愛犬の最期を看取るその日に
この世界中に生きる人間、生物、植物もだが逃れられないものが一つだけある。
それは、生きとし生ける全てのものは皆等しく死を迎えるという事だ。僕が小学生の頃に実家で飼い始めた愛犬の「ちゃっぴー」もそのお迎えが近いようだ。飼い始めた頃は、飼い主の僕の手を噛むし、トイレ以外の場所でう〇こはするし、僕が朝起きると家中の物が散らかっていた事もあった。そんな手に負えない狂犬のちゃっぴーも年を経るごとに落ち着いていき、今ではそんないたずらもしない。できないのかもしれない。
僕はそんな老犬と成ったちゃっぴーの最期を看取るため、今、はるばる東京から実家の北海道まで帰省していた。思えばこいつと出会った日から、僕には平穏な日は一度もなかった。毎日のように追い回されるし、噛みつかれるし。でもそんな過去も目の前で力なく体を丸めてうずくまる、ちゃっぴーを見るとどうでもよくなってくる。僕はこの犬ちゃっぴーが大好きだった。
「ちゃっぴー」
僕が呼びかけると、ちゃっぴーはフルフルと力の入らない手足を懸命に動かして立ち上がる。そして座り込む僕のそばまで来ると、僕の手をペロペロと舐め始めた。ちゃっぴーはいつも僕を噛んだ後に決まって僕が「こら!ちゃっぴー!」と怒ろうとすると近寄ってきて、さっき自身で噛んだ僕の手をペロペロと舐めていた。僕もそれを見て怒る気も起きず、ついなでてしまう。そんな日々を積み重ねて来たからなのか、ちゃっぴーは僕に名前を呼ばれて自分が噛みついてしまった、そう思ったのかもしれない。
ちゃっぴーはひとしきり僕の手を舐めると再び力なく横たわった。僕が大学を卒業して就職するために上京する事になったのは、僕の努力が足りずに本来入るはずだった大学に入れなかったのが原因だ。僕は社会から必要とされていない人間なのかもしれない。でもちゃっぴーは昔と変わらずそんな僕の手を舐めてくれた。
ちゃっぴーという名前も、小学生の僕が命名したものだ。その当時流行っていたゲームに登場する敵役の名前。しかし、目の前のちゃっぴーはそんな命名方法だったにも関わらずいつも僕の味方だった。僕が両親に怒られていると真っ先に僕と両親の間に駆け込んで来て両親に向かって吠えてくれた。僕がちゃっぴーの散歩をしている時に、クラスの不良に絡まれて困った時も吠えて追い払ってくれた。僕が志望大学に落ちた時も僕が泣きじゃくるその隣で寄り添ってくれた。
両親よりも過ごした時間が短いかもしれない。ちゃっぴーは日本語は話せないが、僕の良き理解者であり、僕をここまで守ってくれた。僕はその恩に報いる事なく今日、ちゃっぴーの最期を看取る事になった。
「ごめんな……ちゃっぴー……」
僕の、僕自身の不甲斐なさに目の前がにじむ。しかし、ちゃっぴーは僕のそんな僕の謝罪に伏せたままの状態で顔だけ上げて「ワンッ!」と一吠えして再び何事もなかったかのように伏せの状態に戻った。ちゃっぴーが僕に対して、最期のその時まで心配をかけて終わるのか?ちゃっぴーはそう言ったように聞こえた。
僕は自身の目に溜まった涙を乱暴に着ていた服の袖で拭き取る。こんな情けない姿でちゃっぴーの最期を看取るわけにはいかない。ちゃっぴーが安心して天国へ行けるように看取らなければならない。僕は自身の心に嘘をついて笑顔を浮かべた。ちゃっぴーは僕のそんな嘘の笑顔を見て、お見通しだ。とでも言わんばかりにもう一吠えして静かに、静かに最期の一息をついた。ちゃっぴーの全身から力が抜けたのか、だらんとだらしなく伸び横たわる。
「ちゃっぴー……?」
目の前のちゃっぴーからの応答はない。その死に顔は「お前なら自分が居なくてもやっていける」そんな安心した様な表情をしていた。僕は笑顔を浮かべたまま目からは涙がポロポロ落ちてくる。
今日、僕の愛犬は天に召されたのだ。