1ー8.日常に隠れたくらやみ
リナが従士試験に奮闘するいっぽう、ルゥはいつもの日々に戻ろうとしていた。
しかしルゥは、どこか心ここにあらずといったふうに過ごしていた。やることなすことどこかぎこちなく、抜けている。ヘルマン司祭は日々の勤めをはたしながらも、ルゥの身に起こりつつあった偏りに不安を抱いた。
「どうもこれはいかんな」
独りごちた。寺院の掃除をするにしても、青の日に備えた聖典の読み合わせにしても、どうも身が入ってない。それがわかってしまうから危ういのである。
窓の端にふきんでぬぐった跡が残ってるし、持って来させた資料を探すのがいまひとつ遅い。小さなことではあったが、ふだんはそれだけ気の利くルゥだった。
「もう今日は、やすみなさい」
そう言ったのがリナが従士試験に頑張っている当日の、昼下がりのことだった。
ルゥは目の下にくまをつくっていたが、ふしぎと倦怠感を浮かべるその面持ちにも色つやが映えていた。かれは小首をかしげる。ヘルマン司祭はかえって戸惑った。
「青の日の支度はわしのほうでやる。きみはつかれておるよ」
「いいえ。そんなことはありません」
「いいや、今日のきみは本調子ではない」
「そんなことはありません」
頑なだった。ルゥのこの感じは、以前も風邪をひきながら強情を張ってお勤めをはたそうとしていた過去を思い出させる。
あの時は……はて、だれがルゥを引き取ってめんどうを看たのだったか。そうそう、ラストフじゃったな。しかしあの男、てんで不器用だったからに、ルゥのめんどうなんてろくに看もせなんだが……ヘルマン司祭は結局いまのルゥを支えることのできる大人が、ちっともこの村にいないことに気がついた。リナも、ガーランドも、そして村長ノイスも、みんな城市に出払ってしまっている。
司祭は寺院に用聞きに来た木こりのフーゴーや、身の回りの世話をさせている洗濯女のダニエラにこっそり不安を打ち明けた。
「そんなこと言っだがねえ」とフーゴーは郷里のなまりが強い口調で話した。「ルゥはしっかりもんだどよ。すこうし休みゃ元気になっじゃろ」
「しかしな」
ヘルマン司祭が気掛かりなのは、それにしてはあまりにぼうっとし過ぎではないかということなのだ。
「寝不足になるほどさびしいだなんてねえ、かわいいじゃないか」と、ダニエラはどこ吹く風だった。この女はいつもひとのうわさには目がなかった。興味津々のまなざしを浮かべながら、ごしごし木桶の中身を泡立てる。
「あー、まあ、そうかもしれんがな」
ヘルマン司祭としては、だれかがルゥのめんどうを看ないといけない、そこまでは確信していた。しかしそれはまちがいなく自分ではなかった。そう固く思い込んでいた。
フーゴーもダニエラも、そのことをよく見抜いていた。この司祭、肝心なことをわかっていながら自分で手を差し伸べたりは決してしない。いつもだれかを頼っている。相談して、不安を洗いざらい話して、それからついに聞き手が良心をとがめて進み出るまで動こうとはしないのだ。まるでつねに物事の選択肢から〝自分〟というものが抜け落ちたままあらゆる判断をしてきたかのような振る舞いが、ふたりにとっては苛立ちとともに眼前に現れ出ている。
しかしそんなことをおくびにも出すそぶりは見せなかった。あくまで彼らは聞き手であり、ついでにいえば司祭は自分たちのしごとをさせてもらっている相手なのだった。
まさか面と向かってそうだとは言えない。にこにこ笑って「へえ」とか「そうですねえ」と言って、ときおり自分の考えのようなものを交えて応答する。だがそれはたんに、自分にお鉢が回ってこないようにする彼らなりの処世術でしかない。
ヘルマン司祭はやがて話をあきらめた。その間にもルゥはひとり勝手に慣れた調子でお勤めを果たそうとするのだから、次第に自分の心配もしすぎただけかと考えたくなる。
急に、のどが渇いた。青の日以外で特に自分の意志で話すことのないヘルマン司祭のことだったから、慣れないのどが疲れ切っていた。かれはゆっくりと寺院のなかの自室に戻り、それからだれも入ってこないことを入念に確認してから、こっそりと内側からかんぬきを掛けた。
再度、自室から周囲を確かめる。聞き耳を立てているもの、かすかな衣擦れさえもないことをようやく悟ると、ほぅと息を吐いた。書棚の裏に設けた隠し戸を開けて、赤黒い液体が入った玻璃瓶と土器の杯を取り出す。
「ああ、悩みの種は忘れてしまうに限る」
そう言って、やや酸味が強いブドウ酒を、とくとくと入れて飲み干した。
力強い脈動が走り、その枯れた面持ちに生気が潤う。赤ら顔にかすかに朱が差す。ああこの甘美な気持ち、まどろむような安らかな心地よ──ヘルマン司祭は聖典の教えに反して昼日中に酒に傾くことの背徳感に慄いた。しかし自分が腰まで浸かっているこの快楽からは逃れがたかった。ラストフが逃げた? そんなことはわしの知らんことじゃわい。わしは何にもしとらんぞ──司祭はいつになく愚痴っぽく内心で思考をめぐらせた──第一、本庁から異端捜査官が来たってことだけでもわしは気が気でならんかった。こんな辺境の、毒にも薬にもならんような場所で事件があってはならんのだ。悪はこの地には栄えようがない。わしはもうとっくにこの世の悪と戦うつもりはさらさらないんじゃて。
若いころは、ヘルマンとて血気さかんで導師連が言うことにいち早く身を投じるほどの熱烈な信徒だった。〝鑑〟だと言ってもいい。東部辺境領国の寒村に生まれながら、聖典研究をよく修め、当地の司祭に認められて教区の補助司祭になった。それから近隣の教区を複数まわって、導師連とも交流を温めた。いまから四十年もむかし、聖典研究は一個の爛熟期を迎えていた。
というのも、ひとつに教導会のなかでも聖典を読みなおそうとする運動が生まれていたことがある。〈女神の平和〉から四百年、かつて戦乱が絶えず、ひとびとに女神の教えがいまひとつ浸透しなかった時代ならともかく、いまはすっかりその御使いたる〈聖なる乙女〉の存在もよく知られ、王家の威信のもとにあらゆる領国がひれ伏していた。
ところが歴史の果てに、教えはゆきづまりを見せていた。すなわちどの教えが本物なのか、である。
これはもちろん、現地に教えを広めるために取った融和政策の弊害だった。
各教区の司祭が取った、土地の精霊や妖精の物語りと、女神とその御使いの物語りの交わりは、結局のところ正しい教えの理解を広めはしなかった。むしろあれも女神さまの化身、これも女神さまの化身、という歪でひとり勝手な解釈を付け加えるだけだった。そのうち女神の祝福を受けた器物、と触れ回って臣民の注目と金品財宝とを寄せ集め、夜逃げするような不届きものすら現れるようになった。民間ならこれを取り締まるだけでよかったが、司祭のなかにもこのような汚職に手を染めるものがあった。若きヘルマンはこの悪を憎んでいた。
彼らは〝青空派〟と名乗った。それまで聖典を書物として読み、無数の註釈によって読む党派を〝書斎派〟と指差し、自分たちは過去の遺構・遺跡と書物を照らし合わせ、真実の教えを青空のもと明らかにすると息巻いた。党派発足はちょうど印刷術が発明された時期と重なり、青空派の活動は印刷写本やパンフレットとともに普及した。ヘルマンはこの運動の真っ盛りに青春を過ごし、大いに奮い立った。
しかしながら、青空派が見つけたのは真実とは程遠いものだった。
古代魔法文明、とそれは呼ばれる。
山脈や湖、秘境のただなかに、明らかに自然に反した巨大な構造物や神殿の痕跡が目立った。これは〈女神の平和〉の到来とともに、増加する人口を引き連れ未開の地を拓いたことで見つかったものだった。
当初は暗黒時代に滅んだ村落や都市のことだと思われていた。叙事詩圏が成立する以前、ひとびとはひたすら争い、血で血を洗う時代が長かったと聞かされている。しかし青空派は聖典『神聖叙事詩』を現実に起きたことと結びつけて解釈することで、空理空論に逃れがちだった神学に新たな地平を開いた。結果としてわかったのは、それはひとびとが暗黒時代と思っていたよりもはるかに往昔のできごとだった、ということだ。
このことは、現代に魔法を──ひいては魔法技術の発展をうながした。
すでに魔術は細々と現代にあった。しかし女神の教えの普及とともに力は小ばかにされ、まともに研究される類いのものではなかった。ところがこの文明の発見は魔法に新しい力を与えた。教導会の司祭でさえ、正統な研究として魔法とは何かを論じ、意見交換のため書簡がしたためられた。そして女神の奇跡と〝魔法〟が同じものであるとされ、魔術は教導会の名のもとに正しいものになった。
すると、今度は青空派のなかでも意見が分かれていった。魔術を認めるもの、認めないもの──いわゆる〝書斎派〟が黙認した異端の教えが、現実によって裏打ちされてしまったとあっては認めざるを得ないとあきらめたものもいれば、頑なに聖典の原文にふれ、これこそが真理なのだと言いたがるもの。事態は混沌を極めた。
そしてついに、星室庁が台頭した。
もともとが公会議を掌る機関だったそれは、混迷していく教えに厳格な裁きを加えようと時の大導師によって大幅な権限を付与された。異端者の密告受理とその取り締まり、逮捕と尋問の黙認など──次第に星室庁は異端捜査官を設け、各領国内における密偵の役割すら果たすようになっていた。彼らの耳目は教導会の耳目であり、異端者は時に騎士によって誅罰の対象にすらなった。
こうしたことの次第を半生として生きてきたヘルマンにとって、もはや真理とは無意味と同義であり、自分の意見を発信することは往来でみずからを告発するに等しかった。
もう少しだけ若く、もう少しだけ熱心な信徒ならこう考えただろう。
いわく〝これは女神がわれわれに課した試練であり、より一層探究と祈祷にはげめば真理は微笑むに違いない〟と。
しかしヘルマンはそう考えるにはもう歳を取りすぎていた。
青空派の激化する論壇をはなれ、メリッサ村に赴任することで、たどりついた境地は心安らかなものだった。多少の村人の移動や増減はあったが、毎週青の日に聖典の読み聞かせと教訓を伝えること、簡素な告解懺悔室で定期的に来る住民の愚痴と後悔を聞くこと、畑を歩いて回り、あいさつをして、年の節目節目にまじめな顔をして話をすること──それはあまりにも退屈だったが、決して不愉快ではなかった。
結局のところ、草の根に生きるものに正統も異端も知ったことではないのだ。
ヘルマンはそのことを理解するにつれて酒を覚えた。かつて自分が人生を捧げたものを無化するには、それが手っ取り早い手段のひとつだったのだ。メリッサの生活に溶け込むにつれて、過去の自分を否定しさる。その過程のはてに、かれは自分で考えることをやめてしまった。いやなことも、めんどうなことも、時間がすべて解決してくれるだろう。
そう、思っていた。
†
さて、ルゥは決して単なる体調不良ではなかった。昨夜からあることが気になっていて、仕方がなかったのである。
どことなく夢うつつをさまようようにして、今日のお勤めとしての作業を終えると、かれもまた周囲の目を気にする警戒のそぶりを見せた。ヘルマン司祭はさっき自室に入っていくのを確認していたし、木こりのフーゴーも裏口に薪を積んでいなくなっているはずだった。フーゴーに関しては、ルゥの頭脳に一目置いているから万が一見つかっても言いくるめられるだろう。
唯一、洗濯女のダニエラだけが見つかるとやっかいだった。しかし彼女も寺院の裏手で井戸と洗いもののあいだを往復していた。洗いものは一日がかりのしごとであるから、いまからルゥが書庫にこもったところで彼女がやってくる暇はないはずだった。
ようやく確認が済むと、かれはこっそりと寺院の奥殿──その先にある書庫へと入りこんだ。潜り戸のような入り口を抜けると、縦に三段、奥にもずらりと並んだ書架がある。ざっと五十かそこらの書物だ。この辺境にしては充実した蔵書だった。
その多くは古い手写本で、獣皮紙で作られている。決して印刷されたものではない。ところどころにパンフレットが差し込まれており、古代魔法文明に関する教導会の見解や、魔女裁判に関する告知が大々的に刷られていた。ルゥはこれを見て苦笑した。村でも配っている人がいるけど、ヘルマン司祭はこんなところに仕舞っていたのか、と思って。
異端に関する資料がないのは当たり前だった。しかしいまルゥにとっていまは聖典のうんぬんは不要だった。どちらかと言うと異端──それも魔女宗派を告発するためにつくられた書物が欲しかったのだ。たとえそれが印刷されたものであったとしても、だ。
「あったあった」
かれが手に取ったのは、『魔女の系譜』と呼ばれる獣皮紙による書物だった。
この本はその名の通り、魔女宗派がいかなる系譜をたどって異端の道を開いたかを書き記している。ふつう公会議で〝異端〟と認定された宗派は弾圧か改宗をもとめられ、過去に記された書物を焼き捨てるものだった。しかし魔女宗派においては例外だった。徹底した論証、徹底した研究、そして徹底した反論が〈魔女〉とはいかなるものかを四方八方から議論している。さながら〈魔女〉の存在を明らかにしない限り、教義がしっかりしないのだと言わんばかりに。
『魔女の系譜』は、教導会が魔女宗派を異端として知らしめた初期の資料だった。そのため結社のことは記されていない。まだそうと判明する前に書かれたものだった。
しかしルゥにとって、この書物が重要なのだった。かれはヘルマン司祭に隠して持ち込んだ大きな黒の書物を、ようやく引っ張り出してきた。開くとそこにはいまなお判読不明な文字がうねうねと文章をつくっている。
茨文字の書物。
ルゥはこれをそう呼ぶことにしていた。
(お父さんが残したこの本、いったいなんなんだろう。寺院の書庫にこれを解読する手がかりとか、あればいいけど)
そうなのだった。あの夜以来、かれは父がどんな人物であったかに想いを馳せるようになっていた。
魔女ヴェラステラ──闇夜に歌うその少女のいじわるなまなざしに、当てつけられたのかもしれない。しかし彼女が口にしたそぶりからすると、まちがいなくラストフは魔女宗派と関係を持っている。
もっと言えば、おそらく母エスタルーレもそうなのだろう。
ルゥはうっかりそのことを考え、それからかぶりを振った。
(まさか。そんなはずは──)
きっとリナがここにいたら、「そんなつまんないこと考えてんじゃねえよ」と言ったに違いない。だがいまここにはルゥしかいない。そのことが心細かったし、かれ自身の不安を決して止めてはくれなかった。
意を決して、『魔女の系譜』を紐解く。そこに描かれていたのは、いかに〈魔女〉が脅威として発見されたかということだった。ルゥの記憶が正しければ、この本のどこかにあの茨文字を読むのに重要な手がかりがある。
「……これだ」
見つけた。
かれが探していたのは、『魔女の系譜』が写し取った古代の魔女の聞き語りだった。そのなかには古今東西の〈魔女〉の、その原型が記されている。森のなかの独身老婆、山村を渡り歩く薬売り、上半身はだかで踊った蛮族の女神官など、結社として知られる以前、〈魔女〉と認知される前に彼女たちがどのような存在であったかをそれは探究している。
この成果を記したのは、たんに書物を読むだけでなく、実地に出歩きひとから話を聞いて記録した青空派の司祭だった。彼らは聖典の物語を実在したことだと信じて世界各地に出歩き、聞き込みと調査を行った。『魔女の系譜』はそのため、〈聖なる乙女〉がいかに〈魔女〉と似て非なるものであるかを論ずるためにざまざまな魔女を紹介している。
そのなかのひとつに、茨に眠る姫の物語りがあった。
むかしあるところに国があり──もちろんそれは叙事詩圏よりもうんとむかしの、少なくとも暗黒時代ぐらいには古い、どこかの王国だった──姫がいた。彼女は好奇心豊かで山野にたわむれ、活発な姫君だった。父君は長らく子種に恵まれず、彼女はようやく生まれた子供だった。そのため姫君はたいそう可愛がられ、その愛の深さにならって美しく賢くすこやかに育ったらしい。
この姫君が生まれるにあたって、国では大きな祝祭があった。蔵に仕舞い込まれた蜜の酒、シシの肉が惜しげもなく振る舞われ、臣民も上下関係なく飲むこと歌うことをゆるされた。国じゅうのものが招待され、特に郊外の森に棲む十二人の賢き女に対しては深々と敬意が払われた。
ところが、賢き女は十三人いたのだった。
招かれざる客はもの静かな笑みを浮かべて宴会のただなかにあらわれた。「せっかく楽しそうなうたげだというのに、なぜわたしを招こうとしなかったんだい」十三番目の女は問う。「おまえは賢き女のなかでももっとも邪悪なものだと評判だったからだ」と娘の父は答える。
「それをいうならわたしを含めた十二人、多かれ少なかれ邪しまさ」
「だがおまえは特に邪悪なことで名が知られておろう」
「そうかもしれないね。でも、これだけは覚えておきなさい。最も邪悪なるものにはことさらに敬意を払うべきだってね」
十三番目の賢き女は、そう言って生まれたばかりの姫に呪いを掛けた。言霊に依ると、姫は針に指を刺されることで死に至るだろうという不吉な予言であった。
その夜から国じゅうで先端の尖ったものがすべて取り除かれた。姫君を愛する気持ちがあればこそ、臣民もことごとく従った。ところが針と紡錘ばかりは生活の道具であり、完全に無くすことができなかった。みな姫君の目に触れぬように努力したが、ついに叶わぬ時が来る。
ある日──姫君が十四の歳になるときのこと、彼女が父君の目を逃れて無邪気に遊びまわっていると、侍女たちがふっと隠したものがあった。かつては姫君が気づく前に仕舞い込まれたそれは、しかしいまとなってはめざとく見つけ出されてしまう。
とっさに、そして乱暴に振り出された手に紡錘は牙を剥いた。結果として姫君は指先を針で刺したようなけがを負い、それをきっかけにまるで眠気が全身を覆って倒れてしまったのだった。呪いは姫君をはじめ、侍女たちをおそって、ついには父君を含めた国全体に覆いかぶさった。みなが目を開けていられなくなり、緩慢な眠りのなかに沈んだ。そしてそのまま荒野のように茨が生えて、国じゅうを棘のしげみに隠してしまった。寄る人を誘いながら、決して近寄らせない。そんなくらやみの底へ──
物語は、ついに長くわびしい時間のはてにさすらいの騎士がやってくるところで最後の盛り上がりを見せる。
騎士は信じられないほどの長い時間を超え茨に眠っている城館とその姫君のことを知る。まだ見ぬそのすがたに恋焦がれ、ついに他人の制止も聞かずに茨へと踏み込んでいった。最初はうまくゆかず、鎧ががんじがらめになる。しかし騎士は止まらない。ついには鎧具足をかなぐり捨て、着のみ着のまま血まみれになって茨の奥へと進む。恐ろしいほどの眠気がおそった。それに負けないほどの苦痛が騎士を縛り付けた。ところが騎士は勇猛果敢に茨をかき分け、姫君の眠る場所までたどり着いたのだ。
血に染まった手で騎士は姫君にそっと触れた。その温もりは眠る姫の冷たい肌に、強くみなぎる生気を与えた。
蝋のように白い頬に、赤みが差した。姫君は長い孤独のすえに、騎士を見いだす。目覚めは喜びに満ちていた。流された血に、苦痛を顧みずに挑んだ騎士の勇気のため、茨は退けられた。閉ざされた時間はついに温かい血のようにふたたび流れ出し、鳥たちがさえずる今この時に向かって解き放たれた。
この物語りは昔語りによくあるように、うるわしくもけなげな男女二名の婚姻によって幕を下ろす。しかし重要なのはそこではなかった。だいじなのは茨の眠りをもたらした十三番目の賢き女──最も〝邪悪〟で、おそらく妬みも恨みもひと一倍強かったであろうこの存在が、いわば古き物語りに描かれた〈魔女〉であった、ということ。
そしてこの〈魔女〉が振るった茨の呪いこそは、かの書物に刻まれた文字のいしずえではなかっただろうか。
(もし茨の文字がたんなる〝文字〟ではなくて、何かを隠すために作られた暗号なのだとしたら──それは、とても恐ろしい邪悪から逃れるためにあったんじゃないのか)
ルゥにはまだそれが何かはわからない。けれども何も知らないよりはましだった。
ついでに目を惹いたのは、物語の教訓だった。この話における騎士の果敢な行動は、教導会によってある教訓を生み出した。
聖典のひとつ『箴言集』にも記録された、ある重要な文言として、それはあった。
「〝茨の秘密はおのれの手を血で染めねば決して開かれ得ぬ〟か……」
まただ。
あの時ルゥが思わず口ずさんだのは、リナが恐れをなしたことへと揶揄いだった。まさかこんなところでまた同じ文句に出くわすとは思ってもみなかった。
もしかすると、こうした言葉は思っているよりも因縁深いいきさつがあるのかもしれない──そう思い至ったとき、ついにあることにはたと気づいた。
「まさか、そんな」
ルゥはおそるおそる手を口元に運んだ。震えていた。
「そんなことって、ないよね。お母さん」
かれが無意識につぶやいた言葉は、だれの耳にも届かなかった。