義母が追妻ショートドラマに夢中になった後、私たち家族は皆、逃げ出した
義母は、ドS社長が逃げた妻を追いかけるショートドラマに夢中になり、自分がそのヒロインだと思い込むようになった。そればかりか英会話まで習い始め、日常生活では日本語でのコミュニケーションを拒否するようになった。
食卓で義母は義父に英語でこう言い放った。
「私がいなくなったら、あなたは跪いて、私に戻ってこいと懇願するでしょうね」
彼女は気づいていない。彼女の訛りの強い英語など、誰一人として気にしていないことを。
私は夫と義父とともに、静かにグラスを打ち合わせた。その目は固く決意に満ちている。
なぜなら私たちは、本気で義父を連れて海外へ出る計画を進めているのだから。
1
私の名前は神谷晴香。夫の直人と結婚してから、月城県白波市、星見台の住宅街にある神谷家の二世帯住宅で暮らしている。
義父の正雄と義母の富美子は一階、私たち夫婦と、幼稚園の年長組に通う六歳の娘・花奈は二階で生活していた。上下階はある程度分かれているものの、リビングとキッチン、それに庭は共用だった。
初めのうちは、この暮らしに大きな不満はなかった。
直人と結婚したての頃、富美子は私に対してまだ優しかった。
だが、彼女が『冷酷社長、逃げ妻を絶対に手放さない』という海外ドラマにのめり込んでから、すべてが一変した。
その晩、仕事から帰った私は、二時間近くかけて夕食を用意した。焼き魚に牛肉の煮込み、海老の天ぷらまで並べたのに、富美子は料理をひと目見ただけで、箸をテーブルに叩きつけた。
「晴香、毎日こんなものを私に食べさせるつもり?」
私は思わず目を瞬かせた。
「今日は牛肉も海老も焼き魚もあります。十分豪華だと思いますけど」
富美子は鼻で笑い、並んだ料理を指さした。
「ドラマに出てくる女の人は、ステーキやキャビアや高級料理を食べているのよ。それなのに、あなたはこんな庶民の料理で私を適当に扱って。私には高いものを食べる価値がないとでも思っているの?」
私はしゃもじを握り締め、込み上げる悔しさを必死に飲み込んだ。食材だって安くはないし、仕事を終えてから一人で準備したのだ。
正雄の表情が険しくなった。
「富美子、晴香は一日働いたあと、家族全員の夕食を作ってくれたんだ。いい加減な言いがかりはやめなさい」
すると富美子はたちまち目を赤くし、口元を手で覆いながら夫を見つめた。
「正雄さん、昔は私にそんな言い方をしなかったじゃない。今は赤の他人のために、息子の前で私を責めるのね」
「晴香は直人と結婚したんだ。もう家族だろう。どこに赤の他人がいるんだ」
「やっぱり、もう私を愛していないのね」
富美子は勢いよく立ち上がり、わざと大きな音を立てて椅子を引いた。
「私がこの家を出ていったら、あなたもドラマの男みたいに、泣きながら私に戻ってきてくれと頼むことになるわ」
そう言い残し、富美子は自分の部屋へ駆け込んだ。乱暴に閉められた扉の音で、食卓のグラスまで小さく揺れた。
私と直人は黙って顔を見合わせた。
もう、食事を続ける気にはなれなかった。
2
しばらくして、正雄は箸を置き、富美子の部屋へ向かった。怒りを抑えながら何度か扉を叩いたものの、中から返事はない。
正雄が扉を開けると、富美子はベッドに腰掛け、スマートフォンで例のドラマを見ながら涙を拭っていた。
「富美子、いつまでこんなことを続けるつもりだ」
富美子は動画を止め、涙に濡れた目で夫を見上げた。
「やっと私を慰めに来てくれたの?」
正雄は言葉を失った。
「慰めに来たんじゃない。ドラマと現実を一緒にするなと言いに来たんだ。晴香も直人もいる前で、少しは年長者らしい振る舞いをしなさい」
「私がみっともないって言いたいの?」
「そうじゃない。注意しているんだ」
富美子はさらに大きな声で泣き始めた。
「正雄さん、前はもっと優しく私の名前を呼んでくれたじゃない。今は声まで冷たいわ。晴香に何か吹き込まれて、私を年寄りで面倒な女だと思うようになったのね」
「晴香に何を吹き込まれたと言うんだ」
「男の人はみんなそうよ。失ってから、ようやく愛していたことに気づくの」
正雄は顔を青くし、そのまま部屋を出てきた。
「もう話にならん」
足音が近づいてくるのを聞き、私と直人は慌てて二階の部屋へ戻った。扉を閉めてから、私はようやく長く息を吐いた。
「このままじゃ、本当に無理だよ」
私はベッドの端に座り、疲れ切った頭を押さえた。富美子は料理だけでなく、私の服装や帰宅時間、直人との会話にまで口を出すようになっていた。
「昨日なんて、私がわざとお義父さんを誘惑しているんじゃないかって聞かれたの。まるで、私が二人の夫婦関係を壊そうとしているみたいに」
直人は隣に腰掛け、私の手を握った。
「もう少しだけ時間をくれ。俺からきちんと話す」
「お義父さんも何度も話したし、直人だって何度も注意したでしょう。それで一度でも聞き入れた?」
目の奥が熱くなった。
「直人、お義母さんが私に文句を言うだけなら、まだ我慢できる。でも、こんな生活をずっと続けることはできない。次に何かあったら、花奈を連れて実家へ戻る」
直人の指に力がこもった。
「晴香が苦しんでいることは分かってる。今度こそ、ただ我慢してくれとは言わない」
私はしばらく直人を見つめたあと、静かに告げた。
「これが最後だから」
「次にお義母さんが問題を起こしたら、私は花奈を連れて出ていく」
3
数日後、家族が留守にしている隙に、富美子は正雄のデビットカードを持ち出した。
そのカードは正雄の退職金と老後資金が入った口座に直結しており、残高は四百二十万円あった。一部は翌月に予定されている心臓の精密検査の費用で、残りには家族で少しずつ積み立ててきた花奈の教育資金も含まれていた。
前日、正雄は念を押すように伝えていた。
「来月、病院で検査を受ける。このカードの金には手をつけないでくれ」
富美子は適当にうなずいたものの、まるで気に留めていなかった。
彼女はバスに乗り、白波市中心部にあるミナモショッピングモールへ向かった。まず高級美容室で髪を染めてパーマをかけ、エステでは全身の施術と高額な化粧品を注文し、一年分のコースまで契約した。
その後はブランドショップを回り、バッグを六つ、服を十数着、ジュエリーを二組も選んだ。
カウンターに商品が積み上がると、店員は戸惑いながら確認した。
「神谷様、こちらの商品は開封や使用後、お客様都合での返品ができません。名入れ済みのジュエリーや、お直しを始めた衣類もキャンセルが難しくなりますが、よろしいでしょうか」
富美子は不機嫌そうに顎を上げた。
「私が払えないように見えるの?」
「いえ、そういう意味ではございません。念のための確認です」
「だったら、全部会計してちょうだい」
支払いを終えた富美子は、気に入らなかったバッグを二つ選び、一緒に買い物をしていた高校時代からの友人、佐伯久美子にそのまま渡した。
「持っていって。正雄は何十年も私に苦労をかけたんだから、これくらい当然の埋め合わせよ」
久美子は口座の金に用途があるとは知らず、長年の友人が自分へのご褒美を楽しんでいるのだと思い、喜んでバッグを受け取った。
その頃、自宅で書類を整理していた正雄のスマートフォンには、次々と利用通知が届いていた。
二十八万円。
四十六万円。
八十二万円。
わずか二時間足らずで、二百万円以上が口座から引き落とされていた。
正雄はカードが盗まれたのだと思い、すぐに銀行へ連絡して利用停止を申し込んだ。ところが銀行の担当者は、カードがミナモショッピングモールで使用され、正しい暗証番号も入力されていると説明した。
正雄の顔から血の気が引いた。
暗証番号を知っているのは、富美子だけだった。
正雄は震える手で私に電話をかけた。ショッピングモールの名前を口にした直後、電話の向こうで声が途切れた。
私が一階へ駆け下りると、正雄はリビングの床に倒れていた。手から落ちたスマートフォンには、最新の利用通知が表示されたままだった。
4
救急車で搬送された正雄は、白波市立総合医療センターの救急外来に運び込まれた。
連絡を受けた直人は会社から駆けつけ、私は診察室の外で冷たくなった手を握り締めていた。一時間ほどして、ようやく医師が姿を見せた。
「もともと不整脈と高血圧があり、強い精神的ストレスで血圧が急激に上昇したようです。その影響で、一時的に意識を失っています」
「命に危険はありませんか」
「今は安定していますが、数日間の入院観察が必要です。同じような強い刺激をもう一度受けた場合、次も無事だとは限りません」
直人の顔が険しくなった。
「何があったんだ?」
私は正雄のスマートフォンに残された利用履歴を見せた。
「お義母さんがお義父さんのカードを持ち出したの。口座のお金は、もう半分以上使われてる」
直人は画面を数秒見つめ、ゆっくりと表情を失っていった。
「母さんには電話した?」
「十回以上かけた。でも、ずっと出ない」
直人もすぐに電話をかけたが、やはり応答はなかった。彼はそれ以上待たず、病院の出口へ向かった。
「まだミナモにいるはずだ」
私は直人を呼び止めた。
「どうするつもり?」
「連れ戻す」
直人の声には、わずかな温度もなかった。
「カードを返さないなら、警察に相談する」
私たちがミナモショッピングモールに到着した時、富美子はジュエリーショップでダイヤモンドのネックレスを試着していた。
新しい髪型に、買ったばかりのワンピース。足元には大量の紙袋が並んでいる。
私たちの姿を見ても、富美子は少しも後ろめたそうにせず、むしろ不満そうに眉を寄せた。
「ちょうどよかったわ。この荷物、家まで持って帰って」
直人は動かなかった。
「父さんは、母さんのせいで病院に運ばれた」
富美子の笑顔が一瞬だけ止まったが、すぐに何でもないことのように振る舞った。
「あの人がけちなのよ。少しくらいお金を使っただけで、病気のふりまでして大騒ぎして」
「少しじゃない」
直人は声を低くした。
「あの口座には父さんの医療費と、花奈の教育資金も入っていた」
富美子はネックレスを外し、無造作にトレーへ戻した。
「花奈には両親がいるでしょう。学校のお金は、あなたたちが出せばいいのよ。正雄のお金は夫婦のお金なんだから、妻の私が使って何が悪いの?」
直人は、初めて見る人間を見るような目で実の母親を見つめた。
「あの金には手をつけるなって、父さんから聞いてただろ」
「先に私を怒らせたのは正雄よ」
「だから家族の生活資金を使って、仕返ししたのか?」
周囲の客がこちらを見始めると、富美子は恥ずかしがるどころか、さらに腹を立てた。
「私はあなたの母親なのよ。誰に向かって、そんな口を利いているの?」
富美子は手を振り上げ、直人の頬を叩いた。
乾いた音が静かな店内に響き、近くにいた店員まで息をのんだ。直人の顔は横を向いたまま、しばらく動かなかった。
ほどなくしてモールの責任者と警備員が駆けつけた。店員がカードの名義を確認すると、持ち主が富美子本人ではないことが分かり、最後の決済はその場で停止された。
「神谷様、カード名義人ご本人の同意が確認できない場合、警察への相談が必要になる可能性がございます」
富美子の顔色が、ようやく変わった。
「私は妻よ。夫のお金を使っただけで、盗んだことになるの?」
直人はスマートフォンを取り出した。
「警察に届けるかどうかは、父さんに決めてもらう」
5
正雄は、警察への届け出を望まなかった。
病室のベッドに横たわる顔は青白く、声にも力がなかった。
「返品できるものは全部返しなさい。戻らない金は、私が最後に富美子の後始末をしたと思って諦める」
直人はベッドのそばに立ち、長い間黙っていた。
「父さん、母さんは自分が悪いなんて、少しも思ってない」
「分かっている」
正雄は目を閉じた。
「それでも三十年以上、一緒に暮らしてきた相手だ。もう一度だけ機会を与える。きちんと謝るなら、今回のことはこれで終わりにする」
私は納得できなかったが、正雄に代わって決める権利はなかった。
モール側との話し合いで、未開封の服やバッグの多くは返品できた。エステの長期契約も解約できたものの、当日すでに受けた施術代や開封済みの化粧品代は戻らなかった。
さらに富美子の名前を入れたジュエリー、サイズ直しを始めた衣類、久美子へ渡した二つのバッグを合わせると、最終的に百六十万円以上が回収できなかった。
夕方、直人は富美子を病院へ連れてきた。
富美子は最も高価なバッグを腕に掛けて病室へ入り、顔には後悔ではなく、返品させられたことへの不満が浮かんでいた。
正雄はゆっくりと上体を起こした。
「あのカードの金が、何のためのものだったか知っていたのか」
「もちろん知っていたわ」
「知っていて使ったのか?」
富美子はバッグを椅子に置いた。
「私は三十年以上、あなたの食事を作って、洗濯をして、この家を守ってきたのよ。今さら少し買い物をしただけで、病気のふりをして入院までして、馬鹿みたいだと思わないの?」
「あの口座には私の医療費も、花奈の教育資金も入っていた」
「花奈には親がいるでしょう」
病室から音が消えた。
扉の近くに立っていた私は、胸に残っていた最後の温かさまで、すっと冷えていくのを感じた。
富美子は私を横目で見て、さらに声を尖らせた。
「晴香、あなたは前からあのお金を狙っていたんでしょう。私が使ったら自分の取り分が減ると思って、直人にカードを止めさせたんじゃないの?」
私が答えるより先に、直人が前に出た。
「もうやめろ」
富美子は信じられないという顔で息子を見た。
「その女のために、母親を怒鳴るの?」
「晴香のためだけじゃない。母さんのやったことが、もう許される範囲を超えているんだ」
正雄は疲れたように片手を上げた。
「今日から口座とカードはすべて作り直す。通帳も印鑑も、大事な書類も、お前には二度と触らせない」
富美子は目を見開いた。
「私を疑うの?」
「疑わせたのはお前だ」
正雄の目には、深い失望だけが残っていた。
「富美子。これが最後だ。私は今回を最後に、お前を許す」
6
その事件を境に、家の空気は完全に変わった。
正雄は四日間の入院観察を終えると、すぐに夫婦の口座を分け、家の通帳や印鑑も別の場所へ移した。直人も以前打診されていた海外赴任の話がまだ有効かどうか、会社へひそかに確認を始めた。
しかし、富美子だけは何も変わらなかった。
夫がカードを止めたのは、家族全員で自分を罰するためだと思い込み、誰にも謝ろうとしない。それどころか、自分こそ夫と嫁から虐げられている悲劇のヒロインだという思いを、ますます強めていった。
その日の午後、私はキッチンで夕食の支度をしていた。花奈は一人でリビングに座り、アニメを見ていた。
富美子は花奈の隣に座ると、声を潜めた。
「花奈、おばあちゃんと白波中央公園へ遊びに行かない?」
花奈は嬉しそうにうなずいたが、すぐに立ち上がった。
「じゃあ、ママに言ってくるね」
富美子は慌てて腕をつかんだ。
「言わなくていいの。おばあちゃんがもうママに話してあるから。ママは忙しいんだから、邪魔しちゃ駄目よ」
「本当?」
「もちろんよ」
富美子はキッチンを振り返り、私がリビングの様子に気づいていないことを確かめると、花奈を連れて勝手口から外へ出た。
住宅街の防犯カメラを避けるように何本か道を回り、白波中央公園へ向かった。花奈が遊具広場でしばらく遊んだあと、振り返って祖母を探すと、富美子は遠くの自動販売機を指さした。
「花奈はここで待っていて。おばあちゃん、ジュースを買ってすぐ戻るから」
花奈は素直にうなずいた。
富美子は公園の出口へ向かい、そのまま一度も戻らなかった。
彼女は、私たちを少し怖がらせるだけのつもりだった。
晴香が一番大切にしているのは花奈だ。それなら、娘を失う恐怖を味わわせれば、二度と自分に逆らわなくなる。
そう考えた富美子は、家族から見つからないように、わざとスマートフォンの電源まで切った。
7
夕食の支度を終えた私は、リビングへ向かって声をかけた。
「花奈、手を洗ってご飯にしよう」
返事はなかった。
二階で直人と一緒にいるのだと思い、部屋をのぞくと、直人はパソコンで会社から届いた資料を確認していた。そばに花奈の姿はない。
「花奈は?」
直人が顔を上げた。
「リビングでアニメを見てたんじゃないのか?」
心臓が大きく跳ねた。
「いないの」
私たちはすぐに家中を捜した。庭も、物置も、押し入れも確認したが、花奈の姿はどこにもなかった。
騒ぎを聞きつけた正雄も部屋から出てきて、次第に表情を強張らせた。
「近所の家へ遊びに行ったんじゃないのか?」
私は外へ飛び出し、何軒かの家を回った。しかし、誰も花奈を見ていなかった。
直人は迷わず一一〇番へ通報した。
「六歳の娘がいなくなりました。少し前まで家にいたのに、誰かに連れ出された可能性があります」
私は隣で立ち尽くし、頭の中が真っ白になっていた。警察から花奈の服装を聞かれても、二度も間違えて答えてしまい、直人に肩を支えられて、ようやく黄色い上着と赤い運動靴を身につけていたことを思い出した。
白波警察署から警察官が到着し、近隣の交番や巡回中の警察車両にも情報が共有された。
直人は車で花奈が普段行く公園を回り、正雄は近所の人や幼稚園の保護者へ連絡した。私は自宅に残り、警察官と一緒に住宅街の防犯カメラを確認した。
一分が過ぎるたび、胸の中の恐怖が大きくなっていった。
一時間ほどして、映像の中に富美子の姿が見つかった。
彼女は花奈の手を引き、住宅街の脇道から外へ出ていた。
正雄は画面を見つめたまま、わずかによろめいた。
「富美子だ……」
私はすぐに電話をかけたが、電源は切られていた。
連絡を受けた直人の声は、感情が消えてしまったように冷たかった。
「母さんは、花奈をどこへ連れていった?」
「まだ分からない」
私はスマートフォンを強く握り締めた。
「どうして電源を切ってるの? 花奈がいないと分かったら、私たちがどれだけ怖がるか、分かってるはずなのに」
正雄はうつむき、何も答えられなかった。
8
二時間以上が過ぎた頃、富美子は何事もなかったかのように家へ戻ってきた。
玄関へ入ったところを、私はすぐに呼び止めた。富美子の後ろに花奈がいないと分かった瞬間、両足から力が抜けそうになった。
「花奈はどこ?」
富美子の目がわずかに泳いだ。
「自分の娘でしょう。どうして私に聞くの?」
私は彼女の腕をつかんだ。
「防犯カメラに、お義母さんが花奈を連れていくところが映ってた。どこへ連れていったの?」
富美子は私の手を振り払った。
「少し遊びに連れていっただけよ。勝手にどこかへ行ったのはあの子でしょう。私に何の関係があるの?」
頭の中で、最後まで張り詰めていた糸が切れかけた。
「六歳の子供を一人で外に置いて、自分だけ帰ってきたの?」
「年を取ると、うっかり忘れることくらいあるでしょう」
正雄が青ざめた顔で近づいてきた。
「富美子、最後に花奈を見た場所を、今すぐ警察に話しなさい」
「公園にいただけよ。どうしてそんな大騒ぎをするの?」
外を捜し回っていた直人も戻ってきた。母親の言葉を聞いた瞬間、その目から最後の迷いが消えた。
「母さん、警察は周辺の防犯カメラを全部調べている。花奈に何かあったら、母さんにも責任がある」
富美子の顔に、ようやくわずかな動揺が浮かんだ。
「別に傷つけようとしたわけじゃないわ。ただ、少し怖がらせようと思っただけよ」
私は全身を震わせながら、富美子をにらみつけた。
「私に仕返ししたいなら、私にすればいい。どうして花奈の命を使って、私を怖がらせるの?」
それでも富美子は、自分が被害者であるかのように唇を尖らせた。
「最近、みんな晴香の味方ばかりするじゃない。この家のことを、全部あなたの思い通りにできるわけじゃないって教えたかったのよ」
その時、捜索を担当していた警察官から電話が入った。
花奈が見つかった。
警察から、事情を知る富美子も同行するよう求められ、私たちは全員で白波駅近くのコンビニへ向かった。
9
花奈は、白波駅近くのコンビニで保護されていた。
富美子が去ったあと、花奈は公園で長い間、祖母を待っていた。空が暗くなり始めると、おばあちゃんが迷子になったのだと思い、一人で公園を出て捜し始めたらしい。
帰り道は分からなかった。
途中、祖母に似た後ろ姿の女性を見つけて追いかけ、車道へ飛び出しかけた。車は急ブレーキを踏み、花奈にはぶつからなかったものの、驚いた花奈は路上に転び、膝を大きく擦りむいた。
片方の靴も、どこかでなくしていた。
コンビニの店員が、片足だけ靴を履いた少女が店の外で泣いているのを見つけ、店内へ入れて警察へ通報してくれた。
私たちが到着した時、花奈は店員から借りた毛布に包まれ、声がかすれるほど泣いていた。
私の姿を見つけると、椅子から飛び降り、片足を裸足のまま私の胸へ飛び込んできた。
「ママ……」
私は床に膝をつき、花奈を強く抱き締めた。涙が次々とこぼれ、止めることができなかった。
「ごめんね。ママ、迎えに来るのが遅くなってごめんね」
花奈の小さな腕が、私の首にしがみついた。
「ママ、おばあちゃんは、どうして花奈をいらないって思ったの?」
その場にいた誰も、言葉を発することができなかった。
直人は顔を背け、肩を震わせていた。正雄は突然十歳も年を取ったように背中を丸め、うつむいたまま動けなかった。
その後、私たちは近くの交番へ移り、警察から防犯カメラの内容を聞かされた。
映像には、富美子が花奈を公園へ連れて入り、自分だけ別の出口から立ち去る姿がはっきり映っていた。しかも富美子は出口の手前で一度振り返り、花奈がついてきていないことを確認してから歩き出していた。
警察官が富美子を見た。
「神谷さん、子供を残して立ち去ったあと、なぜ家族へ連絡しなかったのですか。ご家族から何度も電話が入っていたのに、なぜ携帯電話の電源を切ったのでしょうか」
富美子はうつむき、小声でつぶやいた。
「少し怖がらせたかっただけよ。あの子が言われた場所で待っていられないなんて、思わなかったの」
正雄が突然手を上げ、富美子の頬を叩いた。
すぐに警察官が二人の間へ入り、正雄を制止した。
「暴力はやめてください」
富美子は頬を押さえ、信じられないという顔で夫をにらみつけた。
「こんな小さなことで、私を叩いたの?」
正雄の手は激しく震えていた。
「私は、お前が見栄っ張りで、少し考えの足りない人間なだけだと思っていた。それでも、祖母としての情くらいは残っていると信じていた」
「だが今日、ようやく分かった。お前は子供の命さえ、自分の腹いせに使える人間なんだ」
警察は私たちと富美子からそれぞれ事情を聴き、今回の経緯を記録に残すと説明した。また、花奈が強い恐怖を感じていることから、富美子を子供と二人きりにしないよう求められ、必要に応じて児童相談所にも情報を共有すると告げられた。
10
花奈は家へ戻ったその夜、熱を出した。
病院で診てもらったところ、大きなけがはなかったものの、強い恐怖と緊張が原因だろうと言われた。しばらくは家族がそばにいて、安心させる必要があるという。
それから数日間、花奈は一人で部屋にいることができなくなった。私がキッチンへ水を取りに行くだけでも、服の裾をつかんでついてきた。
夜中には何度も目を覚まし、泣きながら私を呼んだ。
ある晩、布団にくるまった花奈が、小さな声で尋ねた。
「花奈が悪い子だったから、おばあちゃんは置いていったの?」
私は娘を抱き締めた。心臓を強く握り潰されているようだった。
「違うよ。花奈は何も悪くない。悪いことをしたのは、おばあちゃんだから」
花奈を寝かしつけて部屋を出ると、直人が扉の外に立っていた。
目は真っ赤だった。私たちの会話を、すべて聞いていたのだろう。
「直人、離婚しよう」
直人は勢いよく顔を上げた。
「嫌だ」
「脅しているわけじゃない」
私は疲れ切った体を壁に預けた。
「お義母さんが私の料理に文句を言っても、私を侮辱しても、家のお金を使っても、今までは我慢してきた。でも、花奈が六歳の子供だと分かっていて、公園に置き去りにした」
直人は私のそばへ来ると、強く抱き締めた。
「晴香、ごめん」
「このまま住み続けたら、いつかお義母さんか私のどちらかがおかしくなる。直人に母親と妻子のどちらを選ぶか迫りたくないから、私が出ていく」
「晴香が出ていく必要はない」
直人は私の肩に顔を埋めた。声には、必死に押し殺した涙が混じっていた。
「俺たちの生活から離れなきゃいけないのは、晴香じゃない」
肩が少しずつ濡れていくのが分かった。
長い間私を抱き締めたあと、直人はようやく顔を上げた。
「もう二度と、晴香に我慢してくれなんて言わない」
翌日、直人は家族全員の前で自分の決断を伝えた。
「今日から、母さんを花奈と二人きりにはしない」
富美子は怒ってテーブルを叩いた。
「私は花奈のおばあちゃんなのよ。会わせないなんて、そんな勝手なことが許されると思ってるの?」
「母さんが花奈の祖母だからこそ、俺たちは信じて預けたんだ」
直人は静かに母親を見つめた。
「その信頼を裏切ったのは母さんだ」
正雄も口を開いた。
「これから食事は自分で用意しなさい。生活費は毎月、決まった額だけ渡す。それ以外の金や、家族の持ち物には二度と触るな」
富美子は私たちを見回し、ゆっくりと目に涙を浮かべた。
「みんな晴香の味方をして、私をいじめるのね」
誰も答えなかった。
やがて富美子は、かすかに笑った。
「分かったわ。あとで後悔しても知らないから」
「今日から私たちは他人よ。私が本当にこの家を出たら、あなたたちは泣きながら私を迎えに来ることになるんだから」
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その晩、富美子は小さなキャリーケースを持って家を出た。
出ていく直前、家族のLINEグループへ音声メッセージを送った。
「みんなが私を悪者にするなら、望みどおり出ていってあげる。ここからが本番よ。私がいなくなったことを後悔して、泣きながら迎えに来る展開が始まるんだから」
「正雄は必ず私を失ったことを後悔するわ。直人だって、泣きながら母さん帰ってきてくれって頼むことになるのよ」
メッセージを送ると、富美子はグループを退会し、私たち全員をブロックした。
音声を最後まで聞いた正雄は、長い間何も言わなかった。
直人は静かにスマートフォンを伏せた。
「母さんは、まだ自分が悪いと思ってない」
正雄は力なく笑った。
「本当に、現実とドラマを一緒にしているんだな。出ていった富美子を、私はどこまで追いかければいいんだ。今は顔を見ただけで、また血圧が上がりそうだよ」
私は暗くなった庭を見つめていた。
富美子がいなくなったのに、心は少しも軽くならなかった。ただ深い疲労だけが残っていた。
正雄が不意に私を振り返った。
「晴香、本当にすまなかった」
「お義父さん……」
「この家へ嫁いでくる前のお前も、ご両親に大事に育てられた娘だった。それなのに富美子のせいで、こんなに苦しい思いをさせた」
私は首を横に振った。
「お義父さんのせいではありません」
「夫婦として何十年も暮らしてきたんだから、もう一度だけ機会を与えよう。そう考えてきた」
正雄は目を伏せた。
「けれど、私が一度許すたびに、富美子はお前たちを一度余計に傷つけた」
「もう、二度とあの人をかばわない」
12
富美子が家を出て三日目、直人のもとへ会社の人事部から正式な返事が届いた。
会社は海外に新しい現地法人を設立する予定で、以前から直人に運営責任者として赴任してほしいと打診していた。任期はひとまず五年で、会社が家族の住居や在留手続き、花奈の現地校への入学手続きを支援してくれるという。
直人が今まで断り続けていたのは、年を取った両親を心配していたからだった。そして、私や花奈と離れて一人で赴任することも望んでいなかった。
今回、直人は改めて赴任を希望した。
「晴香、白波市を離れよう」
私は手渡された書類を見つめ、すぐには意味を理解できなかった。
「離れるって?」
「会社は、まだ俺にこの仕事を任せたいと言ってくれている。最終審査が通れば、三か月後には出発できる」
「お義父さんはどうするの?」
「父さんも連れていきたい」
私は少し黙った。
「お義母さんは?」
直人は苦しそうに笑った。
「自分だけのヒロイン人生を送りたいんだろ。だったら、好きなだけ一人で演じればいい」
これは感情だけで決めたことではなかった。
直人はすでに会社へ相談しており、正雄の同行に必要な長期滞在手続きについても、専門部署を通じて支援を受けられることになっていた。花奈にとっても環境を変えることは、今回の恐怖から立ち直るきっかけになるかもしれない。
私は最後にうなずいた。
「分かった」
「一緒に行こう」
直人が計画を正雄へ伝えると、正雄は何度も断った。
「私はもう年寄りだし、外国語も分からない。ついていっても、お前たちの負担になるだけだ」
直人が何度説得しても、正雄は首を縦に振らなかった。
私は、正雄が私たちと暮らしたくないわけではないと分かっていた。富美子が私や花奈にしたことを思い、自分には私たちと一緒に行く資格がないと感じているのだ。
そこで私は、一人で正雄の部屋を訪ねた。
「お義父さん、少しお話ししてもいいですか」
正雄は私を部屋へ招き入れた。
「晴香も、海外へ一緒に来いと言いに来たのか」
「はい」
正雄は困ったように笑った。
「晴香、お前と直人の気持ちはよく分かっている。でも私がついていけば、お前たちの負担が増えるだけだ」
「お義母さんが私を傷つけたから、自分には私たちと一緒に行く資格がないと思っているんですか」
正雄の笑顔が、ゆっくりと消えた。
13
正雄はうつむき、長い間黙っていた。
「そのとおりだ」
「花奈がいなくなった日、私は晴香の顔を見ることさえできなかった。富美子は私の妻だ。私が何度も許してきたからこそ、あの人は何をしても最後には許されると思ったんだろう」
「悪いことをしたのは、お義父さんではありません」
「それでも、富美子は私の妻だ」
正雄の声が低くなった。
「私には何の責任もないとは言えない」
私は正雄の向かいに腰を下ろした。
「お義父さんを責めていません。花奈も、お義父さんのことが一番好きです。あの子が大きくなる姿を、そばで見たくないんですか」
「もちろん見たい」
「だったら、私たちと一緒に来てください」
それでも正雄は首を横に振った。
「外国へ行ってまで、晴香に私の世話をさせるわけにはいかない」
私はあえて穏やかな声で告げた。
「お義父さんが行かないなら、私と花奈もここに残ります」
正雄が勢いよく顔を上げた。
「駄目だ。富美子がいつ戻ってくるか分からないんだぞ」
「だから、もう一つ方法があります」
「何だ?」
「直人と離婚します」
正雄の顔色が変わった。
「絶対に駄目だ」
「直人と離婚すれば、私は花奈を連れて実家へ戻れます。そうすれば、お義母さんも私たちを苦しめる理由がなくなります」
「晴香、あんなに仲のいい夫婦なのに、富美子のせいで家庭を壊してはいけない」
「でも、お義父さんが行かなければ、直人はここに残ってお義父さんの面倒を見るはずです。私は花奈を連れて、もう一度この家で暮らすことはできません」
正雄は慌てて椅子から立ち上がった。
「行く」
私は顔を上げた。
「決めてくださったんですか?」
「お前たちと一緒に行く」
正雄は長く息を吐いた。
「富美子がそんなに一人でヒロインを演じたいなら、一人で好きなだけ演じさせておけばいい」
直人が帰宅すると、正雄が同行を決めたことを伝えた。
直人は驚いて私を見た。
「俺が何度頼んでも駄目だったのに、晴香は何を言ったんだ?」
私は笑った。
「秘密」
「俺にも言えない?」
「言えない」
直人は困ったように私の手を握ったが、その表情にはようやく安堵が浮かんでいた。
14
それから三か月間、私たちは海外赴任の準備を進めた。
持っていける荷物は順番に箱へ詰め、先に現地へ送った。住宅の定期点検や光熱費、緊急時の連絡は管理会社に任せることにし、二階の私たちの居住部分には鍵をかけた。
一階は富美子が戻ればそのまま暮らせるように残し、彼女の衣類や私物も部屋へ整理して置いた。
富美子が家を出た時、持っていったのは小さなキャリーケース一つだけだった。
おそらく彼女は、私たちが三日も耐えられないと思っていたのだろう。正雄は妻のいない生活に耐えられず、私と直人も育児や家事に疲れ果て、最後には全員で贈り物を持って迎えに来ると信じていた。
家を出た富美子は、古い友人である佐伯久美子の家に転がり込んだ。
久美子は高校時代からの友人で、夫に先立たれたあとは、息子の大地と、その妻の理奈が暮らす一戸建て住宅で一緒に生活していた。
富美子は電話口で、ひどく傷ついたように泣いた。
「家族みんなで嫁の味方をして、私をいじめるの。今は帰る場所さえないのよ」
久美子は長年の友人を気の毒に思った。
「それなら、二、三日うちに来なさい。みんなの頭が冷えたら、家へ戻ってきちんと話し合えばいいわ」
富美子は口では了承したものの、内心では気にしていなかった。
三日も泊まるはずがない。正雄と直人がすぐに迎えに来ると思っていたからだ。
一日目、富美子は久美子の家のリビングに座り、何度も窓の外を見た。
「正雄は、今夜には来ると思うわ」
三日目になっても、誰も来なかった。
「直人はきっと、私への贈り物を用意しているのよ。若い人は何をするにも遅いから」
五日目になると、今度は自分から家族が来ない理由を考え始めた。
「謝りたいけれど、自分から頭を下げるのが恥ずかしいのね。私からきっかけを作ってほしいんだわ」
久美子は何度も、自分から夫へ連絡した方がいいと遠回しに勧めた。しかし富美子は聞き入れなかった。
「私から電話したら、追いかけてもらう展開が台なしになるじゃない」
15
佐伯家に泊まって六日目になる頃には、富美子は完全にそこを自分の家のように扱っていた。
仕事から帰ってきた理奈がカレーを作ると、一口食べただけでスプーンを置いた。
「またカレーなの? 正雄は二日も続けて、こんな簡単な料理を私に食べさせたりしなかったわ」
理奈は戸惑った。
「昨日はシチューでしたけど」
「似たようなものでしょう。明日の朝は、焼き魚と味噌汁を用意してちょうだい」
「私は朝七時に家を出るので、別に朝食を作る時間はありません」
富美子は不満そうに顔をしかめた。
「今の若いお嫁さんは楽でいいわね。目上の人に朝食を用意するだけで、そんなに大変だなんて」
理奈は久美子を見たが、結局何も言わなかった。
夜になると、富美子は長時間風呂場を占領し、理奈が置いていた高価なシャンプーや化粧品まで勝手に使った。
湯船につかりながらショートドラマを大音量で流し、出演者の英語を真似し続け、一時間以上たってからようやく出てくる。
大地が仕事から帰り、ニュースを見ようとしても、富美子は一人でリビングのテレビを占領していた。
「今ちょうど、男が妻にひざまずいて謝っているところなの。チャンネルは変えられないわ」
食後の片づけも手伝わず、生活費を払おうともしなかった。久美子がコップを何個か洗ってほしいと頼むと、富美子は傷ついたようにため息をついた。
「自分の家でもひどい扱いを受けたのに、ここでも家事をさせられるの?」
十二日目になると、理奈もとうとう耐えられなくなった。
その夜、富美子が水を飲もうと部屋を出ると、大地がキッチンで母親に低い声で尋ねているのが聞こえた。
「母さん、神谷さんはいつまでここにいるの?」
久美子は困ったように答えた。
「家族がもうすぐ迎えに来ると言っているから……」
「同じことを十二日間、ずっと言ってる」
理奈は夫のそばに立ち、長い間抑えてきた疲れをにじませた。
「生活費を入れないし、家事もしません。それなのに、私の料理には毎日文句を言います。私の物を勝手に使って、長時間お風呂を占領して、夜はテレビの音も大きいままです」
「お義母さんの友人だから、今まで何も言いませんでした」
「でも、ここは旅館ではありません。私たちにも生活があります」
大地はうなずいた。
「今週末までに、出ていってもらって」
16
富美子は家族の会話を聞き終えると、顔をこわばらせて客間へ戻った。
しかし、自分の十二日間の振る舞いを反省することはなかった。すべての怒りを、正雄と直人、そして私へ向けた。
あの人たちがもっと早く迎えに来ていれば、友人の家でこんな屈辱を受けることもなかったのだ、と。
翌朝、久美子がお茶を持って部屋へ入ってきた。
「富美子、そろそろ正雄さんと話し合った方がいいんじゃない?」
富美子は冷たい目を向けた。
「私を追い出したいの?」
「そういう意味じゃないの。ただ、ここに泊まり続けても問題は解決しないでしょう。大地と理奈も、今週末は予定があるみたいだし、家も少し都合が悪くて……」
富美子は突然笑った。
「なるほどね」
「私があげたブランドバッグを受け取った時は、家の都合が悪いなんて言わなかったわよね。贈り物をもらった途端、私が邪魔になったの?」
久美子の顔から、ためらいが消えた。
「バッグは返すわ」
「私はあなたを十二日間泊めた。理奈は毎日あなたの食事を用意して、家族全員ができるだけ気を遣ってきた。それなのに、あなたは一度だってありがとうと言わなかった」
富美子は勢いよく立ち上がった。
「あんたたちも晴香と同じね。この恩知らず!」
「だから家族の誰も、あなたを迎えに来ないのよ」
久美子も、ついに我慢の限界を迎えた。
「正雄さんも直人君も、これだけ長く連絡してこない。それでも、自分に原因があるかもしれないとは考えないの?」
その言葉は、富美子が最も認めたくない部分を正確に突いた。
富美子は甲高い声を上げ、久美子の服の襟をつかんだ。
「もう一度言ってみなさい!」
突き飛ばされた久美子はテーブルの角へ体をぶつけ、とうとう怒りを爆発させた。
二人は髪をつかみ合い、富美子が手を振り上げると、久美子も強く押し返して頬を叩いた。物音を聞いた大地と理奈がすぐに部屋へ駆け込み、二人を引き離した。
髪を乱し、顔に何本か引っかき傷を残した富美子は、それでも捨て台詞を忘れなかった。
「久美子、私にこんなことをして、正雄が黙っていると思わないで」
久美子は痛む手首を押さえながら、冷たく笑った。
「神谷さんが来るなら待っているわ」
「でもその前に、今すぐ私の家から出ていって」
富美子はキャリーケースを引きずり、足を引きずりながら星見台へ戻った。
道中、髪を整えようともせず、顔の傷も隠さなかった。これほどひどい目に遭った自分を見れば、正雄は必ず久美子へ抗議しに行くと思っていたのだ。
住宅街へ入ると、近所に住む松井和子が富美子に気づいた。
和子は何とも言えない表情で彼女を見た。
「まあ。星見台で有名な、ショートドラマのヒロインじゃない」
「誰にも迎えに来てもらえなくて、自分で帰ってきたの? それに、ずいぶんな姿ね」
富美子はたちまち不機嫌になった。
「これはうちの問題よ。あなたには関係ないでしょう」
和子は小さく笑った。
「私だって関わりたくないわよ。でも、帰ってくるのが少し遅かったみたいね。もう、家には誰もあなたを待っていないから」
富美子の足が止まった。
「どういう意味?」
「正雄さんも、直人君も、晴香さんも花奈ちゃんも、みんな海外へ引っ越す準備を終えたわ」
「そんなはずない!」
富美子は激しく首を振った。
「正雄が私を置いていくはずがない。直人だって、母親に何も言わずに行くはずがないわ」
「何のために知らせるの?」
和子は容赦なく聞き返した。
「また正雄さんのお金を使い切って、花奈ちゃんをどこかに置き去りにするため?」
17
富美子は震える手でスマートフォンを取り出し、正雄と直人のブロックを解除した。
十回以上電話をかけ続けたが、誰も出なかった。
その頃、私たちはすでに青湾国際空港へ向かう特急列車に乗っていた。直人のスマートフォンは消音に設定され、正雄は窓の外を流れていく白波市の景色を見つめたまま、一度も振り返らなかった。
松井和子は自宅から封筒を持ってきた。
「もう電話しても無駄よ。今頃、空港へ向かっているはずだから」
「これは晴香さんから預かったもの」
富美子は封筒を奪うように受け取った。
中には住宅の管理方法、生活費の振込予定、緊急時の連絡先が書かれた書類と、一枚の短い手紙が入っていた。
「神谷富美子様。私たちは白波市を離れ、直人の海外赴任に同行します。今後は毎月、基本的な生活費を指定口座へ振り込みます。住宅設備や緊急時の問題については、管理会社へご連絡ください」
「一階部分は引き続き使用できますが、二階の私たちの居住部分には立ち入らないでください」
「今後、花奈と二人きりで会うことは認めません」
富美子の手が激しく震えた。
「どうして、私にこんなことができるの?」
「私は何も悪いことをしていないのに、どうしてみんなで私を置いていくの?」
和子は、信じられないものを見るような目を向けた。
「晴香さんをいじめて、正雄さんの医療費と花奈ちゃんの教育資金を使い切って、夫を病院へ運ばせたでしょう」
「そのあと、六歳の孫をわざと公園へ置き去りにして、警察まで動かした」
「それだけのことをしておいて、まだ自分は悪くないと言えるの?」
富美子の目から、ようやく涙がこぼれた。
「直すわ」
「悪かったなら、これから直せばいいじゃない。どうして私に機会をくれないの?」
和子は首を横に振った。
「今まで、何度機会をもらったと思っているの?」
富美子は封筒を握り締めたまま、住宅街の出口へ走り出した。
その途中で足をもつれさせ、激しく地面に転んだ。和子が心配して近づこうとした時には、富美子は痛む膝を押さえながら立ち上がり、駅の方向へ走り始めていた。
「正雄、戻ってきて!」
「直人、私はあなたの母親なのよ! 母親を置いていくなんて許されないわ!」
「私が悪かった! もう復縁ドラマごっこなんてしないから!」
「私も連れていって! 一人でここに残るのは嫌!」
富美子の叫び声は、静かな住宅街にむなしく響いた。
けれど、誰一人として戻らなかった。
和子は、富美子が転んでけがをしていないか心配し、無事に自宅へ戻ったことを私へ伝えるため、短い動画をLINEで送ってきた。
私は空港の待合ロビーに座り、その映像を最後まで静かに見た。
それでも、心は少しも揺れなかった。
もし富美子が、以前のように私のために味噌汁を残し、花奈を抱いて笑っていた義母のままだったなら、私は何があっても正雄と直人に彼女を置いていかせなかっただろう。
けれど、富美子は何度も私の限界を試した。
そして、花奈の安全を私への仕返しに使った瞬間、私はようやく理解した。
この家族に富美子が居続ける限り、私と娘が安心して暮らすことはできない。
彼女は家出を使い、夫と息子に、自分と私のどちらを選ぶか迫った。
私たちはただ、彼女の望みどおりに選んだだけだ。
直人が遠くから小走りで戻ってきた。
「晴香、何を見てるんだ? もう搭乗時間だよ」
私はスマートフォンの画面を消し、待合ロビーの大きな窓の向こうへ目を向けた。
「二十年以上暮らした場所を離れるから、最後にもう一度見ておきたいと思っただけ」
直人は私の手を取った。
「もう見終わった?」
私は正雄と花奈を振り返った。
花奈は大好きな祖父の隣に座り、ようやく以前のような笑顔を見せていた。正雄も私の視線に気づき、静かにうなずいた。
私は直人の手を握り返した。
「もう十分」
「行こう」
搭乗を知らせるアナウンスが流れた。
私たちは一緒に立ち上がり、搭乗口へ向かった。
神谷富美子さん。
もう二度と会うことはない。
私たちはこれから、あなたのいない新しい生活を始める。




