進捗
(進捗です。未完です)
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●1●
十中八九マダムではない。
黒い肌の日雇い仲間が火酒を振り上げ語る。
「さる御婦人がある仮面舞踏会で吸いつくのは叶わん者でも自慰したくなるたわわな白葡萄を二房実らせたコーマンなわがまま身体でさる殿方に迫ったところあらら己が身体の滑腔砲がみるみるうちカチンコチン、お殿様をコンドムで覆いそれはそれは艶やかな夜をお送りンなった。これが大層お気に召したマダム、こんどァ老若男女問わず目につくものへ手当たり次第にのしかかってみた、すんと砂利坊主らが一様に固まり艶やかな面となるじゃアねえか。以後この工法から生まれた道路を発明者に敬意を表してマダム舗装と云うようになったのだ」
とかなんとか。
「ポンプ、なんだそりゃ噓かうろ覚えの聞きかじりか」
「マックだマック。マックァダム。我が同胞愛蘭人だよ」
「バーニー、なんだそりゃ噓かうろ覚えの聞きかじりか」
読み捨ての十ペニス小説どころか一セントの安新聞にさえ載せられないような、取るに足らない雑談だった。
いかにも空っぽの頭に酒を満たした野郎どもの話らしい。けれど、ポンプの手の内のウィスキーはそうじゃない。おれの腹の足しになるもので、おなじく野次等を入れて拝聴するバーニーに飲まれないようポンプの話にかじりつく。
ご機嫌な歌声を聞き、青果店の床にゲロが吐きだされる音とそれを避ける足音を聞き、そして元主人にならったのかグガゴグガゴという昼のいびきを聞いた頃には炭酸などすっかり抜けて、カップはべたつき、中には泡一つない黄色い円が残されていた。
●2●
顔上げれば雲一つない空に黄色い月が浮かんでいる。
うつむけば白石の道が薄ぼんやりと浮かび上がっている。
市街は寝静まり灯りはなく、書割のように小さく平べったい。それよりか近くにある筈の作業小屋は誰か起きているはずだが、はたして油脂ランプは点いているのかいないのか、よく見えない。
なんとなしに首を振る。
まっすぐ広く伸びる白のなかに、小さく細くくねる黒。
蚯蚓だった。
おそらく日中、己が身体のどこかが石にくっついて、じたばたするうちに干からび焦げて平たく潰れた蚯蚓の死骸。
道の脇の土へと逃げる途中だったのだろうか? 歩みの遅い奴には酷な幅だ。
あるいは地中に潜り込もうとして? それなら奴の得意分野だろうが、押し固められたこの舗道にほじくり返す余地はない。
……潜れないならせめて蓋する手立てでもあればよかったのに。外套をかぶり酒をあおる身としてはそう思う。
唸るような音がする。振り返る。藍色の空に白い煙が吐きだされている。月明かりでない光が、こまごまとした白石の一つ一つに明暗を与えていた。
警笛が外套の上の砂を震わせる。
腹這いになった全身が震える。外套の中にも光が入る。
十中八九マダムではない。
この道を生んでいるのはあのマシンだ。
AmericanNovels NO.45 10cts.
The Steam Man of the Prairies
十ペニス小説の表紙を飾る蒸気機関者はおおむね愛嬌のある代物だ。
リンカンと揃いの帽子型の煙突をかぶったその下に白色灯の双眸をそなえて鼻や口から蒸気を吹き出す、丸っこく優しげな顔と。やはり丸っこい、歪んだ真珠じみた球形の胴体をそなえた、黒鉄の隣人というような。
BEADLE’S HALF DIME Library
THE HUGE HUNTER;or, THE STEAM MAN OF THE PRAIRIES.
その巨大な黒鉄の両肩には操縦用の紐が伸び、伸びた先では人間の――それも女子供の――運転手がまるで馬の手綱を扱うかのように握って笑顔を浮かべる。
BOYS of NEWYORK.
THE STEAMMAN OF THE PLAINS; THE TERROR OF THE WEST.
その巨大な黒鉄の両手には馬車を曳くための軛が握られ、軛の両端から伸びる轅でつながった馬車には運転手とその他の人々が乗っている。椅子は物語に応じて薪であったりお上品な革であったりさまざまだ。
丸い雑草が転がって背筋を走った。飛ばされないよう所持品を腹と地の間に入れる。
Frank Reade Co.
実物は社名をしるす石刻文字体と同じく素っ気ない。蒸気機関車にはるかに近い代物だった。
白い煙を細切れに出しはじめた煙突に帽子の意匠など無い。かわりに額に当たるだろう箇所に節炭器が設けられて瘤じみた盛り上がりを見せている。双眸は腹の煙室に隠れて見えず、白い光が角のように夜闇に伸びる。
胴体はまんま煙室の円筒形で、腰の連結部は路面を照らすための白い照明が二つつけられ、こちらのほうがよほど瞳に見える。
股下を覆う赤く尖った排障器の柵の間から、サイクルを遅くした黒鉄の足が蹴った小石と土煙とが外へ吐きだされる。
黒鉄の両腕がのばされた。指一本一本が開かれて、空気を受け止める。
外套を抑える手足に力を入れる。
マシンが過ぎる。
ごわごわとした素地が顔を叩く。
外套がはためくたび景色がまたたく。当たるのではと顔を退かずにいられない黒鉄の手、黒鉄の尻、に乗った操縦席と機関室、橙色の光、めらめらと蠢く、火と影? 蜥蜴、炉の前でせかせかと働く大の男、二人、の影に煤に油にと真っ黒、なのに点々と輝く、鱗みたいなその表面。
マシンは大人の身の丈の3倍を越える程度の高さの筈なのだが。
白粉鬘のご先祖を飾る方々がラミアとか。代々黒い辮髪頭の野郎どもがヘイニャンニャンとか。お里の神話の半人半蛇の怪物になぞらえたことが頭を過ぎる。
Frank Reade Co.
炭水車を過ごす。尻は機関車の連結機構のさき、貪欲に燃料を消費する巨躯に見合った炭水車を。
Frank Reade Co.
一インチ大の小石を載せた三両目も。ここから先は、何の変哲ない機関車の貨車の転用だ。
Frank Reade Co.
最後尾の、六インチ大の砕石を載せた四両目が止まる音に耳を傾ける。
鉄の連結部が軋む音を聞き、石同士のぶつかる音を聞く。ブレーキが浮く。
外套のつくる闇に白い光の円が浮かんでは消える。マシンは警戒状態に入ったようだ。
止まりはしたが作業に備えて機関の火は落とさず暖気中。地面はもしかすると動いてるときより震えている。ポンプよりも遥かに黒い鉄の身体から出る熱が、わずかに開いた外套のなかにまで潜り込む。
耳に手を当て、石炭の弾ける音や蒸気の音を聞き分けるよう努める。車内で鉄がぶつかる音や銃弾を込める音、衣服の擦れる音は聞こえない――三対二。数的有利。
鉄の踏み板の定期的な音。機関士が前後左右に耐風角灯を掲げて降りる。機関士の視界外を、若い機関助手とマシンの目が光る。機関士が石炭車と三両目、三両目と四両目との連結をそれぞれ解いている。
ここからの流れは。
●3●
「ふらんく・りーど社、舗装作業ニ係ル手順書(1870年7月4日第5版)
一六.4番車両ヘ積込ンダ砕石ガ6いんち花崗岩デアルト改メテ確認セヨ。
一七.四方ノ安全確認後、操作笛ヲ吹キ、機関者ヲ4番車両ヘト誘導セヨ。
一八.機関者ノ両手ガ4番車両ヲ支持シタコト・固定シタコトヲ確認セヨ。
一九.四方ノ安全確認後操作笛ヲ吹キ、機関者ヲ未舗装部分ヘト誘導セヨ。
二〇.機関者ニ6いんち砕石ニヨル基礎道ノタメノ敷設ヲ命令シ補佐セヨ。
二一.機関者ノ両手ガ圧延用円筒ヲ持ッタコト・固定シタコトヲ確認セヨ。
ろーらーノ角度ハ水平線ニ対シ左170度・右10度ヘト設定セヨ。
二二.機関者ニ6いんち砕石ニヨル基礎道ノタメノ圧延ヲ命令シ補佐セヨ。
コノ際4番用砂時計ヲ逆転サセ、落チ切ルマデヲ圧延ノ基準トセヨ」
「いちーち読み上げる必要なかんべェよ」
リード社の手順書のこまごまと並ぶ文字列。それを眉間に皺を寄せて読み上げていると、ポンプが割って入った。
「こうして四両目の砕石で基礎をこしらえ、お次は三両目に持ち替え、さっき撒いて固めた粗い砕石の上に細かい小石をさっき以上の丁寧さでムラなくくまなく敷き詰めつつ踏み固める。そうして馬車の中のマダムがゆったり寛ぎお楽しみいただけるような滑らかな表面を象っていく……ってそういうこったな」
合っていた。
「マックだファック。……しかしお前もここにきて真面目なフリせんでも。雇われ根性が抜けないやつだ」
バーニーも合っていた。
最後の確認だからと真面目に字面を追ってみようとしたものの、自分としても何度となく読み返した内容だ。ナイフを振るうバーニーが手元や削ってる真っ最中の酒樽でなくおれを見ていたのと似たようなもので、おれの注意も手順書の表面にへばりついた食べかすやコップの円型の染みについ向いてしまう。
「合ってんべ? んじゃもうあとはその時の流れで」
「流れで」
●4●
機関助手が砂時計を振り上げ逆転させる。四両目用のそれよりも二回り大きい三両目用――表面仕上げのための砂時計を。
道の脇が膨らみ二山できて、砂がこぼれて外套をかぶった白黒の二人に変わる。マシンの乗り手にとっては三山か。
汗のにじむほどこもった熱気も臭気も開放されて、夜風が当たって心地よい。
機関助手が声を発するまえにバーニーが投擲、酒樽の箍が首を叩いた。
バーニーが舌打ちする。機関助手は倒れ、床に沈むまえにドレン弁にぶつかったのだ。小休止していたマシンの黒い横腹から冷えた水が霧となって吐きだされる。
「うぉっ!」
機関士がドレン切りの音に驚き跳ねて、水平を計るためもっていた紐と錘が不規則に揺れる。
「なんだいきなり!」
唾を飛ばしながら振り向いたその顔をポンプが殴る。
落ちたランタンの光が彼らに振りまく。
「なんだいきなり!」
助手のように一撃でお終いという訳にはいかなかった。
鼻血を垂らしながらも手にもった紐を振り回して錘を飛ばし、ポンプの目を潰した。
おれは脚光を浴びる二人の陰を回って、機関士の頭に外套を振るまう。片目から涙を流した日雇い仲間がのしかかり、ほぼ文字通りの袋叩き。
バーニーはどうかとランタンを拾ってかざしてみれば、マシンを必死に追いかけていた。マシンは低速に丁寧に運転中といえど人より遥かに速い。でなけりゃここで道路を作っているのはおれたちのはずだ。
追いつけるか? 止める命令を出すべきか?
ポンプの手元を照らす。もちろん機関士をまさぐっているが、バーニーのほうへちらちらと細めた目を向けてもいる。「14、15、16……永眠です。ミスター・ポンプ、あなたお亡くなりですね? はいそうです。いやいや信じられませんよあなたがお亡くなりとは」と機関士の手を動かし自分を叩かせている。痛そうだ、目でなく腹が。それはどうかと思うよポンプ。
手足を目一杯にふって走るバーニーはどうにかこうにか追いついて、ドレンの蒸気に一瞬消えると「永眠です。ミスター・バーニー。あなたお亡くなりですね?」こんどは炭水車から顔を見せ「はいそうです、って。いやいや信じられませんよあなたがお亡くなりとは」その連結部からマシンの臀部に跳び乗ると、機関助手をどかして「永眠です」「ポンプとジュディ劇場そろそろうざいぞ閉幕閉幕」「ピロピロピー」「閉幕の音も要らん。てか笛見つけてたんなら停止の音をさお前」ようやくドレンの煙とけたたましい音をおさめるとレギュレータも閉め逆転機を全開、ブロワー弁が開かれ煙が吐きだされる。給水弁を閉めブレーキをかけて停止した。
頭上のバーニーに合図をだし、ドレン弁をもう一度倒してもらう。先の一件で切りきれなかったドレンの残り水で、ポンプが目を冷やして続いておれも拳を冷やす。
運転席へと上がったおれたちは周辺を物色し、夜食にするつもりだったのだろうパンをふた切れ見つけた。
汗だくのバーニーと、冷水を垂らすポンプとにそれぞれ贈る。
休んでいる暇はない。パンを口に入れる二人を尻目に、おれはボイラ圧力計と水面計を見つつ、焚口戸に炭を入れる。ブレーキホースの接続確認等をして制動に問題ないこともまた確認する。
「発車」
バーニーの声が高らかに響く。
「発車」
「発車」
ポンプと合わせて野次のように復唱すると、マシンの額の節炭器にたまった水蒸気が耳から吐きだされる。
黒い足がゆっくりと歩みをはじめて、炭水車をつないだ連結部が伸びていく。炭水車に座るポンプが瞳を横一文字にしている。投炭をつづける。火の粉が舞い上がるたびに目をつむりつつ。黒い煙が出ないように、ムラなくくまなく敷き詰め燃やしていく。
ガタンと粗い砕石の基礎だけ敷いた白い道をマシンが進む。
ゴトンと大きく揺れて、道などない道を進んでいく。
藍色の空の広がる地平線のさきを目指して進んでいく。
シャベルをいったん置いて汗をぬぐい、丸まった背中を反らし伸ばす。
月に、弾ける蒸気が重なっていた。
●5●
黒人のうしろの暗がりで、じっと息を潜めている。
身体の震えは抑えようにも無理だけど、走りだしたスティーム・マンの立てる騒音と不整地を行く振動が幸いしてかこちらの存在を気取られていない。いまのところはまだ。
パン屑がぼろぼろとおちるたび身をのけぞらずにはいられない。反射的に目をつむってしまう。こちらを振り向くんじゃないかって。
目を閉じると浮かび上がる。
機関助手が黒髪の男に運転席からそのぐったり重たそうな身体をゆっくりと放り出されて、粗い白石に消える姿。大人の男の人がタンブルウィードのように転がっていけるなんて思いもしなかった。
目を開ければ浮かび上がる。
投炭をつづける金髪の無法者が脱いで窓枠に掛けた外套がはためく裏地ににじむ、機関士のものだろう血。素地に食い込んだ黄ばんだ歯。
■2日目■
●6●
「何かが。不意打ちで、何かに喉をつかれて、尻もちついて俺、え疲れてないです落ち着いてます、その拍子にドレン弁やらにぶつかって。その時は痛みよりも“叱られるな”と凍りました。案の定すぐにエントンさん、機関士からばかもんて雷が落ちて。こわごわ見たらゆらゆらと瘴気? をまとった、大層なばけもん。夜だからぽつぽつとしか見えんかったです、でもありゃ相当ですよ、操縦席にいたおれを掴むんだから。そのまま外に放り出されました。で、ご覧の有様」
白い砂利を肌に幾つも食い込ませた日雇い男が、紫斑の一筋うかぶ喉から声を絞りだす。
「奴がやったんじゃ」
「誰でもない奴が?」
「ディドですいやヘンリーか。ジョン・ヘンリー。奴がやったんじゃ……蒸気機関者に殺されたあののっぽの黒んぼが、化けて出たんじゃ?」
●7●
あくびをしながら町へと戻る野次馬を横目に少年は走る。
「ぼうず学校はどうした」と問う声を置き去りにして、野次馬たちを尻目に少年は走る。
町から一直線に伸びる細々とした白い石々は粗くくすんだ敷石に変わった途端、石の間に砂や噛み煙草を詰まらせ途切れている。少年は依然として息を切らさず走っている。荒野に呑まれた道の端で異人らが列をなす。
「酒気はないな」
「正気だろうな」
「瘴気はないな」
「蒸気だろうな」
異人らの手に持つ物は箒に地図やペンにごみに尻に地元紙にと不揃いで、その装いもまた工夫に牧夫に清掃夫に農夫に記者にと不揃いだが、その髪や肩には等しく砂が交じって服は毛羽立ち色褪せている。
少年が筆箱からクレヨンを取り出した。くすんだ白の紙に黄土色の人が現れ人々となり、黄土色の点が現れ点々となる。くすんだ白も暗灰に。少年が振り返ると、いまだ残っていた野次馬が覗きこんでいた。耳に指をやり、砂交じりの耳糞を降らせている。
「へえ巧いもんだな、こっちはダグラスさんで、あっちはヘンリーか?」
野次馬が少年に訊く。「はいそうです」と返事をしつつ少年は素描を続け、やがて別の色に持ち替えた。
「お、これはタイプライターってんだぞぼうず、知ってっか?」
地味な余所者の絵が土地の者と一緒くたにされるなか、一目に異色だったのは、陽光にきらめく卓型機械とその前に座す一張羅の者。だが少年には、地味な彼らがむしろ流行の後者に近しいものとして映っていた。
誰も彼もの行いが、出て間もない書記機械のとりとめない文字配置をほぼ見もしないで打鍵する一張羅のリズムに伴い整っていた。
道の脇には十ペニス小説。一見すると何もないただの砂地が工夫によって丁寧に払われていき、大草原をゆく蒸気機関者ともども折れ曲がった表紙が露わとなった。牧夫が地図と見比べ印をつけると本を拾って証拠物品の棚に収める。
その他には酒樽のだろう箍。一部が凹み折れ凸月形のその輪は清掃夫から、道を挟んだ向こう側で尻と腿を支えられ跳ぶ農夫へと回転を加えて投げ渡され、巻尺で計られ、機関助士の喉元にできた痣の径と見合わせられる。
「ところでお前学校はどうした?」
野次馬が訊く。「はいそうです」と返事をしつつ少年は素描を続ける。描き方は一旦調子を変えんとして一張羅の打鍵と併せて線を引くが、筆以上に字消しの出番が増え、擦った拍子に紙を折り皺を寄せもし、今度は線が重なるのもいとわず描き続けるが次第に人のていを成さなくなって、ついにただ雑に絡まっているだけの線となったところでクレヨンを置く。
“被害者ふたりの証言、現場の遺留品等をすり合わせるに。
機関士の落とした耐風角灯が幻燈機となり、機関助士の落ちたドレン弁により噴出した蒸気が常人を巨人に拡大投影する幕となり、幽霊映写劇を生み出してしまった……と、そういう筋でしょう。
過日もヴォルクマン弁護士が幽霊を殴りつけ、交霊会も戸棚を開ければ着替え途中で鼻を紅で染めたままの婦人が潜む仮面舞踏会に過ぎないのだと喝破してみせましたが、本件もその類いです。もっとも、あの御婦人と違い、蒸気機関者が本件の犯人の目当てだった訳ですが”
出来すぎかなと呟いた一張羅が調書の余分な墨を、「鉄打たん者対蒸気機関者」よりはましではと記者から差し出された一セントの号外で拭き、
“これだけ類いまれな状況を引き起こす計画的犯罪、明らかに知能犯の所業です。それも集団の。これだけの大物を盗むのですから、戦前の大草原の無法者衆や、いま巷を騒がす元南軍兵の列車強盗団以上の戦力でしょう。逮捕にはより多くの人材が必要と予想されます”
と追記し、判を押す。
「学校はどうしたってこっちゃ訊いてんだ」少年の右頬から水の弾ける音が鳴る。クレヨンが落ちて割れた。野次馬が右手を振り上げる。
乳歯がかちかちと音を立て、次いで打音が鈍く響く。
ぐわんぐわんと長音に変わった。耳糞が汗のように少年の顎を伝う。左頬は乾いたままだった。
口をあけた少年が周りを見やると、凸月形の箍が荒野に転がっていた。素描とちがい、真円側も逆方と同程度に欠いている。農夫が箍を飛ばして野次馬を卒倒させたのだった。回転が止まり音も止む。
一張羅が「昨晩の実証な」と箍を拾い、「一理はあるな」と少年に学習鞄を渡し、「一日は休むな主も」と記章で拭う。
手触りのよい印刷織物で、裏には連絡先と社訓我々は眠らないが載せられていた。
判も記章の表も、描かれているのはアーモンド形に配された文字のなかに一つ目の刻まれた意匠。
Pinkerton National Detective Agency
「速達で構わんな」
「笛の到着は未だ」
「轍は既に追跡中」
「売店へ聴込みも」
「保安官の配置は」
「各水場の確保に」
「路外の煙監視も」
「軽く奪い返して」
「宿へしけ込もう」
探偵が箍を持った手を伸ばし、地味な同僚たちを見送った。少年が目を輝かせて記章を握りしめた。
●8●
おれたちは道などない道を進んでいる。だけど追う側にとってはそうじゃない。ようやく気づいたのはポンプと交代して、ふと後ろを見たときだった。
夜はふけて地は藍がはけてきた。緑があった。そしてなにより茶色が。マシンの足跡、えぐれた轍。地平線の向こうまでぼこぼことはっきり見えた。
足元のぼろぼろ食いちらかされたパンくずを蹴る。ばかなハンスとグレーテルもいたもんだ。
「いちーち気にして。のっけから穴だらけのばくちだろ、今更ちまちま尻の穴一つふさいだところでどうすんだ。ぼとぼと垂れちまった糞はもう拾いようねえ量だし、べつに糞は尻から以外だって出らあ。それなら無視して広い荒野を全速力ですっ飛ばしてったほうがいい」
ポンプが笑った。
「却下だ却下。さすがにもうちょい考えがあるよ俺は。……そりゃ雇われ根性については言ったがね、なにも間まで抜けとは言ってないよ俺ゃ」
バーニーも笑っていた。
「でもポンプの考えなしと目糞鼻糞、度胸勝負って意味じゃ変わりなし。まあお前のたとえとも近いっちゃ近い」
「どっちを取るかね? お前はお前で耳糞でもあんなら話は別だが」
●9●
下手糞な素描のように線の多い轍の脇を、五組の蹄鉄が併走していく。
捜索者の視界には、やがて地平線から物影が浮かび、運搬車としての細部が明らかになる。
風を受け流す縦列を先頭の捜索者が手信号でくずし、蹄鉄は轍の直線と異なる曲線を四本ほど描いて進む。
轍の道からこそ外れたが、探偵はいまだ常道をたどっている。作業現場になかった通り、犯人はやはり運搬車を牽引している。道路舗装用の蒸気機関者は兵器の類いを備えていない。そのため機関者強盗は、運搬車を盾に中身の砕石を武器にするのが常道だった。
煙はない。
余熱であっても機関者はいくらか動く。二連の投石機と化せる程度には。
人員を広域に分散せざるを得ない初動の検索時に、少数の追っ手を煙をひそめてじっと待ち構え叩いて逃走を伸ばす……これもまた常道だった。
うつむき轍を追いかけて、そのまま顔を上げる機会を失した先達も少なくない。まるで顔から水溜りに突っ伏した赤い彩色写真を差し替えて「車線は射線」と繰り返す座学を行なう上級職をうとむ現在を送り、頭部の欠けた故人の来歴調査を新人研修の一環として終えた日を遠い過去の点景とする……そんな探偵の道の中腹を進む四人は、この日も表情を変えることなく踏み外すことなく淡々と仕事を進めている。
車の両脇から同時に回り込む。
誰もいない。石しかなかった。
二陣が車の向こうを確認する。
足跡がない。轍さえなかった。
探偵の一人が口笛を吹奏する。
点景じみた一人が振り向いた。
口笛の主は手信号で否を伝え、散開時に引き返させた一人がまた背を向け走りだしたところで汗をぬぐった。