二コラ大尉、出撃す
1914年12月25日
フランス サン=ディジエ基地
フランスはシャンパーニュ地方、サン=ディジエ基地。フランスが誇る陸軍航空隊が居を構えるこの基地は、今日もドイツ軍の偵察に向かう偵察機の離着陸で騒々しい。そんな喧騒から少し離れたところにぽつりと建つ格納庫に、重厚な革のトレンチコートを着込んだ男が顔を突っ込む。
「よう、準備はできてるかい?」
にやりと笑うヒゲ面には不思議と愛嬌があり、重低音の声音には陽気さが滲む。コートのポケットに手を突っ込んで悠揚と歩むその姿は、ふさふさの白ヒゲとは対照的に薄くなりかけた頭髪も相まって、見る者をなんとなく和ませる雰囲気を身にまとっていた。彼の名はニコラ=ディシェーヌ。フランス陸軍航空隊の大尉であり、第三偵察飛行隊の小隊長である。
「ばっちりですよ。確認を?」
ウェスで工具を拭っていた整備兵が顔を上げて、親指を立てる。歳はニコラより一回り以上若いだろう。後ろに控えるカバーのかかった飛行機に目をやり、自らの仕事に満足げな笑みを浮かべている。そのことを確認すると、ニコラは軽く手を振って応える。
「お前を信用してるさ、リュカ」
ニコラの言葉を聞いたリュカはにっと笑うと、油にまみれた手で鼻の下をこする。整備兵としては若いが、自動車の修理工場で廃車と工具を遊び道具にして育った境遇からか、ことエンジン回りの整備にかけてはリュカに任せれば間違いないと基地のパイロットの間では評判になっている。とにかく手先が器用で、絵心もあるのでちょっと凝ったエンブレムも描けるとくれば重宝されないはずもない。
「おやっさんのためですから。お安いご用ですよ」
そんな彼がニコラの機付き整備兵を買って出ているのには、ちょっとした理由がある。大したことではない。ニコラは戦争が始まる前から飛行機乗りをやっていた。リュカはたまたまそれを知っていた。ただそれだけのことだ。
「あー、それでだな、ここまでやっといてもらってなんだが」
「なんです、おやっさん?」
忠犬を思わせる目の輝き。リュカは飛行機に関する頼みであれば大抵のことは聞き入れ、どうにかしてしまう。つい先日も、基地のエースと話し込んで飛行機に機銃を搭載するための同調装置がどうこう、プロペラの装甲版がどうこうなどとやっていた。ニコラとしては、プロペラの回転面を通して機銃を撃つなどという曲芸は極力遠慮したいところだが、若者は得てして血の気が多いものだ。
だからこそ、言うべきことは言っておかねばならない。
「今回のこと、俺が一人でやったってことにしとけ、な」
「……なぜです?」
忠犬の眼光が、一瞬にして野良犬のそれに代わる。これだから反抗期のガキは。二コラは言葉を探して後頭部をがりがりと掻く。
リュカは将来有望なエンジニアだ。だから、ここで自分のように不真面目な中年に付き合って上層部の不興を買うことはない。そんな言葉を繋ごうとして、結局は止める。言えば、リュカはむきになるだろう。
気まずい沈黙を打ち破ってくれたのは、結局のところ予期せぬ来訪者だった。
「ニコラ大尉! ニコラ=デュシェーヌ大尉はいるか!」
思わず背筋が伸びる、砲撃のような怒鳴り声。基地司令シャントルイユ大佐のお出ましだった。
「ここにいたか、大尉! 貴様、今度はなにをしでかした!?」
リュカがさっと目を背ける。まだ若い。二コラはあえてゆっくり振り返り、アメリカ人のように両手を上げて大仰に肩をすくめてみせる。なりより大事なのは、愛嬌に溢れる表情だ。そして馬鹿にした感じがでないよう、ゆったりと落ち着いた、それでいて少しだけ困惑をにじませた声音。
「なにって、出撃の準備でさ」
「ほう。ならば貴官らの仕事ぶりを見学させてもらうとしよう。さあ、気にせずやりたまえ」
腕を組み、口を一文字に引き結んで仁王立ちするシャントルイユ大佐がその場から動く気配はない。告げ口をしたのはどこのどいつだ。心の中で悪態を吐きつつ、リュカに目配せしてカバーを取り去るよう指示する。機体を傷つけぬよう、そろそろと外された下から現れる愛機モラーヌ・ソルニエ。それを見た大佐の眼が驚きに丸くなる。
「こ、これは…………」
大佐が驚くのも無理はない。イタリア機を思わせる艶めいた赤を基調に、水平尾翼と方向舵は緑色に塗ってある。側面には二コラのエンブレムたる二本の曲線で描いたシンプルな魚が白抜きで描かれ、特徴的なパラソル翼の上面全体を使って依頼した通りの文字が刻まれている。リュカは完璧な仕事をした。
「先日の『送迎』任務を成功させた報酬として、機体を塗装させていただくって話はさせていただいたと思いますが?」
ニコラは愛想よくにっこり笑ってみせる。送迎とは、ドイツ語のできるベルギー人をドイツ国内にスパイとして送り込む任務のことだ。非武装の偵察機で敵地の奥深くまで潜入する危険な任務であるため、成功させれば休暇やエンブレムの塗装が認められる。だが、機体をまるごと真っ赤に塗ってしまった前例はない。まともに報告すれば却下される。なので大佐には『塗装するので赤と緑と白のペンキを注文する』とだけ報告し、機体の全面塗装を禁止するなんて文言はどこにもない、という理屈でリュカを説き伏せた。その結果がこれだった。
「だからと言ってこのような……この、この大馬鹿者めが! 許されると思っているのか!?」
案の定、怒り狂うシャントルイユ大佐。だがここで萎縮してはならない。
「と、言われましても、また塗り直すにはペンキが足りませんで……なあリュカ?」
「え? ええ、はい、そうであります大佐殿!」
ニコラとリュカのやり取りを受けて、シャントルイユ大佐が大きく息を吸い込む。雷が落ちる前触れ。首をすくめ、目を細めてじっと待つ。だが、声を詰めた迫撃砲はいつまで経っても破裂しなかった。代わりに降ってきたのは、落ち着いたテノールの美声だった。そこに怒りの色はない。
「なあニコル」部下への思いやりにあふれた声。「きみは勇敢で熟練した飛行機乗りだ。仲間を気遣い、基地の人間のみならず周辺の住民に慕われてもいる。そんなきみが、ただ目立ちたいがためにこんなことをしたとは思えんのだ。なにか理由があって、こんなことをしたんだろう?」
これだ、と二コラは思う。厳めしい顔つきのシャントルイユ大佐が不意に見せる優しげな声と表情に、大抵の人間はついついほだされてしまう。融通は利かないが、筋の通った人として敬愛される彼のような人物でなければ、曲者揃いの飛行機乗りどもを御しきれないのだ。
胸の内で温めてきた『計画』を打ち明けるべきか、迷う。大佐の性格、立場からすると賛同してくれる確率は低いが、万が一ということもある。第一、白状しないことには格納庫の扉の前から動いてくれそうにない。覚悟を決めて、口を開こうとした、その瞬間。
敵機の襲来を知らせる鐘が割れんばかりに打ち鳴らされた。
「大尉! 話は後だ!」
シャントルイユ大佐はさっと表情を変えると、司令部に向かって走り始める。それと入れ替わりに現れたのは、同僚のロランだった。大佐の後姿を見送ると、いたずら小僧のような笑みをこちらに向けて親指を立てる。彼の顔を見て、ニコラは大体の事情を察した。
「いいのか? バレたら仲良く営倉送りだぞ」
「なあに、今日はクリスマスだ。大佐のために、ケーキとシャンパンは用意したさ」
「用意のいいことだ。俺の分も取っといてくれよ」
「ああ、任せとけ。行ってきな」
「恩に着るぜ」
気心の知れた仲間との、気安いやりとり。軍隊ってのも悪くない、と思えるのはこんな瞬間だ。空では助け合えないからこそ、飛行機乗りたちの地上での絆は強い。彼らへの恩に報いるためにも、いまこの瞬間を逃すわけにはいかなかった。愛機に飛び乗り、リュカがプロペラを回すのに合わせてエンジンを始動させる。
「さあて、二コラおじさんの出撃だ。可哀想にクリスマスだってのにドンパチやってる前線の兵隊どもにプレゼントを届けてくるとするぜ、ホッホーウ!」




