お父様、娘は政治の道具ではありませんよ?
ざまぁって本当に難しいですね……。
十七歳――成人後の結婚適齢期を迎えた、私の誕生日を祝う夜会。
そこで私は、お父様から一人の男性に引き合わされた。
でっぷりとした恰幅の良い体型、だらしなく私を見つめる眼差し、その割に上質な衣装に身を包んだその人を、私は冷めた目線で見て告げる。
「お父様、こちらは?」
私が敢えて口にしたその言葉に、お父様が得意気に応える。
「ゲルト第一王子殿下だ。殿下が是非、お前に会いたいと仰るのでな」
いや、もちろん存じ上げてますけどね。
ゲルト・ルッツ・ジルベンブルク第一王子――食べることと遊ぶことに熱心で、公務を怠けてばかりだともっぱらの評判だった。
今年で十九歳になるというのに、未だに婚約者すら決まらない。
それだけでも人柄が知れるというものだ。
私が気付かれないように小さく息をつくと、ゲルト殿下が私の身体をいやらしい視線でなめ回す。
「噂通り、美しい令嬢ではないか、エーヴィヒヴィント伯爵。アウローラなら私には何の不満もない」
殿下になくても、私には不満しかない。
何の話か見えないけれど、良くない話だというのはビンビンと伝わってくる。
お父様が私に微笑みながら告げる。
「実はなアウローラ、殿下がお前を伴侶として所望しておられる。
殿下のお眼鏡にかなった以上、早急にお前との婚約を進めていこうと思う」
「――お父様?! いくらなんでも性急ではありませんか?!」
お父様はニヤリと私に微笑んだ。
「そう言うな、王妃になれるのだぞ? こんな機会は滅多にない。
お前は我が伯爵家の娘として、どこに出しても恥ずかしくない教育を施してきた。
だというのに未だに婚約話がまとまらないのは、お前の気の強さが原因だろう。
この機会を逃せば、お前も婚期を逃してしまう。断る理由はあるまい」
お父様が婚約相手の決まらない有力貴族の放蕩子息ばかりを引き合わせるから、こんなことになるんでしょうが!
いくら親に政治力があるからって、その令息が親の威光に胡坐をかいて生きてるなんて、許せるわけが無いじゃない!
そんな後継者じゃ、領民たちの不幸が約束されたようなもの。
彼らに会う度に私は『勉強は捗られていますか』とか『領地の内政について考えをお聞かせください』とか、色気のない話題ばかりを振っていった。
そんな私を彼らは嫌い、遠ざけてしまう。結果として婚約締結に至らず、この年齢まで私も婚約者がいない状態だ。
あと二年で私の結婚適齢期が終わり、賞味期限が切れる――そう焦ったお父様が、一世一代の大博打で殿下に話を持ち込んだのだろう。
我が家は伯爵家とは言え、家格はそれほど高くない。
王家から望まれない限り、婚約なんて成立するわけが無かった。
鼻つまみ者のゲルト殿下を押し付ける代わりに、見返りで我が家に家格を上げるような報償をもらうのだろう。
侯爵への陞爵と領地の賜与でも狙ってるのかな。
それに加えて我が家から王妃を輩出するという箔が付く。お父様の政治力は、否が応でも上がることだろう。
――お父様?! 私は政治の道具じゃないのよ?!
私は心の叫びをぐっとこらえ、お父様に静かに告げる。
「お父様、いくらなんでもすぐに婚約だなんて、私は頷けません」
お父様が厳しい目で私を睨み付けてきた。
「アウローラ、お前は私の言う通りにしていればいい」
貴族令嬢は親の言いなりで婚姻するのが常だけど、これはあまりにも横暴が過ぎる。
私に拒否権なんて、ないじゃない!
政治のパワーゲームに興じる暇があれば、もっと領民の生活を考えて欲しいものだわ。
傍に居た弟のエリッツが、困惑しながらお父様に告げる。
「父上、これでは姉上があんまりです。
せめて半年の交際期間を設けてみてはいかがですか」
普通ならお互いの相性を見るために、半年前後は友人として交流する期間を設ける。
お父様も、今まではそれを設けてくれた。だけど今回はいきなり婚約まっしぐらだ。
欲の皮が突っ張ったお父様が、エリッツを窘めるように告げる。
「エリッツ、お前は領主の勉強だけしていればいい。
私の後を継ぎ、エーヴィヒヴィントを導くのはお前なのだ。
アウローラのことを思い煩う暇など、お前にはあるまい」
……お父様が、それを言うの?
今の領地の内政は、実質的に私とエリッツが回してるんだけど。
お父様はお母様を連れて、あちこちの社交場に出向いてばかりで、領民の暮らしなんて見向きもしない。
それで領主を名乗るだなんて、思わず鼻で笑ってしまう。
お父様が再び厳しい目を私に向けて告げる。
「なんだ? 文句があるのか?」
「……いえ、なんでもありません」
貴族令嬢って、なんでこんなに不自由なんだろう。
私はその後、ゲルト殿下といくつか言葉を交わしたけど、彼の頭の中身は食欲と色欲しかないようだった。
彼が口にした「お前の肌の柔らかさが楽しみだ」という一言は、私を魂から震え上がらせるには十分な破壊力を持っていた。
「……お父様、少し気分がすぐれませんの。バルコニーで外の空気を吸ってきてもよろしいかしら」
「酒が回ったのか? いいだろう、行って来い。
――さぁ殿下、今後の話を詰めていきましょう」
エリッツが心配そうな顔で私に告げる。
「大丈夫ですか? 姉上」
「ええ大丈夫、外の空気を吸えば、すぐに具合がよくなるはずよ」
嫌らしい笑いを浮かべあう父親と第一王子を横目に、私は一人でバルコニーに向かって歩きだした。
****
バルコニーの手すりに手を置き、私は深いため息をついた。
もうこのまま、私はあの低俗な人間の妻として生きていくのだろうか。
王妃になれるとは言うけれど、あんな第一王子が立太子するとも思えなかった。
たとえ陛下たちが親馬鹿だったとしても、あれに国を任せるようではお終いだ。
……そんな人を伴侶に迎えるだなんて、私の人生もお終いなのかしらね。
夜風で憂鬱な気分を紛らわしていた私の背後から、爽やかな青年の声が聞こえる。
「大丈夫ですか、エーヴィヒヴィント伯爵令嬢」
声に振り向くと、月光に照らされた銀髪が輝かしい一人の青年が立っていた。
見覚えのない人だな、誰だろう?
「あの、あなたは?」
青年がニコリと優しく微笑んだ。
「失礼、私はエルンスト・ウーヴェ・ジルベンブルク。
先ほどは兄上が失礼をいたしました」
――エルンスト第二王子?!
確か、今年成人したばかりの十五歳だ。
若々しいはずの彼はしかし、どこか疲れ切ったような空気を漂わせていた。
外見では、とても十五歳に見えない。大人びた青年という一言では片付けられなかった。
エルンスト殿下が私の横に来て、バルコニーの手すりに手をついて月を見上げ、私に告げる。
「あのような第一王子で、あなたもがっかりなさったでしょう?」
「いえ、そんな……」
ええ、ばっちりがっつり、これ以上ないくらい幻滅しましたが。
思わずこの国を見捨てて他国に逃げようかと思うくらい、今の状況を悲観してるけど。
エルンスト殿下は弱々しくも明るい笑顔を月に向けた。
「ははは、遠慮なさらなくて大丈夫ですよ。今この場は、我々以外に居ません。
窓辺に立つ衛兵たちにも、声は聞こえませんから」
なんだか優しい人に見える。
彼の柔らかい心遣いに誘われるように、私の口がするりと言葉を紡ぎ出す。
「あんな人が第一王子では、この国の将来が不安ですわ。
陛下は立太子をどうなさるおつもりなのかしら」
「今のままなら、兄上が立太子します。
父上も母上も、兄上が可愛いらしいので」
悪い予想が的中か。
私は深いため息をついて、エルンスト殿下に告げる。
「もうこの国から逃げ出そうかしら。
不良債権を押し付けられての婚姻なんて、私に未来がないも同然じゃない。
――エルンスト殿下が立太子することにはなりませんの?」
エルンスト殿下がこちらに振り向き、困ったように微笑んだ。
「私は隣国、シュタールフェアトの姫との婚約があります。
あの国は女王が国を治める国家、彼女に見初められた私は、王配としてシュタールフェアトに行かねばなりません。
小国とは言え大切な同盟国、私もこの婚約を断ることが許されませんでした」
殿下も婚姻の自由がないのか。
断ることが許されないって、殿下も乗り気じゃないのかな。
「殿下はシュタールフェアトへ婿入りすることがお嫌なのですか? 王配ですよ?」
殿下は何かを言いたげな眼差しで、私を見て応える。
「……私には心に決めた人が居ます。
ですが私が彼女への婚約を申し出る前に、シュタールフェアトのイルゼ殿下が私を見初めてしまった。
彼女はまるで、兄上を女性にしたかのような人です。
彼女を尊敬することは、私にはできそうもありません」
私は小さく息をついてから告げる。
「そう、私たちは似た者同士なのね。
人として尊敬できない異性を伴侶に迎えなければならない。
そんな苦しみを味わうなんて、私は何か悪いことでもしたのかしら」
エルンスト殿下がクスリと笑みをこぼした。
「とんでもない。アウローラ嬢が領地の内政に励んでいることは、噂でも良く聞いています。
領民を救いこそすれ、悪い事などしているはずがありません。
私はそんなあなたに憧れて、必死に公務の勉強をしたのですから」
「私に憧れて……?」
ハッとしたようにエルンスト殿下が真っ赤になり、口を押えた。
「……今のは聞かなかったことにしてください。
ともかく、兄上には決して心を許さないで。
油断をすれば兄上は手を出してきます。
婚姻前に疵物にされることのないよう、くれぐれも気を付けてください」
どんだけとんでもない俗物なんだろう。
つくづく嫌気がさす。
私はニコリと微笑んでエルンスト殿下に応える。
「ええ、警戒しておきます。ありがとうございます」
「いえ、あなたに神のご加護があらんことを」
「殿下にも、どうか幸多き未来があらんことを」
私たちは微笑みを交わし、ゆっくりと手すりから離れ、並んでバルコニーを後にした。
****
その後、お父様とゲルト殿下、さらには国王陛下たちが迅速に動き、私とゲルト殿下の婚約が締結された。
のみならず、私は王命で住まいを王宮へと移していた。
……ようやく見つけた生贄を、絶対に逃したくないってことかしら。
王宮から逃げ出すのは、私には無理だろうな。
国外逃亡のプランは諦めるしかなさそうだ。
エーヴィヒヴィントの領地経営は、エリッツが居ればなんとか回していけるだろう。
それでも私はこまめに手紙をやりとりして、エリッツからの相談に応えていった。
同時に私の王妃教育が始まり、実習の一環として殿下の公務も手伝わされ始めている。
慣れない王族の公務に苦戦する私を、ゲルト殿下はほったらかしにしていた。
その癖、休憩時間になると私のところにやって来ては、私の肌に触れようと近づいてくる。
私は卒なく身をかわし続け、ゲルト殿下が肌に触れることを許さなかった。
周囲の侍女や衛兵、騎士たちも私の味方で、なんとか私は貞操の危機を回避し続けていた。
ある日、執務室で公務に苦戦する私をエルンスト殿下が訪ねてきた。
エルンスト殿下は疲労を感じさせつつも、優しい微笑みで私に告げる。
「どうですか、公務には慣れましたか」
「まだまだ、わからないことが多すぎます。
慣れるまではもう少しかかるのではないかしら。
――でも、なぜ私が公務などを任されているの?
いくらゲルト殿下の婚約者とは言え、私は伯爵家の娘ですわよ?」
エルンスト殿下が苦笑を浮かべて応える。
「兄上の仕事ですよ、それは。
今までは私が一人で背負いこんでいたのですが、手が回らない分をあなたに回しているようです。
……私が不甲斐ないばかりにあなたにまで迷惑をかけてしまい、申し訳ありません」
私は思わずエルンスト殿下を見つめていた。
「……殿下は成人なされたばかりのはず。
なのにゲルト殿下の公務を肩代わりなさっていたというの?」
エルンスト殿下は照れたように私から目をそらした。
「国のため、民のためにできることをしようと努力しているだけです。
あなたこそ、今でもエーヴィヒヴィント伯爵領の統治を手伝っておられるとか。
そんなに無理をしては、いつかパンクしてしまいますよ」
私はニコリと微笑んで応える。
「弟のエリッツ一人では、まだ十全には領地経営を回しきれません。
私が培ってきたノウハウを伝えきるまで、もうしばらくかかるでしょう。
――まったく、お父様が伯爵領をきちんと統治なされば、エリッツも苦労をしないというのに!
今度は政治闘争の場を王都の社交界に移して、熱心に活動されてるそうよ。
伯爵の名が泣くわね」
エルンスト殿下が困ったような微笑みで私に応える。
「まぁまぁ、抑えてください。
そんなことに怒っていては、エネルギーの無駄遣いです。
それよりも、私が公務のノウハウを教えて差し上げましょう。
お一人でやるより、断然効率よく消化できますよ」
「あら、そんなことをされて、ご自分の公務は大丈夫なのですか?」
エルンスト殿下がウィンクを飛ばして私に応える。
「最初は滞ると思います。
ですがそれで溢れた分は、全てアウローラ嬢に回される。
ここで一緒に片付けてしまえば同じことです」
なるほど、執務をする場所が変わるだけで、やる仕事は変わらないのか。
私は笑顔で頷いて応える。
「ええ、ではご厚意に甘えてもよろしいかしら」
「もちろんですとも。早速とりかかるとしましょう」
それからはエルンスト殿下は私の執務室に毎日通うようになった。
午前中に自分の執務室で仕事を終えたあと、午後から私の執務室で一緒に公務の書類を片付けていく。
慣れない王都の利権関係や周辺領主との交渉のコツなど、公務を進めるのに大切なノウハウを伝授してもらっていった。
……思わぬ副作用として、エルンスト殿下が部屋にいると、ゲルト殿下が早々に退散するのを発見できた。
ゲルト殿下に口を酸っぱくして説教をするエルンスト殿下は、ゲルト殿下にとってうるさい小姑のような存在らしい。
おかげで私はあまり自衛策も取らずに済み、平穏で充実した毎日を送っていた。
****
ある日の夜会当日、私は公務の一環としてゲルト殿下と共に夜会に出席していた。
手袋ははめているけれど、布地越しでも彼の手は触りたくない――けれどエスコートをされる以上、まったく触れないわけにもいかなかった。
ゲルト殿下に寄り添う私を、周囲は好奇の目で見つめてくる。
こっそり侍女から聞いた私のあだ名は『白豚の花嫁』だそうだ。
立太子が目される第一王子を白豚呼ばわりとか、王宮の社交界も腐ってるわね。
お父様はあちこちで自分の権威を自慢げに吹聴していた。
……まだ婚約者の身分だって言うのに、もう王妃の父親面して威張り散らしてる。
あの人も早く何とかしないと、我が伯爵家の品性が疑われてしまう。
ふぅ、と小さく息をついて周囲を見回す――エルンスト殿下は、小柄な令嬢をエスコートしているみたいだった。
とてもそうは見えないけど、あれが『ゲルト殿下の女性版』こと、隣国のイルゼ殿下かしら。
ああでも、彼女の目には欲望だけが滾って見える。
彼女にとってエルンスト殿下は装飾品の一部、自分の身を飾る美男子を傍に置くことが、彼女の満足感に繋がっているんだろう。
遠くから見ている彼女の態度でも、それが透けて見える。
アクセサリーを自慢するかのようにエルンスト殿下を見せびらかし、勝ち誇ったように他の令嬢に蔑んだ眼差しを向けていた。
エルンスト殿下はくたびれてはいるけれど、王族としての美貌に文句はない人だ。
彼女が見初めたのは、そんなエルンスト殿下の見た目だけ。中身になんて、少しも興味がないのだろう。
……そう考えていくと、『ゲルト殿下の女性版』という評価にも段々と納得ができてきた。
イルゼ殿下がエルンスト殿下に何か小声で会話した後、その腕にしなだれかかっていた。
公共の場でそんな行為をするだなんて、どれだけ常識知らずなのか。
なんとかイルゼ殿下を振り切ったエルンスト殿下が、一人でバルコニーに向かっていく――
私はゲルト殿下に告げる。
「殿下、少々気分がすぐれませんの。
外の空気を吸ってきてもよろしいかしら」
「またか? 早く戻って来いよ」
夜会の料理に夢中の殿下は、今は私への興味が薄いらしい。
私は有難く殿下から離れ、バルコニーへと向かっていった。
****
バルコニーの端で真っ暗な空を見上げて黄昏るエルンスト殿下に背後から近寄り、私は声をかける。
「お加減はいかがですか、エルンスト殿下」
彼はこちらに振り向くことなく、空を見上げて応える。
「……最悪、と言ってもいいのでしょうか。
彼女があそこまでの俗物だとは思っていませんでした。
伴侶として彼女を認めることが、私にはできる気がしません」
私はエルンスト殿下の横に並び、彼の憂鬱そうな顔を見上げて告げる。
「何を言われたのか、お伺いしてもよろしいかしら」
「……今夜、部屋で待つから来て欲しいそうです。
断れば我が国との取引を中止にすると脅迫されました。
シュタールフェアトは良質の鋼鉄の産地でもあります。
あの国との交易路を失う訳にはいきません」
相手の弱みに付け込んで、自分の欲望を押し付ける――本当に、ゲルト殿下と同じなのね。
私だって、いつ同じような脅迫を受けるか分からないのだ。
だけどやられっぱなしは、私の性に合わない。
こうなったら――
「ねぇエルンスト殿下、少しお耳をお貸しくださらない?」
きょとんとするエルンスト殿下の耳に、私は小さな声で悪だくみを囁いて行った。
****
バルコニーから戻ると、ゲルト殿下が待ちくたびれたとでも言わんげに私に告げる。
「ようやく戻ったか、アウローラ。
そろそろ食い物も食べ飽きた。
次はお前の感触を味わいたいものだ」
嫌らしい視線が私の身体をなめ回す――おぞけを我慢し、私は微笑んで応える。
「では殿下、使われていない客室がありますの。
そちらでお待ちしておりますから、三十分後にいらしてくださらない?」
ゲルト殿下がきょとんと私を見つめて告げる。
「なぜ待たせる。そのまま一緒に行けばよいではないか」
「このドレスを脱ぐのは時間がかかりますわ。
それに、女には支度をする時間が必要ですの。
部屋を暗くして待ってますので、お一人で見つからないよう、こっそりといらして?」
私は部屋の位置を記した小さなメモを殿下の手にそっと握りこませ、ニコリと微笑んだ。
ゲルト殿下が鼻の下を伸ばし、なんども私に頷く。
「ああわかった。それまでは酒でも飲んで、暇を潰すとしよう」
「必ず来てくださいね? 待ってますわ」
私は笑顔で身を翻し、夜会会場を後にした。
****
それから三十分後、王宮の一室で女性の悲鳴が上がった。
慌てて駆け付けた近衛騎士が部屋に明かりをつけて見たものは、ベッドに裸で横たわるイルゼ王女と、それに覆いかぶさる裸のゲルト王子だった。
狼狽するその場の全員をよそに、騎士たちの後ろからアウローラとエルンスト王子が現れて告げる。
「あらあらゲルト殿下、隣国の王女を相手にとんでもないことをなさいましたわね。
婚姻前の他国の王族を相手に、このような不祥事をしでかしてしまうだなんて……。
――エルンスト殿下、どうなさいますか?」
エルンスト王子がニヤリと微笑んで応える。
「通例なら、責任を取って兄上がイルゼ殿下と婚姻することになります。
――すぐにこのことを父上たちに知らせろ! シュタールフェアトへも知らせを走らせろ!」
二名の騎士が短く返事をし、その場から駆け出していった。
ゲルト王子が困惑しながらアウローラに声を上げる。
「なぜお前がそこに居る?! この部屋で待っているのではなかったのか?!」
アウローラがきょとんと小首を傾げた。
「私は隣の部屋でお待ちしておりましたわ。
――もしかして、渡したメモに間違えて部屋を記してしまったのかしら」
イルゼ王女は、ショックで泣きだしていた。
「なぜ私の身体に、こんな不細工が触れているというの?!
エルンスト殿下、あなたがこの部屋に来るのではなかったの?!」
エルンスト王子は、困ったように微笑んだ。
「私はうっかり、隣の部屋に行ってしまったようです。
そこでアウローラ嬢と出会い、自分の間違いに気づきました。
二人で状況を確認していたところ、隣の部屋からイルゼ殿下の悲鳴が聞こえたので駆け付けたのですよ」
騎士の一人が、困惑してエルンスト王子に振り向いて告げる。
「――エルンスト殿下も、エーヴィヒヴィント伯爵令嬢と密会をされていたと仰るのか?!」
エルンスト王子がニコリと微笑んで頷いた。
「結果的に、そうなってしまったな。
この事も、父上にご報告差し上げろ。
私も責任を取らねばなるまい」
困惑する騎士が、短く返事をしてその場を去っていった。
エルンスト王子がアウローラに告げる。
「さぁ、見せ物ではありません。我々は退散しましょう。
あちらのお二人に服を着てもらわねばなりませんから」
頷くアウローラと共にエルンストは王宮の廊下を並んで歩きだした。
****
国王陛下の居る夜会会場へ向かいながら、私はエルンスト殿下に尋ねる。
「どうして私の部屋に来てしまわれたの?
計画では、別の部屋に身をひそめるはずだったのでは?
このままでは、殿下も私と婚姻をしなければならなくなるのではなくて?」
エルンスト殿下は心に決めた女性が居たはず。
こんなことをするなんて、何を考えてるんだろう。
殿下が恥ずかしそうに鼻をかいて応える。
「……こんな方法は卑怯だと思ったのですが、父上たちに邪魔をされないためには、こうするしかないと思ったのです。
アウローラ嬢、どうか私と婚姻をしてはいただけないでしょうか」
私はきょとんと、横を歩くエルンスト殿下の顔を見上げた。
「本気なのですか?」
殿下が私の目を見て頷いた。
「ええ、本気です。
以前から、あなたに婚姻を申し込むつもりでした。
今までは機会がありませんでしたが、これが最後のチャンスだと思い、決断しました」
「……まさか、『心に決めた人』って、私の事?」
熱い眼差しで頷く殿下を見て、私はクスリと笑いをこぼした。
「物好きな方ね。王子なら、他にいくらでも相手がいらっしゃるでしょうに」
「私の心が求めるのはアウローラ嬢、あなただけです」
そっか。そこまで言ってくれる人なら、まぁいいかな。
国のため、民のために尽力できる人だし。
この人なら、私を大切にしてくれるだろう。
私は微笑みながら頷いた。
「ええ、その申し出、お受けいたしますわ」
エルンスト殿下は、声も出せないほど喜んでいるようだった。
その分、身体で喜びを表し、元気に廊下を歩いて行く。
「殿下、そんなにはしゃいでは転んでしまわれますよ?」
「――はい! 気を付けます!」
私は思わずクスリと笑いながら、十五歳らしい元気な青年と共に、夜会会場のホールへ入っていった。
****
その後、ジルベンブルクとシュタールフェアトで婚約契約の破棄と締結が行われた。
イルゼ王女に夜這いをかけてしまったゲルト王子が、新たにシュタールフェアトの王配となることが決まった。
エルンスト王子を誘ったイルゼ王女の意志も確認されており、お互いがもみ消したい不祥事であり、その合意は速やかに行われた。
また新たに、婚約者が居なくなったエルンスト王子とエーヴィヒヴィント伯爵令嬢アウローラの間で婚約が交わされた。
二人の間には密会現場を知られたという事情はあったが、不思議と悪い噂が立つこともなかった。
二人が告げる『たまたま居合わせただけ』という言葉を誰もが信じた。
普段から良識ある態度を取る二人の行動を疑うものは、誰も居なかったのだ。
だが夜の暗い部屋で二人きりになった事実に変わりはない。
エルンスト王子の強い申し出もあり、アウローラとの婚約は成立した。
私は今日も、執務室でエルンスト殿下と並んで書類を処理しながら、彼に告げる。
「だいぶ公務にも慣れてきましたわ。
もう殿下のサポートがなくても、大丈夫ですわよ?」
エルンスト殿下も書類にペンを走らせながら応える。
「つれないことを仰らないでください。
同じ部屋で一緒に仕事を片付けてしまえば、連絡を取る手間が省けます。
なにより私は、こうしてあなたの傍に居ることを幸福に感じるのです」
「――もう、甘えん坊ですわね」
ゲルト殿下がシュタールフェアト王国に行ってしまい、王太子にはエルンスト殿下が決まった。
だから結局、私は将来の王妃だ。
お父様は王都の社交界で敵ばかりを作り、エルンスト殿下派閥の貴族にやり込められて領地に帰ってしまった。
できればそのまま、大人しく領地経営に専念してもらいたい。
私は将来の夫に告げる。
「ねぇエルンスト殿下、この国をよくして行けると思いますか?」
「あなたが共に居てくださるなら、必ず民を幸福に導けますとも」
そっか、それなら私も、まだまだ頑張って公務をしていかないとね!
私たちは仲良く並んで、山積みの書類を片付けていった。
やがて、私はエルンスト殿下と婚姻した。
民衆が祝ってくれる中、バルコニーで王子妃として、皆に笑顔を振りまいて行く。
エルンストが民衆に微笑みながら私に告げる。
「あなたは今、幸せですか?」
「そうね――ちょっと責任が重たいけれど、幸せも確かに感じているわ。
あなたが隣に居てくれるなら、きっと大丈夫よ」
エルンストの手が、私の手にそっと重なる。
私たちは微笑みあいながら、そっと口づけを交わした。