第6話 表・家庭科室・暴走
僕は今時珍しくもない、共働きの両親から生まれた。
両親は会社勤めで、毎日朝早くから仕事に行っていて、帰って来るのは日を跨いだ頃だった。そのため、休日の両親はいつも寝てばかりで、僕はあまり構ってもらえなかった。
とは言え、それを不満に思ったことは無く、むしろ、仕事に一生懸命な両親を誇りに思っていた。
そんなある日、母が体を壊した。まだ子供だった僕には、お医者さんの言ってることは何一つ分からなかったが、かなりの衝撃を受けたことは覚えている。
後から聞いた話では、当時の社会全体で流行っていたウイルスに感染していたらしい。しかし、当時の僕には納得できない話だった。
それは幼い僕にとって、母親とは神に近い神聖な存在だったからだ。完全な存在たる神が、病魔如きに犯されるだろうか? そして、当時の僕は、知ったばかりの言葉を使いたがる年頃でもあった。
——お母さんが倒れたのは、過労が原因なんだ。無茶苦茶な労働環境が悪いんだ。
父の話では、ある日僕はそう言って、父に詰め寄ったそうだ。我ながら短絡的で馬鹿な発想をしたな、と思う。それから暫く、過労過労だと言い続けたらしい。
高校生になった今でも、偶に父にその話をされる。過去の黒歴史をぶり返されて、気持ちの良い人間はいないだろう。僕はそう思う。
そのことを父に告げると、父は僕に決まって、1つの質問をするのだ。
——銀介はあの時のこと、後悔しているのか?
その質問の答えは、もう10年以上も前になるのに、絶対変わらず。
僕は10年間、こう答え続けている。
——全然!! 後悔なんてしてないよ!!
「草部さーん、かーえーろー!」
草部さんと昼食を共にした日の放課後、僕は彼女の教室を訪れていた。放課後に一緒に帰ろうという彼女からの提案を、僕が承諾して、この教室が待ち合わせ場所になったためだ。
……なったはず、だったのだが。
教室内には、草部さんの姿がどこにも無かった。補習の終わった弥生からの誘いを断るのに時間を使ってしまい、到着が遅れたのが原因か。
幸いなことに、この教室にはすぐに帰らずに、友達と談笑している生徒が複数人いる。彼らに聞けば良いだろう。
僕は階段を下っていた。何故か胸騒ぎがして、じっとしていられなかったからだ。
あの場にいた生徒に話を聞いたところ、佐野さんが草部さんをどこかに連れて行くのを見かけた生徒がいた。しかし、2人は鞄を教室に置いたまま、教室から出て行ったようだ。僕に分かることは、2人がまだ学校にいることだけ。行き先までは分からない。
階段を下りながら、ふと昼休みの時を思い出す。あの時は、階段を上っていて、佐野さんに声を掛けられたんだ。
あの時の佐野さんは、やけに上機嫌だった。人が喜んでいると、普段の僕なら同じように嬉しくなるものだが、あの笑顔を思い出すと、何故か不安な気持ちでいっぱいになるのだ。
脂汗がダラダラ止まらなくて、今にも胸を掻きむしりたくなる感覚。自分の足を動かすエネルギーが何なのか、自分自身でさえ、その正体が分からない。未知の感情から目を背けるかのように、僕は目をつぶる。
脳裏に浮かぶのは、やはり嬉しそうに笑う佐野さんの顔。
「……痛い」
無意識に、唇を嚙みしめていたらしい。口元をハンカチで拭うと、白い生地が鮮血に染まっていく。
ハンカチに血が染み込む間も、僕の足が止まることは無かった。やがて、階段を降り切ると昇降口が見えたが、僕はそこには行かず、その先に存在する教室の前でようやく足を止めた。
その教室が何処なのか、何故僕はここに来たのか、ここに何があるのか。疑問に思う意識とは裏腹に、僕の手はひとかけらの逡巡も無く、扉を開けた。
教室にいたのは、3……いや、4人の女子達だった。
その内の1人が、口を開く。
「せん……ぱい? どうしてここに……。ていうか、何で中に」
声の主は、佐野静香。
間抜けにも口を開きっぱなしの状態で呆然と目を見開き、両手にフライパンを握りしめて、こちらを見ている。状況の把握が遅々としていて、多少の苛立ちを覚える。
「……ひっ! え、あ……こ、こここれは違くて……!」
「そ、そうです! 私たちは、佐野ちゃんにやれって言われたから、やっただけなんです!!」
こちらが眉を顰めると、背後にいる2人の取り巻き共が揃って顔を青くして、自らの弁明を始めた。取り巻きの方が物分かりが良いという事実に、益々ストレスが溜まる。
……この取り巻き共、名前何だっけ。似たような名前だったはずだけど……まぁ、そんなことよりも。
僕は視線を下に落とす。
そこには、両手両足を縄で縛られた長身の女子が、うつ伏せになって転がっていた。その女子は身動きを封じられているのにも関わらず、ぐったりと力無く倒れている。身動き一つしない。
この場にいるのは、僕達5人だけだ。犯人捜しをするまでもなく、実行犯はこの3人組で間違いない。
3人が何故こんなことをしたのかは、この際どうでも良い。理由を聞いたところで、どうせ理解もできないだろう。そんなことをしても時間の無駄だ。
僕は慌てふためく3人を無視して、倒れ込む女子の介抱を急いだ。
彼女の元に駆け寄ると、声を上げられないように猿轡を嚙まされていた。僕は急いで、彼女の口から猿轡を外す。
「ゲホッゲホ、ふーっふっ……ガハッ」
猿轡を外した彼女は、途端に咳き込み出した。暫くすると、彼女の呼吸は荒いものでありながら、徐々に落ち着いたものになっていく。
女子が生きていたことに気づいた僕は、ほうと息を吐く。無事で良かった、素直にそう思った。
「グフッ!」
そう安堵した次の瞬間、女子は血を吐いた。僕は慌てて彼女の体を起こすと、思わず息を呑んだ。
彼女が着用しているシャツは、鋭利な刃物で引き裂かれたみたいにボロボロになっていて、覆われていた素肌には、所々に痣が出来ている。特に、集中的に殴られ、ドス黒く染まっていた腹部の痣が、一番酷い。
とは言え、彼女の痣や縛られている現状についてのショックも、全て忘れてしまえる程の衝撃があった。
それは、彼女の顔だった。普段こそ、前髪に隠れて目視不可となっていて、僕にとって未知だったその領域は——
——顔の右半分が黄色に変色していた。
これを見られたくないから、彼女は顔を隠すように前髪を伸ばしていたのか?
そんな考えがよぎった瞬間、教室内にがらん、という金属音が鳴り響いた。音の方向にいるのは、佐野静香だ。
振り向くと、尻餅をついた彼女がゆっくりと後ずさりをしていた。まるで母親に叱られている子供みたいに、今にも泣きそうな顔をしている。
その手には、僕がこの教室に来る前から握っていたフライパンが1枚。なるほど、先程の金属音はそのフライパンから出たものだった訳だ。
——この女から、取り上げなければ。
調理器具の形をした金属の塊は、佐野静香にはただの凶器でしかないのだろう。そう思った僕は、彼女からそれを取り上げることにした。
取っ手は、彼女が握っている。僕はフライパンの本体を掴み、彼女の手から抜きとると、近くの机に置き直した。
「ひいっ! や、や……」
「別に殴ろうって訳じゃないから、緊張するなよ」
彼女の手には一切力が入っておらず、簡単に回収できた。
ガタガタと肩を震わせ、焦点の合わない目でなんとかこちらを見ようとする彼女が、昼間に会った自信たっぷりの女と同一人物だとは、とても信じられなかった。
流石に怯えられてばかりだと、建設的な話が一切出来ない点に、僕が不便を感じていた時、ふと周囲に白い煙が漂い出した。
煙は焦げた匂いを発した後すぐに四散して、空気中に消えた。
その時、僕は嫌な予感を覚えた。
煙の火種は、先程まで僕が持っていたフライパンからだった。フライパンの本体が机と接した時に発生した火種のようだ。
試しにフライパンを少しずらしてみると、それが接していた部分には、黒い焦げ目が付いていた。
フライパンの本体を直接掴んだ僕の掌は、皮がただれていた。
「……って、おい!」
倒れている女子に駆け寄る。
僕は一体何を見て、安心していたのだ。何故、直ぐに気づかなかったのだ。
彼女の手も顔も、僕の掌同様に、皮がただれていた。今しがた負った火傷だ。それに僕のものよりも、余程症状が酷い。皮膚が黄色く変色していて、発熱もあるようだ。
それなのに、やけに静かだ。呼吸はしているみたいだけれど……痛くないのか?
もしかすると、神経が焼けて、痛覚が残っていないのかもしれない。
「何だよ……何なんだ、これは!?」
僕は先程、倒れ込む女子が生きてて良かったと安堵した。彼女が無事だったことを、心底喜んでいたと思う。
世の中、生きてるだけで勝ち組だ、なんて言葉がある。僕はそういう前向きな言葉が好きだ。いや、好きだった。
でも、今目の前で倒れている草部さんに向かって、そんな言葉はとても言えない。そんな綺麗事を、僕は二度と使えない。
きっと、今まで僕がそんな綺麗事を言えたのは、どこか自分には他人事だと思っていたからなんだ。
「う、ううぅ…………」
傷跡を隠すのは難しい。この火傷跡が消えなかったら、一生残ることになる。
それを自覚した瞬間、僕の脳裏にはある光景が浮かんだ。
夢に出てきた白いワンピースの女の子。両目が抉り出されていて、夢の終わり際に一言だけ喋っていた女の子。
その子と草部さんが、重なって見える。2人は全くの別人なはずで、容姿だって似てないのに。
「うぅ、ううう……ぁぁあああ……」
違う。
重なって見えるのは、身長や服、顔の様な外見とかじゃあない。
性格だとか好物だとか、内面でもない。
「……ああ、あああああ」
場所でもない。時も違う。僕と草部さんとの関係性が似ている訳でもない。
似ているところを挙げる方が難しい。
敢えて挙げるなら、彼女たちが経験している、もしくは経験していた状況だ。
それが似ている——
——自宅で首を吊った僕の妹と。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
言い訳がましくなるが、この後に起こったことを、僕は覚えていない。
草部さんが意識を取り戻した時、僕の手は真っ赤に染まっていて、周囲には意識を失った佐野さん達3人組が転がっていたそうだ。