恋人弁当
会社のチャイムは二分ほど、早い。まだパソコンに表示された時刻は十二時前だけど。皆、気にせず休憩時間に突入する。
私はとりあえずキリがいいところまで作業を進めてから、お昼の休憩を取ることにする。
今日の昼食は自分で作ったお弁当。おにぎりプラス、昨夜のおかずから取り分けたとんかつにプチトマト。さやいんげんのごまあえは冷凍食品のお気に入りのやつ。あと、インスタントのカップみそ汁。
よし、給湯室でお湯をくんで。それから食堂――と皆が呼んでる空き会議室――に行こう。
と、給湯室に向かう途中の廊下で聞こえた会話。
「今日どこで食べよっかな。外に出んの、めんどいなー。あ、鰆目の弁当、一万で売ってよ」
「嫌です」
ちらりと横目でそちらを見れば、隣の課の鰆目君と、彼の上司の、係長。
鰆目君の手元には、和柄のお弁当包みが見えた。
係長が狙ってる弁当って、あれのこと?
私はふたりとすれ違い、給湯室に到着。ぺりぺりとカップみそ汁のふたを剥がしながら、さっきの鰆目君のことを考える。
鰆目君は、なんていうか、けっこうお調子者だしお金に弱そうな印象だから。係長にあんなお願いされたら、すぐにでもイイっすよーと、答えそうだったのに。
はっきり断ってたのが、なんか、意外。
っていうか。
私だったら一万で弁当売ってって言われたら売るけどな。
でも、売れない理由が鰆目君にはあるのか。
……愛妻弁当、とか?
思いついた言葉に首をかしげつつ。お湯をカップの内側の線まで注ぎ、給湯室を出る。
愛妻。いたっけな。いや、鰆目君は独身だったはず。いわゆる独身寮に入ってるもんな。
まあ、モテそうだし。彼女はたぶんいるだろう。
じゃあ、恋人弁当? かな。
みそ汁をこぼさないようにするためと。考え事をしてたせいで、私の歩みはいつもよりゆっくりになる。
食堂には長机と丸椅子が適当に配置されていて。お弁当持参の人とか、コンビニごはんを買ってきた人とか、自分のデスクで食事したくない人、あるいは、食事するスペースがない人なんかが、これまた適当に座って休憩している。
部屋自体がけっこう広いから、なんか自然とひとりひとりの距離が取れてる感じ。
グループでごはん食べる人はあまりこの部屋には来ないから、ゆっくり休憩できて私は好き。
どのへんに座ろうかな、と、他の人との距離を測っていたときに。私は彼の姿を見つける。
そう。鰆目君。ひとりだ。
係長はめんどくさがりながらも、外に出たんだろう。鰆目君だけがいる。そういえば鰆目君も、この食堂の常連だっけ。
私は彼がこちらに背を向けていることをいいことに、そっと距離を詰めた。
だって気になるじゃないか。鰆目君の恋人弁当。係長が一万で売ってって言うぐらいなんだから。気になる。なるよね?
私はこっそり、彼のお弁当をのぞいてみる。
鰆目君のお弁当箱は、いわゆる「曲げわっぱ」だった。しなやかな木製の薄板で作られたお弁当箱。あれに入ってるものなんて全部おいしいに決まってるじゃないか。
しかも中身もかなりちゃんとしている。
ごはんに梅干し、添えられた柴漬け。サラダ菜が敷かれてミートボールとウインナー。しかもこちらの肉料理二種、どうやらうっすらと衣に包まれて見える。……天ぷら? なるほどおかずを揚げ物にすることにより、ボリュームアップで満足感ばっちり。
横に並ぶ卵焼きの黄色い断面が美しい。甘めのだし味かな。シンプルな塩味かな。もしかしたらマヨネーズ風味かな。想像するだけで頬が緩む。
そしてさらに副菜はきんぴらごぼうと、緑のおひたし。ごぼうには人参も混ざってていろどりもばっちり。おひたしにはごまとかつおぶしがトッピング。定番の組み合わせはすなわち最強。
かなりどころか、めちゃくちゃ、ちゃんとしてる!
鰆目君の彼女、料理上手すぎんか。
私は一瞬にして鰆目君の弁当を分析する。
そして思わず、感想をこぼす。
「おいしそ……」
鰆目君がゆっくり振り返って、目が合った。
これは、知らんぷりして通り過ぎるのはむりなやつ。
私は半分しまった、の気持ちを隠して、にっこりと笑む。
「係長に売らなかったんだ?」
鰆目君は目を丸くしていた。ああ、これも、しまった、って感じ。これじゃあ、会話を盗み聞きしてたのもバレてしまうじゃないか。いや、盗むつもりはなくて、自然と聞こえちゃっただけなんだけど。いや、でも、これって、勝手にかばんに入ってたんですぅ、って万引きがバレたときにGメンに言い訳するやつみたいな言い訳になっちゃってて、なんかだめじゃない?
頭の中でしまったがぐるぐる回る私の前で、鰆目君は苦笑する。
「ええ、あれ。本城さんにも聞こえてた……? ごめん」
いやいやいや、謝る話じゃないからね。むしろ謝るのは私のほうだからね。
そんなことを考えつつ、さりげなく長机をぐるりと移動して、鰆目君の斜め前の席に座る。ここだと、会話してもしなくても、オッケーな感じ。
今は会話したい気持ちでいっぱいだけど。
「ん、聞こえた。んで、気になって、見ちゃった。お弁当。ごめん」
「え、いいけど。弁当……、ふつうだし」
ふつう。私は鰆目君の発した言葉に、つい、反応してしまう。
「ふつうじゃないよ。めちゃくちゃおいしそうだよ。そんなちゃんとしたお弁当作るのって、けっこう、っていうかかなり大変だと思うよ。私も作るからわかる……」
そして私もなんとなく、お返しに、と。自分の弁当箱を開いて見せる。
「あ。とんかつだ。いいなー」
不意打ちで褒められてちょっと照れる。いや、照れてる場合ではない。私は鰆目君に、鰆目くんのお弁当がどんなにすばらしいかを伝えなくてはならないのだ。
「鰆目君は正しいよ。係長には売っちゃだめだよね。たとえ一万でも。愛情はお金にしちゃだめ」
私は鰆目君の弁当に関するあれこれを、勝手に予想して、勝手にうなずく。正しい。鰆目君えらい。
「たしかに、こんなおいしそうなお弁当だって知ってたら、係長が一万で売って、と言いたくなる気持ちもわかるよ。私ものどまで出かかってるね。一万出すからその弁当をよこせ、鰆目君、って。でも、彼女の気持ちを考えると。やっぱそれはできないし、しちゃいけないんだよ。恋人の体のことを考えて、毎日愛情たっぷりに作ってるのなら。それを部外者の私が金にものを言わせて横取りなんかしちゃ、いけない。これは鰆目君のための、お弁当。いいなあ、鰆目君。すてきな彼女がいて……」
滔々と語る私の前で、鰆目君はんん? と、首をかしげる仕草。そして、待って待って、と、慌てたように手を振る。
「え、ちょっと待って。彼女って?」
その言葉に、今度は私が目を丸くする。
「あ、だから。お弁当。鰆目君の恋人弁当は、彼女さんが作ってるんだよね?」
「恋人弁当って何」
「愛妻弁当の恋人版?」
あれ、恋人弁当って辞書に載ってない? そのあたりをぼんやり考えてたら、鰆目君はいろんなことを一気に理解したように、ああ、と視線を私に向ける。
「恋人っていうか、彼女、も。違くて。いないんだけど? ええと、弁当は俺が作ってて」
「いないの?」
私はちょっと背筋が伸びた。だったら私の妄想していた、いつの間にか超美人ですてきでおしゃれで上品でお嬢様の極みみたいな言動で、どちらかというと和服で、だけど白いワンピースなんかも超似合う、そのときはゴージャスな縦巻きロールの美しいロングヘアの、あの、鰆目君の彼女は! いないの?
「うん」
鰆目君がきっぱりはっきり言うから、私は、ええ、と、肩から力が抜ける。と同時に、驚くべき部分がちょっとずれてることにも気づく。
「このお弁当、鰆目君が自分で作ったやつ? もしかして、いつも作ってたり?」
「ん、いつも」
私はひょー、とか、ひゃー、とかいう感嘆を飲み込んだ。
飲み込み切れなくて表情と、あとちょっと口からも声、こぼれてた気はする。
このすてき弁当が、鰆目君作。つまり鰆目君は高レベルの弁当男子。
そうなると、私には新たな疑問。じゃあ、と、私はその疑問を鰆目君にぶつける。
「ええ、じゃあ、係長にお弁当、一万で売って、って言われて。売らなかったのは、何で?」
「ああ、それは……」
鰆目君はなんとなく目を泳がせて、それから微かに笑う。
「だって俺の弁当で。死人が出たら嫌じゃない?」
「えっ、死ぬの? 毒でも入ってんの?」
私は即座に聞き返していた。鰆目君、ごく普通の人間に見えるけど、もしかしたら常時何らかの毒を摂取しながら生きてたりするんだろうか、と。またありえない方向に私の思考回路が進みそうになったところを。鰆目君の返事が引き止めてくれる。
「手作りのものを誰かに食べてもらうのって、怖いな、と思って。っていうかほんとに、ふつうに。適当に作った弁当だし、一万で人殺したら損……、というか、そこまでいかなくても具合悪くなるの、責任取るの嫌かなって。係長の体調不良の原因にはなりたくないというか」
鰆目君の理由を聞きながら、なるほど、と私は相槌を打つ。と、同時に。
やっぱりふつうとか、適当に作ったとか。さらっと言われると、もうもう、って怒りたくもなる。過小評価しすぎだよ。
「ええ、鰆目君のお弁当、めちゃくちゃおいしそうだし! 私もお金出してでも食べたいって思うよ。死んでもいいから食べたい」
私は心の底からそう思う。それを伝えると、鰆目君は苦笑しながら呟いた。
「本城さんなら、いっかな」
私は目を瞬かせる。今、鰆目君! いい、って言ったね?
「え、私なら殺してもいいってこと?」
尋ねると、鰆目君は今度は苦笑ではなくて、完全ににっこりと笑った。
「責任取るんで」
冗談のような。本気のような。
「今度作ってこようか? 本城さん、殺すつもりで」
「ええ、うれしい……、うれしい? ん? うれしいで、あってる?」
「あってるあってる」
鰆目君は楽しそうに笑う。私もつられて笑う。
まあいいか、ほんとに、私は鰆目君の作ったお弁当、食べてみたいし。うん、死んでもいいかな。最後においしいもの食べて死ぬなら本望だよね。
「代わりに、本城さん。俺に作ってきてくれる? お弁当」
「え!」
その申し出には戸惑ってしまう。けど、まあ、……うん。ならば私も頑張るよね。
「私のお弁当って。こんな感じだけどいい?」
「もちろん。あ、こないだ食べてた豆ごはん。あれおいしそうだったし」
「豆ごはん? あれはねえ、冷凍の枝豆使ったやつだから超簡単……」
と、話したところで私は気づく。
鰆目君が、私が食べてたものを知ってるのは、なぜ?
鰆目君は私の疑問に答えるかのように。目を細める。
そして他の人には聞こえない声の大きさで。
「いつかこうやって本城さんと。お弁当、一緒に食べたいなって思ってた」
と、言われて。
それからその日。私は自分のお弁当を平らげたこともどんな味だったかもほとんど覚えていない。
これが私と鰆目君の。いわゆる恋の馴れ初めの、お話。
◇
◇
◇
なお、後日の。のろけ話がこちらです。
「鰆目の弁当、一万で売って」
「絶対嫌です」
係長に絡まれてる、鰆目君の声が聞こえる。
鰆目君が守っているのは、私が作った恋人弁当。私の手元には、もちろん。鰆目君の作った恋人弁当がある。
(恋人弁当/終)