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塹壕のJJ、空を仰ぐ

ドイツ国境 フランス軍の塹壕内

――クソッタレ、クソッタレ、クソッタレだ。


 この半年間の間に幾度となく繰り返した悪態が、ジャン=ジャック=ジュラルダン伍長の頭の中に響く。冷たくぬかるんだ泥、豚でもそっぽを向くような飯、頭上を通り過ぎるドイツ兵の銃弾。このクソみたいな塹壕にあるのは、それが全てだ。いい加減、頭が狂いそうになってくる。ピエールの野郎が、もう嫌だと叫んで塹壕を飛び出し、狙撃兵に脳味噌をかき回されたのは一昨日のことだ。やつが羨ましい。あいつはもう、このクソみたいな塹壕に悩まされることもないのだから。


「JJ、煙草はあるか?」ひげもじゃの戦友、ヴァンサンが声をかけてくる。


「最後の一本だ。あとで倍にして返せよ」


「ちぇっ、わかったよ」


 マッチを擦る戦友を横目に、JJは空になった箱を握り潰した。視界の端を丸々と太ったネズミが横切り、舌打ちする。遠くからこちらを伺うネズミどもの目に、俺たちはどう映っているのだろうか。ネズミを追う内についうっかり頭を出して狙撃されるようなバカはもういなくなったし、俺たちが攻勢の度にやつらへ新鮮な肉を提供してやっているせいで毒入りのエサも喰わない。バカにしている。


――――Stille Nacht, heilige Nacht――――


「ん?」


 遠くから聴こえる歌の旋律。ドイツ語、だが自分はそれを知っている、という直感があった。


「ああ、そうか。今日は……クリスマスだったな」


 歌詞は違えども耳慣れた旋律は、きよしこの夜(Douce nuit, sainte nuit)のそれだった。おそらくドイツ兵どもが合唱しているのだろう。そう、今日はクリスマスなのだ。例年ならば一か月も前から指折り数え、当日を誰とどうやって過ごすか、どこのレストランを予約しようかと算段しているところが、単調な塹壕生活に紛れてすっかり忘れていた。思い出したら、空腹が我慢できなくなってくる。ここシャンパーニュの前線に再配置されてからというもの、まともな飯を腹いっぱい食った記憶がないのだ。


「なあ、そろそろメシの時間じゃないか?」

「ああ、そうだな」


 JJの問いに、煙草をふかしていたヴァンサンが素っ気なく答える。

 気のない返事に、JJはさらに言葉を重ねる。なぜか話さずにはいられなかった。


「ちくしょう、おふくろのブッシュ・ド・ノエルが食いたいぜ。たっぷり乗せたあまーい生クリーム、フォークで刺せばとろけ出る濃厚なチョコレート! それから彼女と街に出て、とっておきの赤で最高の鴨料理を食うんだ! ああ、考えただけで腹が鳴りやがる。なあ戦友、今日のメシはなんだ?」


 両手を広げ、周囲の兵士に聞こえよがしに喋るJJの襟首を、隣にいたヴァンサンが掴む。


「な、なんだよ戦友?」


「今日のメシだと? かっちかちのパン、冷えたスープさ。決まってるだろ!」


 半ば自棄を起こしたような声で言い放ったヴァンサンが、吸い終えた煙草を放り捨てて舌打ちする。雰囲気が泥のように重苦しいものとなる。ヴァンサンだけではない。誰もがイラついているのだ。それも当然、ここにいる兵士の誰もがクリスマスまで戦争が続くなんて思ってもみなかった。二等国ドイツの無法者どもをこらしめて、手柄の一つも立てて女の子をきゃあきゃあ言わせたいがために志願したのだ。JJとて例外ではない。


――――Alles schläft, einsam wacht――――


 それがどうだ。ベルギーを通過したドイツ軍はあっという間に国境に迫り、フランス軍と激突。マルヌで押し返されてからはお互いに相手の後ろへ回ろうと戦線を横へと広げ続け、スイスからイギリス海峡に至る750kmの前線を作り上げるまで一か月足らず。ガリエニ将軍によってパリからタクシーでマルヌの戦場に送り込まれたJJたちは、行軍に次ぐ行軍で命と靴をすり減らしながら戦った。だが勝てない。挙句の果てが、余裕を示すかのようなこの歌だ。


――――Nur das traute, hochheilige Paar


「ああ、もう、うるせぇよジャガイモ野郎!」


 JJの叫びも空しく、遠く響くドイツ兵の合唱が止む気配はない。どこから調達してきたものか、太鼓やラッパの音も混じり始めている。見れば、塹壕の中にもフランス語で小さく歌を口ずさむ兵士がいる。彼がそうして敵と共に歌っているのを、しかし誰も咎めようとしない。ふっと顔を背ける者、天を仰いで瞑目する者、コートの内側から取り出した手紙を広げる者。彼らの浮かべる表情はどこか似通っているようにも思える。きっと、娯楽が少なく窮屈で不快な塹壕にみなが飽き飽きしているのだ。


「ああ、やめだやめだ!」


 すくっと立ち上がったJJに兵士たちが注目する。その場にいる全員の顔をぐるっと見渡し、怪訝な目で見上げるヴァンサンにうなずき返してから話を始める。


「聞けよ戦友! ジャガイモ野郎でもクリスマスを楽しむぐらいの余裕はあるんだ、俺たちフランス人が冷たい塹壕のそこでぶるぶる震えててどうする? 意地と笑顔を見せろ! ほら歌え、騒げ! なんたって今日はクリスマスだ! さあ今日のメシ係は誰だ? お前か! 命令だ、士官用の肉缶と酒と煙草をかっぱらってこい! いいか、それまで帰ってくるんじゃねぇ!」


 兵たちがお互いに顔を見合わせる。もうひと押しか。だがJJが再び口を開こうとしたところで、ヴァンサンに足をつつかれてしまう。


「おい、JJ」


「なんだヴァンサン。いいところなんだ、止めるなよ」


「そうじゃない、なにか聞こえないか?」


「ジャガイモ野郎のド下手な歌ならさっきからずっと聞こえてるぜ!」


「違う、飛行機だ!」


「あ?」


 確かに、聞こえる。ドイツ兵の歌に混じって、さらに遠くから聞こえるエンジンの唸り。歌声が邪魔でいまいち方向がつかめない。味方か、あるいは敵か。音は次第に大きくなり、それに気付いたドイツ兵の歌が止む。塹壕に反響して分かりにくいが、どうやら味方のものであるらしいと分かった。期せずして歌を止めたその飛行機を見つけようと、誰もが空を見上げる。おそらくはドイツ兵も。


「なんだぁ?」


 JJの発した疑問の声は、その場にいた全ての人間が抱いた心の声だっただろう。無人地帯を目指して低空を飛ぶ飛行機。塹壕の上を一瞬で通り過ぎたそいつの姿は、戦場にいる全ての人間の度肝を抜くものだった。


 イタリア機を思わせる真紅の塗装。

 明るく鮮やかな新緑のごとき尾翼。

 主翼下には流麗な書体でこうある。


――Frohe Weihnachten!


 ドイツ語で、メリークリスマスを意味する言葉だった。

 どこからどう見てもモラーヌ・ソルニエであるそいつに、なぜドイツ語が。

 そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間、そいつはフランス軍の上空で華麗な宙返りを決める。


「ホッホーウ!」


 甲高いエンジンの唸りを通して、操縦士の快哉が戦場に響き渡る。

 ちらりと見えた操縦士の風貌は、真紅の飛行帽と純白のマフラーに真っ白な髭を蓄えた――


――セント・ニコラス、そのものだった。

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