3 真の厄介事、すなわち窮地
あと少しで塀の呪いから逃れられる。さっきまでの心の重さが嘘のようになくなり、体までもが軽い。フンフフーン♪とか言いながらスキップで帰れそうだ。絶対気持ち悪いけど。
その時横のアリアからの視線を感じた。
「ねえ、終わりって何が?」
「ん?ああ、もう少しで俺の家ってこと。塀を抜けて二十分くらい真っ直ぐ行けば俺の家」
「ふーん...」
頷きつつアリアはポケットから小さなメモを取り出した。あまりよくは見えないが、地図だろうか。文字と図が描かれている。
「私も同じくらいのとこらしいわ、家」
「そうなのか。...らしい、って?」
「今日から新しい家なの。寮の工事でしばらく出なきゃいけないから、いっそのこと一人暮らしでいいかなって。学園に行ってる間に家具とかも全部置いてあるはず」
ふーん...と、今度は俺が返す番だった。
つまり朝は寮から登校したのか。無理に平日に引っ越さなくてもいいだろうに...とも思うが、人に下手に踏み込んで何かを言うのはあまり得意ではない。こういうところが引きこもりたる所以なのか、どうしても気後れしてしまうのだ。
自分以外は全て他人。俺はそう考えてしまう。
例え友人でも、家族でも、他人。そんな相手に対してずけずけと近づいていくのは苦手だ。決して自分がそうされるのが嫌いという訳ではなく、むしろ相手から近寄ってくる分には俺も助かるのだが、自分からとなると話は別だ。
果たして自分ごときが他人に対して聞いてもいいのだろうか、と常に心の奥で迷い、結局聞かないことを選択してしまう。臆病なだけか、と自嘲するが、そう嘆いたって何かが変わる訳もない。
何者であろうと、そう易々と自己を変えることはできないのだから。
その後も俺とアリアはそんな他愛もないような話をしつつ、お互いの家に向かって歩いていった。塀を抜け、いくつかの交差点を越えて、俺の家は近づいてくる。しかしどこまで行ってもアリアが離れることはない。
「...家、本当に近いんだな」
「うん...」
俺の家は西の塀の延長上を北に行ったところにある。塀に沿った大きめの道路があるのだが、その道路を真っ直ぐ進み最後に少し曲がった住宅街にあるのだ。
右に曲がって少し進み、今度は左へ。するともう周りは家だらけだ。もちろんアリアも同様についてくる。
恐らくこの住宅街のどこかなのだろう。それは疑いようがないが、この住宅街はそこそこに規模が大きく道も多数分岐している。ここまで近いというのは中々珍しいのではないか。
まあそれを運命の導きなんぞという解釈はしないし、例え冗談でもそんなことをアリアの前で口にした日には、俺は明日の朝日を拝めないだろう。そっと心の中にしまいながら、さらに細かく曲がる。
左、右、右、左。俺もこの道を覚えるのには苦労したものだ。どうせなら碁盤状に開発すれば良かっただろうに、何故かこうも入り組んで開発されてしまったらしい。正直面倒なのだが、せっかくアルスに低家賃の家を探してもらった手前、文句は言えない。けど愚痴は言う。すんごい言う。
さすがにこれくらい奥に入ればアリアも...と思ったのだがアリアはしっかりと横にいた。メモを見て指を振り、確認しながら歩いている。本当に地図読めてるのか...?とも思ったが、それを口にすれば、やはり俺は明日の朝日を拝めなくなってしまう。
俺の家はこの道を真っ直ぐ行ったところにある。もう曲がることはない―というかそれ以前に家が見えている。もう少しで自宅に帰れるのだ。
しかしそうなると、最後の懸念はアリアのことになる。
まさか隣とかじゃないだろうな...。休日に雑用のように扱われるのは嫌だぞ...(過去の記憶)。
そんな不吉な予感が頭をよぎるがそれを全力で意識から消す。悪い予感とは往々にして的中するものだが、いくら何でもそこまでの奇跡―あるいは悪夢ーは起こらないだろう。
俺の家は十字路の角、そのため本当に隣と言えるのは二軒なのだが、その内の一軒は空き家だったはずだ。まさか一日で空き家を買って引っ越す訳はないだろうから、可能性があるのは実質一軒だけ。この広い住宅街でその一軒にアリアが住む確率はかなり低いはず。
脳内でそう計算しつつ歩いている内に、いつの間にか家まで残すところあと四軒となっていた。
......何なのだろう、この妙な緊張感。怖え...。
恐る恐る四軒手前の家の前を通る。アリアは反応しない。
―三軒手前の家の前を通る。しかしアリアは止まらない。
―二軒手前の家の前を通る。やはりアリアは歩くことをやめない。
―そして一軒手前、つまり隣の家の前を通り......っ!
...アリアは、何の反応もしなかった。
「......ふう」
俺は我知らず、息を吐いていた。緊張感が消え、どっと疲れてくる。
どうやら俺の取り越し苦労だったようだ。まあさすがに有り得なかったということである。どこか残念な気もするが仕方ない...いやむしろ喜ぶべきだろう。少なくとも、朝からいきなり怒鳴られることはなくなったのだから。
ともかくようやく自宅に着いた。今日はゆっくり休んで明日に備えなければならない。自転車もどうにかしなければならないし、明日からもまた苦労しそうだ。
だが帰る前に挨拶くらいはしておこう。俺は家の前で足を止めると、アリアを向いて声をかけた。
「じゃあ、俺家ここだから」
「じゃあ、私家ここだから」
―見事に声が重なった。
「「は?」」
という声も重なった。
「「はあああああー!?」」
そんな絶叫も完全に重なった。
「ど、どどどどういうことよ!?あんたまさか私の家に―」
「それはこっちが聞きたいわ!何でお前がここの家なんだよ!?」
「知らないわよ!あんた道間違えたんじゃないの!?」
「そんな訳あるか!お前こそ地図見れてないんじゃないのか!?」
「じゃあ確かめてみなさいよ!」
そう言うなりアリアはメモを押し付けてきた。受け取ってしっかりと確かめてみる。ここらの地形は複雑ではあるが、メモには目印等のポイントがしっかり描かれていてかなり分かりやすい。そしてその結果は―。
「...あってる。ここで間違いない」
「ほら見なさい!」
アリアは堂々と胸を張ってここぞとばかりに自らの正当性をアピールする。手振りを加えて話す度にそのボリュームのある膨らみが揺れるが、正直今はそんなことに構っている余裕すらなかった。
待て待て待て。慌てるな、冷静に考えろ。冷静だ。心を落ち着かせるんだ。まだ慌てるような時間じゃない。やべえすげえ混乱してる。
アリアは俺の家の前で止まった。止まってしまった。メモにもある通り、ここが彼女の家らしい。ならば俺が何か勘違いしているのか?アリアの言う通り道を間違えた?だが今日の朝からの行動を振り返ってもそんなことはなかった。はずだ。言い切れないのが残念でならない。しかし悲しいかな俺は朝には弱く、家を出てからの行動がぼんやりしている。
それなら証拠だ。何でもいい、ここが俺の家だと言える確かな物的証拠があればいいのだ。それさえあれば、俺もアリアも信じられる。
何か、何かないか...?俺の家と言える証拠は...そうだ、表札!
家の玄関の扉に表札があったはずだ。日本名ではないが、それを見れば一発で分かる。
そう思い至ると同時、首を回して玄関の扉を見る。そこには―。
「...あった!ほら見ろ、表札にイサミってあ、る...だろ...」
アリアが急速にしぼんだ俺の声を聞き、訝しげに眉を潜めて俺が指差した表札を見た。
「...な、な...な...」
意味不明な言葉を呟きつつ固まる。当然だ。何故なら表札には―。
―イサミ、アリアと二人の名が書かれていたのだから。
「な、な、何でよ!?」
俺より先に一時気絶から回復したアリアが俺の肩を掴んで揺する。しかしそんなことを言われても俺がその理由を知るはずがない。せいぜい頭に浮かぶのは「腹減ったなー」という現実逃避くらいだ。脳内キャパシティを軽く超えているのだから、ラグしない訳がない。
「ねえ!?イサミ!!」
だが相変わらずアリアに激しく揺すられ、ひとまず何か言わないとこれからは解放されそうにない。そう判断すると同時に、俺の口は思ったことを半ば自動的に喋っていた。
「えーと...一緒に暮らすってことかな...」
途端にぼんっ!とアリアの顔が赤く染まった。俺を揺する手を止めて俯く。
...ふう、ひとまず混乱も落ち着いた。何かとんでもないことを言ってしまった気もするが、アリアも怒っていないようだし大丈夫だろう。頑張っても何を言ったかは思い出せそうにないので、さっさと諦めるに越したことはない。
それよりも、何故こんなことになってしまったか、が重要だ。アリアを放置して冷静になってきた頭で考える。
まず第一に考えられるのは、俺の記憶とアリアのメモのいずれか、もしくは両方が間違っている可能性だ。俺の記憶が曖昧だったが故に思い込みで道を間違えたことや、そもそもアリアのメモ自体が書いた奴のミスということも可能性としては充分に考えられる。
しかしこの仮説は、家の表札に二人の名が書かれていたことで考えにくくなった。第三者が意図的にこの表札を書いたと推測できるためだ。恐らくその第三者の思惑によって俺とアリアはこんなことになってしまった。
となると問題は当然、その第三者が誰なのか、という点になる。しかしこちらはもう既に目星がついている。と言うのも、そもそもこの話に関与できる人物が数えられるほどしかいないからだ。
まず俺の両親。そしてアリアの両親も。さらに強いて言えば、学園の関係者としてマロネ学園長も話自体は知っているかもしれないが、これらの人物の中でこんなことを考える人物はいないだろう。この中に第三者がいる可能性は限りなく低い。
そして逆に、限りなく可能性が高いと思われる人物が一人いる。その推理を確かなものとするため、俺はいまだうつむいているアリアに声をかけた。
「おい、アリア。アリア?」
「ひゃっ!?」
アリアは奇声を発しつつ顔を上げた。相変わらず顔は真っ赤だが、少しは落ち着いたようだ。
「一つ聞きたいけど、そのメモを書いたのは誰だ?誰がお前に渡した?」
その問いにアリアはしばらく戸惑っていたが、やがておずおずと答えた。
「誰って...アルスだけど」
―その名を聞いた瞬間に、俺は最後のピースがかちりとはまったのを確信した。
また中途半端でした!次こそ一番書きたいシーンを投稿します!