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「羨ましいです」
「殿下?」
吹き抜ける風が急に突風に変わった。風に隠された彼の憂鬱な眼差しは、それでも私の目に届いていた。下を向いた彼の顔に不穏な影が宿っているのを、私は見過ごすことができなかった。
「なにか、ありましたか?」
風がやんで見えた顔はまだ少しだけ影を落としている。彼でも誤魔化せない苦しみを抱えているように見えた。
彼は私の問いに何かを言おうとして少し躊躇った。少しだけ沈黙があった。しかし、彼は何かを決意したようきゅっと唇を結ぶと私の目をまっすぐ見て、重く閉ざしていた口を開いた。
「エスティ嬢はどう思いましたか。私の前世を聞いて」
「殿下の前世を聞いて?」
「はい」
本音を言えば最悪。でもそんなことは口が裂けても言えない。
では一般的に思い付くものって。
(素晴らしい……)
でもこれも違う気がする。きっと私はそんな風に思わない。ではもしも前世に関係なく、私が感じることって――——。
「寂しい、ですね……」
「え?」
私の答えを聞いた彼は驚いたような、すこし困惑したような顔をしたまま固まった。確かに英雄が前世で「寂しい」なんて言うのは失礼極まりないことだろう。でも、私はそう思ったのだ。
きっとこれから前世が英雄というだけで、過度に期待され、それに応えなければならなくなる。それに優秀な彼はきっと応えてしまうだろう。しかし、それができたとして返ってくる言葉はなんだろうか。
『さすが英雄の生まれ変わり』
きっと多くの人がそう返すに違いない。そして、もしその期待に応えられなかったらどうなるだろう。
『英雄の生まれ変わりなのにどうしてできないのか』
そう返ってくるに違いない。
成果を出すのが当たり前で、出来なければ出来損ないと言われる。そんな環境で生きなければならないなんて、なんてつらい人生なんだろう。
なんて寂しい人生だろう。
きっと前世を恨みながら、それでもいつか仕方がないと割り切って生きていくしかないのだ。
一人で。
それは私も同じだ。
彼とは全く違う苦しみだけれど、私も前世に苦しめられながら生きていく。誰かといるのが怖くて、他人とは決して心を許せず。いつか苦しみも感じなくなって、それが当たり前だと割り切って。
一人で、生きていく。
なんて孤独で寂しい生き方。
殺した者と殺された者。
英雄騎士と悪逆皇帝。
正義と悪。
あんなに違う肩書で、真逆の運命を背負っていたのに。転生したら全く同じ結末を歩んでいく。
なんて、なんて皮肉なんだろう。
「寂しい、ですか。そんな風に言われたのはあなたが初めてです」
寂しい……、さびしい……。彼はそう続けて小さく呟く。その表情はどこか明るく振舞っているように見える。
あまりに突拍子のない答えに、相当困惑しているようで、きっとどういう顔をすればいいのかわからないのだろう。それはそうだ。私が異常なために出た答えなのだから。きっと普通の令嬢ならこんな事は言わない。
(また、変な令嬢だと思われたかしら)
本心で、彼に嫌われたいと思って言ったわけではなかったのに。すこし複雑な気分だ。それでも結果的には私の目的には繋がる。
早く彼に嫌われて、婚約を白紙に戻さなければ。そして、王家となるべく関わらないようにしなければ。
いずれ一人になるために。
こんなことで落ち込んでもいられない。
「私の周りでは、『素晴らしい』とか『おめでとう』とか。そんな風にしか言われませんでした」
彼はまたもや俯きがちに暗い表情に戻ってしまっていた。口から出る声も酷く暗い。
「私は前世の記憶をまだ殆ど思い出していません。それなのに、周りの人々は私の前世を知っていて、素晴らしいと言うんです。私は初めて、人と関わるのが怖くなりました。私の知らない私の話をして、期待しているだの楽しみだの言われても、私はどうすれば良いのかわかりません。どうすれば彼らの『私』になれるのかわからないっ」
俯いていて表情は私には見えない。それでも、その声は苦しくて痛くて、それを絞り出すような切ない声だった。私の想像通り、彼の周りの人々は月並みな感想を言って彼を苦しめているのだ。自分たちが彼を追い詰めて、苦しめているのも知らずに、善意で。
そうか。
彼は私に対して興味が無かったわけじゃなかったのか。
いや特段興味があったわけでもないのだろう。それでも自分と比べて、その大きすぎる前世の存在に押しつぶされそうな自分を守るのに精一杯だったのだ。
昔、私がそうだったように。
彼は私が思っているよりも、遥かに小さな子供だった。