第八話 エルヴィンとドロティア王妃の閑話休題
エルヴィンはドロップ宮殿の中に招かれて、ドロティア王妃の部屋に通された。御付きの者たちが控える中、ドロティア王妃が薄い紫色のプリンセスドレスで颯爽と現れた。彼女が通ると、森の中のような爽やかな香りがした。
ドロティア王妃は品のある美しい方だ。彼女は三十代前半だが、まだ十代ぐらいにしか見えない若さを保っている。色素の薄い金髪をお団子に結い上げてティアラを付けている。凛とした青い目をして、王妃の品格を醸し出している。
エルヴィンはかしこまって、ドロティア王妃と握手した。
「王妃様におかれましては、お変わりなくお過ごしのこと、心よりお喜び申し上げます」
エルヴィンは、ドロティア王妃の為にあらかじめ用意していた常套句の挨拶をした。
ドロティア王妃が、ファーグランディアのリロイ国王に見初められたのは、エルヴィンが生まれる二十年ほど前だ。彼女を見初めたリロイ国王が、ご婚約の際にドロティア王妃のお名前を、ドロップ宮殿と王都ファンティアの名から親しみを持って名付けられたらしい。
後は、新聞でちらほらとご公務の情報を見かけるぐらいだ。それは、エルヴィンが今までドロップ宮殿とは無関係だったことに他ならない。
ドロティア王妃はエルヴィンの形ばかりの挨拶でもとても満足そうにうなずいた。御心が広いのか。それとも、何か魂胆があるのか。
「私は変わりありません。ですが、国王様と私の息子のクリストファーが病に侵されているのです……!」
「……ご心痛のほどお察し致します」
「国王様がお倒れになってから、クルーエル大臣がますます勝手なふるまいをして困っております。エルヴィンさん、クルーエル大臣に国家の半分の権力があるのはご存知ですか?」
ドロティア王妃は、感情が高ぶったのかハイヒールで絨毯の上を右往左往している。絨毯の上をドロティア王妃の音のこもった足音が彷徨っている。
「……そのことは、私も新聞などで聞き及んでおります」
「暫くは、クルーエル大臣がクリストファーと協力して国務を行っていく予定だったのですが、今度はクリストファーも倒れてしまわれた。もはや、クルーエル大臣の独り舞台だと言っても過言ではないでしょう」
何も答えずにエルヴィンは聴いていた。ドロティア王妃は、日頃の鬱憤を吐き出すように喋っている。
「もしかしたら、クルーエル大臣の仕業やも――」
「えっ!?」
ドロティア王妃は嘆息した。
「いえ、聴かなかったことにしてください。とにかく、野放図なクルーエル大臣のふるまいを何とかしたいのです! ですが、私ではクルーエル大臣の権力には歯が立たない……!」
「は、はぁ……」
エルヴィンは答えながら、自分がここに呼ばれた理由を探っていた。絶対に、クルーエル大臣の不満を自分に聴かせるためではない。それだけは分かる。
ドロティア王妃のご公務は、主にリロイ国王のご同行だ。お二人で他国を回られて、隣国との親交を深めておられた。だが、リロイ国王とクリストファー王子が病気で倒れられてからは、ドロティア王妃のご公務はぱったりと無くなった。
ドロティア王妃はクルーエル大臣の影に追いやられて、不満が募っていたらしい。彼女は、クルーエル大臣と対立していたのかと、今になってエルヴィンは気付かされた。新聞の静かで愛想の良い文面からは、想像もつかない事だった。
風向きが変わったのは、次の瞬間だった。絨毯に吸収されたハイヒールの足音が聞えなくなった。エルヴィンはそれに気づいて視線を上げる。
すると、ドロティア王妃は立ち止まってエルヴィンを見ていた。
ドロティア王妃の顔に笑みが浮かんでいる。
慰められたような、一条の光を見出した様な笑みだ。
「ですが、調合師のエルヴィン殿が王都ファンティアでラボラトリーを開かれたということを聞いて、勝機が見えてきたと思いました」
「は、はぁ……?」
な、なんで、俺が出てくるんだ?
エルヴィンは戸惑って、目をしばたいた。
「国王様とクリストファーは、正体不明の病に侵されているのです!」
「……ご心痛、お察し致します」
答えながら、エルヴィンは嫌な予感を覚えていた。
まさか……。
「エルヴィンさん!」
「っ!?」
いきなりドロティア王妃がエルヴィンの手を取って迫ってきた。エルヴィンは動揺を隠せないまま、後退してしまった。
「国王様とクリストファーを魔法薬で救ってもらえないでしょうか!」
やはりか……! まずいことになったぞ……!
とんでもない事を言われてエルヴィンは困り果てた。
正体不明の病の特効薬を作ることは、エルヴィンでも難しいことだ。しかもこれは、できなかったら責任を取って処刑という最悪のパターンではないのか。
「王妃様は、私の事を買いかぶりすぎではありませんか! 私では――」
エルヴィンはすぐに断ろうとしたが、ドロティア王妃の方が早かった。
「できなければ責任を取れというわけではありません。エルヴィン殿の他にも調合師たちに声をかけているのです。国王様とクリストファーを助けるためなら、ドロップ宮殿でしか手に入れられない材料も自由に使わせてあげましょう!」
「えっ……! それは本当ですか……!?」
研究に当たる調合師は自分だけではなかったのか……! しかも、いつもなら手の届かない高価な材料で研究ができる……!
美味しい話にエルヴィンの頬が緩んだ。
「ええ、本当ですよ。王室付きの調合師になってくだされば、研究費も毎月お支払いします。色んな研究が思う存分できますし、うまく行けば名誉も手に入ります。悪い話ではないはずですよ?」
ドロティア王妃は確信犯の笑みを浮かべた。確かに、こんなに良い話はめったにない。エルヴィンはドロティア王妃の手を握り返してうなずいた。
「そのお話、喜んでお引き受け致します!」
その数分後。エルヴィンは、ドロティア王妃の部屋を退室した。
気が緩んだところで、向こうからお偉方が御付きの者を従えてやってきたので、エルヴィンは慌てて横に避けた。
「……エルヴィン君でしたか? 王妃様の御願いを叶えにご苦労なことだ」
そう言ったのは、身なりの良い銀髪の男だ。
彼は、涼やかな碧眼の視線をこちらに流した。
「……なんで、俺の名前を?」
「私は、クルーエルという」
「えっ!? もしかして、クルーエル大臣ですか!? いつぞやは、弟子の芽々がお世話に……いや、私の命を救ってくださってありがとうございます!」
思わずエルヴィンがかしこまると、クルーエルは気持ちよさそうに笑った。
「芽々さんは、貴方のために必死でした。良いお弟子さんをお持ちだ。そして、芽々さんは私の条件を快くのんでくれましたからね……」
「は、はあ……」
芽々はどうやらこの男に好かれているらしい。
「芽々さんにはこれからも世話になるよ! フフフフ……ハーッハハハハハハハハハ!」
「えっ……!」
エルヴィンは、クルーエル大臣の態度に呆然となった。
彼は御付きと共に、そのままエルヴィンの前を通り過ぎて行ってしまった。
クルーエル大臣は、これからもと言った。これからも、芽々に世話になると。
俺は、クルーエル大臣の事を履き違えていたのか? だから、クルーエル大臣はこんなに気持ちよく笑っているのか? 条件をのんだというのは、俺が王都ファンティアに来たことを意味していると思っていた。だが、違うのか……!?
エルヴィンは、烏羽玉の言葉を思い出していた。
『問題です。芽々さんは貴方を助けるために、一つ危険を冒しました。それは一体なんだったでしょう? 貴方は、芽々さんを助けることができるでしょうか……?』
「どういうことだ……? まさか!?」
エルヴィンの脳裏を悪い想像がよぎる。
芽々があられもない姿で泣いているところを想像してしまったのだ。
しかも、その相手はクルーエル大臣だ。
サアッと血の気が失せて行く。
それを確かめるために、エルヴィンは自分のラボラトリーに馳せ戻ったのだった。