心の汚れ判定試験(第1題) 奥まで入れてください
黒崎主任は仕事ができる。
これは梱包発送課の総意だ。
作業台の高さは見直す。動線の詰まりはなくす。在庫の置き場は一発で分かるように変える。怒鳴らない、押しつけない、ミスが出たらまず仕組みを直す。
完璧だ。
言い方以外は。
「佐伯さん、そのシリコンチューブ、ジョイントのもっと奥まで入れてください」
朝八時四十分。
俺はその一言で、今日も駄目だと悟った。
医療・理化学用の透明シリコンチューブ。柔らかくて、よくしなる。規定長に切って、束ねて、袋詰めして出荷する。今日はその検品と梱包の立ち上げ日だった。
もちろん主任は仕事の話をしている。百パーセント仕事の話だ。
分かっている。分かっているのに、作業台の向こうで倉持がぶふっと噴き、田所が無言で天井を見た。
まずい。
そして、この場でいちばん危ない女が、にこっと笑った。
「入ってるか分からないくらい小さいんですか?」
篠宮ひより、二十三歳。仕事はできる。気も利く。愛想もいい。
だが、主任の発言を聞くと高確率で悪いスイッチが入る。
俺が止める間もなく、黒崎主任はチューブとジョイントを見比べ、真顔で言った。
「小さくはないです。規格通りです」
倉持が作業台に突っ伏した。
「じゃあ、柔らかいんですね」
「柔らかいですね」
即答だった。
主任は何一つ迷わない。そこが一番怖い。
「かなり柔らかいので、途中で止まると入った感じが薄いです。奥まで差し込まないと、すぐ抜けます」
俺は目を閉じた。
田所がぼそっと言う。
「朝から飛ばすなあ」
「飛ばしてません。通常の作業説明です」
主任はきっぱり言い切って、チューブを一本持ち上げた。透明なそれが蛍光灯の下でふにゃりと曲がる。
「見ていてください。力を入れすぎると逃げるので、押すというより、まっすぐ当てて」
主任はジョイントにチューブを当てた。
「このまま、少しずつ」
「はい」
「もっと奥まで」
「はい」
「まだです」
「えっ、まだですか」
「まだです。先端だけ入っても意味がないので」
篠宮が肩を震わせる。倉持はもう駄目だ。無音で笑っている。俺は頭痛がしてきた。
「主任、あの、言い方をですね」
「言い方?」
「もう少し別の」
「別の、とは」
篠宮がすかさず挙手した。
「主任、“奥まで入れる”以外の表現ってないんですか?」
主任は考えた。三秒考えた。
そして、まったく改善しなかった。
「しっかり奥までねじ込んでください」
「悪化した!」
思わず叫んだのは俺だ。
主任はびくりとした。
「佐伯さん?」
「いえ、何でもありません」
「そうですか。では篠宮さん、やってみてください」
「ええー、うちがですか?」
「はい。柔らかいので慣れが必要です」
「柔らかいので慣れが必要」
篠宮が復唱した瞬間、倉持がついに膝をついた。
主任はひよりの手元を覗き込み、淡々と指導を続ける。
「そうです。その角度です。いいですね。そこで一回、向きを合わせて」
「はい」
「違います、そっちの穴じゃないです。反対です」
「え、こっちの穴じゃダメなんですか?」
「いけません。無理に入れると裂けます」
田所が顔を伏せたまま肩を揺らした。
俺はフォークリフトの死角に逃げ込みたくなった。
「主任、これ、入ってるか分かりにくいです」
「透明ですからね。目で見るより、根元まで入ったか確認してください」
「根元まで」
「はい。中途半端だと搬送中に抜けます」
「抜けるんですか」
「抜けます」
きっぱり。
そのときだった。
梱包エリアの引き戸が開いて、課長が顔を出した。
「おーい、立ち上げどう……」
そして、止まった。
最悪の間で、主任が言った。
「篠宮さん、まだ浅いです。もっと奥まで入れてください」
課長の顔から色が消えた。
篠宮が振り向きもせず、追撃する。
「これ以上ですか? でも、柔らかくて、入ってる手応えがなくて」
「大丈夫です。規格通りですから」
「規格通り」
「はい。最後まで入れば、きちんと締まります」
課長が咳き込んだ。
倉持が壁を向いた。
田所が低い声で言った。
「終わったな」
俺は腹を括った。
「課長。これはですね、医療用シリコンチューブの」
だが、主任の方が早かった。
「ジョイント接続の説明です」
主任は課長に向かって、透明チューブを掲げた。
よりによって、その持ち方が妙に堂々としていた。
「柔らかくて、透明で、入った感触が薄いので、根元まで差し込まないとすぐ抜けます」
課長は口を開けたまま固まった。
「ですので、一本ずつ手で確認して」
主任は続ける。
「長さを揃えて切って、束ねて、袋に入れます」
沈黙。
長い。致命的に長い。
篠宮が、ついに耐えきれず俯いた。倉持はしゃがみこんで無音で痙攣している。田所は死んだ目で荷札を書いている。
課長は俺を見た。
俺は何も言えなかった。
主任は首をかしげた。
「……何か、おかしいですか?」
その瞬間、篠宮が顔を上げた。満面の笑みだった。
「主任、うち、ちゃんと最後まで入るように頑張ります」
「はい。丁寧にやればできます」
課長が天を仰いだ。
「……現場が元気で、何よりだ」
それだけ言って、引き戸を閉めた。逃げた。完全に逃げた。
ばたん、と戸が閉まった瞬間、倉持が爆発した。
「む、無理だって! “根元まで入ったか確認してください”は駄目だって主任!」
「なぜですか?」
「なぜって!」
「確認しないと危ないですよね?」
正論。完璧な正論。だから誰も勝てない。
篠宮が涙を拭きながら言う。
「主任、うち、主任の説明ほんと分かりやすくて好きです」
「それは良かったです」
すると田所が、封をした袋をコンテナに積みながら、ぽつりと言った。
「中身は健全。会話は不健全。それだけです」
主任はしばらく考え、やがて真面目な顔でうなずいた。
「では篠宮さん、次の束もお願いします。今度は最初から奥まで、まっすぐ」
作業場の空気が、再び止まった。
篠宮が俺を見て、にやっと笑う。
「佐伯さん」
「何だ」
「今日も長い一日になりそうですね」
まったくだ。
梱包発送課の朝は早い。
そして黒崎主任の説明は、だいたい朝から誰かの理性を壊す。
ご拝読ありがとうございました。
本作は、真面目な会話なのに妙な方向へ事故を起こしてしまう人たちによる、健全な現場の不健全コメディです。
たぶん今後も、似たような言葉の事故は各所で発生します。
少しでも笑っていただけたなら嬉しいです。




