航路 五
クロールで泳ぐオーブの指先が、青く塗装されたプールの壁に触れる。
同時にキックの水飛沫がおさまり、水面に静かな波が広がった。
いやはや、あっさりと泳ぎ切ったな。
私は感心して、顔を拭うオーブの前まで泳いでいく。
「やったね」
「――あ、クリスさん」
私が声をかけると、オーブは満面の笑みを浮かべた。
「わたし、プールを往復できましたっ」
「うん、泳ぎ方も良かったよ」
興奮気味に喋った少女へ、私は素直に賛辞を贈る。
一時間半程前に急遽始めた水泳練習だけど、やはりオーブは凄い子だ。最初は水に浮くことも苦労していたのに、基礎的な動作を習った後は見る見るうちに上達して、今やどんな泳法でもそれなりに泳げるようになってしまった。
「えっと、次はどこまで泳げばいいですか?」
そう訊いてきたオーブが、首の後ろでまとめていた黒髪を解く。
練習を始める際に立てた、プールの往復という目標を達成したばかりだが、最早、泳ぐことが楽しいのだろう。ロゼに借りた予備の髪紐で、しっかりと髪をまとめ直す姿からは、「まだまだいくぞ」って感じの意気込みも伝わってくる。
ただ、そんな相手の気を削ぐように、私は小さく笑った。
「今回は、これくらいで終わりにしよっか」
「え、終わり?」
戸惑いの表情を見せたオーブの肩を、私は軽く叩く。
「こんだけ泳げるようになれば、とりあえずは十分だし。無理することもないんだから、そろそろ休んだ方がいいわ」
「そう、ですか。わかりました……」
話を聞いて、残念だと言わんばかりに嘆息したオーブ。
その様子を横目に、私は含み笑いをする。
なんかもう、泳げなかったのが嘘みたいだ。
「――クリス」
不意に背後から声がして、私は視線を向ける。
すると、人で賑わうプールサイドに、呼び掛けてきたロゼとアヤさんが佇んでいた。
練習の邪魔をしないように、離れたところで泳いだりしていた二人が、こっちに歩み寄ってくる。期せずして、しばらくロゼと一緒にいられたアヤさんは、ご機嫌な様子だ。
あの二人、大きな進展とかは無いものの、なんだかんだで着実に親しくなってるよね。
別に、いいんだけどさ……。
「見ていたが、オーブはだいぶ泳げるようになったな」
「上達したでしょ」
私は傍にきたロゼに応じて、水を滴らせながらプールサイドに腰掛ける。同じくプールから上がったオーブが、私の隣に座った。
「はじめはどうなることかと思ったけど、びっくりだわ」
感嘆した様子のアヤさんに笑いつつ、私はオーブの頭を優しく撫でる。
「頑張って練習したもんね」
「い、いえっ。わたしは、そんな……。クリスさんが丁寧に教えてくれたおかげです」
照れたようにはにかんだオーブが、小声でそう呟いた。
手取り足取り教えたのは事実だが、健気で可愛いな、チクショー。
「それで、まだ練習を続けるのか?」
腕を組んだロゼの問いに、
「うんにゃ、とりあえずは十分だし、そろそろやめるかって話をしてたのよ。例えこの船がなんかあって沈んだとしても、今のオーブなら助かるはずだ」
私は、冗談半分で答えた。
ところが計算違い。ロゼとアヤさんは笑って流してくれたけど、一人、不安げな表情に変わったオーブが、私の水着の裾を引っ張ってきた。
「クリスさん。その、またフェザーが襲ってきたりはしませんよね?」
「そりゃ、もちろんよ。ですよね? アヤさん」
慌てて意見を求めると、相手が僅かに顔をしかめた。
「ええ、フェザーが船舶を襲うことはめったにない。それだけに惜しかったなぁ」
「惜しかった?」
私は、なんの話かと眉を寄せる。
「いやね、研究者と言っても実物に出くわす機会はほとんどないから、あの時はフェザーの行動を観察する絶好のチャンスだったのよ。けど、私もディラン君も身を守るのが精一杯で、個体を真面に見ることさえできなかった……」
アヤさんは悔しそうに喋ったが、そんなことを気にしていたのか。
「あの時の状況では、それも仕方ないですよ」
若干、呆れ顔のロゼに、私は半笑いで同意する。
仕事熱心というか、アヤさんも色んな意味で凄い人だな。
「とにかく、またフェザーが襲ってきたりはしないわよ。安心して、オーブさん」
「は、はい。わかりました」
笑いかけたアヤさんに、オーブが表情を緩めて返事をした。
それを見ていて、私はふと頭をよぎった言葉を口にする。
「ただ、他の生物が襲ってくることはあるかもね。例えば、大海蛇とかさ」
「――大海蛇?」
私同様、沿岸警備隊の話を思い出したであろう皆が、驚いた様子で声を揃えた。
「ロングランドじゃ実際に被害も出てるし、あり得なくはないでしょ?」
「……確かにな。遭遇する確率は、フェザーよりよほど高いだろう」
訊いた私に、ロゼは険しい顔で言った。
仮に襲われたら、この船も無事では済まないんじゃないか。
考えてゾッとした時、オーブが小首を傾げた。
「よく知らないんですが、大海蛇って、どんな生き物なんですか?」
「熱帯や温帯を中心とした世界中の海に生息している、硬骨魚類の一種。外見はウツボに似て肉食性。全長は最大四十メートルにもなり、クジラなどと並んで海洋生態系の頂点に位置する存在よ」
質問によどみなく応じたのは、アヤさんだ。
その答えは的確だったが、オーブは怯えたように黙り込む。
うむ、フェザーほどではないけど、恐ろしい化物だよね。
私が少女の心中を察すると、
「でも、わからないのよねぇ」
そう呟いたアヤさんがプールサイドに座って、白い素足を水につけた。
「獰猛な印象がある大海蛇だけど、実はおとなしい性質で、基本的に船のような相手は襲ったりしないのよ。なのに、何故ロングランド近海で襲撃が相次いだのか不思議だわ。縄張りで何か争いがあって、気が立っている個体とかがいたのかしら」
「大海蛇って、おとなしかったんですか……」
アヤさんの話に、私は驚いていた。言われた通りの印象があったけど、違ったらしい。
「私も知りませんでした。アヤさん、フェザー以外の生物のことも詳しいのですね」
「え? んー」
ロゼの真っ直ぐな眼差しを受けたアヤさんが、一瞬、間を置いて微笑んだ。
「むしろ逆で、私はフェザー以外の生物の方が詳しいのよ。子供の頃から生き物が好きで、そういうモノに関われる研究者を目指しながら、これまで様々な動物の生態を学んできたからね」
「ほー、そんな経緯が」
「フェザーだけが専門ではなかったわけですか」
私は説明に頷き、ロゼも納得の表情を浮かべる。
……と、アヤさんが、なにか意地の悪い笑みを口元に貼りつけた。
「現在地はロングランドのはるか東だし、本来、心配する必要もないんだけど、大海蛇に襲われる可能性はなくはない。彼らは夜行性だから、もしかして、今夜あたり……」
「グワッと出てくるかもよ!」
「――っ」
不穏なアヤさんの言葉を継いで、私はおどかすように叫んだ。こう、乗っていける流れだったから、ついやっちゃったんだ。しかし、一言も発せず、本当に愕然としたオーブの顔を見て、すぐさま後悔する。
「あ、ごめ――」
謝りかけて、私は強い力で背中を押された。
声をあげる間もなく、視界にプールの水面が迫る。
直後、衝撃を受けた全身が浮遊感に包まれた。
や、やりやがったな。
ふざけ過ぎた手前、乱暴なつっ込みにも文句は言えないけど……。私は水中で歯を食いしばりつつ、プールの底を蹴った。
「あにすんのよ、ロゼッ」
ずぶ濡れで立ち上がった私は、プールサイドの相棒を睨む。
笑うアヤさんと、おろおろしているオーブの後ろから、冷ややかな視線を向けてくるロゼ。私をプールに落とせたのは、こいつだけだ。
「まったく、自分の胸に聞いてみろ」
「ふんっ。あんまり無いから、わかんないよーだ!」
ぼそりと言ったロゼに対し、私は自虐ネタで反論した。まあ、胸が小さいのを悩んでるなんて誰も知らないので、いまいち通じてないが。
「はいはい、二人とも落ち着いて」
「そ、そうですよ。ケンカはいけません」
アヤさんとオーブが交互に喋った中、私は髪を振って、再度プールサイドに上がる。ロゼが反省を促すように目配せしてきたけど、プイッと顔をそむけてやった。
「――中々、愉快な人達みたいだな」
その朗らかな声は、聞き覚えのないものだった。
ロゼの後方から、見知らぬ長身の男性が一人、私達に近づいてくる。
声をかけてきたのは彼に違いない。紺のスーツを着崩した、会社員風の人だ。髪は長めの金髪で、彫りの深い精悍な顔立ちをしている。年齢は二十代前半くらいだろう。
訝しげなアヤさんとオーブを見る限り、二人の知り合いでもないが、一体……。
「ウィル、兄さん」
「は?」
男性の方を向いていたロゼの呟きに、私は呆気に取られた。
ウィル兄さんって――。
まさか、この人、ウィリアム・バーンズさんか。