航路 六
「やあ、ロゼ」
楽しそうな声が飛び交うプールサイドを歩いてきて、私達の前で立ち止まった男性。ロゼに「ウィル兄さん」と呼ばれた人が、親しげに片手を挙げたけど……。
これ、どう反応すればいいのよ。
私は困惑しつつ、水着姿のロゼの背中を見やる。
「みんな、どうかしたの?」
声をかけられて視線を移すと、私の後ろにディランさんが佇んでいた。結局、プールには入らず、本を読んだりしていた相手だが、男性に気づいて話を聞きにきたようだ。
「アヤさん、そちらの方は?」
「ええと……」
不審げなディランさんの問いに、立ち上がったアヤさんが思案顔を浮かべた。
この人は、男性が誰か知っていてもおかしくない。
「クリスさん。あの人、ロゼさんの?」
そう訊いてきたのは、私の横に立つオーブだ。
以前に所長室で名前が出たりしたから、この子も男性が何者かわかったのだろう。
「多分、ね。ちょっと、ロゼ」
「――あ、ああ」
私の呼び掛けに振り返ったロゼ、その表情は明らかに動揺している。
そこに、男性が笑い声をあげた。
「すまない。俺の所為で、ずいぶんと驚かせてしまったらしい」
「っ、兄さん、話があります」
「わかったが、待ってくれ」
ロゼの言葉を遮った男性が姿勢を正し、私達に青色の目を向けてきた。
「はじめまして。ご挨拶が遅れましたが、私はロゼッタの兄の、ウィリアム・バーンズと申します」
丁寧な口調で喋った男性が、スーツの懐から名刺を取り出した。
「皆さんのお噂はかねがね伺っております。クリスティア・ライトさんには、いつも妹がお世話になっていますね」
「い、いえ。こちらこそ」
私は差し出された名刺を受け取り、皆と目を通す。そこには名前の他、ネレイース商船という会社名や国際事業担当部長といった肩書が記されていた。
本当に、この人がロゼのお兄さんの一人なんだ。
今まで話とかは耳にしてきたけど、実際に会うのは初めてね。
「私や彼のことも、ご存知なのですか?」
意外そうに言ったアヤさんが、硬い表情のディランさんを手で示した。
「ええ。帝国大学付属フェザー生態研究所のアヤ・フォスターさんと、ディラン・キングさんですね。そちらのお嬢さんは、オーブ・ライトさんかな?」
「は、はいっ」
すらすら答えたウィリアムさんに笑いかけられ、オーブは慌てたように返事をした。
なんか凄いが、色々と不可解だ。
「なぜ、兄さんがここに?」
私の抱いた疑問の一つを、ロゼがやや厳しい口振りで切り出した。
問いに、ウィリアムさんは肩をすくめる。
「仕事で帝国へ行くことになってね。今は移動中というわけだ」
「しかし、前に会った時は一言も……」
「あの後に決まったことだからな」
淡々と応じる相手を、ロゼは強張った顔で見据えた。
そして、何かを確信したように口を開く。
「それは、父の指示によるものですか?」
「……ああ。お前がこの船に乗るのを調べて、同乗するよう手配したのも親父だ」
若干、間を置いたウィリアムさんの返答に、ロゼの目つきが鋭くなった。
これは、穏やかじゃないわね。
「父は、どういうつもりで……」
ロゼの低い呟きに、ウィリアムさんは苦笑した。
「今回の仕事は、前々からやらなければいけないことだった。俺はそれを片付けるように言われたんだが、同時に、帝国へ向かう道中でお前の様子を見たりしてこいと頼まれている。その為に、仕事を急かされたとも言えるな」
「私を気にかける必要はないと、話はしたのでしょう?」
ロゼは不機嫌さもあらわに言って、自分より背の高いウィリアムさんを睨め上げた。
「話したよ。が、不安の解消には至らなかったんだろう」
やんわりと答えたウィリアムさんが、数度、頭を振る。
「テロ事件に巻き込まれたばかりの娘が、黙って半年も海外に行ってしまう。それを思えば、親父がお前をしつこく心配するのも無理はないさ」
そりゃ、当然だ。
ウィリアムさんの言葉はもっともで、私は内心頷く。しかし、ロゼは、
「まったく、余計なお世話だ……」
吐き捨てるように、そう呟いた。
瞬間、私はカチンときた。
「あんた、縁を切ったからって、心配してくれる親にそんな言い方はないでしょ」
「く、クリス?」
ハッとしたロゼ。今は他の人もいるし、元々、家の問題にはあまり口を出すまいと思ってきたが……。私は皆の視線が集まった中で、静かに話を続ける。
「こういう時は、相手の気持ちを受け入れて素直に感謝しなさい。第一、本当は関係を修復したいって考えているのに、いつまでも意地を張ってちゃダメよ」
「……ッ」
唇を固く引き結んだロゼを、私は気まずい心境で見つめた。
自分も余計なことをしてしまったか。ただ、私の言葉がロゼの本心なのは間違いない。それは常々感じていたから、ひねくれた態度をとった相手に腹が立ったんだ。
「ふむ、真摯に受け止めるべきコメントだな」
そうこぼしたウィリアムさんが、ロゼに含みのある笑みを向ける。
「まあ、安心してくれ。色々頼まれたが、俺はお前になにか干渉するつもりはないんだ」
「……兄さん。それで、いいんですか?」
「ああ、親父には俺から上手く言っておく。お前はやりたいことを自由にやればいい」
優しい言葉に、ロゼは神妙な顔で目を伏せた。
同時に場の空気が和らいで、アヤさんやオーブと一緒に、私はホッと息をつく。
取り敢えず、大事にならなくて良かった。
噂通り、ウィリアムさんはロゼの味方らしい。
「そもそも、俺はお前に接触する気さえなかった。偶々、仕事で来たプールに皆さんといたから、今は声をかけておいたんだ」
続けられたウィリアムさんの話が、頭に引っ掛かった。
「仕事ですか?」
私の質問に、ウィリアムさんが後ろを振り返る。視線の先にあった建物は、更衣室だ。気づかなかったが、その脇に数人の船員が立っていた。
「この船の視察も今回の仕事に含まれていまして、運航設備などに問題がないか、あそこの乗組員と確認作業を行っているところなのです」
あっさりとしたウィリアムさんの説明に、一同慌てたわ。
相手は仕事中で、他にも人を待たせていたのか。
「時間を取らせてすみませんでした。兄さん、どうぞ作業に戻ってください」
「あー、邪魔になったりしても悪いから、私達、もうプールを出ない?」
私がロゼに話しかけると、
「お昼も近いし、そうしようか?」
「それがいいわね」
ディランさんとアヤさん、さらにオーブも迷うことなく賛成してきた。
その会話を聞いていたウィリアムさんが、
「お心遣いに感謝いたします。皆さんとは、またお会いする機会があると思われますので、今後ともよろしくお願いします」
改まったように言って、にこやかに微笑んだ。
私達の別れの挨拶に応じた後、ウィリアムさんは乗組員と合流し、甲板の奥でなにやら話し合いをはじめた。さすがバーンズ家の人間というか、容姿、言動共に、文句なくかっこよかったな。
颯爽と去った相手に変な感慨を覚えていると、ディランさんが笑顔を見せた。
「じゃあ、まずは着替えよう」
「え、ええ」
短く答えたアヤさんが、ロゼにそっと目を向ける。わかりやすいくらい、配慮が滲む視線。その仕草を受けて、ロゼは表情を引き締めた。
「――すみません、皆さん。私は家のことで、皆さんに隠し事をしていました。後でそれを話したいのですが、よければ聞いてくれませんか?」
発言に、一瞬、全員が息をのんだ。
……自分から明かす気になったのね。
いや、こんな状況じゃ、明かさない方が不自然か。
「もちろんよ。ぜひ聞かせてほしいわ、ロゼッタさん」
すでに事情を知るアヤさんが嬉しそうに言って、オーブとディランさんも同意する。
そんな様子に、こちらもなにか言わずにはいられなくて、
「……ごめん。いろんなこと、勝手に喋っちゃって」
「いい、クリス。どの道、話すつもりでいたし、さっきは私が悪かったんだ」
ぼそりと謝った私に、ロゼは小さく笑った。その顔を見て、少し心が楽になった時。プールサイドに、正午を告げるアナウンスが流れた。
タンクトップやショートパンツから露出した肌を、涼やかな潮風が撫でていく。
座った船縁のベンチから夜空を眺めれば、そこには無数の星々が煌めいていた。さざ波の音が耳に心地良く、私は込み上げた欠伸をどうにかこらえる。
「――クリスさん、大丈夫ですか?」
「うん、らいじょうぶよ」
私は、ここまで付き添ってくれたオーブに、しっかりと返事をした。
夕食後に皆とバーで飲んでいたら、多少酔いが回ったので、風にあたりに来ただけだ。別に心配されるような状態じゃない。ないんだけど、傍に立つワンピースを着た少女は、あからさまに表情を曇らせた。
「……ダメですね。このまま、ちょっと休んでいきましょう」
「え? あ、あぁ、わかりました」
オーブに断言されて、私は反射的にそう答えた。
休まなくても平気だが、ここは言われた通りにしないとまずい気がする。
「んーと、あんたも座ったら?」
「はい、失礼します」
促した私の隣に、オーブがちょこんと腰を下ろす。
ただ、そこからお互い黙ってしまって、しばし無言の時間が続いた。
夜の静寂を破るように、時折、甲板や船内で乗客の歓声などが起こる。それらを聞きつつ、真っ暗な海を眺めていると、
「ロゼさん達、今は何を話しているんでしょうか?」
唐突に問われて、私はゆっくりとオーブを見た。
「まだ家族のことじゃない?」
「そう、ですよね」
ぼんやりと呟いたオーブは、私みたいに酔っているわけじゃない。ロングランドの法的には問題無いが、この子はお酒を飲んでいないし、飲みたいとも言い出してなかった。
まあ、なんにせよ、私の推測は正しいはずだ。
昼間、自分はバーンズ家の人間だと告白したロゼ。それ自体はすでに全員知っていたものの、改めて明かされた事実にオーブやディランさんは本当に驚き、以降、話題にあがるのは家族のことばかりになっていたから。
さっきもアヤさんとディランさんが、自分達は一人っ子だとか、両親は健在だとかって話をしていた。しかし、当たり前っちゃ当たり前だけど、私は明るい場で、自身の家族の話題には触れられなかった。
家族の話ができないのはオーブも同じで、ああ、そっか……。その辺りのことを考えていて、この子は今、どこか物憂げな雰囲気を漂わせているのかもしれない。
「クリスさんッ」
「なに? あっ」
大きな声にびっくりした私は、急に呼ばれた理由が一発でわかった。
オーブが凝視する船縁の通路を、見覚えのある金髪の人物がこっちに歩いてくる。スーツの上着を脱ぎ、ネクタイも外した姿は、最初に会った時よりラフな格好だが……。
――あれは、ウィリアムさんに違いない。
「ど、どうしましょうか?」
オーブが狼狽えた顔を寄せてきたけど、そう言われてもなぁ。
酔いの所為か、私は妙に落ち着いていた。でも、返答に困っている間に、ウィリアムさんはどんどん近づいてきてしまう。
そして、青い瞳と目が合った。




