第2話
アイリーンがトルストイ家に嫁ぐまで、あと十日となった。結納品の準備、嫁ぎ先に持っていく私物、侍従の引継ぎ、屋敷はいつもより慌ただしい。
しかし、アイリーンはここ数年では一番時間を持て余していた。
これまでのアイリーンは、妃となるべく礼儀作法に語学にダンス、歴史、文学──その他諸々の勉強で一日の予定が埋め尽くされていた。第一王子との婚約が破棄になった今、それらはもう必要ない。アイリーンは既に一般的な貴族令嬢よりも遥かに高い水準の教養を身に着けている。
手持ち無沙汰になれば、考えなくてもいい事ばかり浮かんでくるものだ。ぽっかりと空いてしまった心の穴に不安、哀しみ、絶望が滑り込んできそうになる。だからアイリーンは編み物を始めた。手を忙しく動かして、意識の全てを編み物へと注ぐ。時間を潰すのに編み物はぴったりだった。
気付けば、窓から差し込む光が部屋を深紅に染め上げている。アイリーンはその眩しさに目を細めた。
窓の外に見えるのは自分ではどうしようも出来ず、来る暗闇を恐れる薄雲。
──今の私みたい。
無力な薄雲にアイリーンは自分を重ねた。
そのままわずかな残照も無くなり、暗くなるまでをアイリーンは見届けた。
暗闇は人の心をかき乱す。
言い表しようもない不安に襲われたアイリーンは、直ちに灯りの魔道具をつけようとする。立ち上がるために手をついて──
「……っつ」
偶然の事だった。
横に置いたままの編み物用の針の先端が、アイリーンの陶器のように白い手の甲を傷つけた。
その痛みにアイリーンは顔をわずかに歪める。
刹那。
粘度のある液体が、手の甲から指の先端を流れる。
その液体は熱を帯びていて──
「温かい」
思わず漏れた息が微かに空気を震わせた。
ずっと冷たかった指に熱が戻った。
湯に浸かっても、温かい茶を飲んでも、どうしても戻らなかった熱が。
指だけじゃない。針によって傷ついた手の甲からも鋭い痛みと共に熱を感じる。
熱はすぐに収まって、痛みだけが残った。再び両手を芯から包む冷たさが襲う。
灯りをつけて手の状態を確かめると、手の甲に真一文字の裂傷が刻まれていた。
「治療しないと……」
忙しい侍従たちの手間を増やすようで少し申し訳なさを感じつつも、このままにしておく事ができず部屋を出た。
──もし、この針でまた傷をつけたら。
その間だけ、一瞬だけ、手に熱は戻るんだろうか。
「だめ、そんなこと……」
──私……今、とんでもない事考えてた。
アイリーンは背筋から首に畏怖に似た感情が這い上るのを感じた。自分のたがの外れた思考にぞっとしながらも、その思考を振り払えない。
──どうせこれから治癒魔法で治療するんだし。
針を手に取る。
──このくらいなら傷も残らないだろうし。
針を手首に当てる。
金属の、ひやりとした感触。
──どうせ私はもう。
暗闇に溶けたあの薄雲のように。
──もう。