1 全ての始まり
「く...そ......」
血の混じった小さいうめき声が、わずかに聞こえた。途切れ途切れのその声から、声の主の命が尽きようとしているのが分かる。
その声の主。黒髪の少年は、地に倒れ辛うじて呼吸を繰り返すことしかできなかった。その体は数多の切り傷、打撲によってぼろぼろになっていて、服はどす黒い血で染まっている。左腕に至っては肘から先がついていなかった。
「く...そ......」
もう話すことさえ耐え難い苦痛であろう。それでもその少年は、そううめくことをおさえられなかった。その瞳は急速に光を失いつつも、怒りと恨みに燃えていた。
そして視線の先にいたのは異形の化け物。
緑がかった皮膚に横に尖った長い耳。笑っているのだろうか。異臭が辺りに立ち込め、鋭い牙が見える。目は黄色で欲にまみれていて、とても理性があるようには思えない。手には、粗雑だが確かに殺傷力を孕んだ短刀が握られていた。
―後に緑子鬼と呼ばれることになる魔物である。
少年はこんな生物がいるなど聞いたことがなかった。だが、目の前にそれが存在して自分たちを殺そうとしている。その事実だけで、疑問など湧いてこなかった。
あるのは一つの確信のみ。
ああ、世界は変わったのだ、と。
自分への意思確認などあるはずもない。ただ唐突に世界は変化したのだ。それはひどく傲慢にも思えたが、仕方ない。いつだって相手は突然変わるものなのだから。一人が何を言おうとその結論が覆されることはない。
自分は恐らくその変化の「犠牲」なのだろう。今ここで死んでそうなるのだ。犠牲無くしての変化など無いのだから、自分だけなら、理解できなくとも受け入れるしかない。
だけど。
今だけはそう簡単に受け入れる訳にはいかない。
少年は激痛に耐えながら首を回した。声にならない悲鳴を上げながら首の位置を変えると、そこにはある少女がいた。
赤みがかった長い髪を縛っていたはずのゴムは切れ、長髪が血にまみれながら地面に乱れている。少年と同じように倒れているが、もう意識はないのだろう。目は苦しげに閉じられていた。傷の程度も概ね少年と同じほどだが、少なくとも五体満足の状態だった。それだけは良かった点だ。とはいえその命も残り少ないことは明らかだったが。
「く...そ......!!」
少女を見て少年は再びうめく。自分はどうなっても構わない。だが、彼女だけは犠牲にさせる訳にはいかない。
激情に任せ立ち上がろうとする。しかし体はぴくりとも動いてくれない。ほんの数十分前までは元気に駆けていたはずの体が、まるで鉛でできているかのように動かない。
ほんの少しでいいのだ。あと少し時間を稼げれば助けが来るはずだ。友人が大人を呼んできてくれる。だからそれまででいい。そしてその後は死んでもいい。今は、今だけは動いてくれ―。
しかしそう心が叫んでも体は全く反応しない。既に少年の体は動ける状態ではないのだ。そのことを少年も理解しているが、それでもただ諦める訳にはいかなかった。あの少女を殺させることだけはできなかった。
動、け―。
何度そう願っても、体は動かない。
異形の化け物が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。まるで怯える獲物を狩るのを楽しむかのように、その目を醜く光らせながら。
少年は恐怖を感じた。それは自分が死ぬことにではない。自分が死んだ後に、同じように少女も殺されてしまうのだろうということにだ。そう意識した途端に再び心が体よ動けと騒ぎたてる。しかしやはり体は動かない。
化け物の動きが止まった。すぐ近くに爪が伸びた足が見える。そしてゆっくりと短刀を持った右手が振りかぶられた。鈍い光を受け刀身が凶暴に光る。
自分は、ここで死ぬのだ。そんな他人事のような確信が浮かんだ。心すら諦めかけていた。抗うことなど無駄だろうと。
だがそう諦める寸前、辺りを見渡した視界に少女が映った。そして思う。
自分が死んだら、彼女が死ぬ。いや、違う。
自分が死んだせいで彼女も死ぬのだ。
「ーーーーー」
その瞬間、少年は何も考えられなくなった。脳が焼ききれんばかりに荒れ狂う。まるで嵐の中にいるように暴れ、ただただ白くなっていく脳の中で、少年は意識せず叫んでいた。
「俺に...力をくれーーーー!!」
それは、その時に起こった。
『力が欲しい?』
少年にだけ聞こえたその声。少年は何も考えず、否何も考えられず小さくうなずいた。
それが少年―イサミの“変化”だった。