1ー7.その名はシュヴィリエール
名はシュヴィリエール。不名誉の息子、血統に呪われた貴公子、人と共に生きた英雄アスケイロンの末裔だった。
その生まれには偽りがあった。英雄家を継ぐ資格に女が除かれていたために、彼女は男装を強いられたのだ。母は常に男らしくあるように彼女を教育した。亡き父は家督を継がせるべく、ありとあらゆる武芸と教養とを叩き込んだ。そして彼女は望まずともその期待すべてに応えてきたのだった。
ところが彼女の人生には運命のいたずらがあった。
いたずら、と呼ぶには生やさしい。実に悪意と言ったほうが適切だったか──
「両者、前へ!」
騎士エレヴァンの声が、この〈技の試練〉に向き合うふたりの人間を呼び出した。
ひとりはメリッサ村のアデリナ──くしゃくしゃの金髪で、青空のてっぺんを見るような青いひとみの少女だった。だがその身体はきゃしゃからはほど遠い。骨ばってはいたものの、力がみなぎり、動きに無駄がない。
そしてもうひとりがシュヴィリエールだ。彼女は同じ金髪だったが、アデリナと比較して目を見張るほどの黄金色だ。かがり火に照らされて燃える太陽のような輝きを放っていた。翠のまなざしがこれに華を添える。けなげでもあり強気でもある。男装に身を包んだそのすがたは、まぎれもなくひとりの〝少年〟としての風格を勝ち取っていた。
このふたりが相見える瞬間、それこそは彼女たちにとって思わぬ宿命ですらあった。
しかしリナはまだ知らないことだ。彼女は手首足首をほぐして、つかんでいた木剣を手元で回転させた。ようやく得物を振りかざす機会にめぐまれたというのに、その面持ちに喜びはない。
ちぇっ。まさかここでこいつとやり合うなんてな──そう毒づく。だがシュヴィリエールの表情は決して揺らがない。相手がどこのだれであろうとも、気をゆるめてはならないというのは、彼女の父クナリエールの教えに他ならなかった。
構える。木剣の刃に当たる部分を寝かせるようにして下段──腰に提げた位置よりも低く、相手から隠すようににぎった。
リナはこれを見て、なぜか直感的に〈魚の構え〉だと悟った。水面下に潜航し、相手が打つ先手を掬いあげるがごとく下から払って顔をねらう。定石と言えば定石、しかしかなり技術を要する型だった。
(なら。こっちはこうだ)
リナが取ったのは〈鳥の構え〉だった。肩口に担ぐように木剣を置き、一撃必殺の瞬間まで〝溜め〟をつくる。しかしこれはたんなる大ぶりな一発屋ではない。あくまで上段にのみ限って、手首の返し次第でいくらでも複雑な斬り込みを放つことができる。
両者が実践したのは叙事詩圏でもっとも正統に近い〈中央剣術〉の本流、その基礎とされる型だった。
モレドもこのときばかりは眼を見張った。
「ほう」と口ひげをさすりながら、「あの郷里の娘とやら、どこぞの騎士くずれから剣術を叩き込まれたと見えるな」
「そのようですね」
返事をしたのはクリスタルだ。彼女は見かけによらず低くしゃがれた声だった。
「まさかこの東部辺境で、このような質の高いやりとりを見るなんてね」
「しッかし、へんですね。こんなとこにちびっ子相手の剣術道場なんて、開く物好きはおれたちの仲間にいなかったはずでしょう?」
イリエが茶々を入れる。クリスタルはこの痩せ顔の青年に浮かんだ物見遊山の面持ちをたしなめるように、口をはさんだ。
「ばか。問題はそこじゃないでしょ」
「いやだな。冗談すよ、冗談。わかってますってば」
まじめな場ならともかく、こうした内幕だと砕けに砕けるのがイリエ・シュヴァンクマイエルという人間なのだった。
モレドはたしなめるような目でイリエをチラッと見てから、うなずいた。
「その騎士くずれ、いずれは調べる必要がありそうだな」
そう言ったとたん、木剣同士が素早く交わされた。
先に攻撃したのはリナだった。〈鳥の構え〉からすばやく振り下ろされた一撃は、冷静な判断がなければ決定打に見えたことだろう。ところがシュヴィリエールは厳しくその軌道を読み取ってこれに飛び込んだ。ガラ空きのリナの半身に向かって下から上へと斬り込む姿勢は、一見無謀だったが、相手の技がだましだとわかったからできる手だった。
シュヴィリエールの手のうちで泳ぐ〈魚〉が、急流を駆け上ってリナのわき腹に噛みつく。彼女の思惑ではリナは〈鳥〉の翼をたたんで退くより他にない。しかしリナはさらに踏み込んだ。姿勢をくずし、木剣を深く振り下ろすように見えた。さらに手首を捻って、翼を広げた。さながら威嚇する猛禽類──飛びかかった〈魚〉の牙は、あえなく〈鳥〉の爪に弾かれて終わった。
すかさずリナは飛び膝蹴りを放った。
半身になったシュヴィリエールにはこれは痛手だった。とっさに得物を手放し、両腕で衝撃を吸収した。背後にはじき飛ばされ、受け身を取る。地面に放り出された勢いそのままに立ち上がった。
その立ちどころに、リナが力任せに左腕を振った。荒削りだが、当たれば辛い。シュヴィリエールは視界の端でこれを捉えると、両腕で受け止めて、今度は反撃に転じた。
足払い──瞬く間にリナが宙に浮いた。
くるっと視界が半回転。そのさなかに、リナは自分の腕を軸に、シュヴィリエールがたくみに力を受け流しているのを痛感した。リナはあえて抵抗しなかった。さながら側転からの宙返りといった具合に、身を旋回させると、放り出されたふりをして、右手を地面に付けた。身をひねって両足で着地する。
両者得物は手放していた。組み合う姿勢で緊張した間合いを取る。前屈みにたがいの手と手を差し出し、狙いあう。油断も隙も、へったくれもありはしなかった。だがふたりは初めて自分の技術と熱意のかぎりを、解き放つことができたのだった。
たのしい──ふしぎとそんな気持ちがリナの心のうちに湧いて出た。シュヴィリエールも同じ気持ちだった。それまで仮面のような一切の無表情が、つかのまどうもうな笑みに変わった。リナは言葉ではなく応じる。
一瞬交差した腕が、相手の腕をつかんだ。勝った、とリナはほくそ笑む。あとはこのまま力任せにねじ込めば、いける。
そう思っていた。
ところがシュヴィリエールのほうが一枚上手だった。彼女はリナの油断を見逃さない。身をわずかに、すばやく沈めると、リナのつくった両の腕へ飛び込むかのようにその下をくぐった。あっ、という間もなかった。彼女は相手の胴を抱えあげ、そのまま下半身をすくいあげて地面に倒したのだった。
「そこまで!」
エレヴァンが終了を告げた。かれはこの激闘を見ても眉ひとつ動かさない。
モレドが、その間隙を縫うように、ゆっくり拍手をした。
「予期せぬすばらしい戦いだった、ご両人」
リナはくやしくて、歯をむき出しにして起き上がったが、飛びかからないだけの理性はまだ残っていた。対するシュヴィリエールは汗をかいたひたいをぬぐって、試験官でもある騎士たちを見やる。
モレドはおもしろいものを見た、と言いたげなまなざしでふたりを観察する。そしてようやく口を開いた。
「メリッサ村のアデリナ」
「はい」
真っ先に呼ばれたのでびっくりした。少し声が裏返ったかもしれない。
「きみの剣技、そして体術は光るものがあるな。だれから習った?」
「えっ……あ、いや、わかりません」
「なにィ?」
モレドはうっかり口ひげを一本引き抜いてしまった。
「われわれをばかにしてるのかね」
「いや、あの、そういうわけじゃ」
リナがしどろもどろになるなかを、歩み寄るひとひとり分の影がある。
ガーランドだった。かれは外套を身にまとっていたので目立っていなかったが、相変わらず単眼鏡が眼を惹いた。
「失礼。わたしは医師ギルド所属のガーランドと言います。いまは訳あってこのアデリナの後見人代理というかたちで来ているのですが──」
かれは順を追って、このメリッサ村のアデリナがどういう状態なのかを説明した。モレドをはじめ、聞き入っていた騎士全員が奇妙な面持ちになっていった。
「すると、この娘はだれから剣技をならったかもわからぬ、と?」
「ええ、おそらく」
「ラストフの娘、ということだったな?」
「はい」
「イリエ、わかるか?」
「さあねえ。わかりかねます」
肩をすくめる。
「けど、こうは言えるでしょう。消去法的に考えて、その〝ラストフ〟ってひとがアデリナに剣術を教えたことになるはずです。でないとつじつまが合わない。それ以外の可能性を考えて良いのは、作り物語の作者と井戸端会議で即興劇を作りたがる城市の貴婦人方だけですよ」
「余計な解説ありがとう、イリエくん」
こめかみに指を当てて考える。
「クリスタル。これからメリッサ村に向かってヘルマン司祭から話を聞いてくるんだ」
「了解」
「それからエレヴァン、フェール辺境伯にこの件を報告するんだ。こっちはいますぐだ。しごとはこちらで引き継ぐ」
「承知した」
エレヴァンは聞くなり、すぐに獣舎へ歩いて行った。
モレドはその間油断なくもうひとりのほうへと目を移した。
「さて、アスケイロン家の御曹子よ」
シュヴィリエールは無言で相手を見た。挑むような目つきで応じる。
「きみの御父君のことはよく聞いている。あの惨劇と、その後のできごとについても、われわれのなかで知らないものはいない。だがその上であえて訊く。なぜこんなところに来た?」
彼女はたっぷりと間を置いて、モレドの問いがほのめかしたものを場に染み渡らせた。
モレドの言うことはとてもかんたんなことだった。『神聖叙事詩』の物語に登場する、〈聖なる乙女〉に仕えた騎士アスケイロン──その名を冠する英雄家が、試験をせずとも騎士になれないわけがない。にもかかわらずその嫡子が、わざわざ従士試験を受ける。その件を責めているのだ。
シュヴィリエールはすっと息を吸った。いよいよ呼吸を止めないと黒い感情を抑えきれないかのようですらあった。
「復讐です」
「なんだと?」
「わが父クナリエールを殺した男、その人物がこの東部辺境にいるという話を聞いている。わたしはそのためにここに来た」
シュヴィリエールは胸当ての上に手を置いた。
「わたしはフェール辺境伯のもとでの修練を望む。そのために、名ばかりではない実力を示した。〈技の試練〉は許された。そうではないのか」
「その判定についてだが──」
モレドが言いかけたとき、ちょうどエレヴァン・ノーランダートが獣舎の戸口を飛び出した。透き通った白の毛並みを持つ四足獣──俗に一角獣と呼ばれる、騎士だけに許された騎獣にまたがっていたのだ。その獣のいななきを引き連れて、騎士はゆうゆうと到来したのだった。
なにがなんだかわかりかねたリナだったが、エレヴァンのさっそうたる登場には心を打たれた。遠目でしか見たことのない騎士の美しきけものが、いま目の前に鼻息荒く屹立している。その目は黒い玉石のようにかがり火の光を反射し、その頭部から伸びる、一本の剣のごとき角には、ほれぼれするほどだ。
かれはやってくるなり、意味ありげなまなざしをシュヴィリエールに投げかける。それからモレドに向かって、言った。
「わたしの判断では、ふたりとも留保付きの合格です。その点、モレド殿も異論はないはずですね」
「う、うむ……」
「もちろん留保付きではあります。しかしそれは最後の〈勇気の試練〉でどうとでもなりますまいか。力と技あってもなお、騎士には至れぬというのがわれら東の騎士の矜持とするところでしょう」
「それも、そうだな」
モレドはしかし、険しい表情をやめなかった。
エレヴァンは言質を取ったとみるや、微笑みを浮かべた。それから身を翻すがごとく軽やかにヒトツノシシを御すると、城館の裏口通路から、月が照らすくらやみの世界へと駆け出して行ったのだった。
それを見送ると、モレドは手を鳴らして全体の注意を自分に向けた。
「初戦からこのように時間を掛けては敵わないものだな。もっと能率よく進めよう。次のもの!」
†
「……で、結局〈勇気の試練〉はあすに持ち越しってわけかい?」
城市タリムの南の広場──俗に〝夕の市〟と呼ばれる区画に、並ぶ見世棚と出店のただなか、露天の席を敷いた酒場がある。名は〈巨人たちの酒だる〉。固い丸太の椅子に脂でべとついたコケラブナ材の丸テーブルと言った、いかにも手入れの行き届いていない大衆酒場といったところだった。
今宵もしごとの疲れか騒ぎたい気持ちを発散するためか、ひとびとがそこここのテーブルに就いている。麦酒をあおり、流しの歌うたいが枯らしたのどで俗謡を口ずさみ、拍手と喝采、ときに踊り子が化粧の濃い顔で媚びるような笑みを浮かべて、ひとりひとりに名を売ろうと試みている。おもしろがっている客がいる。自分ごとの話に勝手に盛り上がっている客がいる。うるさそうに眉をひそめるひとり客がいる。そのあいだをせわしなく動き回る給仕の娘と、はげかかった頭を気にする亭主の怒鳴り声が行ったり来たりする。
そんななかに、男はいた。亜麻色の髪で、いたずらっぽい、むしろ悪意のある目つきで無精ひげをさすり、へらへらと小ばかにするような笑顔を浮かべている。
相手はガーランドだった。単眼鏡はそのまま、しかし喧騒のなかに埋もれてしまうような気配の隠しようで、まるで聞かれてはならない話を口にするように、周囲を警戒している。かれは男の反応にうなずき、それから続けて説明した。
「〈技の試練〉で落第したのは結局ふたりだけだった。残りは八人──男が六で女が二と言ったところかな」
「おいおい、ほんとうの〝男〟は五人だろう。例の貴公子は男で通してるわけなんだからさ」
「まあ、そういうことになる」
「しかしそう考えると図抜けた女がもうひとりいたことになるのか」
「ああ。だがそちらは典型的な田舎騎士の家系だよ。フェストルド家だ」
「はーん。あの〝怪力〟の血筋かよ」
亜麻色の髪の男は、錫合金のマグカップに並々注がれた麦酒をごくごくと飲み干し、話の合間あいまに給仕の娘を呼び付けてはおかわりを頼んだ。まるで酒を水のように飲む男で、放っておけばこの店の酒だるを片っ端から空にしたに違いない。
「それで?」と男は油断も隙もない目つきでガーランドを見た。
「ラストフのことが明るみに出た。今夜じゅうにフェール辺境伯にもこの件が知れる」
「そいつはやっかいだな」
「相変わらず手がかりはない。ヘルマン司祭に口裏は合わせるようには言っておいたが、切れ者の辺境伯のことだから、いずれは先手を打たれる可能性も否定できない」
「すると、おれにどうしろってんだ」
「わからないのか」
ガーランドは気色ばんだ。
「任務は失敗した。そう本庁に報告するんだ。すでに一度逃げられた時点で、そう便りを届けたはずだ。にもかかわらず、デニス。おまえはなぜここで油を売っている?」
デニスと呼ばれた男は、まだもったいぶってへらへら笑っていた。
「おれはまだ可能性を捨てていない。第一、あんなに王家を毛嫌いしていた男がなぜ娘を堂々と試験に送り出すんだ? いや、直接背中を押したわけじゃないのはわかってる。だが何はどうあれ従士試験に行きたがる娘を止めないで、平気で他人の手で送らせるなんて正気の沙汰じゃねえぜ。おまえとヘルマンに任せておくことが人質だって算段ぐらいはわかってたはずだ」
「そうかな。あの男、一筋縄ではいかない。だてに〈エル・シエラの惨劇〉を生き延びてはいないぞ」
ガーランドのことばに、デニスは破顔した。
「じゃあよお、こっちも腹割って話すが──失敗はゆるされないんだ。だからおれはこの件、あえて連絡をしてない。導師連は何がなんでも例のブツの在処を知りたがってるんだよ。そうでもしなくちゃ……」
言いかけて、やめた。
「おっと。それはこっちの話だ」
「そうか」
ガーランドはあえて踏み込まなかった。話しながら、かれは自分の師匠がなぜこの業界から足を洗ったのかをつくづく考えるようになっていた。
しんちょうに、ことばを選んで話を継ぎ足した。
「失敗はゆるされない、か」
「そうだ」
デニスは眉をしかめた。
「まさか、あの娘に同情してるわけでもあるまい?」
「どうかな。自分でもわからなくなってきた」
「ははん。さてはむかし自分が従士試験になん度も落第したこと、思い出したか」
「…………」
「べつにおまえの過去をさらうなんてこた、難しくもなんともないさ。でも過去は過去だ。いまはおれらと同じ、泥沼で泳ぐどうもうな魚ってわけじゃないか」
ガーランドは立ち上がった。
「言うべきことは言った。伝えるべきことも伝えた。その上で導師連が腑抜けたことを言うようであれば、わたしはどうなっても知らないぞ」
「そうだな。そういうことにしようか」
亜麻色の髪の男はまだ残るようだった。ガーランドは軽蔑のまなざしを浮かべると、そのままゆっくりと立ち去る。
人ごみの、くらやみのなかに、ガーランドはかき消えていった。
「んじゃ、頼むぜ。星室庁の異端捜査官どの」
その背中にこっそり呼びかけるように、デニスは独りごちた。