ぶちガチョウとワルツを〜今から魔法をかけよう、君がひとりにならないように〜
朝露に濡れた草地の上に、一枚の羽が落ちていた。
拾い上げた羽は純白ではなく、ところどころに茶色の斑がついている。小さなぶち模様――まるで水彩絵の具がにじんだような、やさしい色合いだった。
視線を上げると、芝生の上に点々と、同じ茶色まだらの羽が続いていた。まるで、足跡のように。
震える手で、ひとつ、またひとつと羽を拾っていく。 まるであの子が、「こっちだよ」と私を導いているみたいで、泣きそうだった。
(そんなはず……そんなはずない――!!)
拒む心とは裏腹に、身体は勝手に進んでしまう。 見たくないのに、見ずにはいられない。
手入れの行き届いた庭の隅。二つの花壇に挟まれた小道の先に、ふんわりと白い塊が落ちていた。
羽毛のクッションのようにまあるい身体は、濡れて、萎んでいた。 かつて私と一緒にコタツに入ってぬくぬくしていた、あの愛らしい体。 茶色のぶち模様が愛嬌たっぷりだった背中は、泥で汚れていた。
そっと抱き上げると、冷たい――あまりに冷たくて、心が悲鳴を上げた。
「……嘘だよね」
お願い。夢であって。まだ朝なんだもの。目が覚めたら、いつものように「ガア?」って、頭をこすりつけて起こしてよ。
だけど、腕の中のその感触は、痛いほどに現実を突きつけてくる。
私は崩れるように地面に座り込み、最愛の骸を抱きしめた。 ぼろぼろと涙をこぼす私の頬を、朝日がやさしく照らしていた。
まるで、「ひとりじゃないよ」と慰めるように。
***
私は、最愛のガチョウを失った。
ペットですって?とんでもない。
ガチョウは実は、愛する夫だったのだ。
私の夫は呪いにかかっていた。
優しい妖精が、呪いに殺されないよう夫をガチョウに変え、私たち夫婦をこの優しい世界へ連れてきてくれたのだ。
夫がガチョウになってからも、私達は変わらず仲良し夫婦だった。
***
ぶち模様のガチョウというのは、なかなかに珍しい。
あの背中の、茶色のぶち模様――まるでうっかり絵筆で塗りかけたみたいな、不格好だけど、愛嬌たっぷりの模様だった。
お尻にちょこんとある斑点は、とくにお気に入り。
まるで小さなハートマーク。私はあれを「しっぽのスタンプ」と呼んでいた。
まぬけな見た目で、どこか抜けていて、だけどそこが愛らしい。
無骨な夫を可愛らしい姿に変えてくれた妖精さんには大感謝だ――夫は不本意だろうけど。
***
ガチョウになってからの夫は、ちょっとしたイタズラ好きになった。
洗濯物を干そうとすると、こっそり足元に忍び寄り、タオルの端っこをくわえて逃走。
庭をぴょこぴょこ走る白くてぶちぶちの影を追いかけて、私もつい笑ってしまう。
ある日なんて、台所の床が大惨事。
真っ白な床にペタペタとつけられた自分の足跡に囲まれて。
小麦粉の袋をくわえ、途方に暮れたように固まるガチョウの姿。
「ちょっと、あなた!」
そう叱ると、「ガア?」と首をかしげて見せる。
ほんとうに、ずるいんだから。
***
久々に食べようと思って買ってきたアイス。
間違えて、いつもの2個入りの大福アイスを買ってしまった。
「こら、さすがに駄目よ。ガチョウの体に悪いでしょ?」
冷凍庫から出した2個入りのだいふくアイス。2個とも食べようとする私に、「ガア!ガア!」と猛烈な抗議。
仕方なく、結局半分こにして食べたっけ。
まったくもう、ガチョウになってからの方が、お喋りなんだから。
***
私たちは、いろんなところに出かけた。
川沿いの桜並木では、風に揺れる花びらを追って、跳ねる姿が本当にかわいくて。
山奥の機関車に乗ったときは、窓の外を流れる景色に「ガアァ……」と感嘆のため息。
秋の山では、紅葉の葉っぱをくちばしで器用に摘んで、よちよち歩いてきた。まるでプレゼントみたいに。
冬はぬくぬくのコタツで、私の膝に座って映画を観るのが習慣だった。
幸せだった。たとえ言葉が通じなくても、私たちは心で会話していた。
***
あの子をこんなふうにしたのは――ヤマネコ。
魔物化した、あの憎きヤマネコに違いない。
私は、夫の遺品である猟銃を手に取った。
小さなガチョウの姿で懸命に生きていた夫の無念。私はそれを、私の手で晴らすのだ。
「ヤマネコに気をつけて」
外に出た私は、ご近所のナンシーにそう声をかけた。
この世界には、注意すべきことがたくさんある。
高速で走る鉄の魔獣。身勝手に吠える魔物。見えない毒の煙。
でも、いちばん恐ろしいのは――ヤマネコ。あいつだけは許せない。
***
時が流れても、私の日課は変わらない。
毎朝、羽を拾った小道に立ち、空を見上げる。
そして今日も、「ヤマネコに気をつけて」と声をかけてまわる。
いつも手伝いにやってくる村娘。
ある日もやってきた彼女は、小さな籠を持っていた。
「ウズラのピーちゃんです。新しい家族なんですよ」
連れてきたピーちゃんは、ぷっくりしていて、茶色い斑点がとても愛らしい。
「可哀想に。ピーちゃんも妖精さんにここへ連れてきてもらったのね」
夫と同じような境遇なのだろう。
私はピーちゃんに精一杯優しくしようと決意した。
それからは、村娘がピーちゃんを連れてくるのが楽しみだった。
手のひらの中の温もりは、傷ついた心を少しだけ慰めてくれた。
毎日、村娘が扉を叩くのを今か今かと待っている。
けれど――私はたっくんが苦手だった。
村娘の息子さん。無邪気で元気な男の子。
今日も私はたっくんに「ヤマネコに気をつけて」と注意する。
しかし、たっくんは「ヤマネコなんていないよ」というのだ。
子供だから仕方がない、そう思っても、胸の奥がずきずきする。
(いけない。魔法が溶けてしまう――)
***
たっくんの登下校には、できる限り付き添った。
大人が守らなくちゃ。危険から、子供たちを。
ヤマネコのことも忘れてはいない。
今日も私は、遺品の猟銃を肩に、庭で遊ぶたっくんとピーちゃんを見守る。
庭は、少し荒れてしまった。手入れをする気力が、最近はあまり湧かない。
妖精さんの魔法は随分弱ってしまったようだ。
最近、村娘が「もう、私は村娘じゃなくてムラタですよ」なんて言う。
"ムラタ"だなんて随分おかしな名前じゃないか。
だけど今はもう構わない。
たっくんが、今日も元気に庭でピーちゃんと駆け回る。
私はそれを見て声をかけるのだ。
「たっくん、ヤマネコに気をつけて」
たっくんは元気に答えた。
「だから、ヤマネコなんていないってば」
※この短編には、明確な答えも、大きな事件も登場しません。
語り手の言葉のなかに、かすかに浮かびあがる「誰かの人生」を感じ取っていただけたら――それが私の願いです。
ちょっとした謎解きのように、お楽しみください。
雪◯だいふくは、ひとりで食べるにはちょっとさみしいおやつですね。