航路 八
「えー、ソニア帝国領パーチ州っと……」
私は呟きながら、パーチ諸島のガイドブックをめくっていく。
さすがは「太平洋の至宝」、「地上の楽園」などと呼ばれている世界有数の観光地。図書室のテーブルに置いたガイドブックの厚さは、まるで辞書のようだ。
「――お、あった」
探していた項目を見つけると、
「これが、マナ島」
隣の椅子に座るオーブが、私の開いたページを覗き込んできた。
「パーチ諸島の中では、この島が一番大きくて、発展しているんですよね?」
「そうだよ」
オーブに笑顔で応じたのは、私の対面のディランさんだ。
「マナ島の人口は三十万人ほどだけど、西岸部にはパーチ州の州都、パダム市などもある」
ディランさんの言葉を聞いて、私はガイドブックに視線を落とす。
昨日は特に何事も無く、船がカイント港を出てから今日で五日が経った。
そして六日目の明日の早朝には、いよいよ寄港地であるマナ島に到着し、船が補給を受ける間、乗客は半日程度、自由行動をとることができるのだ。それは、私の他、全員が楽しみにしていた、この航海最大のイベントだった。
「ディランさん達がロングランドへ来る時に乗ってきた客船も、途中でマナ島に寄ったんですよね。どんなところでしたか?」
私が質問すると、ディランさんは図書室の窓に目をやった。
自分達のいる席からは、朝日を受けて輝く海が見える。
「そうだなぁ。群青色の海に囲まれた美しいビーチとか、島の南部で今も活動中のキエーラ火山とか、とにかく雄大な自然に圧倒される場所だよ」
「はぁー、もーすっごく魅力的です」
相手の話だけでウキウキしてきて、私はまだ見ぬ異国の島の光景を想像した。
「アヤさんとロゼッタさんは、無事に申し込めているかな」
「受付は今日の夜までだから、大丈夫ですよ」
私はディランさんと喋りつつ、テーブルの上のツアー案内書を手に取る。
――マナ島は初めてで、どこに行けばいいのか迷ってしまう。
そういった私みたいな人の為に、アムリーテでは島の名所などを回るバスツアーを用意していて、時間内に効率よく観光ができるようになっていた。
それに全員参加することを昨日決めて、現在、ロゼとアヤさんが受付のフロントで申し込みをしているが、何も問題はないはずだ。こっちはこっちでツアーの下調べをしに船の図書室に来ているんだから、しっかり見所を押さえとかなきゃいけない。
「八月、九月のマナ島は平均気温が三十度を越える、か。やっぱり暑いですねぇ」
私はガイドブックの記述に、軽く顔をしかめた。
出港初日とほぼ同じ格好をした今の私達だけど、これ以上の薄着は難しいので、明日も似たような服装でマナ島へ行くことになるだろう。
わかっていたとはいえ、暑さは覚悟しないとダメか。
「ああ、屋外の気温は高いね。でも、建物の中は強すぎるくらい空調が効いている場合があるから、上に着られる服とかも持っていった方がいいよ」
「本当ですか?」
ディランさんのアドバイスに、私は少しびっくりした。
涼しいのはありがたいけど、温度差にやられないよう気をつけないとな。
「クリスさん、ここなんですが……」
「んー?」
声をかけられて、私はオーブが指差すページを凝視する。
そこには、パーチ諸島の歴史や文化が記されていた。
「古代文明の時代。マナ島を含めたパーチ諸島は、ハワイという名前がつけられていたとありますが、これは事実なんでしょうか?」
文章を読み上げたオーブに、私は小首を傾げる。
「事実だけど、知らなかった?」
「は、はい。すみません」
オーブは、恥じ入るように答えた。
そういや、この子、古代文明の国などには詳しくない感じだったな。
「別に謝らなくていいわよ。ちょっと待ってね」
私はオーブに言って、ガイドブックと一緒に持ってきた立派な地図帳に手を伸ばす。その目次を確認すると、巻末に目当ての資料があった。
「ほら、見てごらん」
私は、オーブの前に開いた地図帳を置く。二ページに渡って、陸地は白く、海は黒く色分けされたそれは、一見ただの世界地図だけど……。
「これは、古代文明の時代の地図。一般的に旧世界地図って呼ばれているもので、当時の国の名前とかが載ってるわ」
「旧、世界地図。こんなの初めて見ました」
オーブはそう呟いて、大きな目を瞬かせた。
「――古代文明の時代だと、ロングランド共和国は、日本。ソニア帝国は、アメリカ合衆国という名前の国だったんですか」
旧世界地図の複写物はさして珍しくないから、記憶を失う前に見ている可能性もあるが……。しげしげとページを眺めていたオーブが、顔を上げた。
「でも、現代と名称が変わっていない地域もあるんですね」
「あー、今の国名、地名って、ソニア国を出た昔の人が、行き着いたその土地の印象とかで名付けちゃった場合が多いでしょ。んで、遺跡の調査が本格化して、こういう古代文明の地図や書物が発見されるようになった近代以降、判明した当時の名称の方が昔のモノよりふさわしいと考えて、そっちに名付け直す地域も出てきたのよ」
「だから、古代文明の時代と同じ名称があるんですか」
私の話に納得した様子のオーブが、地図の端の注釈文を指でなぞった。
「西暦、二千年の世界……」
「それ、地図が作られた年代だけど、あんた西暦がなにかはわかる?」
意外と知識に穴があるっぽいので訊いてみると、
「はい、古代文明で広く使われていた紀年法ですよね」
正しい答えを言ったオーブが、急に表情を引き締めた。
「あの、西暦二千年以降の旧世界地図ってないんですか?」
「……残念ながらね。現存していない理由はよくわかってないが、今まで発見された古代文明の書物などは大半が十九世紀と呼ばれた時代以前のもので、それ以降のものはほとんど発見されていない。そもそも書物自体、ごく稀にしか見つからないことを考えれば、比較的新しいこの地図はとても希少な存在で、今後も同様のものはなかなか発見されないだろう」
思案顔で話したディランさんを、オーブがじっと見つめた。
「では、古代文明が滅んだ時、アメリカという国が存在したかどうかは不明なんですね」
「アメリカ? う、うん。存在したかもしれないけど、情報が無くて、古代文明が滅んだ当時の世界にどんな国があったかは定かになってないんだ」
私はディランさんの返事に首肯しつつ、頭を捻る。
「地層の堆積速度とかで推定された結果によると、古代文明が滅びたのは、西暦二千三百年頃だったと言われている。三百年経てば、地図にある国がなくなっていてもおかしくはないわよね」
「まあね。しかし、アメリカがどうかしたの?」
私に同意してから、オーブに問い掛けたディランさん。
確かに、注目している理由が謎だ。
「えっと、わたし、地図を見ていて黒き翼の話を思い出したんです。それで、もし本当に戦争を起こした国があったのなら、一体どこだったのか気になって……」
「そういうことか」
ディランさんは、オーブの返答に溜息をついた。
少女の考えは理解したが、微妙に重苦しい空気だ。もっとも、こうなることは予想できたのだろう。神妙な面持ちのオーブが、私とディランさんを交互に見た。
「黒き翼の人達は、なぜか具体的な名前を挙げませんでしたが、戦争を起こした国がどこか把握しているはずですよね?」
「そりゃあね。私もどこかは知らないけど、ここだっていう確信があるから、あんな主張をしてんでしょ。じゃなかったら、メチャクチャ過ぎるわよ」
私が肩を竦めた時、
「その国の名前は、ヘリオス合衆国というんだ」
ディランさんが、ぽつりとそう呟いた。
「ヘリオス合衆国?」
私とオーブの声が重なって、ディランさんはさらに言った。
「建国時期などは明確にされていないが、国名からわかる通り、ヘリオス合衆国……通称ヘリオスはアメリカ合衆国が前身となった国さ」
「な、なんでそんなこと知ってるんですか?」
私は、単純に驚いていた。
少なくとも、自分は聞いたことのない話だ。
「昔、黒き翼のテロに巻き込まれて、僕の……友人が、ひとり亡くなっているんだ」
「――ッ」
目を伏せたディランさんの言葉に、私は息をのんだ。
「それ以来、はっきり言って、僕は黒き翼を憎んでいる。何故、あの人が死ななければならなかったのか、答えを求めて連中のことを色々と調べもした。その過程で、ヘリオスの情報などを知ったんだよ」
静かに語ったディランさんが、そっと胸の辺りを手で押さえた。
亡くなった相手を想って、心が痛んだのだろう。
黒き翼に敵意を持っているのは感じていたけど、こんな事情があるとは想定外で、私は何も言えずに黙り込む。オーブもまた無言で、悲しげな瞳を揺らしていた。
余計な気を遣わせない為に明かしてこなかったが、黒き翼との関わりを隠すつもりはなかったし、自分の調べた情報を私達の役に立てたいと思った。
そう続けたディランさんの話によれば、ヘリオスは旧世界地図でいうところの南と北アメリカ大陸をあわせた広大な領土を持ち、技術力をはじめ、軍事、経済など、あらゆる面で世界をリードしていた超大国だったらしい。
ヘリオスは、まさしく現在のソニア帝国みたいな存在だ。しかし、そんな国と、当時世界を二分する大国が存在した。こちらも建国時期は不明だが、主にユーラシア大陸の国々で形成された、ユーラシア連邦共和国がそれだ。
両国は、様々な問題から対立関係にあった。そして、何かのきっかけで、ついにヘリオス側が戦争を始めてしまったそうだけど……。もちろん、ヘリオスやユーラシア連邦共和国なんて国が実在した証拠は一切ないという。
「あまりに馬鹿げた空想だが、黒き翼ではヘリオスの情報などを極秘扱いとしていて、教徒以外の者に教えることを固く禁じているんだ。拉致された際、連中が僕達に戦争を起こした国の名前を明言しなかったのは、その為だろう」
「もう、なんかすごいですね」
淡々と話をまとめたディランさんに、私は悪い意味での感想を呟いた。
吹聴して回っていたら頭がおかしいとみなされかねないことを、黒き翼の人達は本気で信じているのか。何にせよ、メチャクチャだ。
「僕にわかるのはこれくらいだけど、疑問は解けたかな? オーブさん」
「はい、解けました。ありがとうございます」
オーブは、すんなりとディランさんにお礼を言った。
でも、その表情はどこか冴えなくて、さっきから口数も少ない。
「あんた、まだなにか気になってる?」
「クリスさん……」
私が問うと、オーブは困ったように視線を泳がせた。
「すみません、確証はないんですが……。わたし、ヘリオスという名前を以前にも聞いた気がするんです」
「えっ、そうなの?」
私は、オーブの答えに眉を寄せる。
どういうことよ。
まさか、この子、黒き翼の関係者だったり……。いや、そこまで勘ぐらなくても身近にあるじゃないか、ヘリオスって名前を耳にする機会が。
「もしかして、あんた、ギリシャ神話で知ったんじゃない?」
「ギリシャ神話?」
怪訝な顔で私を見たオーブは、心当たりがないようだ。
「ギリシャ神話は、古代文明の時代に伝わっていた神々の物語よ。かなり昔にそれらを記した書物が発見されていて、今じゃ複製品も大量に出まわっている。私も読んだことがあるんだけど、その中にヘリオスっていう名前の太陽神が登場するの」
「神話に登場する、神……」
「うん。で、あんたも複製品の本とかを読んでいたから、名前に聞き覚えがあったんだと思うのよ」
私の考えに、オーブは複雑な表情で小さく唸った。
思い出すことがあるかもと期待しながら説明してみたけど、反応は芳しくないな……。
「聞き覚えがあったわけは、僕もクリスティアさんが言った通りだと思う。ちなみに、黒き翼の情報によると、ヘリオス合衆国は話に出た太陽神にあやかって国名がつけられたそうだ」
「あ、やっぱり」
私は、会話に加わってきたディランさんに視線を移す。
関係がありそうだとは思ったが――。
「どうして、あやかったりしたんでしょう? 理由もなく、神話の神を崇めていたはずはないですよね」
「当時も今も、人類の活動を支えているのは発電所が供給する電力だ。ヘリオスを建国した人々が崇めていたのは、その源たる太陽で、太陽神の名は言わば便宜的に用いられたモノだったらしい」
落ち着いた口調で答えたディランさんが、旧世界地図の北アメリカを指で示した。
「ただ、改めて言うけど、ヘリオスなんて国が実在した証拠はない。嘘をつく時、真実を混ぜればバレにくくなるのと同じだよ。現実でも、発電所が復活した近代になって、帝国を中心に太陽を信仰する動きが広まっていった。やがてそれはソニア教と結びつき、同教のシンボルにもなったという歴史がある。その史実などを模倣し、いかにも実在したように作られた架空の国家が、ヘリオスなのさ」
「……なるほど」
嘘のくだりにドキッとしたけど、私は取り澄ました態度で納得する。
その時、視界の端に映る部屋の扉が開いた。
「なん、だ?」
ディランさんの戸惑ったような声が、私の心境を完璧に代弁した。
図書室に入ってきたロゼとアヤさんが、こちらに向かって歩いてくる。
それはいい。
でも、二人の後ろに、なんでスーツ姿のウィリアムさんがいるのか。
「――お待たせ」
「い、いえ」
立ち止まった三人のうち、口を開いたアヤさんに、私はとりあえず言葉を続ける。
「早かったですね、ツアーの申し込みは済んだんですか?」
「それが……」
アヤさんは言いかけて、傍のロゼ達に目配せした。
なんなの? 皆、硬い表情しちゃって。
「とにかく、座ってくださいよ」
私が手振りを交えて促すと、アヤさんは空いている椅子に腰を降ろした。ロゼとウィリアムさんもそれぞれ座って、私達は四角いテーブルを囲むように向かい合う。他に数人しか乗客がいない室内の静けさもあってか、ちょっと異様な雰囲気だ。
「まずな、明日のマナ島観光ツアーは、中止になったんだ」
ロゼがおもむろにそう言って、私は耳を疑った。
「……冗談でしょ?」
「いや、本当だ。私とアヤさんがフロントに行った時には、すでにその旨が発表されていた」
絶句する私の前で、ディランさんが若干ロゼの方に身を乗り出した。
「一体、なぜ?」
「それについては、私が話しましょう」
声をひそめて応じたのは、ウィリアムさんだ。
その相手を、ロゼが横目で見た。
「午後に船長から説明があると繰り返すばかりで、フロントではツアーが中止になった理由はまったくわからなかった。そこで私達は、事情を知ってそうな兄さんを探して、何かあったのか聞いてみたんだ」
「思った通り、バーンズさんは事情を知っていたわ。それを、皆にも教えてほしいと頼んだら了承してくれて、私達は一緒にここにきたの」
「そうだったんですか」
私はアヤさんの話に頷き、ウィリアムさんの言葉を待つ。
……と、相手もこちらに視線を向けてきた。
「クリスティアさん、オーブさん。先日の夜に会った際、俺が船長に呼ばれたのを覚えているかい?」
「はい、覚えてますよ」
「わたしもです」
ウィリアムさんの質問に、私とオーブは迷うことなく答えた。
あの夜の出来事は、ロゼ達にも簡単に伝えてあるけど……。船長さんの呼び出しとツアーが中止になったことが、何か関係しているのか。
「あれは、マナ島の海岸局から入った、無線連絡を知らせるものだったんだ。それによると、なんらかのトラブルが発生した為、現在、島に唯一存在する発電所が、稼働を停止しているらしい」
「――え?」
ウィリアムさんの発言に、私は一瞬、頭が真っ白になった。
「島に唯一と言ったが、パーチ諸島に存在する発電所はマナ島の一基しかない。それが停止した影響によって電力が不足し、今のパーチ諸島はほぼ全域で停電が起こっているようだ。各島内は大変混乱していて、無線では帝国本土の軍が出動する事態になったと言っていた」
言葉を切ったウィリアムさんが、重々しく息を吐く。
その口調が事務的だったのは、こちらが冷静でいられるように配慮したからだろう。でも、正直、私は動揺しっぱなしで、オーブとディランさんも驚きを隠せない様子だ。
「マナ島は、もはや観光ができる状況にない。ツアー中止の発表などが今日まで遅れたのは、情報収集に手間取ったからだが……。それでもいまだに不明な点が多すぎて、船の人間も対応に苦慮している」
言い終えて、数度、頭を振ったウィリアムさん。
そこに、私は気がかりだったことを口にした。
「……っと、確認したいんですが、この船ってマナ島で補給とかを受けなきゃ、帝国本土まで航行できないんですよね?」
「その通りだ、クリスティアさん。特に、船を動かす為には電池の充電を行わなければいけないが、今のところ、補給の目処は立っていない」
「つまり、船がマナ島で長期間足止めを食う可能性も、十分考えられるわけですね」
深刻な表情で言ったディランさんに、ウィリアムさんが頷く。
「ええ。そういった事情なども、後ほど船長が説明することになっています。それまで混乱を避ける意味でも、ここで聞いたことは内密に願えますか?」
「わかりました」
私はウィリアムさんに即答し、オーブとディランさんも同様の返事をした。
他に応じようがなかったのは、全員同じだろう。
続けて、ウィリアムさんは今回の事態で色々迷惑がかかることを謝ってきたけど、船側にはなんの責任も無いと私達は声を揃えた。
しかし、これから、どうなってしまうのか。先が見通せない不安な状況とは対照的に、窓の外には、すっきりとした青い空が広がっていた……。




