」
氷魚は、欠伸をかみ殺した。
「眠いのか?」
「うん…」
「氷魚、その…なんだ、悪かったな、急展開だったろ。疲れたよな、少し休め」
「うん、ありがと…少し、休むね?」
氷魚は、地面に伏せると、ほぼ同じに眠っていた。
「もう寝てらァ…疲れたよな、ごめんな」
囁くように呟いて、瑪瑙は、ずっと氷魚を見ていた。
夜明け前、まだ空も白まないうちに、二人は野営地を去った。
冷え込みは厳しいが、日中に砂漠を渡るよりは、幾分かマシなので、しかも、日中に比べ、かなりの広範囲の移動が可能なためだ。
「瑪瑙、待ってっ、きゃ!」
何もない砂だと思っていたが、彼女は、障害物に躓いた。
ぱふん、と砂埃を舞い上がらせて転んだ氷魚を、瑪瑙は笑った。
「ぷっ。なんだよその格好…」
「つまづいたのよ。もうっ、なによ、そんなに笑わなくたって、いいじゃない!」
「ごめん、ごめん…ほら」
瑪瑙は、転んだ氷魚に、手を伸ばした。
「ありがと、ああもう…砂だらけ」
文句を言いながら、砂を払う氷魚に、瑪瑙は目を細める。
砂漠を渡って、すでに、いつの間にかに、二ヶ月半が過ぎていた。
「もう、いやだったら…」
氷魚は、振り向いて砂を睨みつける。
氷魚がつまずいた場所には、今はもう、何もなくなっていた。
「なんだったんだろ?」
「躓いただけだろ?行くぞ」
「うん…」
(な―‐んか、おかしい、釈然としないなぁ)
彼女が、瑪瑙を追って背中を向けた刹那、彼女から、そう離れていない砂地が、沸くように盛り上がり、鋭利な爪を持つ何かが、突き出される。
それは丁度、蜘蛛のような節足動物の脚に、ひどく似ていた。
突き出された脚は、周囲の砂を大きく掻くと、再び、砂の中へと沈み、それが通った後には、巨大な穴だけが残された。
追跡者は、彼女に狙いを定めたのだ。地中深く潜り、力を蓄えながら、獲物が弱る瞬間を待っている。
(いる…やっぱり、何かが!これは危険だ!?)
氷魚の中で、警鐘が鳴る。耳の奥で、血汐が逆流する音を、聞いた気がした。
「…お、どうした氷魚っ」
「あ、な、何?」
話しかけられていたのに、気がついていなかったようだ。
「どうした?青い顔して…少し休むか?」
「ううん、先を急ごう」
「珍しいな、お前が急ごうだなんて…」
「そう?たまにはね」
叫びそうになるのを、必死でのみ込み、氷魚は笑った。
氷魚は、多大な殺意に、ただ、青ざめることしかできなかった。
すでに、日は高く、砂丘の向こうには、陽炎がたち上っている。
汗を拭うことも忘れ、ひたすら、氷魚は足を進めた。
「なあっ!氷魚、お前…やっぱり具合悪いんだろ!?なんで、何も言わねぇんだよっ」
ついに、見かねた瑪瑙は、氷魚の腕を掴んだ。
「平気、何でもないったら!早く行こう」
振りほどこうとする、氷魚の腕を、彼はさらに握る。
「そんな青い顔してっ!なにが平気なモンかっ、どうしたんだよ?」
「瑪、瑙…あたし、あたし狙われてる!止まっちゃダメなのよ!!捕まっちゃうっ」
「なんだと!誰にだっ!?」
彼にとって、氷魚に近づく、悪意を持つ者は、敵と同義に見なされる。
「わ、分かんない…でも分かるのっ!」
「大丈夫だ、暑さで、幻覚を見たんだよ」
とにかく、少し休もう、と言いかけた瑪瑙は、異変に気がついた。
彼女の足元の砂が、不自然に盛りあがり、様子を伺うように、尖った爪を持つ、脚が蠢いていたのだ。
「氷魚、俺の側から離れるな!あーあ、俺としたことが、油断したもんだよ」
「瑪瑙ぅ…」
氷魚は、瑪瑙にしがみつく。
「ここはヤツの巣だ、おいでなすったぜ」
氷魚は、戦いた。耳の奥で、鼓動がうるさい、その音は、潮騒の音と、ひどく似ていた。
砂が流れ始めてすぐ、それは姿を現した。
ギチギチ、と耳障りな音と共に、現れたのは、巨大な蟻地獄だった。
氷魚は、ヒッと喉を鳴らして、一歩後ずさる。
「なに、大したヤツじゃねぇ…心配すんな」
妙に、自信ありげな瑪瑙の腕を、氷魚は掴んだ。
「無理よ!あんなにでかいの、一人じゃ…」
「大丈夫だ、信じろ!」
その先を言おうとした氷魚を、瑪瑙はきっぱりと言い放ち、遮る。
彼は、腰の長剣を抜いていた。
(刀!?瑪瑙、そんなの持ってたっけ!?)
「お前、まさか『二連』(にれん)を知らないわけ、ねぇよなあ?」
そう言って、瑪瑙は切っ先を向ける。
二連、その名を聞いて、動きを止めた敵に、瑪瑙は、面白そうに、にやりと笑った。
(二連…?あの化け物、もしかして…瑪瑙を怖がってる?!)
「正確にゃ、もう二連じゃねぇがな!俺に出会ったのが、運の尽きだっ!」
瑪瑙は、刀を構えて飛びかかる。
蟻地獄は、勢いよく後退して砂に潜り、完全に姿を隠す。
どうやら、形勢不利だと判断したようだ。
「チッ…潜りやがった」
「瑪瑙!あいつは…っ」
「来るなっ!」
走り出そうとした氷魚を、瑪瑙は止めた。
「あっ」
「まだ動くんじゃねぇ、両方の触角を切ったが、油断は禁物だ」
「う、うん」
氷魚は、周囲を、警戒しながら見まわす。
その時、砂の中から伸ばされた脚が、氷魚の足を掴み、彼女の足を、砂地に縫いつけた。
「きゃあぁっ!あっ、足がっ!?」
「ったく、諦めの悪い!引きずり出してやる!」
瑪瑙は、氷魚から、そう離れていない砂地に、剣を突き立てる。
氷魚の足を掴んでいた脚は、短い悲鳴と共に、氷魚の足を離した。
「瑪瑙!」
「早く掴まれ!翔ぶぞっ」
「うんっ!」
瑪瑙が、刀を引き抜いて翔びあがると同時に、砂地が爆発し、苦しみに悶える、蟻地獄が姿を現した。
ややしばらく、脚は砂を掻いていたが、すぐに動かなくなった。
「ごめんね、瑪瑙」
「あ?何がだよ…」
「嘘、ついちゃって…だってほら、迷惑かな、って思ったんだ」
「んな訳あるかい…」
ぼそり、という瑪瑙。
「え?」
「だから、別に、謝んなくてもいいんだよ」
「ありがと、瑪瑙」
「…おうよ」
二人の旅は、まだ始まったばかり。
今日も、故郷を目指して、旅は続く。