第1話
全三話で完結する予定です。
「アイリーン、そなたはデニス・トルストイ伯爵家に嫁いでもらう事になった。トルストイ伯爵領は北部戦域から近い事もあって、領内の緊張状態は高まるばかり。青薔薇の令嬢と讃えられたそなたが赴けば、民心の安寧も保たれる事だろう」
「承りました、陛下」
その場にいた者は突然の陛下の言葉に動揺を隠せないでいた。ただ一人、当事者であるアイリーンを除いて。
彼女の生家は公爵家。王家とは遠縁にあたる国内でも指折りの貴族。そしてアイリーンは第一王子、マクベスの婚約者だった、今この時までは……。
アイリーンが動揺を見せなかったのは、妃となるために施された長年に渡る淑女教育の賜物だと言えよう──皮肉な事に。
とは言えそれも取り繕った仮面。凪の湖面のように見えてもその胸中は激しく揺さぶられ、複雑な思いが渦巻いている。
──どうして。
妃に相応しい淑女になるのだと言い聞かされて、信じて、今まで生きてきたのに。
──どうして。
陛下は婚約破棄をしてまで私とマクベス様を引き離そうとするのか。
──どうして。
そうまでしたのに、代わりに嫁ぐ先が悪魔公と恐れられているトルストイ伯爵家なのか。
アイリーンは体中から血の気が、熱が引いていくのを感じていた。視界は床に敷かれたカーペットの模様すら判別できなくなるほど不明瞭になり、微風が吹けば崩れ落ちてしまいそうになるほど足元がおぼつかなくなっている。
「ご苦労だった。下がってよいぞ」
陛下は無表情に、ただ無機質にアイリーンに告げた。恭しく礼をするアイリーンの顔は蒼白に染まり、手先は震えていた。
★ ☆ ★ ☆ ★
第一王子のマクベスと隣国の第一王女の婚姻が発表されたのは、それから数日後の事だった。
両親はこの事を伝えようとはしなかったが、アイリーンは使用人が噂しているのを偶然聞いて事の顛末を知った。
大陸北部の戦争が激化する中で、隣国との関係改善は必須だ。我が国の第一王子と隣国の第一王女と婚姻を旗印に同盟を結ぶ、それが狙いなのだろうとアイリーンは察していた。
王家の血を濃く保つためにアイリーンを婚約者に選んだあの頃とは事情が違うのだ。
マクベスとアイリーンの間に恋愛感情はない。物心ついた頃には既に婚約が決まっていて、幼い頃から何度も顔を合わせた。少し優柔不断な所はあるが、王の資質は十分に兼ね備えている。気心こそ知れているが、それは恋愛感情とは似ても似つかないものだった。
アイリーンは『恋』というものがどのような感情かは知らない。それでも何度も社交界に身を投じる中で、薄紅色に頬を染めながら熱っぽい視線を向けあい、今にも崩れそうな物に触れるかのように手を伸ばす、それこそが『恋』なんだと理解していた。
──公爵家に生まれた以上、国家にとって利のある婚姻を結ぶ事は覚悟していた。
覚悟はしていた……。
──だが、どうして悪魔公なのか。
何故、淡い期待すら抱かせてくれないのか。
婚約を破棄され、代わりに嫁ぐように命じられた先は悪魔公の治めるトルストイ伯爵家。歴史ある名家ではある。
悪魔公。それはトルストイ家前当主ドラクルの通り名。絶大な魔法の力で北部からの侵攻を幾度となく退けた英雄だが、敵の生き血を飲んで笑う等、苛烈極まりない逸話や鷹を思わせる鋭い目つきのせいで、誰が呼んだか『悪魔公』。
アイリーンが嫁ぐ事になるのはその跡取りであるデニス。彼もまた悪魔公という異名で呼ばれる怪傑。二十代も後半に差し掛かってそれでも結婚していないのは女性を乱暴に扱う癖があるからだ、と言う話を社交界で知らぬ者はいない。
アイリーンは一度、王家主催のパーティーでデニスに会っていた。目があっただけで、本能的な恐怖が頭を支配したのを今でも覚えている。
──きっと私はこれから殺されるのね。
王家の都合とはいえ、一度婚約破棄をされた身では普通の貴族との結婚は望めない。だからトルストイ家へと厄介払いされるのだ。
アイリーンは部屋で一人、起き上がる事もできずに手で瞼を塞いだ。ひやりとした感触が伝わる。
──あの日から。
悪魔公に嫁げと陛下に言われた、あの日から。
──冷たい。
失った熱が戻らない。
ずっと、死人のように冷たいまま。
残りは校正が終わり次第投稿します。