1ー5.従士試験の朝
さて、旅は順調だった。ケヅノシシのひづめは、踏みならされた街道をゆったりと闊歩し、陽が傾くまで粛々と前進した。
リナはタリムに行ったことがないわけではない。しかし幌の下から眺める旅路はつねに新鮮だった。タケダカソウが生い茂る高原の草むらから、次第に雲海山脈から派生した峡谷の吊り橋を渡っていき、うっそうとしたコケラブナの斜面を見ながらくだっていく──
やっとのことで平地にたどりついたと思うと、ツノムグラが群生する湿地帯を傍らに街道へと躍り出る。殺伐とした景色だった。しかし常に山に囲まれた村のそれとはちがって見晴らしが良い。リナは身を乗り出して、一面暗いみどり色となっているのを目の当たりにした。空が地平線まで裾を下ろしているみたいに、平野はひろびろとしていた。
「世界ってほんと広いんだな」
目をかがやかせて言うその無邪気さに、ガーランドは思わず顔をほころばす。
「やれやれ。近場の城市に着くまでにこんな調子だったら、この東部辺境領国の外に出て行ったらどうなるやら」
「ガーランドさんは、ほかの領国を知ってるんですか?」
「ああ。大学都市の許可証をもらって、遍歴学生としてあちこちめぐっていた」
「あーッ、いいなー!」
よだれのたれそうなほどのリナの反応に、ついガーランドは自慢心をくすぐられた。
「確かに領国を歩き回っていたときが一番楽しかったな。あの頃は師匠とその辺で草むしりをするだけで新しい発見があった」
ガーランドはそのまま問わず語りで、さまざまな旅の経験を話した。東部辺境の風車村と土地の精霊を祀る森、南部の渓谷に架けられた吊り橋の上で生活する高原民の集落や、〈聖櫃城〉から見晴かす大河アンカリル沿いの広大なサトムギ灌漑農場のことを──
特に青年の記憶に焼きついていたのは、草木の知識とひとびとの生活だった。前者は医術師としての必要性から、そして後者は旅というものの性質の都合から、それぞれ接したものだった。彼はうっかり語りすぎることを自制心でこらえながらも、自分の話を興味しんしんで受け止める少女の反応を前に、口を止めることができなかった。
「ちょうど良いから、見てごらん。ここにある草はツツメキグサと呼ばれている」
休憩でいったん獣車が止まったところで、ガーランドは率先して草原から一本採ってきた。器用に爪で切り込みを入れ、丸めた草笛をピュイっと鳴らす。リナは案の定、目を丸くした。それから好奇心に目を血走らせたような鋭い眼差しで、「どうやってやるの?」と詰め寄った。
ガーランドが教えると、リナは要領よく真似した。切り込みを入れた草笛を口に当てる。やや間抜けた調子だったが、音は出ていた。ヒョイ、という音が湿地帯に跳ねる。
「うまいね。わたしが初めてやったときはまったく鳴らなくて、師匠にさんざんばかにされたものだったが」
「その、お師匠さんってのは?」
「教導会の神学者でね。わたしの教導に努めてくれたほか、ひとを医す術についても手取り足取り教えてくれたんだ」
「へー」
「もっとも、賭け事が好きで、お金にがめつかった。破戒僧とはああいう方を言うんだろうな。旅のさいちゅう、こうやって食事の用意を弟子に任せてばかりの、いい加減なひとでもあった」
木陰で焚いた火の上に、干し肉と乳、コゼニマメを煮込んだシチューが煮えている。木の柄杓で鍋を混ぜながら、ガーランドが語る師匠の存在は、リナにとってはふしぎと魅力的に感じた。さながら往昔の偉大な人物を伝え聞いているような、魅惑のヴェールに包まれながらも、かろうじて実在を信じられるギリギリの線を爪先立ちして歩いている。そんな感じがしたのだった。
それまで御者に徹していたノイスは、ガーランドお手製のシチューに舌鼓を打っている。その間とつとつと師匠の話をする青年を、無精ひげをさすりながら、見せ物でも愉しむように黙って聴いていた。
ガーランドは焚き火の影を顔面に浴びながら、話を続けた。
「いまは隠居の身だから、教導会の仕事はされてないはずだ。きっとあのひとのことだから、ときどき山の珍味や薬草を携えては城市に降りて、札遊びで文無しになっては山に帰る。そんな日々を繰り返してるに違いないさ」
柄にもなく悪口だったが、ふしぎと楽しげでもあった。まるで少年の面影が蘇ったかのように、ガーランドは悪戯っぽく微笑む。
日は早く傾いた。遅い出発だったので門限が心配されたが、杞憂だった。湿地帯の景色にそろそろ飽きが来るかと思ったところで街道は丘を登る道になり、その勾配を目でたどった先に、タリムがあった。
市壁の門でヘルマン司祭直筆の許可状を見せてこれをくぐると、石の世界が広がった。すでに市壁じたいが丘の上に建ったひとつのありえないしろものだったが、それまで眺めていた暗いみどりの世界とはうってかわっていた。特に赤塗りのレンガと白灰色に近い石材とが生み出す景観は、日暮れどきの暗い光のなかにあってもリナにはまぶしかった。
興奮しているリナを乗せたまま、獣車は城市の古旅籠〈ルリツバメの止まり木〉亭へとたどり着いた。
いわくノイスの行きつけらしい。郷里の都合で税を納めたり、城市で農具や嗜好品を買い付けたりするにあたってひんぱんに泊まるのだという。村長として選ばれた人間の、これがその特権だった。
さながら我が家のごとく、ノイスは気さくに部屋に上がっていく。少女と青年は付き従うしかなかった。
上がった先は、いささか散らかった様相を見せていた。ほとんどノイス専用の個室といっても過言ではないこの空間は、わざわざ郷里まで持って行くのがめんどうな書類やら小包などが積み上がっていた。亭主と仲が良いらしく、大目に見てもらっているとのことだったが、さすがにリナもこれには苦笑したものだった。
「まあ、互いに良しとされているなら、それで良いのではないでしょうか」
ガーランドも特にそれ以上込み入ったことを言わずにいた。
ただ、部屋はこの有り様だったので、さらにひと部屋借りて、リナ専用にした。男ふたりはノイス名義で借りた広めの部屋をせっせと片付け、なんとか寝る場所を確保するに至ったのだった。
あしたははやいからね、そういって彼らは眠りに就く。
ところがリナは布団をかぶったとたん、急に自分を見送ってくれたさまざまなひとの顔が思い出された。けんか仲間に大人たち、ヘルマン司祭に、それからルゥ──彼らのあこがれとも心配ともつかないまなざしを思い起こすにつれて、腹の底がぞわぞわした。手足の感覚が薄くなり、せっかくの旅籠の寝袋もちっとも味気ないものになってしまう。
じっとしていられず、何度も寝返りを打ってみたが、かえって目が覚めた。口のなかがざらざらする。ついに寝ることを諦めた彼女は、窓から夜の街をのぞき見るのだった。
タリムは叙事詩圏のなかでは、あまり大きいとは言えない城市である。しかしその規模は壁外農場を含めると大した広がりを有しており、すくなくともリナにとってはすべてが目新しいものだった。
とはいえ一般的な城市の例に漏れず、幾重に市壁を張り巡らせたなかに、石の家が区画整理されていた。広場と呼べる箇所が東と南の二箇所あり、その一帯を中心にいっぽうでは朝の市、他方では夕の市が立つのがならわしだった。
しかしそれはむかしの話だ。
領国の街道の本筋が走り、それが軍事的な要衝でもある〝世界のはての壁〟まで続くとあっては、タリムはある種の拠点の位置付けをも担うようになっていた。王家との契約に基づき、東部辺境領国を治めるフェール辺境伯もこの城市を第二の居城としている。
権力のあるじが住む場所は、まつりごとの都合からおのずと商人が集まりやすい。領主お抱えの軍団が絶えず出入りするこのタリムであればなおさらのことだった。こと圏外からの侵入者を見張るこの東部辺境で編成された軍団は、平和の時代にあっても屈強で機敏な兵士としてもよく知られている。
そんな彼らが役目を負うか、あるいは役目を終える節目において娯楽と癒しを求める場がこの城市だったのだ。
だからタリムでは、夜も火明かりが絶えない。話には聞いていたものの、リナはこれを見るのは初めてだった。彼女の記憶のかぎりでは、日中のお祭りで壁外にも立った出店や演し物、それから吟遊詩人による騎士道物語の語り聞かせといったものばかりだ。街の景色は、さながら夜の平野にひとつどんと置かれた巨人族のカンテラといった具合で、彼女は素朴にこの光を作るための油はどこから来たんだろうと思わずにはいられなかった。
ふと、彼女は廊下の側からかすかなきしむ音がすることに気づいた。よほど意識を集中させないとわからない、かすかな感触で、紙の上にゆっくりと重石を置いて、紙の音を聞けと言われているようなものだった。
ところがそれが廊下を進み、遠ざかり、階段を降りていくのを察知すると、リナは窓の下へと身を乗り出す。そこには〈ルリツバメの止まり木〉の勝手口がある。もしやと思ってのぞいていると、予想通りそれは開いた。人影が周囲を見て、すばやく街に繰り出していく──
「あれっ」その人影はガーランドだった。
リナは思わず独りごちたが、小声だった。何か気まずいような感じがしてすかさず身を隠したが、別に悪いことはしてないはずだった。むしろガーランド自身がなんの用があって夜の街に繰り出しているのか。リナはあらためてふしぎに思ってまた身を乗り出す。しかしガーランドのすがたはもう消えていた。
最初、もしかすると見間違いなのではないかと思った。火明かりであらわになった顔はよく見間違うものだ。
しかしガーランドにはあの特徴的な単眼鏡がある。それに今日〈ルリツバメの止まり木〉亭に泊まっている人間で、金髪碧眼はリナとガーランドだけのはずだった。だとしたら、やはり見間違いではないかもしれない。
リナはこっそり、自分の疑問を確かめることにした。
まずあの人影が見間違いでないことを確認しようと、隣の部屋に向かう。鍵は掛かってなかった。物盗りにあったらどうするんだ、と思ったが、今回に限って都合が良かった。
ドアを開けても灯りのない部屋で、ふたつのベッドが横並びになっている。暗がりに慣れた目を凝らす。あれから大掃除をしたわけか、足の踏み場は意外に残っていた。片やすでに寝入ったノイスのいびきが喧しい。水底からあぶくでも吹き出しているようないやな感じで、リナには苦痛だった。しかし彼女はそのまま抜き足差し足でもう片方のベッドに近づいた。
そこにはだれもいなかった。
やはり。リナは確信する。あれはガーランドさんだったんだ。間違いない。
そのときいまさらのように部屋の空気が妙に酒臭いことに気がついた。この期に及んでノイスは酒を飲んだのだろうか。振り向くと、書物を扱う机の上に、盃がふたつと銀の水差しがあった。鼻を近づけなくてもわかっていた。ブドウ酒だ。
なるべく状況をそのままにして、自室に戻る。やっぱりガーランドさんはあのとき出て行ったに違いない。でも、なぜ? どうしてなんだろう。リナの疑問はふたたび同じ地点をぐるぐる回り出した。
だが考えれば考えるほど、答えがない。次第にめんどうくさくなって、リナは眠気を覚えてきた。
(まあ、あした聞けばいいか。よほど気まずいことじゃないかもしれないし、そもそもガーランドさんもギルド宿舎に用があったかもしれないし)
そうひとり合点すると、なんだか緊張して寝れなくなった自分がばかばかしくなった。もしこのまま寝不足でざんねんな結果となれば、笑うことすらできない。
寝る。そう決めた。彼女は納得すると、とたんに目をつぶって、三つかぞえる間もなく眠りに落ちたのだった。
†
夢は見なかった。思ったよりもほがらかな目覚めで、リナ自身驚いた。
あけぼの色に染まる朝の街を、ベッドの縁からぼうっと眺める。まるで夢みたいだ。だが夢ではない。
リナはついにからだを起こした。窓からあらためて見た街の景色は、夜中よりもむしろ闇が濃く深くにじんでいた。まるで市民が夜明けを望んでいないかのようだった。
ふしぎと冷静だった。死に絶えたかのように見える石の家のあいだを、すり抜けるように駆けていく路上の少年たちのすがたすらもこの目ではっきり見えていた。どこかの使いっ走りか、すりの類いなのだろう。次第に目が覚めた大人たちがのそのそと獣車を引っ張り出してきたり、自分の見世棚の周囲を掃き清めたりするのを、眺めているだけでもリナにはおもしろかった。
隣りの部屋から物音がして、リナは振り向いた。堂々と足音を鳴らしながら、近づいて来る。ノックだ。二回、三回──それから。
「リナ、起きてるかい?」
ガーランドだ。昨日のことなどまるでなかったかのように、そこにいる。リナは一瞬意地悪い気持ちが湧いた。そうだ、昨日のことを訊ねてみようか。ところがその考えは、ドアが開いたとたんに萎縮した。入ってきた青年は、妙に申し訳なさそうな顔をしていたのだった。
「どうしたんですか?」リナは思わず訊く。
ガーランドは首を振った。しかし背後からノイスが肩に手を置く。静かなまなざしが、どうせ隠せないならいまのうちに言っておくんだとうながしていた。
「じつは」とガーランドは何度もためらいながら、口にした。「もう一度ラストフのゆくえをこの城市で訊いて回っていたんだ。けれども、まるでわからなかった。もう少しましな情報でも得られればと思ってたんだがね。ノイス村長のつてをたどっても、何もわからないままだった」
「…………」
「少し補足するが」とノイス。「辺境伯の軍団に出入りする御用商人と何人か顔見知りでな。そいつら、この時期だから近隣の郷里から集めた税を、ここやほかの城市にうまいこと回しているんだわ。だからそんじょそこらの奴らよりも情報網としてはしっかりしてる。でも、そいつらでも手がかりも足がかりも見つからなかったってワケ」
困ったもんだな、とノイスはため息を吐く。
「覚えちゃいないかもしんねえが、ラストフってのは片腕片目の、ちょいと目立つ見かけをしててな。こう、左の腕のひじから先がないんだな」──言いながら、右手の指二本で該当箇所を叩いてみせる──「おれが村長になる前からメリッサの郷里にいたらしいが、なんでそうなのかはよく知らない。あまり口数の多い人間でもなかった。やっこさんを以前から知ってるのは、はなれのユリア婆だけなんだよ。その婆さんは〝事故に遭った〟の一点張りでな。そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん」
ノイスはガーランドよりも前に出た。
「まあとにかく、そんな人間が城市近辺に出てきて目立たないワケがねえ。それでずっと訊いてまわってみたんだが、ちっともわからないんだな、これが」
肩をすくめる。
「やっこさん、とんだかくれんぼの天才だったワケだ。じゃなかったら、いよいよ里山近辺に探りを絞ったほうがいい」
「そういうことなんだよ、リナ」
リナはいまさらのようにハッと顔を上げた。
「わたしたちはラストフを諦めてはいないつもりだ。だから、リナは気にせず、従士試験をがんばってね」
「……はい」
彼女は後ろめたくなって、うなずいた。ガーランドはまるでリナの疑いを最初からわかっていたかのように、そっと歩み寄り、それから手を差し出した。
「城館へいこう。早いところ受付を済ませて、身体ならしと行こうじゃないか」