第九話 エルヴィンと烏羽玉先生の閑話休題
気管が糸のように細くなったような息苦しさから解放されたのは昨日のいつ頃だったか。
夜が深みを増した後。エルヴィンは、ようやく泥のような眠りの中から抜け出した。しばらく心地よい眠気にまどろんでいたが、自分の身に起きた異変に気付く。まるで、朽ちた肉体を一新したようなこの解放感はなんなのだろう。
上体を起こしてみる。しかし、苦痛に顔を歪めるはずの想像からは逸脱していた。
「う……? あれ……? 身体が痛くない……?」
エルヴィンは、上体を起こして部屋の明かりを点けた。
照明のガラスの中には、有名な調合師が調合した『光薬』が練り込まれている。照明のスイッチに手が触れると、そこから人体の僅かな魔力が注がれ、光薬が発光する仕組みである。もう一度、スイッチに触れて魔力の衝撃を与えると消えるようにもなっている。
エルヴィンは、目に染みわたるような明りの下で、異変の原因を注意深く探り当てようとした。
床の上で緩やかに上下に何かが動いている。
一瞬驚いたが、すぐに記憶の中の女と床の上のそれが一致した。
なんてことはない。床で芽々が横たわり、胸を上下に動かして呼吸をしているだけだった。そして彼女は、静かな寝息を立てて眠っていた。
どこから探し出したのか、掛け布団まで手に入れている。掛け布団を着て丸まる姿は、どこか寒い日の猫を彷彿させた。
「そうだ、芽々の魔法薬を飲ませた後、俺は倒れて……」
しかし、記憶が抜け落ちていてよく分からない。
「それから、俺はどうしたんだっけ……?」
エルヴィンは、くしゃりと自分のハチミツ色の髪を掴んだ。
そうだ。夜の不磨の森に入ったから、瘴気を大量に吸い込みすぎて容体が悪化したんだった。
「もう、ダメだと思ったのに……あれ……? どうして、俺は助かったんだ……?」
じゃあ、何でこんなに呼吸が楽なのだろう?
「まさか!」
エルヴィンは、上服をはだけて自分の皮膚を確かめた。綺麗な薄ピンク色の肌をしている。見事にエルヴィンの皮膚は再生していた。どこにも灰色の皮膚など存在してない。まるで、以前からそうだったかのように。
「な、何で治っているんだ!?」
何が起きた? いつもと違う事と言えば、芽々が傍にいることだ。
「芽々が何か行動を起こしたのか? まさか自分の為に?」
掛け布団から、芽々の右手が顔を出していた。手には、何かを大事そうに持っている。
それは、エルヴィンのラボラトリーの棚にあった空きビンだろう。しかし、透明なビンに入った何かが白く発光している。
エルヴィンは、芽々の手からそれを取り上げた。
「なんだ……? これは……?」
小ビンのフタを開けて、手のひらに中のモノを移した。錠剤が転がり出てきて、手の平の中で大人しくなった。
それは、一般的な魔法薬でもなければエルヴィンが作った特殊な魔法薬でもなかった。一種異質的な光をその錠剤は放っている。まるで、何もかもを浄化するような――。
エルヴィンは目を見張った。彼はすぐにそれが何かを理解したのだ。
「これは、『瘴気中毒症候群』の魔法薬!? どうして、芽々が!?」
しかも、普通の魔法薬ではない。しかもこの錠剤は、エルヴィンが自分の病の情報を必死であさっていた時に見つけた稀覯本に載っていた写真と瓜二つだった。
この魔法薬を制作するには、王室のレシピがなければ作れないことも、そして王室しか手に入れることのできない材料が必要なことも、エルヴィンは既知していた。
簡単には直らない病。だから、『瘴気中毒症候群』は難病なのだ。
「すっかり諦めていたというのに……だが、俺の病は完治している。一体どうなっている?」
それは、エルヴィンが熟練した研究調合師でも解せない事だった。
エルヴィンは立ち上がり、原因を探りながら魔法機の前まで歩いて行った。
艶やかな鈍色で、エルヴィンの背の高さほどある魔法機。それは深夜の静かな照明の中で、無機質な冷たい存在感を放っている。何も喋れないそれだったが、無言のまま間違い探しの回答をエルヴィンに求めている。
間違い探しの回答。それは、魔法機の横に見慣れない黒い紙袋が当然のように置かれていることだ。その紙袋に手を伸ばす。持ち上げると、何かずっしりした物が入っていた。エルヴィンの心臓がドクンと鳴った。
エルヴィンは、衝動的に紙袋を開いた。ガサリと紙袋の形が崩れる音と、中で瓶がぶつかる音がした。
小瓶に入っている材料が三つ、その中に入っている。取り出して驚いた。エルヴィンは見ただけでそれが高価な『鳳凰の巣』と『金蝶と銀蝶の鱗粉』だと気付いた。
更には、魔法薬の分量と作り方が書かれたレシピの写しまで入っていた。それには、正確に魔法薬の分量を記している。
これは、もしかして――王室の門外不出の調合レシピ……!?
思わず、エルヴィンは芽々を振り返っていた。
芽々は何も気づかずに、笑みを浮かべたまま夢の中で居心地良さそうにしている。
エルヴィンは、昔読んだ稀覯本の一節を思い返していた。
「この難病の魔法薬は、調合しても失敗する確率は九十八パーセント。それを芽々はやってのけたというのか――」
エルヴィンは思わず喉の塊を呑みこんだ。
「芽々が、俺を助けてくれたのか……? 一体、どうなっている……?」
エルヴィンは、再び自分の額に手をやった。
芽々の可能性には目を見張るものがある。しかし――。
「こんな高価な材料に、王室の門外不出のレシピ。どうやって手に入れたんだ……? まさか、俺の為に、芽々が危険を冒したんじゃ……?」
『その通りですね』
「っ……!?」
耳慣れない男の声がして、打たれたようにエルヴィンは振り返った。