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メイキング・オブ『ジャコ・パストリアスの肖像』

作者: mitsou

《《ジャコに対してはその音楽性以外にもルックスや使用楽器、そして波瀾万丈な人生において世界中に数多くのシンパを生んでいる。ジャコの伝記本として1990年代初頭に出版された『ジャコ・パストリアスの肖像』は彼を知る上でよく参考にされているが、著者ビル・ミルコウスキーはジャコ本人及びイングリッドとは面識がなく、その内容のほとんどは周囲などへのインタビューや伝聞で構成された伝記本になっている。》》

―― Wikipedia日本語版「ジャコ・パストリアス―6 エピソード」(http://goo.gl/LgRL8h)より引用。







この詩を書くにあたって参考にした文献は、主なものを挙げれば上記のミルコウスキーの伝記本(と、YouTubeの『Jaco Pastorius Bass Solo - Live with the Weather Report -Offenbach Germany 1978'』(https://goo.gl/Naw5Hy))だが、この本は処分してしまって(当時も今も)手元に無い。

本の中のエピソードの引用(((例えば『神の書跡』云々等)))は、記憶を頼りに行った。




   『大切な事は覚えている』

   『覚えている事は大切な事』

   『大切ではない事は覚えていない』

   『覚えていない事は大切な事ではない』




……おそらくそんなものなのだろう。

だが記憶とは―― 『夢』とは、事実を再現するだけのものではない。




書くものの性格にも因るが、必要に応じて原典に当たる努力を惜しもうとは思わない。

だが、これを書いていたときは、再読は必要なかった。

『記憶が未だ保たれていたから』ではなく『書いているのは自分ではない』事を自覚していたからなのだ。




『記憶を頼りに』と前述したが、実際には記憶の頁を紐解く努力は些かも行わなかった。

『忘れかけていた記憶を介して『夢』がその意を伝えてきた』(ことに気付いた)と述べる方が事実に近い。







……新しい生活にも慣れ、私事における辛い別離をようやく忘れかけた頃の事だった。

あの夜はジャコの夢を見た。

夢の中特有の静止した時の狭間で、ジャコの弾く旋律とその人らしさの感覚が余韻のように垂れ込めて居た。

睡りの浅瀬に浮かびあがるその面影を眺めていたとき、

暗い水面の微光を透かして

もう会うこともない(彼)と、(彼)がいつか路上で見つけ、そのまま病院に連れて行った(猫)の記憶がいつしか心を占めていた。


ふと見比べた二つの過去から、『同じ響き』が聴こえた気がした。

去りゆく夢の後姿にもう一度目を凝らしたとき、

おぼつかない記憶に代わって、一つの予感がささやき始めた。

それは次第に確かさを増し、或る懐かしいりんかくを描きはじめたようだった。


空は明るみ始めており、夜具の温もりが心地良かった。

夜毎『睡り』が訪れたのなら、『夢』はずっとそこにあり、(ただ)気付かれるのを待っていたのだ。







………………………………………………………………………………………………







事実が不幸なものであっても、ひとはその事実性から外に逃れることは出来ない。

不幸が大きすぎるとき、

夜の帳は子守り歌とゆりかごを用意する。

   やがて朝が訪れようとも、今だけは眠れるように。

   この忘却の国の何処かに勿忘草が咲くように。


   ただ『夢』だけはひとに代わって別の夜を起きている。

小止みない日々の裏戸で、もう仔細も思い出せぬのに。

夢の中で流した泪は朝日と共に拭われる。

それは消えた訳ではなく、深く刻まれた支流をつたって忘却の淵に流れ込む。

さざなみが揺れる都度(ひとがそれと気付かなくとも)『睡り』は全てを記録している。




『夢』は待っているのだろう。―― 夜毎あの水辺に座って

それはいつしか『反復』し『変奏』を始めている。

   陽の光の届かぬ深みで記憶の色が褪せるまで。

   うつろいの成すさざなみが二重の軌跡を描くまで。


忘れていたと気付くことはひとを過去から解放する。

思い当たる節も無いのに、揺れる水と『かつて』の所在はいつになく満ちている。

そのとき『言葉』は(その秘められた素性を介して)ひとに自覚させるだろう

   『幾度となく読みかえしたが、今初めて読んだのだ』と。

   『書き始めたのは(誰か)であり、自分は気付いただけなのだ』と。




ひとがその目を閉ざしたときに目を開くものがある。

ある折り『言葉』はひと自身とは別の息吹を告げている。

あのとき水面に映ったのは誰?

勿忘草をくれたのは誰?

   

   (((―― ええ、今なら答えられます。)))

   (((わたしであり、わたしでないもの。)))

   (((今もわたしを見つめているもの。)))

   (((あのひとごとのように明るい、かげりの無いまなざしです。)))







      ※この(六連から成る)一編を書いていた時には、モーリス・ブランショの書いたナルシスの神話の解釈(の邦書による紹介?)の不確かな記憶があった。

      この一編はそれに対する反論として企画されている。


      ブランショ(?)は、あの神話を、(広く知られたそれ、ではなく)『他者性』を持たない在り方の寓話、として解釈していたように記憶している。

      曰く、「ナルシス」は自己愛者なのではない。

      彼の所作とは、或る否認の試みである。

      それは『大文字の他者』を否認し、ただひとり森深い水面の辺でそれが存在しないかのように振舞い、自己の鏡像と交流することだけを通じて在ろうとするような『在りかた』の試みの遇喩である。

      それは絶望的な試みであって、試みを続ける者は時と共に消耗し、やがて不可避的な存在の消滅=死へと近づいてゆく。

      そして「エコー」の所作もまた、ひとの本来的な在りかたから掛け離れたそれの遇喩である。

      (神話の中では、それは超越から『多弁』に対する罰として科されたものとされている。)

      彼女はナルシスとは反対に、ただ『他者』の在りかたに倣うことだけを通じて、自己の獲得を試みる。

      ナルシスはエコーの姿を認める(何故『他者』であるエコーを認知し得たのか?については詳らかにされていない)。

      だが、彼女は彼に『退屈』をしか与えられない、即ち、彼女が贈り得るものとは(彼女ではなく)彼の言葉の「模写」であり、それは彼の「既知」であり、そこに『他者性』は含まれていない。

      与えることの出来ぬ者は受け取ることも出来ぬのだろう、エコーは何も受け取れず、その心は永遠に満たされることがない。

      エコーは求め続けるが、その声は漸進的に減衰してゆき、遂には反響言語(Echolalia)機序だけが自律化して残存する。

      彼女の存在がこの地を離れて久しいが、今も尚その訴求は止むことはない。

      (超越の及ぶ範囲は人智の枠を超えるから、である。)


      


      (((―― おそらく両者は一対なのだ。―― )))







………………………………………………………………………………………………







《《ジャコの伝記本として1990年代初頭に出版された『ジャコ・パストリアスの肖像』は彼を知る上でよく参考にされているが、著者ビル・ミルコウスキーはジャコ本人及びイングリッドとは面識がなく、その内容のほとんどは周囲などへのインタビューや伝聞で構成された伝記本になっている。》》

―― Wikipedia日本語版 「ジャコ・パストリアス」より(再掲)。


Wikipedia日本語版には、「なぜWikipediaは素晴らしくないのか」(http://goo.gl/qejUa)という記事がある。

(これは行過ぎた謙譲であって、「なぜ~完全ではないのか」といった表現で代えられても良いのではないかと思う。)


この「素晴らしく無さ」にことよせて、本稿におけるWikipediaの『不都合性』を以下に述べてゆく。

(なお、ここで言う『不都合性』とは、Wikipediaの不完全性の指摘ではないし、方針への不満の表明でもないことを明記しておく。)


Wikipedia日本語版の「方針とガイドライン」(http://goo.gl/vYMy1t)(=目的とその達成の為の設定)を参照すると、Wikipediaの全ての指針の基礎は「五本の柱」(http://goo.gl/vpq7K)であり、作成される記事の内容にについての基本的な原則は「三大方針」としてまとめられている。


三大方針の内容は、

①「中立的な観点」(http://goo.gl/hNsKz)

②「検証可能性」(http://goo.gl/9vmGg)

③「独自研究は載せない」(http://goo.gl/RyXCa)

とされており、それに添ってWikipediaは自らの記事の種類と質を決定している。


Wikipediaの設定がそのような自己限定的なものであることは、その目的と現実的な運営を考えれば肯かれるものだろう。

だが、換言するのなら、Wikipediaは―― それが自ら以上のもので在ろうと願わず、また自ら以下のものでなく在るために努めるのであれば―― その記事内容は常に(三大方針によって)検閲されている、とも言える。


前掲の引用部分における(ミルコウスキーの本への)記述は、Wikipediaの記述における典型的なものだろう。

曰く、「中立的な観点」に立っておらず、「検証可能性」に欠け、「独自研究」に陥っている、というのがそれであるが、ミルコウスキーが彼の本を自らの考えを発表する場として企画していたのなら、このような価値評価は(Wikipediaの記事上においてであれば)致し方ないことだろう。

(より穿った見方をすれば、あの本を読む限りではミルコウスキーはジャコの物語における「サイドキック」であるかのように感じられるが、事実はそれと異なることを問題視しているのだろう。)

なお、未読だが、本邦で2010年に刊行された「ワード・オブ・マウス ジャコ・パストリアス魂の言葉」(ISBN-10: 4845618974/ISBN-13: 978-4845618972)という本は、全般的にミルコウスキーの本よりも一次資料に基づく傾向が強いらしい。―― Wikipedia的な観点からすれば、前者は後者よりも高く評価されるべきなのかも知れない。)




ところで、本稿、およびこのテキスト群は(ミルコウスキーの本と同様)Wikipedia「ではない」。

このテキスト群の目的は一個人の夢想の描出であって、記事内容の方針を(必要に応じて同じくする場合もあるが)Wikipediaのそれと一にしていない。

『夢に見る空家の庭の秘密』は、それを見た者の唯我論の裡に永遠に留まり続ける。

それはどんな『他者』とも共有されることは無い。

中立的な観点からそれを語ることも、検証可能として扱うことも、非-独自研究として描くことも出来ない。




本稿は、Wikipediaが『問うことが出来ず、従って答えることも出来ない』種の問いを立て、その答えを検討することを目的の一つとして書かれている。

曰く、『人がジャコについて書くとはどのようなことなのだろう?』




……ジャコは、彼を理解しようと努め、愛そうと願うような人々が最も望まぬかたちでこの世を去った。

その晩年において、ジャコは自分に最も親しい人を最も深く傷つけるような宿命を負った者だった。

ジャコを巡る人々は、近づこうと努力する者であればあるほど、手酷く裏切られ、深い悲嘆を味わわされた。

この宿命はジャコの生に(つる草のように)分かち難く絡みついており、遂にはジャコにもっとも近く在った者―― 即ち『ジャコ自身』を残酷な死に至らしめた。




距離を置いて眺めるなら、ジャコの宿命のかたちとは、いわゆる『悲劇』のそれとして観察することも出来よう。

だが、ひとたび書き手がジャコという事象に関心を持ちはじめると、その様相は変化してゆく。

ジャコとその音楽は、或る種の者たちにとって、何故か抗うことのできない(誘蛾灯にも似た)魅力を有している。

それはジャコという事象の奇妙な特質であって、―― 現在ジャコよりも速く正確に弾ける弾き手はかなり居るが、ジャコほど「聴く者の存在を根底から揺り動かす」ような弾き手が何故か少なく感じられるのもおそらくそれに因るのだろう。

それは夢の地平を支配するあの奇妙な感覚に良く似ている。

夢は、その内でのみ有効であり、かつその内にのみ存在可能な(価値の知覚)によって、常に動機付けされている。

ひとは昨夜の夢の中で、その(知覚)に心を奪われ、その(価値)を追い求めるために/またはそれから逃れ去るために、水の上を歩み空を駆けさえしたことを思い出す。

だが一夜明けて、何故そうしたのか/そうしなければならなかったのかについて、第三者が理解可能なかたちで十分な説明を行えるような事例は少ない。

これは『言語の壁』かも知れぬし、あるいは、ひとの意識構造には『夢』と『現実』を分け隔てる何らかの『関門』が在るのかも知れない。

ともあれ、夢の中での(真実)を、人は目覚めた後この現実の光の下に持ち出すことは極めて難しい。

どれだけ科学が進歩しようとも、意味論的な観点から夢のすべてを説き明かすことは出来ぬだろう。


ジャコという事象とは、言わば夢の中のそれであって、である以上、ジャコについて書くことは夢の現実への侵食を我が身に受肉させることに(少しずつ、だが着実に)近づいてゆく。

ジャコについて書きはじめ、(引き還すことの出来ない)或る一線を越えた途端、書き手は彼の固有を失う。

『弾いているのは彼ではなく、見つめているぼくたちなのだ』

彼は『宿命』に巻き込まれ、今まさに上演中の悲劇の端役を演じつつ在る己が所在を自覚する。




ミルコウスキーは(おそらく)正しい。

Wikipediaとその方針は、ミルコウスキーが書いた本が何故あのような体裁をとったのか、その必然の由来を汲むことが出来ず、結果として自らの限界を露呈している。

あの本を書き始めたとき、彼が何を意図したのかは判らない。

書かれた言葉を眺める限り、ひとがそこに読み取れるのは『ジャコ・パストリアスの肖像』と表題された筆者自身の回想である。

回想は(思い出すのがためらわれるほど)辛くかつ忘れ難い記憶について『我が事として』述べている。

それは当事者―― ジャコの神話の実際の共演者だけに相応しいそれであって、その構成はいつのまにか口承で伝えられる叙事詩の体を成している。

おそらく鎮魂なのだろう、その響きは(未だに埋めることの出来ない喪失感を与え続ける)或る死者を悼むためのものでもあり、また、自らの『内なる死者』への哀しみに暮れるためのものでもある。




あの本で、ミルコウスキーは主題を『正しく』書いている。

(若しくは、そう記憶している/そしてその理由は(前述の通り)この現実の光の下では解き明かされることはない。)













「メイキング」形式によるポストモダン的な叙述の試みであると同時に、この時代の「時代精神」の宿阿でもある「客観性」信仰への苦言でもあることを意図して書かれている。

後者の托言材料としてWikipediaを採用しているが、これは「方法的」なものに過ぎない。

(筆者が自ら課した方針の一つである(Web関連では)「某匿名掲示板界隈を称揚しWikipediaを批判する」の追認であって、本心で言えば「ウィキペたん」(http://goo.gl/b438P)は「Kawaii」と思います。)

当初の意図である「韻文形式と散文形式の混交/両者間の自由な行来」は或る程度達成されたものと思っている。


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