第8話 裏・教室・対策
状況が一変したのは、校内を片っ端から捜索することを、私がいい加減諦めた時だった。
心当たりのある場所は全て捜索済み、しかし失せ物は影も形も捉えることができず……宛ての無くなった足は自然と、ある1点へ動いていた。
入部して以来、放課後は毎日欠かさずに通い続けている建物――体育館へと。
体育館に備え付けられた窓からは、深い闇が覗いている。既に、日が暮れていた。
「今日はもう練習できないな……」
当然、既に部活は終わっていて、バレー部の面々は片づけを始めていた。
彼女らはネットを折り畳み、ボールを籠にしまっている。
――その様子を見て、不意に思った。
「そういえば、一度もボール触ってないな……今日……」
籠は体育館のステージへと、隣接するように置かれていた。
そして、ステージ上には、未だに未回収のボールが1つ鎮座している。
――何てことなかったはずだ。何てことのない行動だったはずなのだ。
私はステージ上に登り、転がっているボールを拾い、籠に放り込んで――
――無くしていたシューズを発見した。
それはステージの中心に、誰かが脱ぎ散らかしたみたいに、無造作に脱ぎ捨てられていた。
……無造作? どこが?
「いや、私はこんな場所で靴脱ぎっぱなしにしないけれど……?」
ステージの中心に放置されていたシューズは、私の物だけだった。というか、シューズだけではない。
ステージに置いてあったのは私の物だけで、他には何もなかったのだ。
私のシューズだけが、そこにあった。
その日は、すぐに帰宅した。
翌日以降も、シューズは無くなり続けた。
放課後、部活に行こうとしてカバンを見ると、シューズが無い。色々な場所を探すのだが、シューズを見つけられるのは、必ず体育館のステージ上に限定された。
授業に体育の授業が入っていない日にも、私はそれを紛失した。それも、毎日必ず。
朝、家を出る時に、カバンの中にしまったことを確認しようが関係無しだ。どれだけ入念にチェックしようが紛失し、体育館で発見される。それを繰り返す。
そんなことが1週間ぐらい続いた——シューズを勝手に、体育館へと持ち出される件についても、不本意ながら、慣れてしまったある日のこと。
シューズの中に、1枚の紙が丸まって詰め込まれていて、汚い字で一言だけ書いてあった。
『先輩に謝れよ、クソアマが』
そこで、やっと私は気づいたのだろう。
これは、誰かが意図的にやっていることに。
「………………」
いや、初めて、シューズが無くなったあの日から、分かっていたのかもしれない。
先輩に殴られた時、あの場所には部員全員が揃っていたのだから。
我らが女子バレー部の部員数は、およそ30人。彼女らがグルになれば、私のシューズを盗むぐらい、訳ないことだ。
ただ、自分が誰かに貶められていたという事実から、目を逸らしたかっただけなのかもしれない。
事実を認めたら、惨めになる。部員全員から邪魔者だと思われていることの証明を、そして裏付けを、自分でするってことだから。
——故に、自らが苛められていることを認められなかった……今の今まで。
次の日から、私は幽霊部員になった。
学校に登校し、その日の授業が全て終わると、誰よりも早く校舎を飛び出して、家に引きこもるようになった。晴れて、立派な帰宅部の仲間入りを果たしたのである。
虐められていたことを、周囲の大人たちに打ち明けることはできなかった。
私が通っていた中学校では、退部届を提出する際は、保護者と担任の先生にチエックしてもらわねばならない。
当然、彼らがその理由に興味を持つのも自然な話で。
「言いたくないなら、別にいいんだが……退部理由、聞いても良いかい?」
「それは――」
この時、自分が何を言ったのか、実は全く覚えていない。兎に角、1日でも早く退部したいという考えで、頭がぐちゃぐちゃになっていたと思う。
担任の先生は、無理に引き留めるようなことはしなかった。実際、当時中学生だった私は部活にかまけてばかりで、勉強が疎かになっていたから。むしろ、勉強を頑張ろうとしていた私を見て、感心していたぐらいだ。
大変だったのは、両親の説得の方だった。彼らは、1年生にしてレギュラーの座を勝ち取った私が退部することに、疑問を抱いていた。
私が部活をとても楽しんでいたこと、バレーを上達していく過程など、彼らは身近で見ていたし、私が過度の勉強嫌いだということを、両親は私以上に理解していたはずだ。
退部するための手続きをしていた時、一度だけ、父に質問されたことがある。
「本当に、後悔は無いのか?」
父は常日頃から無愛想な人で、この日も朝から眉間に皺を寄せ、私に対しても端的に一言だけ、質問を投げ掛けた。
その問いに、私が首を縦に振ると、父は俯き――
「そうか」
と、一言だけ返した。
部活を辞めた私は、バレーボールに関する物を全て、処分することに決めた。
バレーボールは極端な話、ボールさえあれば、どこでも練習できる。始めるためのハードルが低い点は、このスポーツのメリットだと言える。
私が持っていた道具は、大した数にはならなかった。シューズや練習着、自作ノート、水筒、タオル、そしてボール……そのぐらいのもので。
その様子を、両親は何も言わずに、黙って見ていた。
それからの私は、バレーボールとは無縁の生活を続けることにした。
授業以外では体育館に訪れず、休み時間は文庫本と睨めっこして、家では勉強ばかりの日々……今までの生活とは正反対と言っても差し支えない。
言うなれば、文学少女のような日々を送っていた。
勉強が嫌いではなかったことが幸いして、私の成績は右肩上がりに伸びた。どうやら、私はコツコツと努力できるタイプだったようだ。
教科書や参考書を熟読した分だけ、結果が如実に表れることは、次第に快感となっていった。私は本心から、勉強を楽しんでいた。
……しかし、バレーボールに打ち込んでいた時期ほどの興奮は無かった。どこか、消化不良感と言うか……あの時、父から受けた質問が頭をよぎることが、何回かあったのだ。
当時の私はセミの抜け殻みたいに、空っぽだった。生きがいだとか、信念だとか、私自身を形作る決定的なものを失ってしまった気さえした。
それでも、それなりの達成感もあって、これはこれで悪くないと思い込もうとしていた時だった。
今度は教室で、事件が起こった。
それは、曇天の朝。日直の担当が回ってきたので、普段よりも30分早くに、家を出た日のことだった。
いつも通りに登校した私は、教室に置いてあった自分の学習机に、花が添えられていることに気がついた。
断っておくが、この中学校に美術の授業は無いし、私に生け花の趣味がある訳でも無い。
机の前で呆然としていた私は、顔を上げ、周囲を見渡した。
既に、教室には数名の男女が訪れていた。数はおよそ10名前後。
彼らは無遠慮な視線を私に向けていた。
まるで、演劇でも見るような、期待した眼差しをもって、事の成り行きを見物していた。
……彼らは私のことを見せ物とでも思っているのだろうか?
彼らから視線を逸らした私は、黒板横の花瓶に、花が刺さっていない点に気がついた。
再度、学習机に視線を落とす。
その花は、あの花瓶に挿さっていた花だ。担任の先生が大事に育てていた、とっておきの一輪のはずだ。
……先生が知ったら、悲しむと思うのだが……?
「……はぁ」
私の吐いたため息に、教室内の全員が目ざとく反応した。我関せずと知らんぷりする者や、気分を害したように眉をしかめる者など、彼らのリアクションは多種多様だったが……。
やはり、彼らの興味の対象は、私で間違いないだろう。
「…………はぁああぁぁ……」
試しに、先程よりも深いため息をついてみる。
すると。怒りの感情を隠さずに、私の方を向いて、露骨に舌打ちをする者が出てくる。……というか、男子生徒の一部には、額に青筋を立てる者までいた——勿論、私に白目を向けて。
向けられる視線の訳に、一寸の心当たりも無いのだが……もしや私、嫌われ者か?
「……っ、ふぅーーっっっ、はあああぁぁぁあぁぁーーーーっ……!」
思わずこぼれ落ちた3度目のため息は、水を打ったように、教室中に響き――数秒遅れた後、怒号が飛びかった。
「おまえさぁ、言いたいことあんならはっきり言えよ! 黙ってちゃ分かんないだろうがよ!?」
自分たちのことを棚に上げ、1人の男子が罵声を飛ばす。それを皮切りに、その場にいた全員が、次々に口を開き出した。
「草部さんって、私たちを下に見てるよね?」
「あなたの不注意で靴を無くした時、私たちに八つ当たりしてたよね!?」
「自分が悪いのに、開き直って……最低だよ!!」
女子の上げる金切り声が、頭にキンキンと響き渡る。本能的に、耳を塞ぎたくなるような騒音だ。
声の主は、以前に部活用のシューズを無くした私を心配して、声を掛けてくれた子だったと思う。今は鼻息荒く、私に非難の眼差しを向けている。
1部の女子や男子達も彼女に同調して、罵声を浴びせている。
芸能人が謝罪会見を開いている様子にそっくりだなと思った。……無数のカメラがフラッシュを炊いていたら、完璧だったが。
しかし今、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「八つ当たり」とはどういうことだろう?
心当たりが無い私は首を傾げたのだが——彼らにとっては、その何気ない仕草1つが、気に食わなかったらしい。
それは、教室内に鳴り響いた乾いた音が指し示した――当然、私が発生させた音ではない。
音は3回。立て続けに同じ箇所から生じた。
それは、私の近くにいた男子が私を――否、彼の傍にあった椅子を蹴り飛ばした音だ。最初に罵声を上げた男子のものであった。
胸の前で腕を組み、貧乏ゆすりを隠そうともしない姿は、最初に怒声を上げていた時よりも、苛立っているように見えた。
「小学生の頃のお前は、バレーボールに微塵の興味も抱かなかったらしいじゃあないか。お前と同じ小学校だった奴に聞いたぜ。これまで、経験の無いスポーツを始めたばかりの……1年生が! 入部して2~3か月程度でレギュラー取るなんざ、普通に考えてあり得ないだろうが!!」
……ふぅん? な、なるほど?
彼の言い分には、確かに納得のいく点もある。しかし、何もかもが、実際に起きてしまったことだ。あり得ない話ではないはずだが。
私からしてみれば、可能性の話など下らないと思うけれど……レギュラーだって、私が実力で得たものだし。
そんなことより、先刻誰かが言っていた、八つ当たり、の意味をそろそろ誰か教えてくれないだろうか――と、私がもの思いに耽っていた時だった。
——周囲一帯に、爆発音のようにけたたましい音が鳴り響いた。
突然の轟音に、物思いに耽っていた私も現実に引き戻される。
私が見たのは、1人の人物が周囲の机に拳を叩き込み、肩で息をしている様子だった。その人物は、先ほどまで腕組みと貧乏ゆすりをしていた男子。
彼の手の甲から1摘ずつ滴る血液が机に染み込む都度、机の表面を黒く変色させていく。
それを見た女子の1人が、甲高い叫び声を上げた。
耳をつんざく彼女の悲鳴は恐怖となって、周囲にも伝播し――あっという間に教室内はパニックに陥った。
彼女同様、恐怖に顔を引きつらせる者や机を叩いた男子を心配する者。訳が分からぬまま彼に同調し、私を糾弾する者。事態の変化についていけず、ただ呆然自失するだけの者。
皆、様々な感情に飲み込まれていた。
かくいう私も、目を見開いたまま固まって、机を叩いた彼から目線を逸らせずにいたのだが……。
彼も私から視線を逸らさないため、お互いが睨み合いをするような形になっていた。
阿鼻叫喚の嵐と化した教室だが、やがてクラスの皆も騒ぎ疲れたのか、次第に平静を取り戻していった。彼らは誰に言われた訳でもなく、視線を1点に集中させると、彼と私の様子を見物し始めた。
教室内の全員が閉口して、私たちの様子を窺っている。誰も、無駄話できる空気ではなかったように思う。
その場にいた全員の注目が集中したのを確信してから、彼は一度深く頷き、口を開いた――
「……正直、2~3ヶ月前後でレギュラー取るのはまだ分かるんだ。お前の身長はこの教室内で……いや、校内で最も高いだろう。バレーは、身長が高いほど有利だってことは、部員ですらない俺でも知っている。常識だからな」
「……」
「だから、その点について責めるべきではなかったな……さっきはすまんかった。ちょっと言い過ぎたと思う」
「「「…………は?」」」
彼の発言から数秒おいて、教室内でどよめきが上がった。
なんと、彼は私への謝罪の言葉を口にしただけでなく、私に向かって、頭を深々と下げたのだ。先刻まで私を攻撃していた彼は、今や真逆——私に謝る流れが形成しようと動いていた。
この瞬間、彼以外の誰もが冷や汗を浮かべていたことだろう。
それは、彼の意見に同調した場合、教室内の自分たちの主張を翻す必要があったから。最悪の場合、彼同様に、私に頭を下げなければならない。
しかし、口先だけの謝罪なら兎も角、気に食わない相手には、全く頭を下げられないプライドの塊染みた人物も、世の中には山ほど存在することだろう。
私としては、彼らが自分たちの行為に、多少なりとも罪悪感を抱き、今すぐに花を片付け、机を綺麗に掃除してもらえれば、最高なのだが……。
彼らは気がついていないのかもしれないが、私の学習机には、花瓶の中に入っていた水までぶちまけられていて、びしゃびしゃに濡れていたのだから。
——しかし、そんな些細な願いすら、私は叶えることができなかった。
彼は頭を上げて、折り曲げていた姿勢を正し、口を開く。
「優秀な人間は、その能力を遺憾なく発揮するべきだと思う。それは良い……でもお前、何でわざわざこんな時期に退部したんだ?」
「聞いた話では、お前が部活を辞めたのは、レギュラーに選ばれた直後らしいじゃないか。それに、元々そのポジションにいた3年生は、その少し前に退部している。 ……俺が言いたい事、お前にも分かるよな?」
「つまり、その先輩への、嫌がらせが目的だったんじゃあないかって。俺は……いや、この教室にいる全員が疑ってるんだよ。」
皆から向けられる視線は、氷点下ほどに冷え切っていた。
口を開いているのはたった1人だけ。他の皆は沈黙を保ったまま、私から一切目を離さない。
クラス全員からの敵意をビンビンに感じる。
これぞ正に、皆の気持ちが1つになった瞬間と言えるのではないだろうか?
やがて、彼はまたしても、民衆の総意を私へと投げかける。
「先輩に対して、罪悪感は抱かなかったのか? ……お前だって、同じことをされたらショックだろう。この人でなしが……!」
そこまで言うと満足したのか、彼の顔はスッキリとしているように見えた。後半の話は、自分達にもそのまま帰ってくる内容だと思うのだが……他の人達は全く疑問に思わなかったのだろうか。
彼にくっ付いているだけの金魚の糞たちは、よくぞ言ってくれたと言わんばかりの笑みを、顔に浮かべている。驚いたことに、彼らの中には歓喜のあまり、瞳から涙を1滴静かに流している者までいた。
……彼が凄まじいカリスマの持ち主なのか、心酔している人間が余程の阿保かのどちらかだな。いや、もしかすると、両方とも正解なのかもしれないが。
周囲に担ぎ上げられたことで調子づいた彼は、私に追い打ちをかけるように、さらに口調を荒げた。
「……というか、いい加減に何か喋れよ! ずっと口を開いてないよな、お前!? さっさと質問に答えろよ!!」
マシンガントークを続けて、私に喋る暇を与えなかった張本人が、そう言った。
確かに、彼の言った通りだ。
私はこの教室に来てから、一言も喋っていない。せいぜい、ため息を3回吐いた程度。
しかし、私が沈黙を保っていたのは、理由がある。2つの理由が。
彼らがずっと話し続けていたため、私が割って入ることができなかった。それが1つ目の理由。
当然、彼らに言いたいことは、山ほどあった。
大して仲が良いわけでもない……赤の他人風情に、一方的に好き放題吐き捨てられ、平気でいられる程、私は人が出来ているわけではないのだから。
それでも私は、表面上は平静を保ち、今にも爆発しそうな内心を押さえつけていた。
いえ、押さえつけていたと言うのは、少しばかり違う。むしろ、爆発などあり得ないと言うべきか……。
私が彼らに抱く感情。それは、他者に虐げられた人間が持つ物としては、軽いものだったからだ。
——有り体に言ってしまえば、そこまで怒っていなかった。別に気にしてはいなかった。
これが、2つ目の理由。
既に、私は今回のような苛め——のようなものを、部活において経験している。
一度経験した事態に対する慣れが原因なのか、私の心は微塵も揺れ動いてはいなかった。
前回私が受けた苛めは、バレー部を辞めた途端に、ひっそりと消失した。苛めを受けていた事実など、私の勘違いだったのではないかと疑ってしまう程に。
となると、現在、私の目の前で喚き散らしている彼らも、きっと直ぐに飽きることであろう……。
時間が解決してくれるのならば、事態の収拾がつくまで、私は黙して待とうじゃあないか。それでも解決しない場合は対策——もとい別案もあることだし……。
——と、私が冷静且つ楽観的に構えていられたのは、その時までだった。
またしても、彼が言った。
「親の教育が悪かったんじゃないか? 当たり前のことすら教えられないお前の両親が、な?」
「…………あ?」
考えるよりも先に、私の体は動いていた。
制服のポケットに入れていたスマホを取り出し、画面を彼らの方へ向けると同時に、自分でも驚く程の低音で、私は彼らに告げたのだ——対策を。
「……今までの会話、全部録音してあります。これが、何を意味するか…………あなた達に分かります?」
——瞬間、教室内は水を打ったような静寂に支配された。
この教室にいるほぼ全員が目を見開き、血の気の引いた表情を浮かべる中、ただ1人、私だけが口角を上げ、笑みを浮かべていた。