憂鬱な学校生活の幕開け①
ふと思う。
これは夢ではないかと。
学校の廊下。
行き交う生徒の群れ。
体育館での始業式。
校長の話が長い。
教室にて担任教師の就任挨拶。
クラス替えに伴う生徒一人一人、当たり障りのない自己紹介。
「栗田由喜です。趣味は文章を書く事です」
目の前の全てに現実感がない。
これはきっと、夢の中の出来事だろう。
遙か昔に通り過ぎた筈の道。
随分と懐かしい夢だ事で。
別段、悪くはないのだが。
難点を上げるとすれば、この夢から覚める方法がサッパリ判らなかった。
「あの、栗田さん」
この学校で初めて名前を呼ばれた。
「これから何か、ご予定はありますか?」
良く言えば丁寧な口調。
悪く言えば距離を感じる物言い。
雑踏賑やかな教室で、一人の女子生徒が俺の事を見つめていた。
背が低く、眼鏡にショートカットの髪。
一言で表すなら地味な感じの子。
名前は………忘れた。
自己紹介で聞いた筈だが、憶えるつもりなど毛頭なかった。
「私は今から職員室だけど」
入学案内のプリントに、大きな文字で手書きされていた。
放課後になったら担任の下へ来るようにと。
「あ、それでは、またの機会に」
ペコリと頭を下げるなり、そそくさと立ち去った。
何が目的?
見覚えがないので今日が初対面だろう。
疑問符が浮かぶも、すぐに頭の中から追い出した。
なるべく目立たず。
人間関係は希薄に。
入学するにあたり、そう心に決めていたから。
「わざわざ来て貰ってすまなかった。どうしても話をしておきたくてね」
担任となった男性教師は、コチラの顔色を伺いながら話を切り出した。
「話は色々と聞いている。複雑な事情という事も」
上下揃いのスーツ姿。もの柔らかな語り口。年齢は五十歳手前くらいか。全身からベテランの風格を漂わせていた。
だからこそ、俺のような問題児を押し付けられた………とか?
どうでもいい事ではあるが、つい考えてしまう。
「君はこの学校で、やっていけそうか?」
「今は、多分としか答えられません」
大丈夫ですと胸を張っても、説得力に欠けるだろう。
「勉強の方は、どうかな?」
「特に不安はありません。定期試験の結果で判断して戴ければ幸いです」
まずいな。どうして営業口調になってしまう。
恐らく担任教師の雰囲気が、前職の取引先だった社長と似通っているからだろう。
「失礼を承知で言うが。君はもっと、気難しい生徒だと勝手に思っていたよ」
そうだろうな。
戸籍が無く、通学履歴が不明な女子生徒。普通は身構えるだろう。
「もし何か困った事があれば、遠慮なく相談してくれ」
「ご配慮、痛み入ります」
また、やってしまった。
頭を下げながら、心の中で深く溜息をついた。
どう考えても女子中学生の話し言葉じゃない。
現に担任は失笑を漏らしていた。
もしこれが掘さんなら………。
それらしい会話で違和感なく振る舞うのだろう。
やだやだ。こんな事で才能の差を自覚するとは。
目の前に教師がいなければ、肩を竦めながら首を左右に振っていた。
「一つだけ、君に尋ねたい事があるんだが。よろしいかな?」
「はい。どのような事でしょうか」
背筋伸ばし、一呼吸入れた。
突飛な質問でも、すぐ答えられるように。
「栗田春佳という方を、ご存知かな?」
おっと、その質問は全く想定外だった。
「春佳さんは………私の姉です。母親は違いますけど」
「やはり、そうだったか。一目見た時から、似ているとは思っていたんだよ」
昔を懐かしむように頷きながら笑みを浮かべた。
そうか。
娘が中学を卒業したのは、まだ六年前か。
「春佳君の事は良く憶えているよ。宿題を何一つやらない生徒だったからなっ!」
「へ?」
「勉強以外でも、掃除はすぐサボろうとするし、何か頼んでも忘れた振りをして何もやらないし、彼女の担任はいつも頭を抱えていたよ」
何やってたんだ、アイツ。
もしも俺が本来の姿なら『娘がご迷惑をお掛けして申し訳ございません』と詫びの一つでも入れていただろう。
「君はその点、大丈夫かな?」
「人並みには真面目なつもりです」
宣誓さながらキッパリのべた。
栗田家の汚名返上とばかりに、苦虫を噛み潰しながら。
湯気が沸き上がる寸胴鍋。
ヒョイとお玉でスープをすくい小皿へ移すと、冷ましながら口の中へ。
「ん~……」
味は悪くないが、少し薄いような。
塩分は足りている。隠し味を足すべきか?
ケチャップ。ウスターソース。蜂蜜。珈琲。チョコレート。どれを入れよう。いっそ全部?
ただ、濃くし過ぎると陽子から苦情が出る。
無難なのは生姜だろうか。
「ただいまぁ~」
おろし金へ手を伸ばした時、娘が帰宅を告げながらリビングへ。
「今日の夕飯、カレーライス?」
鼻を鳴らしながら首を傾げた。
「もうすぐ出来るよ」
ご飯も先ほど炊き上がったばかり。
「春佳。味見を頼む」
「あいよ」
肩からバッグを下ろす間、鍋の中身を陶器皿へ。
「どう?」
「美味しいと思うけど」
唇の端を舐めながら、小さく頷いた。
「そか」
娘と妻は嗜好が似ているので、一先ず完成で良かろう。
「お父さんのカレー、久し振りな気がする」
「そう……かな?」
記憶にないから、そうなのだろう。
「お母さんは?」
「締め切り間際で、しばらく部屋から出て来ないよ」
帰宅時に覗いたら、今日は徹夜になるかもと悲鳴を上げていた。
「だから、おとんが作ってるの?」
「明日もね。養って戴く肩身の狭い身の上でございますから」
料理を作るのは好きなので、苦にはならない。
妻が偏食気味なので、その点のみ面倒ではあるが。
「ところで、春佳さんや」
「なに?」
「一つ質問しても良いかな?」
「どんな事?」
「あなたは何故、俺の胸を揉んでいるのかしら?」
コチラが鍋に向かい中身を掻き混ぜている最中。背後から伸びた娘の両掌が、持ち上げるように乳房を包み込んでいた。
「柔らかそうなので、つい」
普通『つい』という理由で触るか?
「自前のが有るだろ」
「それは、あまり楽しくない」
理解出来るような、いや、理解して良いものやら。
娘がそんな性癖とは正直、知りとうなかった。
「まさか、友達にもしてる?」
「それは流石にない。しているのは、お母さんくらい」
「さよか」
そういや以前、妻が愚痴っていたのを聞いた気がした。
「お皿、持って来て」
邪魔な手を払い除け、ガスの火を落とした。
炊飯器を開け、炊き立てご飯を杓文字で掻き混ぜる。
「春佳、ご飯の量は?」
「普通で良いよ」
渡された器へ盛りつけながら、ある事を思い出し、大きく舌打ち一つ。
「どったの?」
「辣韮を忘れた」
福新漬けは買い物籠へ入れたのに。
画竜点睛を欠くとはこの事か。
「明日、買って来たら良いじゃん」
「そうだな」
寸胴鍋で作ったから楽に二日分はある。学校帰り、ヒレカツも調達するとしよう。
「そういやさ。おとん、今日の学校どうだった?」
「まぁ、無難に終わったよ」
案ずるよりも産むがやすし。
劇的な展開など望んでもいないし。
「やっていけそう?」
「多分ね。俺は誰かのように、宿題を忘れたり、掃除をサボったり、教師に頼まれた事をスッとぼけるような真似はしないから」
出来たてのビーフ・カレーを手渡しながら、笑顔での詰問。
娘は物凄くバツの悪そうな表情で、俺から視線を逸らした。




