あああああ
巴恵と銀河鉄道の夜
「ミルキーウェイステーション! ミルキーウェーイステーション! ジョバンニーワズ……」
巴恵は中学生のときに英語の授業で初めて宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を知った。
英語なんてからきし解らなかったが、この物語に興味を持った巴恵は英語の辞書を片手に何度も何度も内容を見返した。
絵を書くことが好きで、「銀河鉄道の夜」をテーマにして絵を書いたら、埼玉県東松山市の学生コンクールで銀賞を取ることができた。
今、巴恵はコンビニエンスストアのアルバイトの仕事帰りで、人の少ない深夜の中央線の電車に揺られている。
電車のドアが閉まると、自分の姿が窓に映った。
あまり自分に対して興味を持つことが出来ない巴恵は、目立たないように気を付けた地味な自分が、自分を見ていた。
「巴恵って、素材が良いから羨ましいな」
アルバイト先でたまに一緒になる年上の璃子に今日言われたことが頭の中で思い出される。
しかし、自分の本当の姿が電車の窓に映し出されるとつい目を瞑って、自分から隠れるようにして、がらんと空いている誰も乗っていない車両の座席に腰を下ろした。
璃子は大学三年生で巴恵の二個上になる。
「璃子さん!ならば僕と結婚してください!」
「おお!巴恵、その言葉はまことか?」
「はい、王子さま 僕と結婚してください!」
「……くっくっく アッハッハ」
二人はへんてこな設定で息詰まると耐えきれずにお腹を抱えて笑ってしまった。
巴恵と璃子はアルバイト先で二年くらいの付き合いになる。女同士の友情を昇華した設定を二人はいつの間にか作っていて、それを楽しんでいたのだった。
決して派手ではなく、とても大人っぽくて美人の璃子を見て、この人の真似をしたいなと思ってどこかで憧れていた。
璃子と自分を重ね合わせながら思い出していて、急に本当の自分が電車の窓ガラスに映し出された。紺のパーカーを寒くて頭から被っている自分がなんだか恥ずかしくなってしまったのだった。
巴恵は誰もいない車両をいいことに、シートの真ん中に座って大きな車窓の景色を独り占めしていた。
遠くの町が星のように輝いていて、それでいて手前の世界が真っ暗な景色がしばらく続いた。
今、車窓から映し出されている、まるで宇宙を旅しているようなこの幻想的な世界にも現実はちゃんとあって、この世界の住人たちはそれぞれの物語を生きている。どこか非現実的で綺麗なこの世界はとても残酷だなと巴恵は思っていた。
東中野駅から自宅の西荻窪駅までは電車で十五分程度の時間が掛かる。
巴恵は電車から映し出される景色を眺めながら、なんとなく子供の頃を思い出していた。
巴恵の子供時代
巴恵が杉並区浜田山から石川県加賀市の山奥に引っ越してきたのは、小学一年生の秋ごろだった。
毎朝、家から歩いて十五分くらいのところに山中小学校行のバス停があって、スクールバスが定時に着くと、集まった小学生たちはみんなぞろぞろとスクールバスに乗り込んだ。
巴恵は毎朝母親と一緒に手をつないで、家からバス停まで少し早歩きで向かった。
「昨日観たアニメは面白かったね」
母親が巴恵に話しかけた。
「うん 当たり回だったね」
「四十秒で支度しなっ!」
母親はしわがれた声で悪役のおばあさんのセリフを声真似した。
「あっ!お母さんって、ドーラに似てるよね?」
「えっ?コラっ!私はあんなに年食ってないぞっ!!」
「あはは 冗談だよお母さん」
母親はとても楽しい人で家からバス停までの一緒にいる時間は、巴恵にとって特別に大切な時間となっていた。
巴恵はみんながバスの先頭を奪い合う中、一人バスの最後部座席まで走って、バスの車窓から山道を曲がりくねって見えなくなるまで母親に手を振り返した。
母親も巴恵が見えなくなるまでずっとおおげさに手を振ってくれた。
学校が終わると巴恵は学童に通っていた。巴恵の家は本当に山奥だったので、周りにはおじいさんとおばあさんだけしかいなくて、近所に子どもはいない。
これだと可哀そうだということで巴恵の両親は学童で友達と遊ぶ時間を作ってあげていたのだった。学校から学童はすぐ近くにあって、巴恵は仲の良い友達とグループで手をつないで歩いて行った。
(今日は図書館で借りた「松ぼっくりの使い道」という本を読もう)
巴恵は学童に着くと玄関で靴を脱ぎ、そのまま中二階の「漫画喫茶コーナー」という畳スペースで本を読み始めた。
他のみんなも宿題をしたり友達と遊んだりして親のお迎えを待っている。
「ともちゃん、おそぼー」
巴恵が一人で本を読んでいると、特に仲良しの加奈ちゃんが近づいてきた。
まだ、一ページもこの「松ぼっくりの使い道」を読むことが出来なかったが、本を閉じて加奈ちゃんと下の階で走り回ることにした。
(いったい松ぼっくりは何のために使うことができるのだろうか?)巴恵は松ぼっくりの謎を気にしながら想像を膨らましてもいた。
指導員のマリちゃんも巴恵に良くしてくれて好きだった。学童は巴恵にとってかけがえのない場所となっていたのだった。
「巴恵― お父さん迎えに来たよー!」
マリちゃんの巴恵を呼ぶ大きな声が聞こえたので、巴恵は加奈ちゃんと並んでみていた漫画本を加奈ちゃんに渡して帰り支度を始めた。
「加奈ちゃん またね」
「うんまたね」
学童を出ると父親は車の運転席にいて目が合った。そして一度だけ小さく手を振ってくれた。
父親と母親では手の振り方が違っていて、父親はなんだかスマートに手を振っているのに対して、母親は一生懸命になって振っている。巴恵は幼心ながらにこの違いで相手の性格を判断していた。
父親は一日中家にいる人だった。たまに人が訪ねてきて色々と仕事の話をしているが、いったいなんの仕事をしているのかは当時よくわからなかった。職業は物書きだったらしい。
「今日はどうだった?」
父親は運転しながら助手席の巴恵に話しかけてきた。
父親の質問はいつも漠然としていて、少しカッコつけているような感じだったので、巴恵も漠然した解答で返していた。
「今日もサイコーだったよ」
「そうか それはよかったねぇ」
これで二人の会話は成立していた。二人は学童を出て、そのまま母親が働いている山の中の小さなスーパーに向かっていった。
小さなスーパーには大きな駐車場があり、夕飯時になるとこの地区の人口のほとんどがこのスーパーにやって来ているのかと思うほど、駐車場も混んでいて店内も賑わっていた。巴恵は駐車場に着くと車のエンジンが止まると同時位に、父親を置いてけぼりにして、駆け足でお店の中に入っていった。
お店の入り口で巴恵は母親を探す。レジでお会計をしているようだった。母親は巴恵に気付いて目が合うと、接客中なのに大きく手を振ってくれた。
当然何事かとレジで会計をしているお客さんもこちらを振り向いた。
巴恵は少し恥ずかしい気持ちになったが、それでも小さく一度だけ手を振り返してみた。
後から父親がやってきて、レジの方に向かって小さく会釈をしていた。
「今日の夕飯は何がいいのかねぇ?」
父親は昨日観たアニメの悪者の声真似をして巴恵に質問した。
「赤いシチューが食べたいな」巴恵はそう答えた。
「赤いシチューねぇ ご飯にかけるタイプ? それとも食パンと一緒に食べるタイプにする?」
「ん~~~ 迷うねー」
巴恵はカートに乗って父親に押してもらいながら、二人でしばらく食品売り場を見て回った。
昨日の夜、家族で観たアニメ映画では悪者たちが食堂で暴れるように一生懸命赤いシチューと食パンをおいしそうに食べているシーンがあったので、巴恵はそれがしたかったのだが、いざご飯か食パンかを尋ねられるとどちらも捨てがたいなと思っていたのだった。
「それじゃ、パンも買おう どっちも半分の量で食べれば良いねぇ?」と言って父親が目配せした。
父親の目配せの先には、昨日観たアニメのパンにそっくりの食パンが巴恵の目に入った。
「うん これ!」
巴恵はライ麦食パンを力強く指さした。
そうこうしていると、仕事が終わった母親が後ろから驚かすように声を掛けてきた。
「うわっ!」
巴恵と父親が同時に振り返り、二人の驚いた顔を見て母親は満足しているようだった。
「おまた~ それで何食べることになったの?」
「赤いシチューッ!」巴恵が母親に元気よく答えた。
「わー! やったー! 私もあのシチューが食べたいなーって思ってたの よくお母さんが食べたいと思っていたものがわかったわね」
母親は嬉しそうに小さく拍手をして喜んでいた。
巴恵は母親にそう言われるとうれしくなって、誇らしく思ったのだった。
母親は絵を描く仕事をしていて、広い家の一角は母親の作業スペースとなっていた。
画材道具がきれいに整頓されていて、キャンバスがイーゼルに立て掛けられている。
母親が絵を描くときはピンと背筋を伸ばして、椅子を跨るようにして足を開かせて座っている。
左手には油絵用の木製パレットを親指で支え持って腕に乗せていて、右手はそのときどきによってさまざまでサイズの筆や金属の平たい板などを駆使してキャンバスに色を重ねていた。
巴恵は絵を書いている母親の背中を飽きずにずっと見ていられた。この頃からか巴恵は画家という職業に憧れるようになっていった。母親はその傍らで父親に車で送り迎えをしてもらいながら、スーパーでアルバイトもしているのだった。
帰り道はもう真っ暗で、自分の家に帰るためには電灯のない山道をしばらく自動車で登り続ける必要があった。
たまに野生の狸や猪が出て来て、その度に家族で盛り上がった。
巴恵は母親と父親が仲良く会話しているところに聞き耳を立てるのも好きだった。後部座席から父親と母親が時々肩を揺らしながら笑っている後ろ姿を見ていると、道は暗くて少し怖いけど、帰り道はいつも三人で楽しかった。
巴恵は家に帰ってくると、もう一匹の家族の所へ向かった。インドホシガメのチョウさんは丁度首を伸ばしてあくびをしている。
チョウさんは触ったらやけどするほどの熱い電球に照らされて甲羅を暖めており、巴恵が甲羅をひとなでするとチョウさんは「シュー」という音を立てて急いで首を引っ込めた。
巴恵はスーパーでチョウさん用に買ってきたきゅうりをぽとりと落とし渡した。
しかし、チョウさんはしばらく何のことやら分らないというように反応しなかった。
巴恵が学校の宿題や松ぼっくりの本を読んで時間を過ごしているとダイニングテーブルに夕食が並んだ。
父親は料理が得意らしく、母親と父親はだいたい半分ずつの割合で料理を担当していた。白い陶器で丸みを帯びた巴恵お気に入りの容器に牛肉とジャガイモと人参が入った昨日観たアニメのままのシチューが再現されている。
食パンはトーストされていて、食べやすいように四等分に切られていた。
ワイングラスは3つあって、ひとつはお水であとの二つは赤ワインが注がれている。父親と母親は先に赤ワインを吞んでいたようで顔も赤くなっていた。
父親の作ってくれたビーフシチューはお肉がホロホロととても柔らかく味がしみていて美味しかった。ご飯にかけるとシチューを吸ったお米がバラバラにほぐれてそれをスプーンですくって食べるのが、巴恵には新鮮に感じられた。
悪者たちが急いでシチューを食べるシーンを父親が真似をしていて、楽しい人だなと巴恵は思った。母親も父親を見て微笑んでいる。
食事が終わってチョウさんの所に様子を見に行くと、きゅうりを半ば暴れるように一生懸命かじっているチョウさんがいた。
チョウさんはオスなのかメスなのか性別は不明だが、なんとなくこの亀はオスだなと巴恵は思ったのだった。
巴恵の家には大層立派な鳩時計が柱に掛けれらていて、そのハトが大層立派に時刻を伝えていた。
「ポッポー ポッポー」
一時間ごとに時刻を伝えるこのハト時計の装飾は森をモチーフにしていて、ハトが飛び出してくるとそれに連動してウサギと小鹿がぴょんぴょんと跳ねる仕掛けになっている。
巴恵はこのハト時計の鳴き真似をして、巴恵からも両親に時刻を伝えていたりした。お父さんもお母さんも巴恵の物真似を楽しそうに聞いていた。
九時の鳴き方は通常の鳴き方と少し違っていて、それが巴恵の中で一日の終わりを意味していた。九時の鳩時計が鳴ると、巴恵はひとりでに布団に入ることにしていた。
お父さんとお母さんはまだお酒を飲んで楽しく語り合っている。巴恵は寝室の部屋の灯りを消して、両親の話声に耳を澄ませながら、となりの部屋が明るくて賑やか状況が一番安らいで眠ることができたのだった。
巴恵は昔のことを思い出して、電車が止まる度に現実に引き戻された。いろんな家族の何気ない楽しい夕食の風景を、巴恵は電車の車窓から見えているような気がして、遠くの知らない家族の家の灯りをなんとなく見つめていたのだった。
しかし帰る先が一人暮らしのアパートなだけに、よその現実の家庭が少しだけ羨ましくなってしまった。
コンビニのアルバイト
「山田さん、今日は本当にありがとね」
巴恵がバックヤードでシフト表を眺めていると店長室から店長がやって来て、声を掛けてきた。
「最後まで起きてられるか不安ですけど、まあ頑張ります」
巴恵は店長の顔を鏡越しにチラッと確認して答えた。
「あとあと! 年末年始はよろしくね 時給は弾むからね みんな自分の事ばかりで年末年始のシフトに責任感を持ってくれないんだよ!」
巴恵は鏡越しの店長の広いおでこをぼおーっと眺めながら話を聞いていた。
「僕も人手が足りなくて、ストレスで禿げちゃうよ」
店長は巴恵の視線が自分のおでこにあることに気付いたようで、ご機嫌を取るためなのか、おどけて自分のおでこをぴしゃりとやった。そして懇願に近い形で話を続けた。
「ねっボーナスも出しちゃうからね」
「はいはい 分かりました 別に帰るところもないですし いいですよー」
巴恵は面倒くさい様子で店長に答えた。
「本当だねっ! ありがとう よろしく頼むよ!!」
「はいっ!」
巴恵は振り返って、店長の目をしっかりと見て笑顔で返事をした。店長は安堵の表情を浮かべて店長室に消えて行った。
今日は珍しく深夜帯の勤務だった。
アルバイトに欠員ができてしまい、店長もどうしても外せない予定があるとのことで夜十時から朝五時までのシフトをすることになったのだ。
どうやら巴恵は店長から、いくらでも時間に融通が効く便利な人材だと思われているらしい。
東京都東中野の深夜のコンビニは色々な人で賑わっていた。
学生は冬休み中で、友だちの家にお泊まりなのだろうか? 若い男の子たちが夜食を買いにぞろぞろと五人グループでコンビニにやって来ていた。
学生の団体は全員テンションが高く、巴恵はそれを見ているだけで疲労してしまいそうだったので、早く買い物を終えて出てってくれと思っていた。
今流行りの音楽が店内の有線から流れている。クリスマスのシーズンだ。テンションの高い学生の一人がサビを歌い始めて、それを誰も制止しようとしなかった。店内が学生たちの雰囲気に飲み込まれていって、巴恵のイメージしているコンビニではなくなっていくような気がしてしまった。ふと隣を見れば、一緒のシフトの男の子は窓ガラスを鏡にして前髪を気にしている。最近の流行りなのだろうか?前髪を女の子のようにヘヤピンでピタッと留めている。どちらにしてもこの騒がしいコンビニが巴恵は不快で、隣の男の子になんとかしてほしいと思って目をやったのだが、なんとなく諦めて時間が過ぎて行くのを待った。
コンビニの自動ドアがまた開いた。
今度は男女のカップルがミネラルウォーターを一本とシュガーレスガムを持ってレジにやってきた。一万円札で会計を終えたカップルにお釣りを渡したあと、後ろ姿をなんとなく目で追っていたら、コンビニの入り口付近で深夜なのに散歩されている犬が目に入った。
「あっ! マッシュだ……」
巴恵は散歩されている犬をみて、自分でも驚くくらいの大きさで独り言を言ってしまった。
さっきまでいい気分で店内に流れている有線で、カラオケをしていた学生の男の子が巴恵の顔をみて止まった。巴恵は恥ずかしくなって俯いてしまった。
マッシュとは巴恵が実家で飼っていた犬の名前である。
こんなところにいるはずもないのに声に出して以前飼っていた犬の名前を叫んでしまった。
巴恵の中で今まで塞いでいた蓋がポンッと内側の圧力で無理やり開いてしまったような思いがした。こういうことは初めてではなかった。巴恵はヘヤピンの男の子に声を掛けてから、バックヤードに走り込んでしばらくの間、止めることのできない涙をポタポタと落として、閉じこもるように丸くなり、両手を胸にしっかりと当てていた。
ボディーガード
もう覚えていないが、何かの理由で親に黙って学童には行かずに、学校が終わったら帰りのスクールバスで直接家に帰ってきてしまったことがあった。もちろんバス停に母親は迎えに来ておらず、一人で少し不安になりながらも自分の家に歩いて帰った。
冬の山はもう薄っすらと日が沈んでいて、巴恵は不安になりながらも山道をとぼとぼと歩いていた。
走った方が早く家に着くけど走ることで、自分が恐怖を感じていることを認識してしまうのが、今の巴恵には一番危ないことだと思っていた。自分を騙しながら心の安定を探して、遅くもなくかといって早くもない足取りで自分の家までの道のりを進んだのだった。
大人の足でも十分以上は掛かるバス停から家までの帰り道。
ある日山の中、巴恵は熊と出会った。
決して起こってはいけないことが偶然に奇跡的に起こってしまったのだ。
熊は立ち止まり、巴恵を凝視している。
巴恵は声が出ないほど驚いて、全身の毛穴が開くような恐怖を感じた。
「チリーンッ チリーンッ」
その時にまたもや奇跡が起こった。
間もなく後方から鈴の音が聞こえてきて、いつもの顔馴染みのおじいさんが巴恵に走り寄ってきてくれた。
いつも穏やかなおじいさんは普段見たこともないような剣幕で熊に捲し立てている。
何を言っているのかは聞き取れなかったがすごい迫力だった。
おじいさんは持っていた棒を地面に叩き付けて熊を威嚇し、驚かせていた。
その甲斐あってか、熊は山奥に走り去って逃げてしまった。
「オン(姉)ちゃん、大丈夫だったか?」
巴恵はあまりもの恐怖に腰が抜けてしまい、座り込んだまま起き上がれなくなってしまった。とてもショックな出来事だったが巴恵の感情はロックが掛かってしまったようで何も考えられなってしばらくポツンとしてしまった。
気が付くとおじいさんにおぶってもらって家路を進めていた。
すっかりと日は沈んでしまい、夕方の四時を過ぎたあたりではオレンジ色の空が紫掛かった青色の世界に浸食されて、今年の夏に縁日で買ってもらった水あめのようなオレンジとブルーのきれいなグラデーションの空が広がっていた。
「ありゃあ、若いオスの熊だね、子熊だったら危なかったよー 近くには必ず母親の熊がいてとても凶暴だからね それだったらひとたまりもなかったよー」
おじいさんは巴恵の気を落ち着かせようと話をしているようだったが、巴恵はそれを聞いて一段と不安になった。
巴恵は自分の家がみえて家の灯りがみえたら、ほっとして大量の涙が溢れて流れてきてしまった。
怖かったのと安心したのがものすごい勢いで感情を押し上げてきたため、巴恵は玄関が開いて母親をみるなり抱き着いて声を上げて泣いてしまった。
母親は巴恵の頭を撫でながらただただ困ってしまったようだった。巴恵の泣き声に何事かと父親までやってきた。
おじいさんは巴恵の父親と母親に先ほど起こったことを詳しく話し始めた。
その話はとても生々しくて、巴恵は熊と遭遇したときの恐怖をまた思い出してしまったのだった。
「うわーん 怖かったよー うわーん」
巴恵は恐怖と安心の波の中で大きな声で泣き続けた。
「ありゃーまだね オスの大人になったばかりのクマ! だからまだ良かったんだよ 今の時期の母クマだったら今頃オンちゃんもじいちゃんもクマの腹の中だよ あーほんとにもう良かったよー でもあともう少しオンちゃんの距離がクマに近かったら間に合わなかったかもしんね でさーじいちゃんが子どものときだ あれもまた怖かったなー……」
おじいさんは巴恵を落ち着かせるために慰めていたが、おじいさんの思いとは裏腹に巴恵の恐怖はどんどんと増していってしまったのだ。しかしおじいさんには何一つ悪気はなかった。
巴恵の父親は困った顔をして、自分の頭をくしゃくしゃと触っていた。
この事があってから、巴恵の家ではもう一匹家族が増えることになったのだった。
新しい家族の役割は巴恵を熊から守ること。
黒色のラブラドールレトリバーがそれから幾日も立たずに巴恵の家にやってきた。この犬は巴恵のために埼玉県からわざわざやって来てくれたのだ。
飼い主の都合で飼えなくなったところを母親が探して出してこれを運よく引き取ったのだった。
「マッシュ」という名前がすでに名付けられていて、家族で話し合った結果そのまま「マッシュ」と呼ぶことにした。
巴恵は新しい家族が増えてとても嬉しかった。
マッシュといろんなところを探検したり、一緒に寝ることもあった。
学童から帰って来ると、部屋の中央に設置された薪ストーブが明るく炎をたぎらせて時折「パチッ」と何かが弾ける音が透明な耐熱ガラスの内側で鳴っている。
巴恵とマッシュはそれが好きで飽きもせずにずっと並んで見ていた。
マッシュは特に炎の揺らぎに興味を持っているらしく、薪ストーブの火が付くと我先と一等席を確保して、ストーブ内で繰り広げられる炎の動きを見つめていた。
たまに種火が消えて一からやり直しの時があるのだが、マッシュは手伝いたいのか邪魔したいのか分からないのだが、お母さんの周りをうろちょろした挙句よく注意をされていた。
薪ストーブは一度消してしまうとまた暖房器具として利用するためにはとても時間が掛かった。
大きな薪を燃やすためには順序立てて炎のレベルを上げていく必要がある。
巴恵は朝起きると、お父さんやお母さんが薪ストーブの重たいガラス窓を開けて、下の段にたまった灰カスをすくってバケツに移したあと、種火が生きていればそのまま大きめの薪を互い違いに組入れてガラス窓を閉じると煙突効果でまた炎が巻き上がるのだが、種火が消えていると、着火剤として新聞紙を丸めて、燃えやすい状態の小さな渇いた木々で燃焼時間を稼ぎ、安定したら大きな薪を一つ慎重に置いて、薪ストーブの中を度々家族で確認しあってやがて部屋全体を暖めていった。
山田家の冬の暖房事情はボタンの「ON」「OFF」ではいかないのだ。
うまくいけば体の芯から温めてくれる心強い暖房器具だが、薪が湿気っていたり、煙突が煤で汚れていて通気口を塞いでしまうと薪ストーブは突然へそを曲げてしまい、暖房器具としての役割を放棄してしまう。
マッシュにとってみれば、薪ストーブは付いていても付かなくて別にどうでもよいのである。寒さにはめっぽう強い体をしているのだから。
大変なのは人間の方で、こんな場合は家でも外にいるときと同じ格好をしなければならなかった。
チョウさんは火傷しそうな電球で一生懸命甲羅を温めて冬を過ごしていた。
夏にマッシュを散歩するとアブの大群にマッシュだけなぜか集中攻撃を受けた。
巴恵の家のすぐ隣にある川はとてもきれい過ぎて、虫の産卵の楽園となっている。
それが良いか悪いかは別として、アブ、ブヨ、オロと人知を超えた危険生物がマッシュに対して、執拗に襲い掛かってくる。巴恵はまるでホラー映画を観ているように感じていた。
ただ観ているだけではなくて、もちろん巴恵も虫たちにたくさん喰われた。
夏をしばらく進めていくと巴恵とマッシュの戦いに援軍が到着する。
シオカラトンボが上空に大群で旋回している。巴恵はクマのおじいさんから聞いたトンボの話が好きで、トンボがもし自分に話しかけてきてくれるならきっとこんな感じなのかなと思う。
「お待たせしました。トモエ様、マッシュ様、あとは我々にお任せください」
トンボは巴恵と妄想の中で契約を結ぶと、アブやオロたちをやっつけてくれたのだった。
しかし夏はマッシュもうんざりしているようで、肉球が火傷しそうなアスファルトを歩いてまで運動をしたいとはさすがのラブラドールレトリバーも思えないようだった。
巴恵はチョウさんとマッシュをとても大切に愛情を持って飼っていた。
チョウさんとマッシュは同じ部屋で飼われており、お互いの存在はどうやら認識しているようで、いつの時だったか、マッシュがチョウさんの住んでいる水槽を覗いてチョウさんがいないので心配そうに鼻を鳴らしていることがあった。
チョウさんは三つ葉のクローバーが好物らしく、巴恵は夏の暑い日にはたまにチョウさんを外に出して甲羅干しをさせていた。
クローバーの生い茂る草原ではチョウさんはとても速く動き回る。
巴恵はチョウさんから目を離したいときは大きめの籠をチョウさんにかぶせて、重しをのせて放置した。
そしてそのまま忘れて何日か過ぎていることもよくあった。
そんなときマッシュは同居の生き物を心配していたのだった。
巴恵はマッシュがやって来た頃からこの山の中の生活が好きになっていった。
仕事明け
やがてコンビニの客足は途絶え、夜はまだ明けずにいたが、配送業者がやって来た。
「山田さん 体調大丈夫?」
ヘアピンの男の子が気を利かせて、店長に連絡をしたようで早朝のパートさんが気を利かせて早めに出勤してくれていた。
「はい 大丈夫です すみませんご迷惑をお掛けしてしまって」
「いいよいいよ今日はもう休んでから帰りな それにしてもいくら人がいないからって山田さんを深夜のシフトに入れるなんて店長も酷いよね」
シフト上あまり顔を合わせたことがない主婦の方が自分の子どもの面倒を見るように親身になってくれた。
「いえ でもありがとうございます」
巴恵はこの主婦の名前を憶えておきたくて、この人が着替えるのを待ってネームプレートを確認した。
早坂さんは年配の方でとっても頼りになる女性のように思えた。
簡単に引継ぎ報告をしてから、巴恵は制服から私服に着替え、温かいコーンスープでとても早い朝食を取った。
夜から朝に掛かってしまうと時間の問題ではなくて、このコンビニに大分拘束されていたような気分になる。慣れていない巴恵からすれば今日は徹夜と同じだったのだ。
巴恵は落ち着くと眠気が襲ってきたが、その気持ちをぐっと堪えて、始発の時間までコンビニで時間を潰した。眠ってしまったら最後、二度と起きられないような気がしたのだ。
外はシンとしていてまだ暗く、冷たい空気と引き換えに空気がとても澄んでいた。巴恵は星のない夜空を見上げて確認すると駅まで歩き始めた。
巴恵のアパート
西荻窪駅から降りて徒歩十分くらいのところにあるアパートを巴恵は借りていて、そこで一人暮らしをしている。
やっとの思いで自分の家の玄関を開けて中に入ると、カーテンが閉め切られた部屋は暗くて冷たかった。
靴をジタバタと無理やり脱ぎ捨てて、一目散に目指した先はタオルだった。
紅茶なのか血なのか所々茶色く染みていて、どこか不気味な年季を感じさせていた。
そのタオルに巴恵は顔を埋めて、深呼吸をした。
まだかすかに残る懐かしい家族との匂いを探し当てていたのだ。
見つかるときと見つからないときがあって、どうしたらみつかるのかは巴恵にもわからなかった。
今日は見つけることができたので、しばらく動かずにいるとそのまま寝落ちしてしまった。覚えていないがなんだか楽しい夢をみれたような気がする。
そしてあまりもの寒さに凍えてすぐに目を覚ましたのだった。
巴恵の部屋はベッドと机と冷蔵庫があって、残りの空間は画材道具とキャンバスとイーゼルが置いてあった。
六畳一間ではあるが、隙間が目立つので不思議と狭さを感じさせないレイアウトとなっている。
巴恵が本業にしたい仕事は絵を描く仕事で、イラストレーターとしてたまにお仕事をもらっている。今は絵のコンクールに応募をしようと公園をテーマにした街の風景を描こうとしていた。子どもの頃に両親に連れて行ってもらった赤いロープジャングルがシンボルの公園をイメージで描くつもりでいた。
机の上には先々週に届いた石川県加賀市の同窓会の案内はがきが放置されている。
出欠の確認のため往復ハガキになっていて、片割れを切って返信するべきなのだが、巴恵はこの同窓会に行くべきかどうかを迷っているのだった。
巴恵は中学二年生のときに突然父親の知り合いの家に預けられて、まったく別の場所で生活することになった。
埼玉県東松山市で、父親との関係がいまだによくわからないのだが、知り合いのおじさんとおばさんと義理の兄との四人で暮らし始めていたのだった。
おじさんもおばさんもとても良い人でおかげで何不自由なく過ごすことはできていた。
しかし巴恵は記憶がすっぽりと抜けているところもあっていいようのない不安になることが度々あった。
もし加賀の同窓会に行って、思い出さない方が良いことを思い出してしまったら、いったい自分はそれに耐えることが出来るのだろうか?
巴恵は自分の人生の中に真っ暗で底が見えないぽっかりと空いた穴があって、その存在自体は気付いていたが、その穴の中を覗いてみることが今まで一度も出来ないでいた。
巴恵の部屋には六畳一間の狭さにはとても似つかわしくない豪華で大きな鳩時計が貧弱な柱に持たれ掛かっている。
巴恵は大分前に中古の雑貨屋さんでこのハト時計を見つけて、なんとしてもという思いで引きずるように買ってきて、このハト時計の定位置が定まらずに今日に至っている。
自宅に帰ってきて時刻は七時となったようだ。
「ポッポー ポッポー」
貧弱な柱に立て掛けられていた鳩時計が複雑なからくりで飛び出してきた。
巴恵と現実をつなぎとめている唯一の装置が作動した。
「ポッポー ポッポー」
徹夜明けでナチュラルハイになっている自分はマッシュの事を思い出してから変だった。
いや前兆は大分前からあったと思う。
そもそも届くはずのない小中学校合同の同窓会の案内が自分に届くことが不思議だった。
巴恵は何度も引越しを繰り返していて、巴恵が今どこで何をしているかを知っている同級生は誰もいないはずだったのだ。
巴恵は現実に目を向けて、とりあえず凍える体を起こして、エアコンのスイッチを付けた。カーテンは開かないまま部屋の電気を付け、シャワーを出して温かい湯気に温まりながら服を脱いだ。
シャワーを浴びながらそのまま気絶してしまいそうになったが、やっとの思いで布団に入ると気絶するようにすぐに眠ることができた。
夢を見る余裕もないほど疲労がたまった静かで薄暗い日曜の朝だ。
次に巴恵が目を覚まして、カーテンを開けるとオレンジ色の空が見えた。
もう夕方になっていて、携帯をみると着信履歴があった。
それはお昼過ぎに掛かってきていたものだった。
巴恵は急いで相手にかけ直した。
相手先は義理の兄だった。
「ごめん! ケンちゃん うっかり寝過ごしてた……」
「いいよいいよ それよりどお? 心の準備はできたの?」
「……ううん まだ」
「そっかぁ…… じゃあとりあえず、もう夕方だし今からご飯にしようよ 巴恵は何食べたい?」
「あそこ行こう! 前行って楽しかったところ」
「ええっ? 笹塚? いいよ じゃあから騒ぎバーで待ってるよ」
巴恵は健一と埼玉県東松山市の健一の家で突然兄妹として育てられることになった。
それは巴恵が中学二年生のときだ。健一はあとからやって来た自分を本当の妹以上によく可愛がってくれた。
笹塚の商業テナント
巴恵は八時過ぎに笹塚駅に着いた。
笹塚駅を降りたすぐの商業テナントの二階に「から騒ぎバー」というスポーツバーがある。
巴恵は一度だけ健一に連れられてこの店に来たことがあった。
客は全員常連ばかりで皆知り合いという独特な雰囲気だったのだが、みんなが自分の事を優しく向かい入れてくれて、温かい気持ちになったことを覚えている。
「トモちゃんこっちっ!」
自分の名前を呼ばれた方向に目を向けると、健一の横にいる女性が右手で自分の椅子のとなりを叩いて左手を振って招いていた。
「初めまして、巴恵と言います」
「架純でーす よろしくー」
健一は気まずそうにしていた。
「ケンちゃんの妹さんなんでしょ? 仲良くしてね」
架純はハイボールを呑みながら会話を進めた。
「なるほどね 巴恵の所に一通のハガキが届いた それはずっと帰っていなかった自分の本当の故郷の中学校の同窓会のお便りね ふむふむ」
架純は気分よく酔っていて、探偵気取りになって事件の推理をするような口調になっていた。
「どのくらい帰ってないの?」
「あまり詳しくは覚えていないんですけど、中学二年生のいつかなぁ・・・?」
「ってことはトモちゃん今いくつだっけ?」
「二十歳です」
「わっかー いいね ん~? 六年……くらいかな? 帰ってないんだね」
架純は両手の指を折り曲げて計算をしていた。
「はあ そうなりますかね」
「行きたくないわけではないけど、いろいろ考えちゃって行くのが怖い?のかな 特に自分が住んでいたお家が今どうなってるのかは知りたい半面、知りたくないってことだよね」
「オホンッ! うっ ううんっ! まあ事情があるからさ色々とね!」
健一が架純の質問攻めに巴恵が困っているのではと思ったのか慌てて会話に入ってきた。
しかし、巴恵は架純の言葉を受けて自分の心のままに話してみたいと思っていた。
「はい でもこれは逃げてはいけない現実と向き合うときが来たのかなって 同窓会のハガキだって多分今まで届かなかったのに、今回届いたのはそういうことなのかなって」
巴恵は架純のワールドに引き込まれて普段なら言いにくいことも素直に話せていた。
「行こうっ! 一緒について行ってあげるよ!」
架純は手に掴んだハイボールのジョッキを「どすんっ」テーブルに降ろすと目を輝かせて巴恵に言った。
「いやいやいや 大丈夫ですっ! まだ行くかどうかすらも決めていないですし……」
巴恵は架純の突然の提案に驚いて、一瞬だけ健一を見た。
架純はハイボールを一口含んでからグラスを静かに置いて、少し据わった目で巴恵を見つめてこう言った。
「帰りの切符の失くし方って知ってる?」
これから怖い話が始まるような口ぶりで架純は巴恵に話を続けた。
もはや架純ワールドが全開だった。
他の架純を知る客たちもその話の終着点がいったいどうなるのか耳を傾けていた。
「切符を失くしたときはただの不注意ならば駅員さんに言って、お金を払えばちゃんと帰れるんだろうけど、本人が帰るのを怖がって無意識に帰りの切符を失くしてしまう場合は本当に帰れなくなってしまうし 後悔しても取返しがつかなくなってしまうのよ」
「それってどういうこと?」
健一が架純に質問した。
「私がそうだったから……」
架純は巴恵にだけに聞こえる声で言った。
「えっ……?」
健一は架純の声が聞き取れずに聞き返したが、会話はそのまま進んだ。
巴恵は架純の何とも言えない表情からもしかした答えを持っている人なのではないかと思ってしまった。
「切符の失くし方なんてないってこと ちゃんと一度 色々あると思うけど、決着をつけないといけないよ でもトモちゃん!! 一人で受け止めきれないくらいのものは私が受け持つよ 責任は私が取ってあげるっ!」
誰にも見えていない角度で架純は巴恵にだけウインクをして笑った。
(この人 お母さんと似てる感じがするな)と巴恵はそう感じた。
周りの人たちがいつものように架純の話を聞いて乗っかって来た。
から騒ぎバーの大人たちは空気を読んでいて、シリアスな場面とコミカルな場面をちゃんと見逃さなかった。
「俺が巴恵さんの責任を受け持つよ!!」
ひとりの男の人が立ち上がって手を挙げた。
「いやっこれはぼくが受け持つよ!!」
「これだけはわたしが受け持ちますからっ!!」
巴恵と架純の話を聞いていた周りの男女の客たちが次々と手を挙げた。
架純が健一に目配せをする。
健一は不本意な表情で手を挙げた。
「ぼ・・僕が受け持ちます・・・」
するとみんなが示し合わせていたように健一に一斉に言った。
「どうぞ どうぞっ!」
どっかーんと笑いが起こった。
巴恵も笑いすぎて涙がこぼれていた。
そして勇気もどこかからか沸いてきていて、自分の中にある真っ暗なトンネルのような世界を見つめてみても大丈夫な気がしてきた。
今まで心の奥底にしまって鍵を掛けていた石川県加賀市の自分が本当の家族と過ごした家が今はどうなっているのかを見届けてみようとそう決意をしたのだった。
巴恵と健一と架純はから騒ぎバーを出ると、とりあえずこの建物の中にある巴恵が行きたがっていた深夜までやっている駄菓子屋さんへ行った。
長い廊下の端っこでひっそりと営業している不思議な雑貨屋さんだった。
巴恵は目を輝かせて、お菓子を選んでいた。
それを健一と架純は保護者のように見守っていた。
夕飯はかなり遅くなってしまったけど、結局から騒ぎバーの真向かいにあるお寿司屋さんで健一のおごりで食べることになった。
巴恵は久しぶりにいつしかの団らんを感じたのだった。
帰り、巴恵は健一と架純に見送られて、京王線の電車に乗った。
「トモちゃん またねー」
架純が大きく手を振って見送ってくれた。
京王線は混んでいて、新宿方面の電車はぎゅうぎゅう詰めとなっていたが、巴恵は何とかドアの窓側を確保して架純と健一が見えなくなるまで駄菓子が入った透明な袋を揺らしながら小さく手を振り続けた。
京王線は地下に潜ってしばらく真っ暗なトンネルが続いていく。
巴恵は電車の窓ガラスに映る無邪気で楽しげな自分の事を、少しだけ好きになれたような気がした。
「巴恵って、素材が良いから羨ましいな」
璃子のあの時の言葉を頭の中で思い返した。
まんざらでもないのかな?と巴恵は前髪を人差し指で触ってみた。
今までは自分に興味がない振りをして、自分の事ばかり考えていたような気がする。
健一と架純が幸せそうにしている場面を見て、巴恵自身が心の底から幸せな気分になった。それが巴恵にとっての今日一番の収穫となっていた。誰か他の人の幸せを自分の幸せの様に感じることができたような気がしたのだった。
往復はがきには、もしかしたら期限があるのかも知れないと巴恵は新たな焦りも感じ始めていた。
帰省
巴恵は忘れ物がないように持ちものを指さし確認していた。明日は加賀中学校の同窓会に参加する。その前に今日は山奥の自分が住んでいた家が今はどうなっているのかを確認することを決めていたのだ。正直昨日はあまりよく眠れないでいた。
まだ暗い朝の中、西荻窪の家から東京駅に向かって始発の新幹線で「加賀温泉駅」へ向かった。朝早かったが意外と多くの人が新幹線を待っていた。
この日のために買ったキャリーケースが逃げ遅れた自分の左足にぶつかって何度も荷物が転倒しそうになった。
階段や改札口でところどころ苦戦しながらもなんとか巴恵は自分の指定席にたどり着くことができた。安堵する。
(リクライニングを倒すにはまず後ろの人に一言声を掛けてから)
心の中で巴恵はあまり知らないルールを呟いて、勇気を持って後ろを振り返ると誰もいなかった。そして新幹線は間もなく音もなく動き出したのだった。
朝も早かったため気が付くと巴恵は眠ってしまった。そして夢の中で眼を覚ました。
今乗って来た新幹線よりも幾分空間が広くなっていて、席は向かい合わせになっていた。
人がいない静かな空間。これは夢の中なのだろうか? 巴恵は微睡んでいた。
「ガタンゴトンッ ガタンゴトンッ」
電車の車輪が鉄道に這う音がする。心地よいリズムだった。
巴恵の向かいの席で父親と母親が楽しそうに会話をしている光景が映った。
「あれは何て言う星雲なのかなぁ きれいだけどなんだかおっかないねぇ 雷かな?」
「そうね でもなんてきれいなんでしょうっ!」
「あれは木星だよ やっぱりマーブル色できれいなんだねぇ」
「なんだかチュッパチャプスみたいねっ!」
(独特の二人の世界は相変わらず健在だな)
巴恵は微笑ましく思った。
父親と母親が手をつないで、電車の窓からみえる宇宙の神秘的な景色をうれしそうに眺めている。あの頃からは大人になりすぎてしまった自分のことを父親と母親は気付けていないみたいだった。でもそれでもよかった。巴恵は両親の仲良くしている姿を見ているのが好きだったのだ。
「ガタンゴトンッ ガタンゴトンッ」
巴恵の横にはいつしかマッシュが座っていた。風を感じるときにみせる目を細らせて上を向くかわいい表情だ。口が開いていてまるで笑っているように見えた。ベロがきれいなピンク色で毛色の黒とのコントラストがばっちりだ。真っ赤でおしゃれな首輪には一人前に乗車券の切符がぶら下がっていた。
「チョウさんは?」
巴恵は疑問に思って何気なく母親に尋ねてみた。
「チョウさんはお家で留守番しているよ」
あの頃のそのままの雰囲気で母親は巴恵に答えた。
逆に今までの現実と思っていたことが実は夢だったというような錯覚に陥った。巴恵は何もかもが満たされるような感覚になったのだった。
何も驚かないずーっとつながっていたような当たり前の世界線。
巴恵は加賀の山奥にある自分と両親が暮らした家にもう一度両親と一緒に帰りたかった。
しかし母親と父親ともしかしたらマッシュも帰るつもりがないような雰囲気だった。
やがて巴恵はゆっくりと夢から目を覚まし、車窓からみえる終わりのないトンネルの暗闇をぼーっと眺めていた。
加賀温泉駅
「加賀温泉駅~ 加賀温泉駅~ ご乗車ありがとうございました お忘れ物がございせんようご注意ください 次は芦原温泉駅に止まります」
社内アナウンスを聞いて巴恵は荷物を持って新幹線を降りた。駅を出ると加賀市はどんよりとした雲に覆われていていた。
巴恵はこの空を知っていた。日本海側の空だ。快晴の太平洋側(東京)からやって来てこのどんより空を初めて見たならば、慣れていない人にはばどんよりとしてしまうかも知れない。しかし巴恵はこの空がとても懐かしかった。
駅から歩いて巴恵の目的地に行くのはあまりにも遠い距離なのにキャリーケースを引きずりながらというのは非常識を越えて現実的ではなかった。
天候もどんよりとしていて、雨は降らないかも知れないが雪が降りそうな雰囲気だった。
しかし、巴恵は懐かしさもあって歩いてまず自分が過ごした学童にこのまま行こうと考えたのだった。
タクシーのおじさんが巴恵を心配そうに眺めている。道行く途中では何人かのタクシーのおじさんが巴恵を心配して車を止めてくれていた。そのたびに巴恵は申し訳なさそうに断った
「いい人たちだなぁ」
巴恵は歩きながら加賀の人たちのことをそう思ったのだった。
駅から学童まではゆうに三時間は掛かる。学童に着く頃には午前十一時を回ると予想した。歩きながら巴恵は道の途中から自分が小学生にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
この周辺は十年前とほとんど何も変わっていなかったのだ。
しかし、自分の身長が大きくなった分、比例して見ていたものが昔よりも小さく映った。
学童にたどり着いた。
恐る恐る学童の中を覗いてみると相変わらずの雰囲気だった。
子供たちはグランドで駆け回り、中ではレゴを組み立てたり、ピアノを弾いていたり
それぞれのやりたいことを自由奔放に子供たちはのびのびと学童で過ごしていた。
玄関に入るとすぐに中二階の「漫画喫茶コーナー」が見えた。巴恵はそこでよく漫画本を読んでいた。マリちゃんの趣味が色濃くて、おそらくマリちゃんが自分の家から持ってきたものがほとんどだったのだろうと思う。
最初気付かなかったがチョウさんがいた。
入り口の水槽には昔一緒に暮らしていたチョウさんが住んでいた。ずっとそこに当たり前のように存在しているかのようだった。
「チョウさん!」
巴恵は嬉しくて大きな声を上げてしまった。
学童の子供たちは一斉に巴恵を見た。巴恵は恥ずかしくなって俯いた。
「巴恵っ!巴恵でしょ!」
マリちゃんが巴恵に気付いて走り寄って来た。
「わー! マリちゃんっ!」
「巴恵元気だった?」
わーきゃーはしゃいでいる傍でチョウさんはうるさそうに顔をゆっくり引っ込めた。
「あれから埼玉?に引っ越したって聞いて、急だったからびっくりしたんだよ」
「うん。連絡もできずにごめんね」
「いいよいいいよ 大変だったねー でも顔を見れて安心したよー 元気そうで何よりだ」
巴恵は久しぶりに学童の中に入れてもらった。
「あの後のことを聞いてもいい? 私はまだ幼くて大人たちが決めたことに従っていたから特にチョウさんとマッシュのことは知らされていなくて……」
「うん チョウさんはこの通り、マッシュもね 学童で引き取ったんだよ 去年かな 寿命が来て天国からお迎えがきたんだよ」
「そっか 去年までここで過ごしてたんだ じゃあ良かった マッシュは幸せ者だ」
「ふふっ そういえば明日 加賀小中合同同窓会があるんでしょ? それできたの?」
「うん」
「そっか で泊るところは決めているの?」
「……。」
巴恵はこんな時に引き攣る自分の顔のことが好きになれなかった。
「ノープランかぁ 家来る?」
「いやいやいや 大丈夫だよ そこらへんの宿でこれから予約するつもりだから」
マリちゃんと巴恵が会話しているところに突然、携帯電話が鳴りだした。
連絡の相手は架純だった。
「トモちゃん今どこらへん?」
「どこら……へん?……ですか?」
「うん どこ? 一緒に行こうよ トモちゃん家」
「えっ!! ってか架純さん今どこにいるんですか?」
「加賀温泉駅 レンタカー借りたよ 学童は何て言う名前だったっけ? 言ってみ すぐそこまで行くから」
巴恵は架純の言葉に少し呆気に取られていたので、返事を返すのに少し時間が掛かった。
「……山の子学童……です」
「わかった じゃあそこで待っててね」
架純は一方的に話をして、一方的に電話を切った。
「なんかパワフルなお友達がいるみたいね よかったよ」
「兄の彼女なんです」
「へー 巴恵のお兄ちゃんなら一度挨拶をしとかないとね」
「んー?…… 兄が来ているかどうかは……」
「またあ! お兄ちゃんの彼女さんだけ来るわけないじゃん!」
マリちゃんは巴恵がとぼけていると思って突っ込んで笑っていた。
三十分後に車のエンジン音がした。架純が到着したのだった。
「えっ! お兄さんは来てないの? あなただけ?」
マリちゃんはそこが一番気になっているようだった。
「ん? ケンちゃんですか? どうだろう現地集合って言ったからもしかしたらもう着いてるかもしれないですね トモちゃん ケンちゃんから電話なかった?」
「いいえ」
巴恵は当然のように答えた。
架純とマリちゃんの目が合って、何か通じるところがあったのだろうか?とても楽しそうにしていた。
巴恵はそれが不思議で二人の顔をキョロキョロと交互に見まわした。
子供の頃に過ごした風景
学童を後にしてから巴恵は架純のドライブに連れ回された。昼食もまだだったのでとにかく美味しいものを食べようと架純は言った。
小松市まで足を運ぶと大きなショッピングモールがあって架純は大きな駐車場にレンタカーを止めた。
二人は偶然にも今流行っているアニメの劇場版の時間が丁度良くて、チケットを二枚買って、大きなポップコーンとジュースを買って、真っ暗なシネマにコソコソと入って映画を観た。笑いながら泣ける不思議な内容の映画で面白かった。
映画を観終わると二人は腹ペコだったのでフードコードで色々な食べ物を頼んでシェアをした。テーブルにはたこ焼き、ローストビーフ丼、ちゃんぽんラーメンが並ばれてそれを取り皿に分けて食べた。どれも美味しかった。
巴恵は嬉しかった。こんなに楽しくておいしいご飯は三人でお寿司を食べた笹塚ぶりである。架純と一緒にいるとなぜか安心した。まさか本当に加賀まで来てくれるなんて思っていなかったから心強さは一入だったのだ。架純の顔を遠慮なく見つめ続けていた。
巴恵を乗せた架純が運転する車は雪が降り始めた山奥を音もなく走りつづけていた。
間もなく二人は巴恵の実家の近くにたどり着こうとしている。
「架純さん……少し歩きたいからここで止まってくれますか?」
巴恵は架純に言った。
架純はすぐに車を止めた。
「一人で大丈夫?」
架純は巴恵に言った。
「大丈夫……です」
二人は笑顔を作ってお互いを見つめていた。
もう山の中は暗かった。
一人では到底この状況を耐えることはできなかっただろうと巴恵は今になってそう思った。架純がいなかったら断念していたかも知れない。
しかしここまで最高のバックアップがあっても、それでも巴恵の足取りは複雑だった。
助手席のドアを開けて巴恵は一人だけ外に出た。雪は空から静かに舞い降りて、地面に着く頃には消えていた。少し寒さが身に染みる。
しばらく歩いていると熊が出てきておじいさんに助けられたところまで着いた。松ぼっくりが道に落ちている。巴恵はふと小学校のあの時になぜ、学童に行かずに家に帰ろうと思ったのかを突然思い出した。
暖炉の薪を燃やすために焚き付けが必要で、松ぼっくりが良いということを本で知った巴恵は学校の登校中に、松ぼっくりがたくさんある場所を見つけた。
両親を喜ばせるためにたくさん松ぼっくりを持って帰りたかったのだった。
しかし熊に会って松ぼっくりがほとんど転げ落ちてしまった。
あの時の松ぼっくりではないとは思うが、懐かしい気持ちが心に浸透した。
暖炉に火がくべられると火が透明な耐熱ガラスの扉の中でゆらゆらと燃えている。
マッシュは暖炉の火が好きで暖炉に火が付くといつも一等席に座って火を眺めている。 巴恵はその隣でマッシュに寄りかかりながら時間を過ごす。
今、あの日の事が鮮明に巴恵の頭の中に映し出されていった。
自分が過ごしていた家が見えた。二階の部屋に明かりが付いていた。この家はもう他人が住んでいる他人の家になってしまっていたのだ。巴恵は早まっていく胸の鼓動に押しつぶされそうになった。
誰も住んでいないのならばもう少し近づけたかもしれないけど、他人の家になってしまったあの家にはもうこれ以上近づくことはできなかった。
当然だけど、母親と父親はもうこの家にはいない。懐かしさをこれ以上懐かしむことはできなかった。
巴恵はクルッと反対に向き直って、帰り道を歩き始めた。決して急いで歩いてはいけない気がした。落ち着くために空を見上げて雪を眺めた。 架純の前で恥ずかしくないようにしようと思った。
「早くいい人みつけよーっと」
心の準備を整えているようだった。
「結婚して家族を作ろーっと」
足取りは止まったり、歩いたり不規則だった。
「子供は……ふたりがいいかなー」
しゃがんで丸くなりたい気持ちをなんとか堪えた。
「犬もかおーっと」
独り言は少し妄想を行き来して声が不安定に大きくなったり、小さくなったりした。
「か……かめっ……も……」
巴恵は大げさに明るく独り言を言って、自分を奮い立たせようとしたが逆効果だった。
架純がすぐそこまで迎えに来ていた。
巴恵は涙声で震えながら架純に言った。
「……わたしの家……他の人のおうちになっちゃったみたい……」
巴恵は大きな声で子供のように架純にしがみついてしばらく泣き続けた。
雪は温かく、静かに巴恵を包んだ。それは架純が黙って巴恵を優しく包み込んでいたからだった。巴恵は周りが見えなくなって妄想の中で雪がただ温かく感じてしまったのだった。きれいなお月さまが出ているような気もした。巴恵が現実に帰って来るまで架純は一言もしゃべらずにただただ巴恵の体を温めていた。
同窓会
少し離れた場所に素泊まりできる民宿があって、事前に架純がそこを予約してくれていた 宿賃は格安でその代り夕飯は自分たちで用意しなければならなかったのだが、温泉があって誰もいない温泉で巴恵と架純はゆっくりとくつろげることができた。
コンビニが近くにあって夕飯はそこで適当に調達した。缶酎ハイで一応乾杯をした。旅の疲れもあって二人はすぐに眠ってしまった。
明くる日に架純が同窓会の会場まで送ってくれた。
国道八号線上にある結婚式場の駐車場はいっぱいで架純との別れもせわしなかった。
「同窓会、楽しんできておいで 早くいい人みつけなよー 私は一足お先に帰ってるよん」
巴恵は昨日の独り言はやはり聞かれていたかと思った。恥ずかしくなったが、少しだけうつむいて気を取り直した。
「架純さん 本当にありがとうございました」
「なんもなんも じゃ またね」
なんだかとても長い時間を架純と過ごしたようなそんな気分だった。別れるのがとても名残惜しく感じた。
同窓会の会場で受付を済ませ、会場に入るとたくさんの人で賑わっていた。
食べ物はブッフェスタイルだ。お酒も置いてあった。巴恵は中学で仲良くしていた友達が来ているかを探した。しかし混みあっていたのでなかなか見つけることが出来ずにいた。
みんなの顔は覚えている。巴恵はウーロン茶を片手に会場を歩き回った。
「トモエッ!」
後ろから自分の名前を呼ぶ男の声がした。
巴恵は男の声に振り返った。
今の今までずっと忘れていたこの男の顔を今、見て思い出した。
「……ん? 覚えているか? オレのこと……?」
男は不安そうな顔で巴恵のことを見ていた。
「うん タマオ君だよね」
「……うん そうだよ」
多摩雄はあの頃から変わらない目力で巴恵を見つめていた。
「俺が買ったんだ あの家」
「え?」
巴恵はあまりにも唐突な言葉に対して、言葉を失っていた。
「急にお前がいなくなって俺は考えた 考えた結果 お金を貯めてお前の家を買うことにしたんだ」
巴恵はあーっと思った。多摩雄はこんな思考の奴だった。独特の判断基準を持って誰も成し遂げられないような偉業を成し遂げる。そんな奴だった気がする。
巴恵と多摩雄は中学時代恋人同士だった。
「久しぶりだね、タマオ君は元気だった?」
「うん 元気だった」
「トモエは元気だったの?」
「うん……まあまあかな」
「だろうな だってお前が大変だったの俺知ってるから お前が急にいなくなって俺はまいってしまった めっちゃ考えたよ お前のために自分が何をしてあげられるのかをね」
巴恵はまともに多摩雄の話を受け止めてはダメだと思った。
多摩雄は変わらずにあの時のままで、力強い言葉で心が空に舞い上がってしまう。
「もう七年も前の話だよ 何言ってんの?」
巴恵は呆れたという様子で多摩雄を見つめた。
「すぐには買えなかったからな だって家だぜ お前を向かい入れる準備にはちょっと短すぎるくらいだったんだ」
巴恵は気絶してこのままどこかに飛び立ってしまいそうな気分になった。
それを引き戻してくれたのは友達の呼びかけだった。
「あーっ!巴恵っ!!こっちこっち」
中学生の時によく遊んでいたグループの子たちが巴恵を手招きした。
多摩雄は構わず巴恵に話しかけた。
「年末年始はどうするんだ?一人か?」
多摩雄はまっすぐに巴恵を見て言った。
巴恵は寂しげなコンビニの店長のおでこが頭をよぎった。
「……帰る場所くらいあるから……」
巴恵は俯いて多摩雄にそう言った。
「じゃあ送っていくよ その帰る場所に」
多摩雄は自分の携帯番号をナプキンに書いて巴恵に渡してその場から離れていった。
(これで顔が良ければきっとこいつモテまくっていたんだろうなぁ なんだろうこいつの言葉選びと立ち振る舞いは)
巴恵の心はドキドキしていた。
巴恵は友達と楽しく過ごしながらも、多摩雄の姿を無意識に追いかけていた。
帰りの切符の失くしかた
早く同窓会を終えて、多摩雄に連絡をしたいと巴恵は思ってしまっていた。もう一度だけ、また多摩雄の声が最後に聞きたかった。それで十分だった。巴恵は友達と別れてからナプキンを広げて、タマオに連絡をした。
「もしもし、お言葉に甘えて加賀温泉駅まで送ってもらえる?」
「わかった どこに行けばいい?」
「あそこにいてよ」
巴恵は自分で言っていて面倒くさい女だなと思った。「あそこ」ってどこだよ!と突っ込んで欲しかった。
「わかった あそこって言ったらあそこの事だろ?」
「うん そう あそこ」
二人とも記憶力を試しているかのように電話を切ってそれぞれが思う「あそこ」に向かった。
間もなく待ち合わせ場所で再開して、お互いを見つめ合って爆笑した。
「わかったねー あそこ」
「うん ちょっと正直不安だったけどねー 七年越しだしね」
そこは巴恵と多摩雄が学校帰りに二人で歩いてたどり着いた公園だった。タマオが巴恵に告白をしてお付き合いが始まった場所でもある。
偶然同窓会の会場からすぐ近くにその公園があったのだ。
「送ってくよ 寒いな」
多摩雄は繋がらない単語を二つ並べて巴恵を車に乗せた。
巴恵はお別れの時間が間もなくやってきてしまうことを寂しく思っていた。
多摩雄は車の中で巴恵の両親の事を話してくれた。多摩雄は巴恵の両親のファンだったようだ。二人が共同で出した絵本があることを巴恵は初めて知った。多摩雄はその絵本と直筆のサインを持っているとのことだった。
巴恵の父親と母親は二人とも身寄りがなかったらしい。チョウさんやマッシュの行先については熊のおじいさんが学童にお願いしてくれたらしいのだ。
巴恵の父親の方は結構有名らしく、ウェキペディアを調べると父親の情報が掲載されているとのことだった。
巴恵はあっという間に加賀温泉駅に着いてしまって、改めて多摩雄と別れなくてはならないことが寂しかった。
「ありがとう じゃあね」
巴恵は大げさなくらい素っ気なく多摩雄に言った。
「うん またね」
多摩雄は笑顔で巴恵に答えた。
(コイツなんだ!)
巴恵は頭に来ていた。
(同窓会のところではあんなに言ってきたのに、なんでこんなに潔いんだ? さてはいろんな女と遊んでいて遊び慣れているのか?)
知らず知らずのうちに巴恵は多摩雄を睨みつけていた。
「んっどうした?」
多摩雄は機嫌が悪い巴恵に質問した。
「なんでもありません! じゃあね」
巴恵は車からキャリーケースを取り出して改札口に向かった。
しばらくしたら遠くでタマオの声が聞こえた。
「待ってるぞー ずっと待ってるぞー トモエーッ!」
巴恵は後ろから聞こえる多摩雄の声を心から待っていた。しかし巴恵は振り返らずに駅の改札前まで進んで行った。
巴恵はもう心の中で何かを決めていた。
お財布から取り出した帰りの切符をわざとじゃないと自分を騙して落としてみた。切符は運良く排水溝のグレーチングを通過して消えてしまった。
巴恵は改札と反対方向へ胸を張って歩き出した。進む先は多摩雄の所だった。
携帯電話をいじりながら車を止めたままにしていた多摩雄が巴恵に気が付いた。
「ん?どうした?忘れ物か?」
巴恵と多摩雄はしばらく見つめ合っていた。
「……切符……なくしちゃってさぁ 帰れなくなっちゃった」
巴恵は多摩雄に言った。
「なんだそれ」
多摩雄は笑顔で巴恵に答えた。
「俺ん家に……来るか?」
「もともとは私の家だからねっ!」
巴恵は多摩雄の車の助手席に乗り込んでシートベルトを締めた。
二人は加賀の山奥にある家へと向かった。
「オレも犬と亀飼いたいと思うよ」
返り道の途中で多摩雄はにやにやしながら巴恵に言った。
(コイツも聞いていたんだ)
巴恵はしまったと思い顔を赤らめて俯いたのだった。
健一の秘密基地
都会のビルとビルの間には、稀に誰も知らない隙間が存在する。健一はひんやりしたタイルの壁に背中を持たれ掛けて空を見上げた。仕事が休みの日はよくここで、少し遅い昼食を食べに来ることにしている。
高くそびえ立つビルとビルの隙間から見える四角に切り取られた空。
丁度、人がすっぽりとはまる空間があって、まるで映画の画角に切り取られたような空を飽きることなく健一は眺めていた。「サード・プレイス」や「社畜」という言葉が流行り始めてから、テレビでよくこの言葉を聞き馴染んだ頃に、健一は自分が職場と社員寮の往復になっていることになんとなくの焦りを感じていた。
休みの日に、宛てもなくうろうろと散策した結果、偶然誰からも干渉されることはないこの空間を見つけたのだった。
レジ袋を広げると、いつものように一匹の猫が近づいて来た。健一はその猫をタマと呼んでいる。この秘密基地に来るときは、いつもツナとタマゴのサンドイッチを買ってやって来ていた。健一はタマゴサンドを一口ほおばり、ツナサンドはタマの近くに放った。タマは器用にサンドされたパンをめくって、ツナだけを食べている。
良く冷えたエメラルドマウンテンを飲んで「ふう」と健一はようやくため息を吐いた。
張り詰めた肩の力が抜けて、一回り自分の体が小さくなったように感じる。
(あの人は僕に対してもっと良くなってほしいから自分の貴重な時間を使ってまで、僕に対して一生懸命何かを訴えてくれているのだろうか?)
自分の貴重な時間を使ってまで誰かを注意する人は、相手を思いやる気持ちが強い人だと健一は思っている。だけど、自分にはあまり期待しないで欲しいなと思っていた。
それでも、多少はその人の期待に応えたいという思いはある。
僕のためを思ってきつく叱りつけてくれているのか? それとも自分とは全く価値観が違う人で、もしかしたら他人を傷つけて楽しむことができる人なのだろうか?
そんなことがまた頭の中でずっとループしている。良くない傾向だ。
昨日もあまりうまく眠ることができないでいた。
健一にとって秘密基地とはそんなことを少しの間だけ、忘れさせてくれるはずの空間となっていた。たとえ自分が何か罪を犯したとしても、ここに隠れているかぎり警察にも見つからないのではないかという根拠のない安心感があった。
戦争が起こったとしても、ここに逃げ込めば安全に過ごせるはずだ。
世界が終わったとしてもここにいれば……。
健一は缶コーヒーを口に含んでまた空を見上げた。そして持ってきたポータブルテレビの電源を付けて、しばらくの間、ここでテレビを観ているのであった。
紗季のお誕生日会
笹塚駅を降りたすぐの商業テナントの二階に「から騒ぎバー」というスポーツバーがある。
健一は架純と七時過ぎにそこで待ち合わせをしていた。
「ケンちゃんこっちだよ」
架純は先に来ていて、健一を見つけると右手で自分の椅子のとなりを叩いて、左手を振って健一を招いていた。
から騒ぎバーは通常十時過ぎからエンジンが掛かり始めるのだが、今日は早い時間帯なのに繁盛していた。健一はカウンター横の冷蔵庫からフューガルデンというベルギービールを一本選んでスタッフにお金を払った。天井が磁石になっている。健一はビールの蓋を上に投げ付けた。そして飲み物を持って架純の元に移動した。
架純は普段ハイボールを飲んでいるのだが、今日はきれいな色のカクテルを手元に置いてなんだかおすましをしている。何か特別な日なのだろうか? 健一はカクテルと架純を交互に見て言った。
「珍しいね 今日は何かあるの?」
「うん 今日はサキちゃんのお誕生日なんだ」
「あっ!そうなのっ!」
健一は思わず面食らってしまった。
「えーっ! 聞いてないよー」
架純は健一を見上げて笑っているだけだった。
今日は紗季を祝いたい人たちが我先と盛り上げていたようだった。健一が架純の隣に座ると、すぐに紗季は現われた。紗季はスーッと何事もないようにいつものようにカウンターの端っこに座った。
「紗季ちゃん、お誕生日おめでとう!!」
方々からクラッカーの破裂音がして、紗季の誕生会が始まったのだった。紗季にいたっては何事かというほどの顔でみんなの事を驚いた表情で見回していた。紗季の驚いた表情に健一を含むほとんどの男女が見惚れてしまっていた。
健一は架純に手を引かれて、カウンターに座っている誕生日の紗季の所まで連れていかれた。紗季はやって来た健一に対して礼儀正しくお辞儀をしてくれた。周りには既にいろいろな人がいて、紗季を祝福している。健一は紗季とは何度か会っていて、少しだけ話をすることもあった。
ものすごい仲が良いわけではなくて、紗季の事を健一は少し近寄り難い尊い人物としてどこか見ていたところがあった。紗季は誰もが目を引くほどの美貌を持っていたのだ。それが主な理由である。紗季を前にすると緊張してうまくしゃべれなかった。
何気ない会話は唐突に始まり、取り留めもなく誰かがつなげていく。敵も味方もいないビーチバレーのような会話が途切れないゲームが、今始まった。
紗季にはやはり今回の誕生日会は、何も知らされていないようだった。いくら常連とはいえ、もし紗季が来なかったらどうしていたんだろうと健一は思った。しかしながらいったい集客に影響するこの紗季という女性は何なんだろうと単純に疑問に思ってしまった。
しかし、後で聞いた話では誕生日会は恒例で勝手に誰かのを開いてもなんとなく成立しているようだった。きっかけが欲しいだけなのだ。
紗季に限ったことではないと聞いてなんだか健一はホッとしていた。
「テレビって本当に嘘ばっかりよね、さっき流れてたニュースによれば今日人類が木星に到着しましたって言ってたんだけど、アレ絶対に無理だから」
紗季の隣にいるレイコさんが話題を投げかけていた。
「知ってる? 木星ってガスでできてるんだよ! しかも濃い硫酸の星だから 人が行っても溶けてものすごい重力で潰れてしまう地獄みたいな星なんだよ」
「へー」
健一は心の底から「へー」が出た。
他人は当たり前だけど、自分が知らない初めての話を聞かせてくれる場合が多い。
自分が普段観ているチャンネルにはこんな情報はひとつもなかったはずだ。いったい彼女はどのチャンネルを観ているのだろうか? 健一は感心しながらレイコさんの話を聞いていた。
紗季は煙草を吸う人だった。
健一は煙草は吸わないのであまり紗季に近付くことはなかった。紗季が煙草を吸っているとそこが喫煙所のような雰囲気になって紗季の周りは煙が立ち込めていた。喫煙者の比率は圧倒的に男が多くて、紗季の周りを囲っているのもほとんど男だけだった。そんな煙草の煙をみて、健一は少しだけ喫煙者を羨ましく感じた。紗季が電話をしてくると廊下に出て行ったあとも、会話のビーチバレーはずっと続いていた。
健一は店の外に出て、トイレに向かった。
このビルは学校の教室をイメージしていて、文化祭の出し物のような面白い店が立ち並んでいる。から騒ぎバーの向かいのお店はお寿司屋さんで、店頭に大きな水槽がはめ込まれていて、まるで小さな水族館のようだった。
深夜までやっている雑貨屋さんで駄菓子を買って食べたりもできる。
酔っぱらって廊下を走ると、先生みたい人が教室みたいなテナントから顔を覗いて「廊下は走らない!」と注意してくれる。
トイレは廊下のずっと奥にあって、健一が歩いていくと長い通路で、紗季が誰かと電話をしているのが見えた。
紗季は油断していると見惚れてしまうほどのきれいな女性である。
電話は紗季からしているようで、健一に気が付くと笑顔で会釈をしてくれた。
健一も笑顔で会釈を返した。
「今日なんかめちゃくちゃ寒くない?」
紗季が話かけてくれた。健一は焦ってもじもじしながらなんとか返答した。
「中は大丈夫だけど、廊下はめっちゃ寒いですね」
寒がるポーズを取ってそのまま歩き続けた。
(紗季は電話の相手と繋がったようだ)
「サトシ? お疲れ 今何してるの? あたし今日誕生日なんだ」
「……うん ……うん わかった またどこかで会おうよ じゃあね……」
健一はトイレで用を足しながら、紗季の電話越しの相手にほんの少し嫉妬してしまった。
時間はあっという間に過ぎていく。
気が付くと宴もたけなわでみんなでなぜか「さよなら人類」を合唱していた。
「きょおー じんるいが はじめってー もっくせいについったよおー♪」
隣の人と手をつないで、ふざけて笑ってしまうくらい上下に腕を揺さぶらせて唄った。
まるで小学校低学年の合唱コンクールのようだった。全員酔っ払いだ。健一は少し前にテレビで観た「面白動物大集合」という特集のチンパンジーの動きを思い出していた。
そろそろ誕生日会も終わる頃に、架純はノリの良さそうな男からニ次会の誘いを受けていた。この誕生日会はこのノリの良さそうなヒロさんという人が主宰していたらしい。健一は一度もしゃべったことがなかった。
「こないだはありがとうねっ すっごいみんな喜んでたよ」
「なんもなんも ヒロさんにはいつもお世話になってるし お互い様だよ」
「ちょっと今度お礼させてよ っでカスミ 二次会どこにする? カラオケ行こうか?」
「えー どうしよっかなぁ」
架純がヒロさんと楽しそうに会話のやり取りをしていた。健一は誘われてもうまくヒロさんたちと会話ができないと思い、トイレに行く振りをしてそのまま黙って帰ることにした。
「今の人カスミの彼氏? 真面目そうな感じだね……」
健一は背中で架純とヒロさんの会話を聞いていたがそのまま流した。なんだか背中に熱い視線も感じていたが、トイレの緊急性を利用して逃げるように廊下へ出て行った。
帰り道の足音
「から騒ぎバー」から健一の社員寮までは歩いて十分くらいのところにあり、甲州街道沿いにある。もう四月の下旬だというのに真冬のような寒さだった。こんな日は寄り道せずに早く帰ってお風呂に入って温まって寝てしまおうとケンイチは考えていたのだが、後ろからただ事ではないような大きな足音が近づいてくるのを感じて振り返った。
「ケンちゃん 待ってよーっ!!」
架純が走って健一に追いつこうとしている。携帯がずっと鳴っていたが気付かなかったのだ。
「はぁはぁっ……」
息を切らした架純はなかなか次の言葉が出てこない。
「ちょっとなんで急にいなくなっちゃうわけ? なんか怒ってる?」
「いや……。架純さんみんなとカラオケにいくのかなって思って」
架純は健一の言葉を全部聞き終わったあとに一拍置いて抗議に近い口調で話し始めた。傍から見ると痴話げんかのようにも取れた。
「全部計画が狂っちゃったじゃない!! 他の男から誘われても明日早いからって断りながら、ケンちゃんとは飲み直そうかっていうのがやりたかったのに!」
架純が一体何をしたかったのかは皆目見当もつかなかったが、綺麗な女の人が息を切らしながらプンスカと変なことを言っていることが面白くて、健一は思わず両手を広げて抱きしめようとするポーズを取ってみた。
酔っぱらっていると普段、決してやらないようなことも平気でできる。健一と架純は強く抱き合った。それは同性の友達では味わえない友情表現だった。
架純の香りが、脳みその奥まで記憶として浸透されてしまう感覚があった。
「よしっ 飲み直そうか?」
健一から架純に改めて誘った。
「うんっ!」
健一を見上げる架純は笑顔で答えた。
「確か明日ケンちゃん休みだったよね?ドン・キホーテでお酒買ってケンちゃん家で飲み直そうよ」
「えっ! ドン・キホーテまで大分あるよ 俺ん家通り過ぎるし 近くの白木屋でよくない?」
「ケンちゃん知らないでしょ あなたの知らない楽しみ方がドン・キホーテにあるんだからね」
架純のどこからくるかわからない相手を納得させられると思っている自信が面白かった。 少し呂律も回っていないところがなお魅力的に感じた。
二人は健一の寮を通り過ぎて、甲州街道と環状七号線の交差点を右折した。架純はご機嫌だったのか嬉しそうにいろんな話を健一にしてくれていた。それでもドン・キホーテまでの道のりは遠くて会話が途切れて沈黙することがあった。そんなとき架純は今日みんなで合唱した歌を思い出して楽しそうに口ずさんでいた。
ケンイチはこの道を良く知っていた。というか歩き慣れていた。環状七号線の道路沿いのビルとビルの間にケンイチの秘密基地があるからだ。
職場へ行く笹塚駅の方向とは正反対の道に秘密基地があって、そろそろ近付くとチラッとタマの事が頭をよぎったりした。
どうでも良いことかもしれないけど、架純には秘密基地のことを話そうかどうか迷ってしまっていた。酔っているからなのかも知れないし、違う理由かも知れないが取り敢えずぎりぎりまでどうしようか考えてしまった。
(もうすぐ秘密基地だ)
秘密基地を通り過ぎたが、なんとなく架純には黙っていた。
本当になんとなくだが、もし話したとしても大した話ではないような気がした。実際大したことではなくどうでもよい話なのだが。
環状七号線の道沿いは深夜になると、暗く静かで女性一人だと少し物騒である。
しばらく暗い道が続くと、やがて爆音とともに神々しい光を放つドン・キホーテにたどり着いた。
ドン・キホーテではアダルトグッツのコーナーでキャッキャ言いながらはしゃいでいる学生たちを微笑ましく見送りながら、二人は地下一階の食品売り場に足を運んだ。
架純は焼酎のボトルと塩分の高い梅干しを買い物かごにいれて、その他おつまみとなるような乾きものを真剣に選んでいる。
(お金だけは自分が出そう)
健一はスマートにお財布を広げるシミュレーションを頭の中で繰り広げていた。
「あっ!! ケンイチ?」
架純は何か大事なことを思い出したようで、背筋をのばして健一に尋ねた。
「ケンイチの家にお湯沸すポットとかある?」
「……ないよ」
「……」
間もなく二人は、ドン・キホーテ二階の電気製品売り場に足を運んだのだった。
帰り道は電気ポットとお酒とおつまみが二人の真ん中で揺れながら歩いた。まるでロズウェル事件のエイリアンみたいな大げさな大きさのものを二人で持った。
ドン・キホーテを出てまた静かな暗い道を歩いていると、店内で流れていた「m-flo」の「How You Like Me Now?」が耳に残って、健一の頭の中でエンドレスに再生された。
健一の家をほんの少し通り過ぎたところに、健一常連のコンビニがある。
「ケンイチ、ファミマ寄っていい?」
「いいよ」
「ちょっと外で待っててくれる? すぐ買ってくるから」
健一は、一度全部買い物袋を預かって頷いた。
ここは健一が秘密基地に行く際に、必ずお世話になるコンビニだった。
架純はコンビニのトイレを借りて、おそらく歯ブラシなどの生活用品とお菓子コーナーをみて、最後におでんコーナーで真剣におでんを吟味して店員さんに欲しいおでんを指差ししていた。
健一は冬に子どもの頃に観たテレビコマーシャルで憧れていた大人の世界を、今自分が体感しているのではないかとふと、感じずにはいられないでいた。
山下達郎の「クリスマスイブ」が季節外れなのに、コンビニの自動ドアが開くと店内で流れているのが聴こえた。
二人は健一の寮にたどり着いた。
家の中は当たり前だが真っ暗でとても寒く、健一は玄関に買い物袋を一旦置いて、部屋の中を温めるすべての電気製品を片っ端から手早く付けた。
架純は湯沸かし器を箱から取り出して、軽く中身を水ですすいでから、水道水を限界線まで入れてプラグをコンセントに繋いだ。
二人はまるでテキパキと決められたお互いの作業分担を黙々と行っているように見えた。
健一は最後にテレビをつけた。ベッドに寄りかかって健一と架純は同じ方向を向きながら、こたつに足を入れて、テレビを見ながら缶ビールで乾杯をした。すぐ食べられるコンビニの温かいおでんが嬉しかった。
おでんの汁にベビースターチキン味を入れて、ふやけないうちにすぐ箸で食べるという食べ方も今日初めて、架純から教わった。
最近やたらとテレビコマーシャルばかりで番組がなかなか始まらないのが気になっていたのだが、夜中に流れるコマーシャルで少し不気味な内容のものがあった。そのコマーシャルが流れると健一はチャンネルを変えてしまうほどである。
砂漠の街で兵隊さんが肩にライフル銃を担いで、腰に下げたサーベルをチャラチャラと鳴らして引きずりながら歩き続けている。兵隊さんがライフル銃を不規則に地面に発砲しると砂塵が舞って街の空気を汚しているのだった。みんなはそれを見て、嫌な顔をしているのだ。いつ鳴るか分からないライフルの発砲音もドキリとする。
これはティッシュペーパーのコマーシャルでなんとも悲しげなBGMが印象的だった。
兵隊さんは一人で砂漠の荒野に消えて行き、そのシーンをみていると「死」を連想する気持ちになってしまう。まるで強制的に悪夢でも見せられているかのような不気味さである。
「このコマーシャルのBGMは悪魔の歌っていうタイトルで、このコマーシャルに出演した人はこのあとみんな何らかの原因で死んじゃってるんだって」
架純はするめの足を口からはみ出して、咀嚼を続けながら淡々と健一に伝えた。
健一はより一層怖くなって架純の体に引っ付いた。
部屋は相変わらず外と変わらない寒さだ。 窓でも開いているのか?
健一はカーテンをめくってベランダのガラス窓が開いていないかを確認したが問題ない。
エアコンが壊れているのだろうか?
「ねえケンイチ 寒くない?」
「うん 異常だよね なんでだろう? エアコン壊れたのかなぁ」
「まさか お湯は出るよね?」
架純は咀嚼していたするめをゴクンと飲み干すと恐ろしいことを確認するかのように聞いてきた。
「……たぶん」
健一はなんだか自信がなくなって、首を傾げながら架純に答えた。
すると架純はこたつから出てユニットバスに向かった。しばらく帰ってこないなと思ったら、ユニットバスの扉が開いて湯気が立ちこもった。
「ちょいちょい」変な掛け声で架純が健一を手招きをした。
「寒いし、とりあえずあったまろう」
架純はそういうとすぐに扉を閉めた。
健一が中に入るとそれを待ってなのかトイレとバスタブが一緒になった狭い空間で湯気に温まりながら、架純は服を脱ぎ始めた。
「健一も脱ぎな」
なんだか普通のことのようだった。少なくとも架純は寒い体を温めることが目的でそれ以上でもそれ以下でもないようなそんな感じで言っている。
「服はまとめて! 一瞬だけ開けるよ!」
架純は自分と健一の下着をくちゃっと一つにまとめて、何よりも湯気が逃げることを嫌がった架純は急いで二人の服を玄関に近い床に投げ捨てた。急いでドアを閉めると、密閉された温かな空間がまた戻った。
シャワーカーテンを閉じて、トイレエリアに水が濡れないようにも気を付けていた。準備は完璧且つ万全だった。しかし当たり前のことだが、健一は架純の裸をみるのは初めてだった。
「まずは足をゆっくりあたためましょうね」
架純は健一と自分の足を交互にシャワーを掛けてくれた。
実は健一は水が苦手だった。特に肌に温度差のある熱いお湯が急に触れるのが嫌だった。
考えてみれば当たり前のことかもしれないけど、順番にゆっくりと足から温めていけばいいのかとその時は架純の言葉に感心した。
架純の足を見ていると黄色い液体が架純の足元に流れている。
「あっ! ごめんっ! いつものくせで出しちゃった」
架純は爆笑しながら、自分の胸元にシャワーを掛けていた。
「ケンイチもして」
架純は恥ずかしそうに健一に言った。
架純の背徳感になぜか共犯を求められて強要されたおしっこは、架純の鼠径部あたりに掛かってしまった。
架純はくすぐったかったようでバスタブの中はしゃいで笑っている。幼い頃の純粋な好奇心と快感が少しだけ思い出せたような気がした。
二人はいつしか笑っていられなくなり、キスを皮切りにして大人の関係を結び始めたのだった。この時に健一は架純の事が忘れられない存在として海馬に刻まれてしまった。
同じシャンプーとボディーソープの匂いになった二人は十分に体を温めて、一つのバスタオルで体を拭き合った。
焼酎の梅お湯割り
シャワーで温まった二人は、下着を取り換えてまた外に出るような恰好になった。体の寒さが取れたので、これで幾分くつろげそうだ。電気ポットのお湯はとっくに沸いていた。
架純は手慣れた手つきでグラスに焼酎を入れて、梅干しを一個そこに放り込み、コンビニでもらってきた割りばしでその梅干しを丹念につぶして、お湯を注いで健一に渡した。
梅干しの果肉で白く濁った熱いお酒。このようなお酒は健一は初めての経験である。
寒い部屋の中で梅のさわやかな香りと焼酎を薄めた熱いお湯をすすることで体の中から温まるのを感じることができた。飲み進めることで塩味が増してゆくのも楽しい。
ドン・キホーテに売っているこの梅干しでないとこの味が出せないのだと架純は笑顔で満足げに豪語する。健一は架純がたまに秘密基地でタマがしてくるような甘える仕草をしてくるので、もはや油断して満足をしてしまっていた。
テレビは相変わらず面白くなくて、健一は酔いも手伝って少し眠くなっていた。こたつと布団にくるまって、何気ない時間が流れた。健一は寝てしまったようで、気が付くと架純はいなくなっていた。
こたつの上には書置きがあった。
(今度来るときにガスファンヒーター持ってきてあげるね かすみ)
健一は書置きをぼーっと眺めてもう一度目を瞑った。
世界最後の日
健一はあの日からから架純に会う事はなかった。連絡が途絶えてしまったのだ。
から騒ぎバーに行ってみても、架純の姿は見当たらない。紗季さんはたまに見かけた。
健一は架純の事を聞こうとするが、なぜか会話の中で自分以外の全員が架純の事を忘れてしまったかのように話題に出てこなかった。健一は相変わらず秘密基地には休日の度に行っている。そこに必ずタマがいた。
そういえばゴールデンウイークの熱い日に、一度だけ架純を偶然見かけたことがあった。
架純は誰かと楽しそうに会話しながら甲州街道を歩いている。こちらにはまだ気付いていなかったので、逃げるように隠れてしまった。まるでまだ未練のある別れた恋人が新しい彼氏を連れているところに偶然出くわしてしまったような感覚だった。
あのときに二人の関係をはっきりさせておくべきだったんだと健一は強く後悔した。健一は架純のことが好きで付き合うことを認めてもらうべきだったのだと思った。
夏が終わり、風が涼しくなって、秋を越え、冬になると健一は架純のことは確かに、未だに心に残っているが、最近はあまり思い出さなくなっていて、安らかな日常を取り戻しつつあった。昨日は仕事で徹夜をしていたため、朝方からずっと眠り続けていた。テレビは面白くないと思いつつも寂しさから付けっぱなしのままで眠っていた。
世界の終わりは何の前触れもなく唐突に起きてしまった。
ものすごい爆風とともに耳鳴り以外のすべての音がこの世から消えてしまったのだ。健一はただ事ならない風圧に飛び起きた。
窓ガラスが割れて、カーテンがヒラヒラと強風に煽られている。割れた窓ガラスから外を覗くと、人々は茫然と空を見上げていた。多分悲鳴がしているはずなのだが、健一にはただならぬ風の勢いのみで何も聞こえなかった。外の様子をみても、今が昼なのか夜なのかすら判断が付かない。付けっぱなしのテレビからこの状況を把握しようしてもテレビはどのチャンネルを回してもまったく同じ内容が流れていた。
テレビ画面の左半分は映画のエンドロールの様に知っているような知らないような有名かも知れない世界中の人の名前が延々と流れ続けていた。しばらく眺めていると日本人の名前も流れてきた。健一はその名前の羅列で新しい人類にとって重要な人たちの名前が書き綴られていることをなんとなく理解した。
右半分の画面にはこう書かれていた。
「こちらは新しい星へ旅立った人たちのリストです 彼らはずっと内緒話をしていました 実は木星じゃなくて火星だからご近所です そんなに離れていないのでさよならはちょっと大袈裟ですよね(笑)」
テレビの向こうからはいつかみんなで手をつないで唄った、さよなら人類が酔っぱらった下手くそな音程で頭の中に直接聴こえてきた。
健一は急いで身支度をして部屋の外に出た。何も聞こえない世界はみんな茫然と空を見上げていた。赤い色をした月が今まで見たこともないような大きさで空に浮いている。
健一は自分が耳以外五体満足の内に、「あの場所」に避難しようと考えていた。
(秘密基地は絶対こんな時のためにある!)
コンビニは停電していて店内は暗かったが、いつもの場所にあるいつもの商品を袋につめて誰もいないレジカウンターに有り余るお金をおいてコンビニを後にした。健一は家を出て秘密基地に向かった。
信号も道路も何も機能していなかった。
道は盛り上がり、車はひっくり返って人の死体が道に放って置かれていた。車は動こうものなら足の踏み場もない死体を地面に擦り付けてスリップしている。その摩擦で死体は煙を吹いて髪の毛から順番に発火していった。
ものすごい光景を目の当たりにしながらも、心はどこか非現実的で、この先のドン・キホーテを架純と一緒に歩いたときの思い出が蘇ってしまった。
(あの時もこんなに寒かったな)健一はジャンバーを強く握りしめて猫背になって必死に目的地まで歩きだした。自分では気づかないが健一の顔は薄っすらと笑っていた。妄想の中で美しいお月さまを想像しながら。
秘密基地に到着すると先客がいた。
健一はこのことにより、せっかく狂った脳みそを正気に戻してしまった。なんと、そこには架純がいて、一人空を眺めていた。
架純が健一に気が付くと、自分の耳を人差し指で二回トントンと指さして叩いた後に、両手でバッテンのジェスチャーをした。
首を傾げたので質問しているのだろうと健一は読み取った。健一はゆっくりと架純を見て頷いた。二人は並んで座り、ビルとビルの間から真っ赤な月今真っ二つに割れていくのを見ていた。
先程からロケットが何本も空を飛んでいる。
白い雲が空に幾筋も残り、まるで下手くそなあみだくじのように連なっていた。この秘密基地は地球で起こっている爆風から二人を守ってくれていたのだった。他の人類はおそらくもう誰もいないと思えるほどの終焉を迎えている。でもきっとこれもほんの束の間のことだろうと健一は思った。
健一は架純と自分はどっちが先に死ぬのだろうか?と疑問に思った。
自分の体が醜くバラバラになるところを架純に見せるのは少し恥ずかしいなと思った。
でもそれ以上に、架純のそんな惨い姿をみるのも悲しいなと思う。架純は黙って健一の持ってきたコンビニの袋を興味深くみている。健一はなんだかいつもの感覚があった。
健一がコンビの袋からサンドイッチのタマゴとツナを取り出す。
まず先に健一がタマゴを一口ほおばる。
架純はそれを無表情で大人しく見ていた。
健一は架純にツナササンドを手渡しした。
架純はツナのサンドイッチを受け取ると、パンをはがしてツナだけを食べ始めた。
ジョージアのエメラルドマウンテンをレジ袋から取り出した。
二人で一つの缶コーヒーを順番に回して飲んだ。
そして世界はいつの間にか闇に消えてしまった。
もう何も見えない。でも懐かしい匂いがひたすら漂った。これは紛れもないあの日の香りだった。健一は懐かしくなって世界が終わるときに最後に見る夢はドン・キホーテでしか手に入らない梅干しで焼酎のお湯割りを作って、架純と一緒に飲む夢を見ることにした。
「さようなら」
健一は僕らを置いて脱出したロケットに対して、何の恨みもないが一言だけ言いたくて空に独り言を言ったのだった。
夢から醒めたら
「ケンイチ、シャワー借りたよ」
健一は架純の声で目が覚めた。
カーテンが開いていて、昨日と打って変わってとても綺麗な青空だった。健一は大分長い夢を見ていたのだなと現実に戻された。今日、健一は仕事がお休みで架純と一日中一緒にいれることになっていた。
「どうする?今日、下北でマニアックな映画でも観る?」
「新宿行ってFrancFrancで家具をみて伊勢丹クイーンまで行って、珍しい食材を買って帰ろう。誰もいない道から歩いて笹塚まで帰って、こっそり歩きながらコロナを飲んじゃおうよ」
架純のスケジュールが具体的過ぎて健一は笑ってしまった。
「カスミ」
「なあに?ケンイチ?」
架純を呼び止めると、急いで近付いてきた。
「俺と付き合ってほしい す、好きです」
最後の一言は照れてしまったが、健一は架純に顔をぐっと近付けた。どちらからということもなく、キスをして抱き合った。
「はい そうしましょう」
架純は笑いながら健一に言った。
健一も起き上がって、まだ湯気が残る浴室に行ってシャワーを浴びた。
「今日はいい天気だよ、ケンちゃんって帽子持ってる?」
架純はシャワー中の健一に話しかけてきた。
「持ってるよ!」
健一はシャワーの音でかき消されないように少し大きめの声で答えた。
二人は軽く朝食を取ったあと、架純も着替えたいということで架純の家に向かった。
架純の家は方南町にあって、環状七号線のドン・キホーテを越えたさらに向こう側だった。
「カスミさんっ!」
健一はドン・キホーテの手前で急に立ち止まって架純に声を掛けた。
「なあに?」架純が返事をした
「あのビルの間に僕の秘密基地があって 一緒にそこに行ってもらってもいい?」
「ケンイチの大切な場所なの?」
「うん」
健一は架純にタマを紹介するつもりでいた。
空は雲一つなく澄み渡り、風が涼しく、いつものように環状七号線車は忙しなく、喧噪とした風景が広がっている。「ドリカム」の「Eyes to me」がどこからか流れて来ていた。健一と架純は足取りも軽く健一の秘密基地へと向かった。
同居人
架純の住んでいる家までは歩くと結構な距離だった。から騒ぎバーまではいつも徒歩で行くらしい。優に四十分は掛かるであろう。方南町駅から住宅街に向かって行くと静かな道に出た。車はほとんど通らない閑静な住宅街に入っていった。
「あそこあそこ」
架純が元気よく指さした家は、二階建ての一軒家だった。遠くからで分からなかったのだがちょうど同居人が二階のベランダで洗濯物を干していた。
近付いてみると二階のベランダで洗濯物を干しているのは他の誰でもない紗季だった。架純と紗季はなんと同居していたのだ。最近の健一は驚きの連続だったが、これは一番驚いた。
「ハロゥ」
紗季は健一に気付くと陽気な挨拶で手を振ってくれた。健一は条件反射で紗季に手を振り返していたが、驚きのあまり顔は笑っていたかどうかまでは定かではなかった。
架純と紗季の家は不思議な一軒家だった。古い木造で入り口は引きガラスになっていて透明なガラスの内側にカーテンを張って中身を隠していた。架純がバックから鍵を取り出して、鍵穴に鍵を入れると、複雑に「ガチャガチャ」と回して引きガラスが開けた。
「ケンちゃん上がって!」
架純が先に奥の部屋に進んで見えなくなってしまった。家の中に入ると白い玉石が敷き詰められていて、歩くと「ジャッ ジャッ」と神社の砂利を思わせた。健一は上がってと言われても困ってしまって玄関でもじもじしていたら、紗季が二階から降りて来た。
「こんにちは 健一さん」
紗季が自分の名前を憶えてくれていて健一は嬉しかった。
「さあ 遠慮しないで 上がって上がって」
から騒ぎバーで会う紗季とは何だか雰囲気が違っていて、ここでの紗季はとても親しみやすい感じがした。
三人は架純の部屋に集まって麦茶を飲みながら、架純と健一が出かける前に少し休んだ。
架純の部屋は青色のソファーと向かい合わせに敷き布団があって、その間には丸い木製の小洒落たテーブルが設置されていた。冬用の室内スリッパがなぜか充実していて足元の防寒は徹底しているようだった。
「二人の展開が進んだんだね」
紗季は二人を交互に見ながら笑顔で言った。健一は架純と目が合ってにやにやとしてしまった。
「トモエさんだっけ? 健一さんの妹さん、あれからどうなったの?」
紗季は自分で用意したおせんべいを袋から開けて取り出し、そのままバリっとかみ砕いた。
「トモちゃんは今タマオ君の家に引っ越したんじゃないの? そこらへんどうなのお兄さん?」
「トモエはまだ東京にいるよ 後片づけもあるしね でも石川県帰ったらすぐに結婚するってなって、まあ俺も親もうれしいけど結婚式とかどうするつもりなんだろうってすごい親が心配してるよ」
「今度タマオ君も親に挨拶しに来るみたいだからその時にまたから騒ぎバーで紗季さんに紹介できたらいいな」
「うんうん そうだね トモちゃんにもまた会いたい」
「おおっ そういえばトモエがカスミさんから連絡がなくて寂しいって言ってたよ」
「本当? じゃあ連絡してあげようかな」
「いいねぇ なんか家族してる感じが羨ましいなぁ」
「サキさんはどうなの? サトシ君と上手くいってるの?」
架純と紗季は二人暮らしをするほど仲良しなのに、あまり相手に干渉してはいないようだった。お互いのことをあまり知らないのが、長く暮らしていける秘訣なんだそうだ。
「えっ? サトシ? そうねぇサトシは私の白馬の王子さまだったんだよね 私をどん底の窮地から救ってくれたの」
「ええ どういうこと?」
架純は紗季の意味深な言いぶりに興味津々となっていた。
「でも、サトシとは姉弟の契りを交わしてしまったんだよねぇ」
紗季という女性は捉えどころがなくて、健一がイメージしている女性とはまるで違うような気がしてきた。紗季は二人だけデートに行くことにヤキモチを焼いていることが鈍感な健一にもなんとなく察しがついた。何とか自分の会話に興味を持たせてなんだか引き留めているような感じだった。健一は紗季さんは可愛いなと思った。
「もうやめだやめだ! ケンちゃん お酒買ってきて! 紗季さん! 今日は朝から飲もうよ」
「カスミンッ デートするんじゃなかったの? 健一さんがかわいそうだよお」
紗季の術中にまんまとハマった架純と健一は間もなく最寄りのリカーショップに三人でぞろぞろと歩いて行った。
公園で待ち合わせ
紗季が高校二年生だったときのことを回想する。
「うわっ!」
ぶつかって来た男の子と紗季は両方が同じ言葉を発して、男の子の方がこけた。歳は小学校低学年くらいだろう。
「急いでもなんもいいことないよ」
紗季はぶつかって来た小さな男の子に話しかけて手を伸ばした。目が合って、男の子の手を握り引き寄せると、男の子は紗季の話を無視してみんなのもとへと駆け出して行った。
赤いロープジャングルがシンボルのこの公園で小学校低学年の男の子と女の子が三人グループで公園にあるコンクリートの舞台で楽しそうにはしゃいでいた。間もなく遅れて紗季とぶつかった男の子が合流した。少し離れたところでは熊のぬいぐるみを持った女の子が羨ましそうに四人グループを見ている。きっと彼女は友達になりたくて機会をうかがっているのだろうと紗季は思った。
紗季は公園のベンチに座ってある人を待っていた。人なのかどうかというと迷ってしまうのだが……。
昨日の夜、紗季の寝室にその人が突然現れた。寝ている紗季はベッドから体を起こして、目の前の者を確認した後、視線を逸らして左斜め上を一秒近く見てから、その者に改めて向き合った。
「ゴメンナサイネ」
紗季はこの者の第一声を受けて、体を起こしてちゃんとこの者の話を聞いてあげようと思ったのだった。部屋の電気は付けないであげようと思った。隣の家の部屋はまだ明かりがついていて、微かな明かりを頼りにその者の身なり風貌がなんとなくわかった。髪の長い女、顔は髪で隠れていて見えない。一般的にもし彼女が突然部屋にやって来たとしたら、有名なホラー映画の様に人は恐怖に慄き、自分はこのまま呪い殺されると思ってしまうであろう。しかし紗季は小さいときから普通の人には見えないものが見えていたので、あまり驚くことはなかった。
「キョウイチ……スキ……キケンアル」
この者が何かを訴えに勇気を持って自分の所にやって来たということは分かった。キョウイチは自分の父親の名前である。言葉がカタコトなのは外国の人だからではない。不安定な状態でこの世に留まり続けていると生きていた知識などは失われていくのだ。自分が人だったこともやがて忘れてしまう。紗季は長年こういった存在と接していくうちにそういうことを理解していった。なのでこの女が発している言葉の想いや重みは魂から削って紡ぎ出している有限の消耗品なのである。そんな貴重な言葉の中に自分の父親の名前があることに紗季は驚いていた。
父親は最低なヤツだった。どこかの大きな会社でどうせ威張り散らしているサラリーマンなのだが、肩書は立派でなんでこんな奴が出世して、家に莫大なお金を入れることができるのだろうと紗季は不思議でならなかった。甲斐性をいいことにこの男は日本中に女を作って、あわよくば子どもを孕ませていた。家では母親に度々暴力を振っていた。この男に捨てられたら行くところがないという思いもあってか、母親は夫の言いなりになり下がっていたのだった。
紗季の事も心配してやって来たらしい。これから会話をするにしても名前がないのは困ると思って、紗季はこの幽霊をブランコと名付けた。ブランコもその名前を気に入っていた。
「今日はもう遅いから明日話しましょ ねっ ブランコ」
紗季がそう言うとブランコの表情は隠れて見えなかったが安心したようでふっと消えてしまった。
まもなくブランコが待ち合わせの公園に現われた。ブランコは自分の名前にちなんだのか、遊具のブランコに座って、ベンチに腰かけている紗季に手を振った。昨日の夜みたような怖い身なりはしてはいなかったが、顔はなぜかどんな角度からも見ることが出来なかった。
遊具のブランコは錆びていて、揺れて金属が擦れるたびに「キーッ」と音がする。本来ならば誰もいないブランコが不自然に揺れているので、紗季は周りに人がいないか心配になってしまい辺りを見回した。
ブランコはブランコの錆びた物悲しい音が気になるようで、音源を探してブランコの結合部分辺りを前髪の奥から見ているようだった。
「それでうちの父親がなんだって?」
紗季はブランコから昨日の夜の続きを聞き出そうとした。
「ハア……サキ ワタシヲハナスノダ……ダメヨ」
紗季は一生懸命言葉を探しながら伝えようとするブランコの言葉の繋がりを推理して時間を掛けて応えた。
「ん? ブランコのことをアイツに話したかってこと?」
そういえば紗季は父親に昨日の夜のことを話していた。今朝のことだ。
紗季が起きて、二階から一階に降りたところで丁度朝帰りしてきた匡一と目があった。
「あのさ 知らない女があんたの事憎んでいるらしいんだけど」
匡一は振り返って紗季を睨み付けた。言葉はなかった。
「黙ってないで何か言ったら」
紗季は匡一に問い詰めた。
「うん 心当たりはある でもなぜ紗季がそのことを知っているんだ」
匡一は観念したように悲しい顔をみせて、紗季の言葉の真意を汲み取ろうとした。
「別に……なんとなくだけど」
匡一の顔がパッと明るくなった。
「そうか 何となくか 紗季はやっぱり鋭いなぁ こんな弱みを握られたら紗季の願いをなんでも叶えてあげなくちゃな」
紗季は父親の言葉と表情に、なんとなく他人のおじさんから言われたような厭らしさを感じてしまい嫌悪感を持ってしまった。
「うん……お願いはあるよ お母さんと喧嘩しないで……」
匡一はそれを聞くと何だか興ざめしたようで、そそくさと自分の書斎に隠れてしまった。
「ウラミ ナイ キョウイチ スキ!」
ブランコは幽霊のくせに熱を帯びたような少し怒った口調で紗季に伝えた。あんな男のことをブランコがどうして庇うのかが不思議だった。紗季とブランコは公園のブランコに並んで座って、なぜブランコが紗季の前に現れたのかを聞き出した。
どうやら、匡一の死期が近づいているとのことだった。紗季もどこかに閉じ込められて出れなくなってしまうというようなことをブランコは伝えたかったようだ。有限の言葉もそろそろ使い切ってしまうのだろうか? ブランコは最初見たときよりも存在感が薄くなって消えそうになっている。とりあえず父親はもうすぐ死んでしまうらしい。紗季にとってそれは正直どうでも良い事だった。しかし自分が閉じ込められてしまうというところは現実味を感じなかった。幽霊の言葉は俯瞰した世界から発信していて真実に近いのだが、生成AIのように度々的外れなことを言ってくるので、それもあって紗季は幽霊の言葉は自分の都合の良い部分だけを信じることにしていた。
「ブランコ ありがとう 君がいい奴だってことは分かったよ どうすれば良いかは あとはこっちで考えてみるね あともういきなり夜に部屋には来ないでね」
紗季が全部言い終える前にブランコは姿を消していた。
先程の男の子のグループに勇気を持って近付いた女の子がどうやら仲間に入れたらしい。
紗季は女の子の勇気を微笑ましく思った。それに引き換え自分は学校では浮いた存在のままである。小学校の頃に「嘘つき」というあだ名を付けられて虐められていたことがあった。何もわからずに本当に目の前にある現象を言葉で友達に伝えただけだったのに。相手からすると見えないわけなのだから嘘つき呼ばわりされても当然なんだろうなと小学五年生あたりから周りと話さずに静かにしていたら、いよいよ誰も近付いてくれなくなったのだった。
夏休み前
紗季は母親のしのぶに半ば無理やり連れられて市立総合病院に来ていた。診察室に呼ばれて丸い回転椅子に座って待っていると若い男の先生が紗季の前に現れた。
先生のネームプレートを確認すると小鹿飼と書かれていた。
「初めまして、小鹿飼と言います よく小鹿を飼ってるんですか?って質問されるんですけど実は実家がど田舎の山奥でよく鹿が家までやって来ることがあるんですよ」
小鹿飼は紗季の目線を見逃さずに紗季と何気ない会話を始めた。
「まあっ! いいですねー! 小鹿飼先生のご実家はどちらなんですか?」
しのぶが割り込んで来て、話を膨らませようとしていた。
「ええ 岐阜の山奥に実家があって祖父が鹿のはく製を作っているんですよ もしよかったらお家に鹿のはく製を飾りますか? 売れずに余ってるから今度くすねてきてこっそりお渡ししますね。」
小鹿飼は冗談交じりにしのぶと会話をして空気を和ませていた。紗季も小鹿飼は清潔感のある優しそうな先生だなと思った。しかしなぜ今頃母親は自分を心療内科にべったり付き添って連れて来たのかが解せなかった。
「……少し、紗季さんも気分転換の意味を込めて実家ではない場所でリフレッシュしたらと思いますよ」
小鹿飼はボールペンをカチッとしまうとカルテから目を離して笑顔で紗季にそう言った。
「良い案ですわ! 先生、個室で一番広くて良い部屋を紗季に当ててくださいますか?」
紗季の頭の上で会話が放物線を描いて勝手に話が進んで行く。紗季としては到底承知できることではなかった。
「嫌です! 私はどこも悪くないですから! 何で入院をしなければならないの?ほんっとうに意味がわかんない! お母さんなんでこんなところにいきなり私を連れて来たの?」
小鹿飼が困ったような顔をしていたのがちらっと見えた。母親も面食らったように驚いた顔をしていたが、それでもここは引けないとばかりに少し強い口調で紗季に話した。
「お父さんから聞きましたよ あなたまた幻覚が見えてしまうのでしょう? 夜に突然暴れたり、暴言を吐いているって 幼いときには少なからず誰でもあることだけどあなたはもう高校生なんですよ ちゃんとした社会生活を送るためにもまず治療をしてもらいたいの」
しのぶは今まで我慢して溜めていたものを小鹿飼の前でここぞとばかりというように紗季に捲し立てた。
(ああ、そういえばブランコが言っていたことってこれだったのか……)紗季はあのときのブランコの言葉に納得してしまった。これは避けられないことなのだとも悟った。しかし謎である。匡一としのぶは会話をしていない。確かに夜中の突然の訪問者に大声で追い払ったこともあるが、それはずいぶん昔の事だ。しのぶは事実を織り交ぜながら時系列を捻じ曲げて自分の都合の良いように紗季の症状を紗季に話しているように見せかけて、小鹿飼に伝えているようだった。
紗季は母親に嵌められて、強制的にこの病院に入院をすることになってしまったのだった。
精神崩壊
※これはフィクションであり、点滴に「性暴力を目的として意識を失わせる薬」を入れることは、明確な犯罪行為です。通常の医療現場ではあり得ません。
紗季はこの病院で一番良い特等室を宛がわれて、何をするということもなく日々を過ごしていた。学校はもう夏休みに入っている。すべての社会から遮断されたこの病室では定期的に食事が運ばれて、よくわからない点滴を打たれて頭が常にぼーっとしていた。
毎日入っていた入浴も面倒くさくなって、二日に一度となり、気が付くとしばらく風呂に入らないこともあった。孤独で寂しいときに小鹿飼がやって来てくれて話し相手になってくれた。小鹿飼の事は最初は好意を持って接していたのだが、段々と距離が近づいてくるので何かおかしい気がしていた。
しのぶがこの病室で紗季に会う事はほとんどなかった。この病院には良く訪れて小鹿飼とは会って話しているようだったのだが。しかしそれは紗季にとっても好都合だった。本来ならばここに閉じ込めた母親の顔などみたくもないのだから。
「ふふっ サキはまるでお人形さんみたいで可愛いね そうだ! 僕がサキをお風呂にいれてあげるよ サキは何もしなくていいんだよ 僕が全部世話をしてあげるからね」
「……」
小鹿飼がサキに近付いて無防備な唇を奪った。紗季の中では何かが壊れてしまっていた。何も感じなくて心が動かないのに目からは涙が流れていた。
「ずーっとずーっとここで僕と一緒にいようね」
「……」
小鹿飼の粘り気のある厭らしい声が紗季の頭の中でまとわりついて離れなかった。小鹿飼は紗季の病室を内側から鍵を閉めて、念のために紗季の腕に何かの注射を打っていた。もはや紗季は何の抵抗もしなくなっていった。この病院で一番良い特等室は防音にもなっていてどんなに大声で叫んでも誰も助けに来てくれないことはすでに何回も経験済みのことだった。小鹿飼がいるときにナースコールを押しても、小鹿飼が根回しを働かせていて誰もやって来てくれることはなかった。ブランコにしてみてもあれ以来姿を見せることはなかった。
紗季の生きていても、いなくてもどうでも良いと思える日々はある一人の女性患者との出会いから少しずつ変わっていった。この人は沼田さんといって年齢は七十歳くらいのおばあちゃんである。小鹿飼の悪行を沼田さんは知っていて、紗季を可哀そうに思い、よく自分の病室に呼んで話をするようになっていった。
「紗季ちゃん教えて、おじいさんは私に何て言ってるの?」
「おじいさんはもういないからわからないなぁ」
「そっか じゃあ成仏したんだね」
「うん でも飼っていた猫ちゃんはまだいるよ 沼田さんの近くで寝ていたりしてる」
「へー タマがわたしのところに遊びにきてくれているんだね そりゃうれしい」
紗季は沼田さんに自分に霊感があることなどなんでも話すことができた。沼田さんは紗季の話を聞いても驚いたり、嫌な顔をひとつもせずに色々と質問をしてくれた。紗季は面白い話を自分がしている気がしてどんどんと承認欲求が満たされるのを感じていた。沼田さんと話すことで今まで閉じ込められていた自尊心がまた芽生え始めていた。その頃からか紗季は小鹿飼に対してあからさまに反抗することができるようになっていた。
沼田さんの個室にノックもなく、小鹿飼が入って来た。
「サキ またここにいたのか 点滴の時間だよ はやく自分の部屋に戻りなさい」
「いえ、点滴はしません 点滴をすると何も考えられなくなるので、それとあそこはわたしの部屋ではないので」
紗季は小鹿飼の言葉を強くつっぱねた。沼田さんがいると心強くなって勇気も出ていた。
「それと……」
紗季は長袖をまくり上げて沼田さんと小鹿飼に腕を見せた。
「この注射っていったい何なんですか? なんでこんなに注射されなくてはならないんですか?」
「ありゃーっ! こんなにたくさん注射のあとが……可哀そうに…… 小鹿飼先生っ! 本当に紗季ちゃんは苦しい思いをしてるんですよ! あなたのせいで! あなたは本当にお医者様なんですか?」
沼田さんは怒りに震えあがって小鹿飼に捲し立てた。
小鹿飼は天井を見上げて何か独り言を呟いていた。そのあとの笑顔がとてつもなく不気味で紗季は背筋がゾッとしてしまった。トラウマを植え付けたそこの張本人は笑っていたのだ。
「わかりました。では点滴はなくしましょう もちろん注射もね 気が済んだら病室にに戻るんだよ 沼田さんの迷惑になってしまうからね ねっ! サキィー……」
小鹿飼はそういうと静かに病室の扉を閉めてどこかへ行ってしまった。小鹿飼がいなくなった後に紗季と沼田さんは顔を見合わせた。小鹿飼を追い返すことができたと笑い合いたかったが、紗季の体は恐怖に震えていて、沼田さんは優しく紗季の震える腕と背中を順番にさすってほぐしてくれていた。
治療方針
度々しのぶは紗季の病院に行って、小鹿飼と今後の治療方針について話し合っていた。
「……しのぶさん……実はこのことは言うか言うまいか迷っていたのですが……」
小鹿飼はしのぶに対して神妙な面持ちでもったいぶった言い方をした。
「なんですか? 紗季のことで何かあったんですか!」
小鹿飼は申し訳なさそうに、長袖をめくって生々しい引っ搔き傷をしのぶに見せた。
「まさか…… この傷は紗季が先生に乱暴を働いたのでしょうか?」
「あっ! いえいえ 私にではなく、サキさんが……あの……見えている幻覚のようなものが……いやしのぶさんにはちゃんと話しておかなければならないな ごまかさずに説明します サキさんは統合失調症です この病気は治療によって安定していく病気なのですが、今のサキさんの状態はかなり不安定で、もし退院された場合に通院での治療となると、かなりしのぶさんの心的と物理的負担が想像できます ただ長期入院したら費用も掛かってしまうというのがありまして、私も医師としてどのようにサキさんの心の健康を取り戻してあげられるかをどういった形が最善策なのかを悩んでいまして」
小鹿飼は自分が抱えている悩みをやっとサキの保護者に打ち明けられたという演技をした。
「先生っ! 費用のことについてはご心配なさらずにどうかうちのたった一人の娘をなんとか普通の人間になれるように治療してください 紗季がいない家は寂しくてぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになってしまいますが、早く紗季が元通りの明るい女の子に戻ったら、今までの分をちゃんと取り戻したいと思います だから今は紗季が家にいなくてとても寂しいですがちゃんと治るまでよろしくお願いします」
しのぶは涙目になって小鹿飼の手を取って紗季への想いを語った。小鹿飼もしのぶの目をみて何度も力強く頷いた。
「しのぶさんのサキさんへの想いがわたしの心に十分強く伝わってきましたよ わかりましたしのぶさん! 私が出来得るすべての技術を持って娘さんの治療に当たりたいと思います」
「どうかうちの娘をよろしくお願い致します」
そう言ってしのぶは小鹿飼と話を終えると、紗季の病室には立ち寄らず、そのままタクシーで病院を後にした。
退院
沼田さんの退院が早急に決まった。無理やり追い出されるようにしていなくなってしまったのだ。紗季がいつものように沼田さんの病室に遊びに行ったときにベッドには掛け布団がなくなっていて、沼田さんの数少ない私物も整理されていた。
(いったいどういうこと?)
紗季は目の前が暗くなるようなショックを覚えた。
「沼田さんには退場してもらったよ サキィ……」
背中から突然小鹿飼のねばりつくような声が聞こえてきて紗季はぞわっと全身が震える恐怖を覚えた。
「あんたはいったい 何がしたいの?」
紗季は震える声で小鹿飼に言った。
「うん サキが僕の思い通りになくなっちゃったのってあのババアが邪魔してたからでしょ? だから排除したんだ」
「……狂ってる……」
「ええ! 心外だな 社会的に見れば僕ではなくて狂っているのは君なんだぜ サキィ」
「前から言おうと思っていたんですが、あなたに下の名前で呼ばれたくないんでお願いですから苗字で佐藤で呼んでもらえませんか?」
「お互いに全部何もかも知り合っているのに今更そんな他人行儀なこと言わないでよ」
小鹿飼はにやけながらサキを見ていた。
紗季の中で頭の線がプチンッと切れたような音がした。
「ワーーーーーーーーー! ヤダーーーーーーーー! ぎゃーーーーーーーー!」
紗季は小鹿飼に掴みかかって首を絞めた。さすがに紗季の声は病院内に広まってしまい、まずいと思った小鹿飼は紗季の首筋に隠し持っていた注射を打った。そして自分の人差し指を紗季の唇にそっと置いた。
「サキが今まで病院内を自由に行動できていたのは僕の管理下だったからなんだよ 他が担当だったら最終手段で身体拘束されてるよ もちろん外出なんか一生できない!」
紗季は薄れる記憶の中で小鹿飼の神経に触る口調を聞いていた。
紗季が次に気が付いたのは、自分の病室のベッドだった。
「良かった。目が覚めたようね」
看護婦さんが紗季に話しかけてくれた。紗季はすぐに飛び起きて、あたりに小鹿飼がいないかを警戒した。
「小鹿飼先生ならば、あれから佐藤さんに対する治療のことで問題がなかったかどうかを調査されているわ しばらくは佐藤さんの担当から離れることになったの」
「えっ!」
紗季の目の前が一瞬にして明るくなった。
「小鹿飼先生って何か佐藤さんに対して……その……性暴力的なことはなかったの?」
「……」
「ごめんね 辛かったね まずはゆっくり休んで気を確かに持ってね」
この看護婦さんは高橋さんといった。左手の薬指にリングをはめている聡明そうな綺麗な若い女性だった。
病室の窓が開いていてカーテンが揺れた。時刻は夕方で優しい風が入って来た。紗季にとって久しぶりに一人だけの静かな時間が流れたような気がした。
本当に珍しい訪問者
紗季が朝起きて、自宅から持ってきた本を読んでいると病室のドアをノックする音が聞こえた。摺りガラスからおおよその人の形が見て取れた。それは母親のものだった。
母親は久しぶりに紗季に会ったかと思うと何も言わずに走り寄って来て、突然泣きついてきた。
「突然ごめんなさいね 実はお父さんが、あなたのお父さんがね 昨日亡くなったの」
母親は先程の悲しみがまるで演技だったかのようにしっかりと自分の足で立って紗季に説明をしていた。
(ああ ブランコが言ってたことが現実になったんだ)
紗季はそのくらいにしか思わなかった。
「よかったじゃん お母さんあの人に暴力を振われていたんだし、いなくなってせいせいしたんじゃないの?」
別に悪気なく紗季はしのぶに淡々とこう答えたが、しのぶの顔はみるみる怒りを滲ませていて、紗季の左頬を平手打ちをした。
「あんたっ! 自分の父親が死んだって言うのになんでそんな平気な顔でそんなことがいえるの? あんたがこの病院で高い家賃で住んでられるのはあんたの父親のおかげでしょ? これからどうやって生きて行くつもりなの?」
「えっ? 私は一日も早くここを出ていきたいし、なんならすぐにでも働いて自分ひとりで生きてゆくよ? えっ? なにっ? あんた大丈夫? 自分で今何を言っていて、何を心配しているのかって わかって……いるんだよね?」
母親の浅はかな怒りに呆れてしまったが、まあ母親も夫が死んでしまって気が動転しているのだろうとこれ以上はあまり責めないようにしようと思った。
「……とりあえず、これから葬儀があるのであなたも手伝ってちょうだい」
結局は父親が死んで色々やることがあって大変だから、病院から一度出てきて、一緒に葬儀を手伝ってちょうだいということを言いにやってきただけだったのだ。紗季はもう母親に対して何かを期待するようなことはなくなっていたので、言われた通りに荷物をまとめて実家に帰る支度をした。
通夜は意外にも多くの人が故人との最後の別れを惜しんでやって来ていた。それこそ日本中に散らばった匡一の妾たちが一堂に会する異様な雰囲気となっていた。
(ん? あいつは王様だったの? 中東あたりの風習が紛れ込んたのかな?)
紗季が見た通夜に来ていた人たちの多くは女の人で父親の最後を見せるために子どもがいる女は匡一の写真を見せて子供に教えていた。驚いたことに匡一の浮気相手たちはコミュティがあったようでオフ会のような形で平和な盛り上がりを見せていた。
紗季はここまで来ると自分の父親のことを逆に尊敬してしまいそうになった。自分にはいっぱい弟や妹がいるんだとなぜか肉親が増えたことによる安心感も覚えてしまっていた。
翌日の告別式では、しのぶの隣に小鹿飼がいた。紗季は自分の目を疑ってしまったが事実だった。なぜ小鹿飼が匡一の告別式でしのぶの隣で関係者面をしているのかが全く持って理解できなかった。
「お母さん どうしてこいつがここにいるの? こいつは犯罪者だよ 未成年に性暴力をしたやつだよ お母さんしっかりして! なんなの?」
「サキィ 僕のことをありもしない妄想で誹謗中傷するのはいいよ でもね今は君のお父さんの告別式なんだよ わかる? 悲しみに気が動転しているのは分かるけどこれ以上君のお母さんを悲しませるような言葉を気安く吐き出すのはやめてくれないか!」
しのぶは悲しみを小鹿飼にぶつけるように抱き合って声を出して泣き始めた。なんだか演技掛かっていて大袈裟な泣き方だった。
「大丈夫ですよ お母さん 僕が味方ですから」
紗季はこの二人を見て気持ちが悪くなった。何をどうしたらこのような世界観を築くことができるのだろうか? 紗季には全くもって理解不能だった。故人である匡一の前で堂々と抱き合って慰め合っている二人のことは周りもざわめいていた。
「アイツ アイツ ハンニン フタリ ユルセナイ」
紗季は聞き覚えのある話し方を背中で聞いた。振り返るとブランコだった。とても久しぶりな感じがしてなんとなくうれしかったが、ブランコは紗季との再会よりも教えることを最優先していた。ブランコの伸びた腕の先の手は人差し指と中指でしのぶと小鹿飼を捉えていた。
「えっ? どういう事? 私の父親はまず殺されたの?」
紗季はブランコに質問をした。
「サキ……サキっ! ねえっ!サキっ あんたはいったい誰と話しているの?」
しのぶはなんだか焦っているようだった。小鹿飼を突き放してこちらに急いで近付いてきた。
「ウン コロシタ シノブ タスケタ 小鹿飼 フタリ デキテル」
「誰が殺したって? ねえ? サキは犯人知ってるの? もし知っているなら教えて もしかしたらこの中に犯人がいるの? ねえ? サキ サキはいったいどうしたらその妄想病が治るの? 本当に迷惑なんだけど どんだけお母さんがあなたのせいで苦しんでいると思うの? ねえ わかってるの? ねえってば」
「サキィ お母さんはこう言ってるけどいつもサキのことを心配しているんだ 今は気が動転しているだけなんだ お母さんのことは恨まないで欲しい」
しのぶが紗季に近付いて襟首をつかみ上げて紗季をこき下ろしているのを見かねて小鹿飼が間に入った。
(ちょっと入るよ いい?)
ブランコが紗季に言った。紗季はお願いしますとブランコに言った。
「皆さん聞いてください 私はブランコと申します 匡一さんは計画的に殺されました 私はブランコです サキではありません 匡一さんを殺して保険金を手に入れるためにはサキが邪魔でした。そこでサキをどこかに閉じ込める必要があったので、普通の人は見えないものが見えてしまって苦しんでいるサキを利用して前から付き合いのあった小鹿飼と口裏を合わせてサキを無理やり入院させたのでした シノブはサキを小鹿飼に売りました シノブと小鹿飼は恋人同士でしたが、小鹿飼はサキを選びました シノブからサキを売ってもらうために しのぶに病院にある毒を譲って、しのぶは匡一さんに毒を盛って殺しました これが真実です 病院のある薬の在庫履歴を調べてください」
ブランコは最後の力で紗季の体を借りて話をした。ほぼ忘れてしまった文法は紗季の脳から拝借した。これがブランコの最後の言葉となった。
シノブはあまりものショックからか気を失って倒れてしまった。ブランコが成仏したあとに紗季の体は自分に戻った。会場は騒然とした。小鹿飼は真顔で紗季を睨み付けていた。
私のヒーローがやって来た
紗季の告別式での話はただの妄想でしかないということになってしまっていた。小鹿飼は紗季の担当から外れていたのだが、小鹿飼の患者を救いたいという強い思いが、患者に対して少なからず重荷に感じてしまったのだろうと病院側は総合的に判断をして担当は再び小鹿飼となった。何よりも紗季の保護者であるしのぶから強いアプローチが病院側にあったようだ。病院も商売だ。長期入院で一番高い病室を使用してくれてる患者よりも費用を払い続けてくれている保護者の意見が強く影響した。しのぶが強く推奨しているのが小鹿飼である。小鹿飼でなければ他の病院に移るとまで言われてしまえば病院側もそうする他はなかった。
紗季は絶望に暮れた。小鹿飼の性暴力は日に日にエスカレートしていった。
紗季はもう死のうと考えていた。小鹿飼にこれ以上おもちゃのように自分の肉体を遊ばれるのなら死んだ方がまだよいと思っていたのだった。
点滴の時間に紗季は毎度それを拒否していた。看護婦さんも仕事なのだから毎度毎度拒否されてしまうと気が悪いとは紗季も思っていたが、自分を守るため言わざるを得なかった。今日はあの時に希望をくれた高橋さんが紗季の担当をしてくれていた。
一応ダメもとで点滴を拒んでみた。
「わかったわ 本当はね わたしは小鹿飼先生のことがどうも信用できなくて、佐藤さんに対してとても申し訳ない気がしているのよ 私だけじゃなくて他のスタッフもこのことは気付いているからね 遠慮せずに何でも言ってね」
「お姉さんは結婚してるんですか?」
なんとなく紗季は高橋さんに興味を持って話しかけた。
「うんっ」
高橋さんはキラーンと口だけ動かして左手の薬指を紗季に見せてくれた。
「彼は、工事現場で働いていて、元ヤンキーなの 地元では超有名で喧嘩はめっちゃ強いんだよ もしどうにもならなくなったらうちの旦那がやっつけてあげるからね」
高橋さんは紗季を目一杯に励まそうとしてくれていた。紗季は高橋さんと話していると楽しくなった。友だちになれたらいいなと少し思った。
夕方の六時はまだ明るかった。いつものように小鹿飼がルーティンワークを終えて紗季の病室にやって来た。通常の習慣で紗季はこの時間には熟睡していた。
夢の中で黒い悪魔が紗季のほっぺを舐めてきた。紗季はまた嫌な悪夢をしていると認識していた。恐怖で汗が出てくる。それを悪魔は喜んでいて舐めている。紗季ははっと目を覚ました。目の前に小鹿飼の顔があって驚いて撥ね退けた。
「あれ? 今日は点滴してないの? 担当誰だっけ? 一回お灸を据えないとわからないのかなぁ あいつら」
小鹿飼に知らず脱がされて、紗季は下着だけになっていた。飛び上がり、病院のローブを羽織って紗季は屋上を目指して走り出した。
「ああっ 待ってよサキィ」
小鹿飼が追いかけてきた。
屋上にたどり着くと、六時を過ぎているにも関わらず、空は青く雲一つない晴れ間でまだまだ明るかった。紗季は屋上の冊を乗り越えて飛び降りてちゃんと死ねる場所を探していた。下を見ながら冊に沿って歩いていると小鹿飼がやって来て見つかってしまった。
「おいっ サキッ 冗談だろっ? 冊の外は危ないからこっちに来なさい」
小鹿飼は勢いよく紗季に近付いてきていた。
「近づくんじゃねえよ、きもいんだよっ!」
「おい、サキっ! 落ち着きなさい、危ないからこっちにおいで!」
「気安く下の名前を呼ばないで!」
紗季は下着姿で病院のローブを羽織っているだけでマントのように風になびいている姿が恥ずかしかった。せめて紐でしばっていればよかったのにと後悔した。
なぜ恥ずかしいと感じたのかというと決して、小鹿飼の前だからではなかった。もはや小鹿飼に自分の裸を見られてもなんとも思わなかった。見せたいとも思っていないのだがどうでもよい対象外の人間に対して恥ずかしいと思う事がなくなっていたのだ。
それよりも紗季が意識していたのは小鹿飼よりも奥にいるビデオカメラを持ってこちらを撮影している男の子に対してだった。
紗季はこの少年と最悪の出会い方をしてしまったなと思ったのだった。
二〇一〇年八月 夏休みの終わり 病院の屋上
サトシが小学五年生だったときのことを回想する。
(あの子猫はどちらにしても生きていけなかったんだろうか?……)
サトシはぼそりと独り言を言った。
「ちゃんと撮れてる?」
今日のために準備した白いワンピースを風になびかせて、紗季は五メートル先のサトシに話しかけていた。風の音に邪魔をされているし、声の大きさは普段と一緒なのだがサトシの耳には紗季の声が良く響いた。サトシはゆっくりと頷いた。
サトシはビデオカメラのレンズ越しに紗季をみていた。張り詰めた神経を紗季の方向に集中していたので、もしかしたら聞こえていたわけじゃなくて唇の動きを読んで理解したのかもしれない。
紗季は今から発する自分の言葉の意味と発する声のイントネーションのギャップを想像して頭の中で何度か言葉を繰り返した。
「……ふぅ 今からここから飛び降りて死にまーす」
紗季はカメラ目線のまま、自分の人差し指を下方向に指し示していた。
人間どんなときでもカメラの前に立つと芝居がかるのかなとサトシは思った。サトシはできる限り、手に持ったビデオカメラが手ブレしないようにと慎重に近づいて行った。
そしてそれは一瞬だった。紗季は下を見つめて、病院の屋上から飛び降りてしまった。
紗季は飛び降りる瞬間、色々なことが頭の中で思い出された。残念ではないけど最後に思い出されたのは、サトシとの何気ない夏休みの日々だけだった。サトシに会えて本当に良かったと思うと紗季はそれまでのすべての事に感謝ができた。
机に突っ伏すようにもたれかかった先には何もない青い空が広がっていた。ワンピースが風の抵抗を受けてこのままどこまでも飛んで行けそうな気がした。
風の音が大げさにビデオカメラの音声に響く。
(生きていては いけなかったんだろうか?……)
サトシは白いワンピースをひらひらとなびかせながら落ちていく紗季の一部始終をビデオカメラの中に録画させていた。サトシは天使が撮れたと口角が自然と上がった。
昨年二〇〇九年十二月 冬休みのクリスマスイブ 街角の路地裏
サトシは一瞬、目の前で今何が起きたのかが分からなかった。いつものようにビデオカメラを持って外を歩いていると、路地裏があって灰色の冷たいコンクリートの塀に閉ざされた行き止まりの所で猫の親子に遭遇したのだった。二匹の猫は飲食店の裏口に置いてある青いポリペールのごみ箱が二つ並んでいる隙間で北風から逃れて、すべてから隠れるように存在していた。
子猫は小さくて可愛かった。しかし母猫は酷く痩せていて汚れていた。サトシは子猫をもっと近くで撮影したいと思い、カメラを回して猫の親子に近づいていった。母猫はサトシに気が付くと、目線をサトシに合わせて間もなく威嚇を始めた。そしてサトシを睨み付けたまま大きな鳴き声で鳴いた。最初の一歩、二歩はゆっくりこちらに近付いてきて、三歩目に差し掛かると後ろ足に溜めた太腿の脚力を目一杯出力してサトシに向かって飛び掛かってきたのだった。母猫の咄嗟の行動にびっくりしたサトシは後ろにのけ反ってそのままビデオカメラを落っことしてしまいそうになった。猫の爪は鋭くて、サトシは強い痛みと共に、左手の肉のごく一部がそぎ落とされてしまっていた。血が絶えず溢れてアスファルトに滴り始めた。
サトシはもうこれ以上近づくのはやめた方が良いなと思った。ビデオカメラを首に下げて、左手を上げ、血でビデオカメラを汚さない様に気を付けた。
外敵を追い払うために母猫は子猫から離れてしまっていて、子猫が取り残されている。
母猫は依然としてものすごく怒って鳴いている。サトシは素直に悪いことをしたなと思った。一方、子猫は今まで母猫の傍で暖かく寝ていたのに、急に母猫がいなくなってしまい寒くなってしまったことに不安を覚えて母親を求めて鳴き出した。子猫は鳴きながらよろよろと歩き始めた。サトシはこの子猫はたぶん感覚器官に何かしらの障害があるのだろうと思った。母猫の方向を捉えることができず、明後日の方向に向かって不安そうに歩いている。 サトシは猫の親子の状況をなんとなく察した。
サトシは子猫を助けたいと思った。カメラは回していたけれど、子猫にケガなどがないかを確認しようと近付いていった。できるのなら家に持って帰って温かい牛乳を飲ませてあげようと思ったのだった。これが良くない結果を招いてしまった。サトシが子猫に近づいたそのとき、母猫は子猫に勢いよく走り寄って、子猫の首元をかみ切ってしまったのだ。
びっくりするくらいあっという間の出来事だった。母猫はおとなしくなった子猫の顔を何度も何度も舐めていた。なぜか母猫のサトシに対する警戒は解かれていて、優しい顔つきになっていた。
外の様子が騒がしいと裏口から料理人の恰好をした男の人が出てきた。母猫は人が増えたことで焦りを感じたのか、子猫を置き去りにして塀を飛び越えて消えてしまった。
料理人の男は状況が良く分からなかったが、サトシがけがをして血を流しているということを心配してくれた。
「おおっ 何があったの?」
料理人は子猫の屍とサトシを交互に見ていた。サトシはその答えを持っていなくて説明が出来ずに黙っていた。
「とりあえずそこで待ってな ケガの手当てをしてあげるから」
裏口の扉が閉まり、再び扉が開くと料理人の代わりに救急用具を持った女の人がサトシに近付いてきて、サトシの左手を手当してくれた。
「ここに住んでた猫の親子の子どもの方だね カラスがやったの?」
「いいえ 母猫が子猫を噛み殺したんです」
サトシはこの質問に対しては答えることができた。
「じゃあ この傷はお母さん猫にやられたんだ」
「はい」
「この親子にむやみに近づいたんでしょ? 無理やり近付いたらびっくりするでしょうが」
サトシはこの女の人に叱られているということに気付き始めた。しかしあまり納得がいっていなかった。
(子猫を助けたいと思っただけなのに……)
「はい」
色々思うところはあったが、サトシは女の人の話を聞いてただ頷いた。
母猫は焦っていて、子猫を咥えて逃げようとしたら歯が偶然子猫の急所を刺してしまったのか? それとも覚悟を決めて一思いに殺意を持って首元を噛み切ったのかどうかはサトシの知る由もなかった。
サトシは女の人にお礼をいうと女の人はサトシの頭を一度撫でて、店内の方へ戻っていった。その場から動けずしばらく呆然として、動かない子猫を見つめていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。サトシは体の芯まで冷え切ってしまい、ふと我に返り、その場を後にした。
サトシが次の日、同じ場所に行ったときに子猫の屍はなくなっていた。昨日の事はもしかしたら嘘だったのかもしれないとサトシは思いたかった。女の人に言われた言葉が昨日の夜からずっと頭から離れずに気になってしまった。子猫を殺したのは母猫に違いないけどサトシはどうしてか、自分が子猫を殺してしまったような気持ちなってしまうのだ。
昨日の事は夢であってほしいと思ったが、現実にビデオカメラに昨日の動画はしっかりと録画されていた。
年が明けてサトシはあの時の母猫を何度か見かけたときがあった。母猫は酷く痩せた状態から一転して、とても健康的な艶のある毛並みとなって若返ったように見えた。
(もしかしたら、母猫はあの後戻ってきて、子猫を食べたのではないだろうか? だとしたら……)
サトシはそう思うと、この母猫に対してとても興味が沸いてしまった。
翌年二〇一〇年八月 夏休みの序盤 病院の屋上
サトシはビデオカメラを持って、病院の屋上を見上げていた。ただ何となく見上げた先に女の人がいた。
女の人は屋上で冊の外側を縁取るように歩いている。サトシはこの女の人を地上からビデオカメラで撮影をしていた。何か得体の知れない好奇心から行動していた。サトシは病院の中に入り、誰の許可を取ることもなく、無断で屋上に向かっていった。屋上に続く階段は薄暗かったが、扉は少し開いていて、そこから外の光が集まってきている。サトシは外の光を目指して進んでいった。階段の途中、踊り場に差し掛かると屋上にいる人間の声が聞こえた。 女の人が誰かに対して大声で罵声を浴びせている。
「近づくんじゃねえよ きもいんだよっ!」
女の声は力強く誰かを威嚇していた。サトシは持っていたビデオカメラを右目に当てて録画を開始しながら慎重に進んでいった。
「おい サキッ! 落ち着きなさい 危ないからこっちにおいで!」
カメラのレンズ越しには、白衣を着た男の人の背中とその先に、冊の外側で対峙している半分裸の女の人が映った。
「気安く下の名前を呼ばないで!」
女の人はだいぶ興奮している。そして白衣の男の人は恐らくこの病院の先生なのだろう。 治療か何かで不安な思いをして、パニックになった患者をなだめようとしているのだろうとサトシは察した。
「そんなこと言うなよ サキィ 俺はお前のすべてを知っているんだからさぁ……だから」
サキという女の人とサトシは先程からずっと目が合っていた。そのことに気付いた白衣の男の人は後ろを振り返ってサトシを確認した。白衣の男の人とサトシは目が合った。少し離れたところでもわかるほど怖い顔をしてこちらを睨み付けている。サトシは右手のビデオカメラをぶらんと下げて立ち尽くしてしまった。いつか起きた猫の親子の事がサトシの脳裏に甦った。サトシはとても嫌な気持ちになって、少し気持ちが悪くなってしまった。
「誰だよ? なんでここにいるの?」
白衣の男の人は驚ろかされたことで、イラつきを露わにして、畳みかける早口でサトシに向かってそう言い放った。白衣の男の人はサトシにゆっくりと歩いて詰め寄った。視線はサトシの右手に持っているビデオカメラを見ていた。
サトシは大人の男が怒って、こちらに近付いてくることに対して、恐怖で縮こまってしまった。相手の顔をまともに見ることは出来なくなっていて、サトシは白衣の男の人の左胸に付いているネームプレートをただただ見つめていた。
「なんで勝手にここに入ってきの? どこまで盗み聞いていた? それで勝手に録画したの? やっていい事と悪いこの事の区別がつかないわけっ!! お前みたいな奴は社会のお荷物なんだよ? お願いだから消えてくれよ!」
最後の畳みかける口調がとても大きくて強くて、サトシはたまらず泣き出した。サトシはしゃがみ込んで嘔吐してしまった。時間は夕方でお昼ご飯はもうとっくに消化されてしまったので口から出たのは薄い黄色の胃液だけだった。
サトシは小鹿飼(小鹿飼カカイ 漢字を読むとそうなる苗字)先生に社会不適合者と罵られたときに結局母猫の足手まといになっていたのが子猫で、今の自分はその子猫と同じ立場に立たされているのだとサトシは感じた。
(自分は生きていて良いのだろうか?)
「ごめんなさい…… ごめんなさい…… ごめんなさいっ!」
サトシは涙を流しながら苦しそうに四つん這いになって、言葉にならない声を発した。
小鹿飼の放った攻撃性の凄まじい言葉と態度にサトシは成す術もなく心に致命的な傷を負ってしまったのだった。
小鹿飼はサトシの状況をみて、医師として手当てをしなければと思い近づこうとした。
しかし、小鹿飼の横をスッと通りすぎた紗季が小鹿飼よりも先にサトシにたどり着いた。
そして紗季は小鹿飼の前に立ちはだかり、サトシに近づけまいと制止した。
「この子は私の弟だから私が面倒をみます 小鹿飼先生はそろそろ仕事に戻った方が良いんじゃないですか?」
紗季はサトシを怯えさせない様にできる限り小鹿飼に対して、冷静で落ち着いた物言いをした。
「うん まあとにかく紗季が落ち着いてくれたから良かったよ でも紗季に弟がいたなんて初耳だなぁ」
小鹿飼は紗季とサトシの顔を見比べた
「ごめんね 急に後ろにいて 僕らの会話を撮影していると思ったから 怖がらせるつもりはなかったんだよ ねえ紗季、弟君の名前は何て言うの?」
「あなたに答える必要はあるんでしょうか?」
紗季はとても冷たく小鹿飼に言い放った。
「オカダ・・・サトシです」
サトシは小鹿飼に答えた。
紗季はサトシの返答に困ってしまった。なんでこいつに応えるんだよという思いだった。
「ふうん サトシ君だね これからもよろしくね じゃあ僕は仕事があるからこれで失礼するよ 佐藤さんは後でシンサツが必要みたいだね 退院が長引かなければ良いけど」
小鹿飼はサトシには目もくれず、不敵な笑みを浮かべて屋上の扉から出ていった。
屋上で紗季とサトシは二人きりとなった。紗季はサトシが自分に目を合わせてくれるまでじっと見つめて黙っていた。しばらく時間が経ってサトシの目線が一瞬だけ紗季を捉えた。紗季はその一瞬を逃さずに目が合ったと思うとサトシの両手を捕まえた。
「助けてくれてありがとう」
紗季の言葉をサトシは理解できなかった。何を感謝されているのかが分からなかった。もっというとお医者さんに対してあまりにも乱暴な口のきき方をしているこの病人は、恐らく頭がおかしいから相手にしてしまうと厄介なことになってしまうのではないかとサトシは思っていた。
「怖がらないでよ 別に取って食べたりしないんだから」
紗季の話し方がさっきまでの雰囲気とはまるで違うので、サトシはもう一度紗季の顔を見つめ直した。肩まである長い髪がサラサラと風に揺れている。白くて透明感のある肌はテレビで見たことのあるような女性の雰囲気だった。紗季の瞳はサトシを真剣に凝視していた。
紗季の口元の表情は完全にコントロールされたクリスマスツリーのライトアップみたいに綺麗で多彩な表情をしていた。同時にサトシの返答次第で、如何様にも変わってしまうような脆さと敏感さをも持っていることをサトシは感じた。
サトシには紗季が悪い人には見えなかった。自分よりも年上なのになんとなく弱くて脆そうで、可哀そうな気持ちを紗季に覚えてしまった。こんな気持ちを人に対して感じたことは今まで一度もなかった。サトシの表情は警戒から安心感に変わっていった。その瞬間、紗季の表情もほどけて笑顔がこぼれた。
「助けてくれてありがとう」
紗季はもう一度丁寧にゆっくりとサトシに伝えた。サトシは紗季の言葉の意味を本当に理解したような気持ちになった。
「さっき弟とか言っちゃったけど 友達からよろしくお願いしまーす」
紗季は急におどけた口調で姿勢を正し、頭を下げ、九十度に近いお辞儀をしてサトシに右手を差し出した。
ミンミンゼミが力強く鳴き続ける。太陽は照り付けて雲一つない青空だった。サトシはどうしてよいかわからず俯いてしまった。次第に気まずい状況が辺りを包んでいく。しかし紗季は笑いながら、サトシの左手を両手で掴み、大げさに上下に揺らしたのだった。
「サトシ 明日も来てくれない? それで何を撮ったの? 私にも見せてよ」
紗季は顎でサトシのビデオカメラを指していた。改めて紗季の顔をじっくりと見てみたサトシは、紗季の口元の小さなほくろで目が離せないほどの魅力に吸い込まれてしまっていた。
サトシは二回大きく頷いた。サトシは紗季に明日の午後、紗季の病室にビデオカメラを持って遊びにいくことを約束したのだった。
二〇一〇年八月 夏休みの夕立 病室
ビデオカメラを持って、紗季の病室までたどり着くのは骨が折れた。最初はぽつぽつだったけど、あっという間に雨が強くなって、サトシは近くのコンビニに避難した。もうずぶ濡れである。店員にも客にも少し変な目で見られた。Tシャツの中に、ビデオカメラを雨に濡らさないように隠していて、サトシ自体はびしょ濡れになっているので仕方がない。コンビニの空調がサトシの濡れた衣服を冷ました。どうしようもなくなってサトシは寒くなった体を温めようと何も買わずにコンビニの外に出ると、空を見上げてコンビニの狭い屋根で雨宿りをした。地面を打ち返す雨がサトシのビニール製のランニングシューズに掛かって靴を光らせていた。
雨の勢いは次第に弱まり、空は晴れ間をのぞかせた。サトシは雨が止んだのかを手の平を空にかざして念のために確認した。紗季の病院はすぐそこでサトシはスキップをしながら病院に向かったのだった。
紗季はサトシのTシャツを脱がし、タオルでサトシの髪をワシャワシャと拭いた。靴下は水洗いして絞り、きれいに洗面台に広げていた。そして二人はサトシが撮りためた動画を、ベッドに横並びになってしばらくの間眺めていた。
「過激だねぇ」
紗季はニヤニヤしながらサトシに顔を近づけた。サトシはこの動画を一度だけ友達に自慢したくて見せたことがあったが、その時の反応は悲鳴に近くて、それ以降友達はサトシを遠ざけるようになったのだったが、紗季の反応はそれとは明らかに違って楽しそうだった。年上の大人だからなのかもしれないなとサトシはそう思った。
二〇一〇年八月 夏休みの日常 病室
紗季とサトシは気が合って、よく一緒にいるようになった。当時、紗季は高校二年生でサトシは小学五年生だった。年は七つ離れていた。最近は約束もなくサトシは紗季の病室にいくことが日課になっていた。
たまに紗季の病室には珍しいお菓子が置いてあった。それはサトシは食べたこのないとても美味しいお菓子だった。ジャンケンして勝った方が食べるという遊びなどを二人で開発したりして時間を過ごしていた。何を話すということはなかったが、二人は楽しかった。
そんな夏休みの日常を過ごしていたある日、紗季は突然サトシにあるお願いをした。
「そのビデオカメラさぁ…… ちょっと貸してくれない?」
「えっ! なんで……?」
サトシがびっくりして答えると二人の時間が一瞬止まり、お互いの目が合った。紗季の表情があのときの弱くて脆い顔になってしまった。
サトシにとってこのビデオカメラはとても大切な特別なものなので正直困ってしまった。
「貸してくれたら、とっておきの面白いのを撮ってあげるよ レアなやつ……」
紗季の表情は引き攣っていたので、言葉の意味はサトシは素直には受け入れられなかったが、紗季の顔をみると同情してしまい、ビデオカメラを紗季に渡した。
「いいよ」
サトシは言った。
「ありがとう! じゃあ使い方を教えて」
紗季はサトシにぐっと近付いて、ビデオカメラの操作方法である録画の方法と再生方法を教えてもらった。
二〇一〇年八月 夏休みのお盆 病室
サトシは今日も紗季の病室に向かった。しかしいつもは開いている紗季の個室に今日は珍しく鍵が掛かっていて、誰も入れなくなっていた。サトシは何だろうと思ったが、紗季の病室の一番近くにある休憩場で時間を過ごしていると、やがて紗季の病室の扉が開いて、大人が二人が出てきた。大人二人はサトシに全然気が付いていない様子だった。大人のうち一人は屋上で会ったことのある小鹿飼先生だった。もう一人は誰だか分らなかったが、緊張するほどしっかりとした、よそ行きの服装の大人の女の人だった。
サトシは大人二人が通り過ぎた後に、紗季の様子を見に行った。紗季はベッドに座って両手を強く握った拳をひざの上にのせて俯いていた。長い髪で紗季の表情は見えなかった。 サトシは紗季に話しかけて良いものかわからず、病室の入り口で黙って立ち止まっていた。
紗季はサトシの存在に気付いていた。自分の準備ができるまで待ってくれているサトシに対して、いつも紗季はサトシに感謝していた。しばらくの沈黙のあと紗季からサトシに話しかけた。
「サトシはお小遣い制なの?」
「……うん」
「今、いくら持ってるの?」
「三百くらい……」
サトシは自分の銀行残高を答えた。
「勝った!私は五千円くらい持ってるのよ!」
サトシは自分が何かを勘違いをしていると思ったが、空気を読んで黙っていた。今現時点でサトシはお財布を持って来なかったので、0円ということになる。少しまずいと思った。
「……」
「今日、病院から抜け出す」
「えっ?」
紗季とサトシの目が会った。紗季の目は充血していた。鼻水も垂れていた。
紗季はうすピンク色の病衣を親指と人差し指でつまみ上げて首をかしげながらサトシに笑いかけた。
「これだと、恥ずかしいかな? 外歩くの 一緒に……」
サトシは無表情で紗季をみている。サトシは何も答えなかった。仕方なく紗季はサトシにもっと近づくように手招きした。そして紗季は自分のぬいぐるみを抱くように力強く、気安くサトシを抱きしめた。
「もうこっから出られないかも知れない あいつとお母さんが私をずっとここに閉じ込めようとしてるの! 助けてほしい どうしたらいいか分からない サトシィ…… 誰に言えば助けてくれるんだろう?」
紗季は良い匂いがした。食べ物ではない良い匂い、食べられないけど良い匂い。小さい頃ビー玉がきれいなので思わず口に入れてしまったことがあったが、その時の感情がサトシの中で甦った。
紗季はサトシのTシャツを力強く握りしめ、まるで子供が親にすがるように声を出して泣き出した。紗季の体液がサトシのTシャツに染みて濡れていった。このときにサトシの溢れる悪意と本性がむくむくと起き出してその対象が今、明確に小鹿飼に向かい始めていた。サトシは何かを紗季のために計画していたのだった。
「サキが撮ったヤツを僕にも見せて」
サトシははっきりとした口調で紗季に言った。
「うん そのつもりだけど 大丈夫? 私の裸が映ってるよ アイツが私をレイプしているところを撮ったから」
「うん わかった」
「サキ コジカイに復讐したいなら この病院から飛び降りる?」
「えっ! サトシは私が死んでもいいの?」
「僕に任せてくれたら、とんでもないダメージをコジカイに与えることができるよ」
「わかった じゃあせめて白いワンピースを準備するからそれからでいい?」
「いいよ」
サトシは笑顔で紗季に頷いた。紗季はサトシを信じて言われた通りにすることに決めた。
二〇一七年八月 サイコパスと愛想笑い 七年後
サトシは動画配信サイトの世界でとても有名だった。日常目にすることができない過激な映像を動画で配信している。真っ暗な部屋で自分を映して、冒頭に話したいことを少し話したあとに動画を流すスタイルを続けている。他のインフルエンサーの影響を受けてこの形に納まった。
「こんばんは、オカダサトシです 今日の内容ですが、もう七年も前になりますが精神病の女の人と一緒にいる時期があったんですよ で彼女は自殺を考えていたので彼女の最後の願いを聞いてあげることにしたんですね」
リアルアイムで視聴している人たちから続々とコメントが流れてくる。サトシは流暢に視聴者に語り掛けていて、右から左に流れているコメントをたまに拾いながら視聴者に返答してあげるファンサービスも怠らなかった。
「無料の部分は彼女が屋上から飛び降りる映像まで閲覧できます ちょっと刺激が強いので心臓の弱い方はこのままこのチャンネルをそっと閉じてください 有料部分ではなぜ彼女が自殺をしなければならなかったのかを解説していきます 彼女は自分の病室にビデオカメラを忍ばせて、いわゆる隠し撮りをしたいと僕に行ってきたんですね 当時の僕は何かお化けみたいなものが襲ってくるところを撮影するのかなぁと思ったんですが、映像見たときにお化けどころの騒ぎじゃなくて本当にもうびっくりしてしまったんです」
どんどんと視聴者数が伸びていく。みな待ち遠しいというようなコメントが並んだ。
「……それでは七年前に配信した動画を再配信します そのあとにアップグレード情報もありますのでお楽しみください」
サトシは笑みを浮かべた。真っ暗な部屋でそれはとても不気味に映った。
動画が始まると、一瞬コメントが止まったが一人のコメントを皮切りにコメント内容が集約していった。ものすごい美人であること、死ぬのもったいなくないかというコメントとオカダは何をしているんだ早く自殺を止めろというサトシの思惑通りのコメントが流れ続けたのだった。
二〇一〇年八月 病院の屋上
「ちゃんと撮れてた?」
「たぶん」
サトシは紗季に手を差し出して答えた。紗季はサトシの手を握るとすくっと立ち上がって、白いワンピースに付いた砂利と埃をはたいた。
建物からさも人が飛び降りるフェイク動画の撮り方をサトシは自分で編み出して開発していた。これはもはや手品に近かった。
「これさあ サトシのチャンネルで流したらものすごく儲けられるんじゃないの?」
紗季はニヤニヤしながら意地悪な表情でサトシをみていた。
「うん 多分お父さんの首つり自殺を実況中継したときくらいはいくと思う わかんないけどね」
サトシはビデオカメラを覗き込みながら紗季にそう答えた。
「これと私が隠し撮りした小鹿飼の正体を流して、あいつを社会的に抹殺してやろう ついでに母親ともこれを機に親子の縁を切ってやる」
紗季は興奮していた。二人は手をつないで紗季の病室に戻った。サトシの動画編集が終わるまで紗季は病院で大人しくしている方が良いということになったからだ。
「そういえばさあ、サトシ この間私を騙したでしょ?」
「えっ? いつ? 何の話?」
サトシはビデオカメラを見つめながら返事を返した。
「小遣いの下りだよ! あんた桁言わなかったでしょ! あのときはたった三百円かと思って可愛いと思っていたのに!」
紗季は思い出して顔を赤らめた。サトシはそんな紗季を見て笑っていた。
サトシは紗季の撮った記録をそのままDVDにして、病院の関係各所に対して送りつけていた。誰か一人でもこのDVDを見てくれさえすれば、そこから広まることを見越していたため、たくさんのDVDをたくさんの病院に送った。そして紗季の局部などが見えないように編集したものを自分の配信サイトに流した。この効果は絶大であれから小鹿飼を見かけたものは誰もいなかった。この病院自体も避難を受けてしばらく世論を賑わせたのだった。