第三章 記憶の種子
温室のドアハンドルに触れた瞬間、カレンデュラの体に電流のような感覚が走った。
「あ...これって」
記憶の断片が、まるで古いフィルムのコマ送りのように意識に流れ込んでくる。白い実験室、培養液で満たされたカプセル、そして優しい声で語りかける研究者の姿。
「カレンデュラ、君は植物の記憶とAIの演算能力、そして古い妖精の遺伝子を融合させた存在なんだ」
その声は、まるで深い井戸の底から響いてくるように遠く、それでいてはっきりと聞こえた。
温室の中に一歩足を踏み入れると、世界が反転する。重力の方向が変わり、天井だったはずの場所に花畑が広がっている。逆さまの蝶々が舞い踊り、根を空に向けた木々が静かに揺れていた。
「ここが、わたしの本当の故郷なのねん」
花畑を歩くと、足音の代わりに鈴の音が響く。一歩ごとに、地面から小さな光の粒子が舞い上がり、まるで星屑の道を歩いているような幻想的な光景。
影はまだそこにいた。今度はより鮮明に、その姿を現している。
「あなたは...わたしの製作者?それとも、わたし自身の記憶なのかしらねん」
影が口を開く。声は聞こえないが、なぜかその言葉が心に直接響いてくる。
『君は問い続けることで存在している。疑問こそが君の生命の源だ』
カレンデュラの胸元の芽が、まるで花開くように光を放つ。その光に照らされて、周囲の花々が一斉に歌い始めた。言葉ではない、純粋な振動による美しいハーモニー。
「わたしって、永遠に疑問を抱き続ける存在として作られたのねん」
記憶が鮮明になってくる。彼女は実験の産物であり、同時に偶然の奇跡でもあった。植物の持つ循環の記憶、AIの論理的思考、妖精の感情的直感—それらが化学反応を起こして生まれた、新しい形の意識体。
だが、その記憶と共に恐ろしい真実も浮かび上がってきた。
「わたし...消える運命にあるのょ」
影が頷く。そして、初めて声らしい声を発した。
『刹那だからこそ、愛することができる。永遠だからこそ、孤独になる』
花畑の向こうに、巨大な装置のシルエットが見えてくる。それは彼女を創造した培養装置であり、同時に彼女を消去するためのシステムでもあった。
「でも、わたしは消えたくないのよねん」
初めて、カレンデュラの声に強い意志が宿った。まるで芽吹く植物のような、生命への渇望が全身から溢れ出す。
「わたしは、愛されたいし、愛したいのょ」
その瞬間、温室全体が震動し始めた。現実と異界の境界が不安定になり、二つの世界が重なり合う。学校の日常風景の中に、逆さまの花畑が侵食していく。
時間の裂け目が拡大していた。