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(人間、だよな?)
一瞬、あまりの美しさに、この青年が精霊や魔族ではないのかという疑いが頭をよぎる。しかし、少女はすぐにその考えを打ち消した。直感にすぎないが、精霊や魔族が魔力を持っているが故に放つあのキラキラした雰囲気と、この青年が放つ雰囲気は、異なっていると感じたからだ。
しかも、あんな痛そうな音出して落っこちて、今も頭の上に木の破片と砂埃を大量に乗せて、満場の視線を痛いほど集めているのに、目の前の青年は起きるどころか瞬きする気配すらない。こんな神経の図太い種族は、少女の知る範囲では人間ぐらいしかいなかった。
経緯は知らないが、よっぽど酷い落ち方をしたのだろう。落下して即気絶なんて、相当打ちどころが悪かったに違いない。羽や翼を持っている精霊や魔族は、こんなまぬけで痛そうな落下の仕方はまずしないものだということを、少女は知っていた。
しばらくの間、馬車に乗っている奴隷全員が、壊れた馬車から逃げるという考えも忘れ、呆然と横たわっている青年を眺めるという奇妙な時間が流れた。
しかし、ここへ向かってきたドタバタという地面を踏み鳴らす音で、全員が音の方向へと視線を向けた。少女も皆に合わせて視線を向ける。
「なんだ、何事だ?! 空から人が降ってくるなんて!」
視線の先にいたのは、奴隷商人だった。
恰幅のいい、主に腹の部分を揺らしながらこっちに向かってきている。少女にはその姿は、ぷりぷりと怒りに震えているように見えた。
(怒ってる……よな)
いくら奴隷を運ぶためのものとは言え、奴隷が逃げないように頑丈に作られた馬車だ。少女の目から見ても、それなりにお金が掛かっていることは推測できた。
(わざわざこの馬車の上に落ちてくるなんて、この人も運がないな)
自分のことを棚に上げ、少女は青年のことを哀れんだ。そして、奴隷商人はというと、やはりと言うべきか倒れている青年に向かって、その大きな口から暴言を吐き出した。
「一体どんな落ち方すりゃあ、こんな派手な壊れ方するんだ! おい傭兵、折角高い金出してお前達を雇ったんだから、みすみす奴隷を逃すなよ!」
奴隷商人の指示で、後ろに引き連れていた十数人の傭兵が馬車を囲む。それぞれに奴隷の鎖が壊れていないかを点検し始めた。少女は首を竦めた。
点検が進められていく間、奴隷商人はズカズカと馬車の中へ踏み入り、青年へと近寄っていく。少女の目の前に青年と奴隷商人がいるので、状況がよく分かる。少女はますます嫌な気分になった。
しかし、そんな少女の気も知らないで、奴隷商人は青年の肩を荒々しく掴んだ。
「クソッ。どんな輩だ? このハドラー様の私物の上に落ちてくるなんて。奴隷にして弁償させてやる! おいそこのお前! 寝てないで起き……っ!」
乱暴な手付きで、倒れている青年を勢いよくひっくり返した奴隷商人。無理矢理起こして文句を言うつもりだったのだろう。だが、青年の顔を見た途端、さっきまでの勢いはどうしたのか、奴隷商人の怒りに満ちていた表情が消え去った。
その代わり、その顔は茹で蛸のように赤くなっている。
「ほ、ほぅ。中々美しい顔立ちをしているじゃないか」
そう言いながら、荒い息を吐きだしている。興奮気味なのは、気のせいだ。少女はそう思いたい気持ちに駆られた。
(ま、まじかこいつ……!)
少女は両手で腕をさすった。あまりの気持ち悪さのせいで、全身に鳥肌が立ってしまったのだ。どうやら、気持ちは皆同じらしい。奴隷どころか奴隷商人に雇われているらしい傭兵まで、若干引いた表情で奴隷商人を見ていた。
(本当に、運がない……)
少女は、目を付けられた青年が哀れで仕方なかった。
そうやって寒気を消していると、少女の方に顔を向けていた目の前の青年の瞼が、ピクリと動いた。急なことに驚いた少女は、ビクリと肩を跳ねさせる。
奴隷商人に強く動かされた衝撃のせいだろうか。青年がその目をゆっくりと開いた。
瞬間、少女は本当の意味で息を呑んだ。
まるで、星々が瞬く宇宙を、そのまま閉じ込めたかのような瞳。その幻想的かつ神秘的な瞳の中で、小さなキラキラとした星たちが、流星や、いつもゆったりと動いて見える空のように、絶えず移動している。
(綺麗だ……)
こんなに美しい瞳を、少女は今までに見たことがない。ただ、少女は見惚れることしかできなかった。
奴隷商人も、青年のもつ瞳の美しさに見惚れているのだろうか。感嘆の溜め息を漏らしている。
「なんと美しい……こんなに美しい瞳をもっているのなんて、噂に聞く『イドリーンスの王族』くらいだと思っていたのに……」
「イドリーンスの王族?」
突如、今までぼんやりと焦点の合わない瞳で目を開いていただけだった青年が、その綺麗な目を一杯に見開いた。そして、まるで意識が覚醒したかのように、勢いよく起き上がる。今の、男性にしては少し高めの声は、どうやら青年から発せられたものらしい。小さく開かれた青年の口を見て、少女は納得した。
(なんで、イドリーンスの王族に対して、そんな過剰に反応してるんだ?)
再度青年に驚かされながらも、少女の疑問はそこにあった。対して、意図せず青年に直接話しかけられる形となった奴隷商人は、口角が上がっていて嬉しそうだ。下心見え見えの丁寧な口調で、青年の疑問に返している。
「あ、あぁ。貴方もご存知でしょう。ここアレシアとは北西に国三つ分跨いだ先にある、ラスティスという国に住んでいる王族ですよ。なんていったって、この人間界イドリーンスもあの方々が統治していますからねぇ」
「その王族って、金色の瞳をもっている、イオネラ様のこと?」
「はい、そうですよ! 詳しく言えば、世界で知らぬ者はいないほど有名な、『ゲネの始祖』の一人であるイオネラ様と、その血を直接引いている御子息方のことですね!」
イドリーンスの王族。「空が落ちた日」から戦争や略奪、差別などで荒れていたらしいここ、人間界(総称イドリーンス)を、現在の豊かで和気藹々とした平和な形にまで立ち直した一族のことだ。
立て直したと言っても、イオネラ様が王位に就く頃には、既にイドリーンスは穏やかな環境にあったと聞く。なので、主に立て直しに尽力したのは、現在は亡くなられている、イオネラ様の父であるイリヤ様ということになる。
(まぁ。イオネラ様の代になっても、こうして約九百年は平和が続いているんだから、やっぱり凄い方だよな)
そう、九百年。実際に、イオネラ様はこの年月を生きている。しかし、イオネラ様の見た目は、精霊や魔族ではなく、人間少女の姿だという。そんなイオネラ様が約九百年もの間生きているということを初めて聴いたとき、少女は信じられない気持ちで一杯だった。人間には肉体としての寿命があることを、少女は知っているからだ。
しかし、その戸惑いも「ゲネの始祖」という単語を聴かされた瞬間になくなっていたことを覚えている。まるで初めからそこに矛盾がないことを知っていたかのように、少女の胸にストンと落ちてきたのである。
(ゲネの始祖か……)
昔、少女が両親とまだ一緒に暮らしていたとき、母親から聴かされた話だ。『ゲネの始祖というのは、ありとあらゆる生命や星が誕生する前から存在しており、この世の全ての創生に関わっている者たちのこと。そして、この世全てのものの起源となっている、強力な「幹」をもつ、七人の超越存在のことだ』と。
ぶっちゃけると、人間や精霊、魔族、そして動物も彼らによって創造されたと言われている。
この話を聴かされた当初、少女には「ゲネの始祖」がまるで神様みたいに遠い、それこそ夢の中のような存在に聞こえた。しかし、同時にとても近い存在にも聞こえた。
少女は、かつて抱いたその感想が、あながち間違っていなかったことを、すぐに知った。実際、彼らはどこからか、気まぐれに自分たちが創ったこの世界に現れることがあるということを、知ったからである。どうやってこの世界に現れるのか、詳しいことを知っているのは「ゲネの始祖」である本人たちだけだろう。ただ、そのこの世界に現れている内の一人が、現在話題に上がっているイオネラ様のことなのである。
少女は、ゲネの始祖どころかイオネラ様も見たことはない。しかし、イオネラ様を一目でも見たことがある者は、口を揃えて「自分たちとは次元の違う存在だ」と言うらしい。そして、同時に傍に仕えたいと思うそうだ。
実は、こう思う理由についても、母親から聴かされた話で少女は知っていた。『この世の全ての生命は、自分たちを創造した「親」である「ゲネの始祖」を護りたいと、本能として感じてしまう』らしい。だから、「自分はゲネの始祖だ」なんて言う変人が突然目の前に現れたとしても、その変人が実際にゲネの始祖ならば、それを容易く受け入れてしまうのである。だから、こうして有名にもなっているのだろう。少女はそう理解している。
それにしても、他の始祖様の噂は稀にしか聞かないというのに、イオネラ様の話題だけはすこぶる有名だ。ラスティス国から国三つ分離れたこのアリシア国の、それも小さな村に住んでいた少女の耳にも、その話題は入ってくるのだから。
(ちょっと前に話題になったので、確か……)
「ただ、イオネラ様と夫であるオズ様、そして長男のイルエナ様は現在行方不明とのこと。長女であるイヴ様こそ無事なものの、我々イドリーンスで暮らす民は王族の方々が心配でなりません。早く見つかって下さるといいのですが……」
先程とは打って変わって、どこか暗い表情で語る奴隷商人。気持ちが落ち込んでいるのだろうか。声のトーンも低く感じられる。その調子で発せられる内容を聞いて、少女はふと思い出した。
(そう、一年前のあの事件だ……!)
去年の、十一月十一日。その日は、イル様の九歳の誕生日だった。誕生日を祝うために、城外から貴族や他国の王族など多くの者が、城へと訪ねてきたらしい。少女は行くことができなかったが、国外からも多くの人が集まり、いつも以上に王都は賑わっていたと言う。当然、普段以上に警備にも気合が入り、騎士や護衛の目は光っていたらしい。
しかしながら、そんな喜びに満ちた空気を壊す事件が起きたのだ。どこからか、城内に紛れた怪しいマントの集団によって、王族が襲撃されたのである。その際、イオネラ様とオズ様は襲撃してきた者たちによって誘拐され、イル様は事件の最中行方不明になったらしい。
一年たった現在も、王族方の捜索は続けられている。もちろん、王族方を見つけたら即城に知らせるよう、城から全国にお触れが出されている。
一年前、家に真っ白で高そうな書状が送られてきたときは、少女も何事かと驚いたものだ。
ただ、不幸中の幸いもある。唯一、イル様に渡すプレゼントを受け取りに、イヴ様が護衛と共に城外へと出掛けていたらしい。城への襲撃はイヴ様が出掛けていた数時間の間に起こったことなので、イヴ様は無事だったのである。
現在イヴ様は、厳重な警備のもと、王族を守護する専門の騎士たち全員に護られているらしい。
しかし、いくら王族専門の騎士全員に護られていると言っても、ほんの数時間の間に家族が行方不明になった心の悲しみは癒えないだろう。当時、イル様と同じく九歳だった少女にさえ、その気持ちを察することはできた。十歳になり、両親に捨てられた今ならなおさら。
忘れていたことを思い出したのに、内容のせいだろうか。少女はすっきりとした気分にはなれなかった。