航路 四
一足早く水着を着て外に出た瞬間、照りつけてきた眩しい光に、私は目を細めた。
雨が降ってしまった為、船内で過ごすしかなかった昨日と変わって、出港三日目の今日の天気は快晴。青空に輝く太陽のおかげで、まだ午前中だが、船上は汗が滲む暑さだ。
私はタオルを手に持ち、熱せられた木の甲板を素足で歩いていく。
この暑さ。普段なら服がまとわりついたりして、うっとうしい事この上ないだろう。
でも、これからプールに入ろうって時には、むしろ気持ちの良い陽気に思える。
老若男女を問わず、それなりの人数が集まった甲板に、水飛沫の音と歓声が響いた。
「クリスさん、まってください」
そこに、少女の声がして、私は後ろを振り返る。
見えたのは、男女別の更衣室から出てきたオーブだ。
同じワンピースタイプ。ただ、私のオレンジ系の色と異なり、白地の胸元から下半身へ紫のグラデーションがかかった水着を着たオーブが、小走りで駆け寄ってくる。そのまだ幼く可憐な容姿に、少し大人っぽい色合いの水着が絶妙にマッチしていて……。
「なんつーか、いいわね」
「なにがですか?」
私の呟きが、聞こえたらしい。
傍で立ち止まったオーブが、上目遣いに尋ねてきた。
「ああ、あんたの水着姿が可愛いなって思ったの」
更衣室でも言ったことだけど、私の返答にオーブの顔が赤くなる。
「もう、そんなに褒めても何も出ませんよ」
ツンと目をそらした少女の仕草が可笑しくて、私は小さく笑った。
今朝、晴れ渡った空を見て、船の十一階にあるプールに行くことを決めた私達だが、全員、水着を持ってきていないのが問題となった。
それは、レンタル品が用意されていたことで解決したんだけど、その数が半端ではなく、様々な種類の中から好みのモノを選ぶだけでも一苦労で……。オーブなどは「色々ありすぎて、どれがいいかわかりません」と途方に暮れてしまい、結局、私に選択を任せてきて、今の水着を身に着けることになっていた。
「いんや、ホントに可愛いわよ。我ながら、いい水着を選んだわ」
私が冗談で自画自賛すると、オーブはくすりと笑みを漏らした。
「クリスさんの水着だって、すごく素敵です」
「そう? ありがと」
私は素直に喜んで、オーブに笑顔を返す。
自分のも相手のも、似合うと直感した。理由はそれだけだが、改めて客観的に判断しても、選んだ水着に失敗はないだろう……おや?
私は何気なく、オーブの胸元に視線を向けた。
個室で着替えられた更衣室では見れなかったが、この子の裸を、私はすでに目にしたことがある。あの時は何も思わなくて、今までも気にしてこなかったけど、なだらかに膨らんだ胸は、よく見ると結構大きい。十二歳程でこれなら、将来性も十分に感じる。
「クリスさん? 溜息をついて、どうしたんですか?」
「……ちょっとね。不公平な世の中に思いを馳せてたの」
困惑顔のオーブに、自分でもわけのわからないことを言った時。更衣室の扉が開いて、数人の女性と一緒に、タオルなどの荷物を持ったロゼとアヤさんが姿を現した。
下着に近いツーピースタイプの青い水着を着たロゼが、私達に手を振ってくる。その格好は、潮風に揺れる金髪のポニーテールと相まって、なんとも爽やかな印象だ。
アヤさんもロゼと同タイプの水着を着ているが、こちらの色は黒。セクシーでありながら派手すぎないデザインが、見事なプロポーションをより一層引き立てている。
今更だけど、あの二人もハイレベルな美人さんだなぁ。
「待たせたな。クリス、オーブ」
「別に待っちゃいないって」
私は、目の前まできたロゼに明るく応じた。
「なら良かった。それにしても……皆、肌が白くて綺麗ね」
うっとりとした表情でそんなことを呟いたのは、ロゼの横に立つアヤさんだ。
微妙に怖いと思ったのは、私だけか。
「ありがとうございます。アヤさんも綺麗ですよ」
取り敢えず、という感じで返事をしたロゼに、私とオーブも同意する。
「あら、お世辞でも嬉しいわ」
サラッと言って、微笑んだアヤさん。
実際、その肌は綺麗で、緩く波打つセミロングの赤毛が映えている。
野外で仕事をする際は、色々対策を講じてきたので、私とロゼもあまり日焼けとかはしていない。凄いのは何もしてないのに、透き通るような白い肌を保っているオーブだ。
この子と孤児院で生活していたミランダさんが、前に「オーブさんは日焼けしにくい体質みたいです」と言ってたけど、それが本当なら羨ましい限りね。
「ところで、ディラン君とはもう合流したの?」
「あっ、いえ、まだ探してません」
アヤさんに訊かれ、私は辺りを見渡した。
二十メートル四方程のプールを囲むように、幾つものパラソルやベンチが置かれた甲板には、レストランやカフェもあったりして中々の賑わいを見せている。
私達より早く着替えて、休憩できるベンチなどを確保しておくと話していたディランさんだが、どこにいったのかな。
「――いました。あそこです」
目を凝らしていた私の近くで、オーブが甲板の端を指差した。
その先を見やると、一番右側のパラソルの日陰に、こげ茶色のハーフパンツの水着をはいて、上半身に半袖のパーカーを着たディランさんが立っていた。
相手は、私達に気づいてない様子で……。
なんだろう、ワインを飲むようなグラスを四角い木のテーブルに並べている。
「なにをしてるのかしら?」
「行ってみればわかりますよ」
怪訝な顔のアヤさんにロゼが答えて、私達はディランさんの方に向かった。
「――皆、来たね」
「ディラン君、お待たせー」
アヤさんに続いて、私達は声をかけてきたディランさんと気さくに挨拶を交わす。
「どうしたんですか、これ」
私は質問して、ストローがさされた氷入りの飲み物を見た。ちょうど人数分あるグラスのうち、三つには半透明の液体が、残る二つには黄色の液体が注がれている。
「カフェで飲み物を注文したんだけど、ついでだから皆の分も頼んでみたんだ。そこのおすすめだっていうジュースで、味はライチとパインらしい。よければ飲んでみて」
「へぇ、なんかすみません」
私の他、全員がディランさんに感謝しながら、木製のベンチに腰を下ろす。
そのまま希望を言い合い、私、ロゼ、アヤさんはライチジュースを、ディランさんとオーブはパインジュースを手に取って、それぞれ軽くグラスを掲げた。
冷たいジュースの甘味が喉に染み込み、思わず吐息がこぼれる。
「――美味しい」
「こっちも、美味しいです」
飲んだ感想を言った私に、隣のオーブが笑顔を向けてきた。ジュースの味はロゼとアヤさんにも好評で、ディランさんが安堵したような表情を浮かべる。
「クリスさん、お願いがあるんですが……」
「ん、なに?」
私はストローから口を離して、話しかけてきたオーブに応じた。
「あの、わたし、ライチも少し飲んでみたいんです」
遠慮がちに喋ったオーブだけど、お願いってそんなことか。
「私のでいいなら、どーぞ」
「あ、ありがとうございますっ」
嬉しそうに言って、私のグラスを持ったオーブが、ゆっくりとストローに口をつける。
「あぁ、しまった……」
突然、アヤさんが力なく呟いた。
「っ、どうかしましたか?」
何事かと思ったのは皆同じだろうが、いち早く問い掛けたのはロゼだ。
顔を強張らせているその相手に、アヤさんは首を左右に振った。
「ううん、なんでもないわ」
「そうは見えないよ?」
「気にしないで、ディラン君」
訝しむディランさんに笑って答えたアヤさんが、
「それにしても、クリスティアさんとオーブさんは仲が良いわねぇ」
今度は、唐突にそう言った。一体なんなのよ。
「はぁ、そうでしょうか」
私が適当に返事をすると、アヤさんの笑みが悪戯っぽい感じに変わった。
「ええ。今もストローで、間接キスしちゃってたし」
「――ッ」
アヤさんの指摘に、オーブがグラスを置いて小さくむせた。
驚いた様子のディランさんは「大丈夫?」と声を発したが、ロゼは咳き込む少女を一瞥し、無表情でジュースを飲んでいる。なんだ、この状況。
「一昨日の夜なんかは、同じベッドで寝たんでしょ?」
さらに続けてきたアヤさんが、テーブルに両肘をついて指を組んだ。
失った記憶に関係しているかもしれないので、オーブが月を見て変な気持ちになったことなどは、すでに皆に話してある。別段、それで何かあったわけでも無かったが……。
私は半ば呆れながら、口を開いた。
「アヤさん。子供じゃないんですから、間接キスがどうとか、くだらないこと言い出さないでください。オーブもオーブで反応しすぎ、なにを意識してんのよ」
「ふふっ、わかったわ」
「はい、すみませんでした」
笑いを含んだアヤさんの言葉の後に、頬を紅潮させたオーブが謝ってきた。
すると、ディランさんが私達の顔を眺めて、
「まあ、話はそのくらいにして、せっかくプールに来たんだし、皆は泳いできなよ」
執り成すように、言った。でも、なんかおかしい。
「皆はって、ディランさんは行かないんですか?」
「僕も泳ぐけど……。しばらくは、ここで荷物を見ているよ」
ディランさんが、私の問いに答えつつ頭をかいた。
これは、ひょっとして……。
「ディラン君、治ったって言ってたけど、まだ体調が良くないんじゃない?」
私も思ったことを、アヤさんが心配そうに訊いた。
「いや、そんなことはないんだ」
すぐに否定したディランさんだが、正直、疑わしい。
なにせ雨風共に強かった昨日、相手は半日ほど船酔いでダウンしていたのだ。
それが契機となったのか、昨夜、ディランさんは夕食の席にて、自分の身体が弱いことを私達全員に淡々と告げていた。話の内容は知ってたことでこちらに驚きはなく、むしろそういった事情を、その場でアヤさんに明かされたディランさんの方が驚いていた。
ただ、まったく怒ったりはしなかった相手が、穏やかに笑う。
「本当に身体の問題はないよ。だから、気にせず行ってほしい」
「……わかりました」
私は静かに言って、ベンチから腰を上げた。
体調が良くないのに、私達に気を遣い、無理をしていることも考えられるが……。いずれにせよ、ここはディランさんに従うべきだろう。
私と似た一言があって立ち上がったロゼやアヤさんも、同じ気持ちでいるはずだ。
「そうだ。一回くらい、皆で競争とかしてみない?」
泳ぎには自信がある私の提案に、ロゼが挑発的な視線を送ってきた。
「面白い、受けて立つぞ」
「ちょっと二人とも、のんびりしましょうよ」
無いとよく見えないという眼鏡を外し、優しげな印象の増したアヤさんが困ったように眉を寄せる。この人、水泳を含めて運動は得意じゃないらしいので、沈没する船から海に落ちてたら、かなりやばかったのよね。
「あははっ。アヤさんは待っていていいですよ。私達だけ――」
「す、すみません。クリスさん」
私が苦笑したまま言いかけたところに、オーブが口を挟んできた。
「わたし、実は泳げないんです」
「へっ?」
予想もしていなかった、オーブの言葉。
全員の目が丸くなった中、私は、申し訳なさそうに佇む少女を見つめる。
「初耳なんだけど、本当なの?」
「……はい。前に孤児院の皆さんと、海へ行った時にわかったんです。それ以前に水泳をした記憶もないんですが、一度覚えれば身体が忘れないそうなので、わたしはずっと泳ぐことができなかったんだと思います」
「――それは、あり得るね」
暗い口調で喋ったオーブに、ディランさんが首肯した。
確かに、あり得ることで、これもオーブが何者なのかを探る手掛かりになるかもしれない。
しかし、今問題なのは、この子が泳げないという事実だ。
「うし。オーブ、私があんたに水泳を教えるわ」
「ええっ!」
驚きの声をあげた少女に、私は再び言い放つ。
「嫌でも習ってもらうわよ。遺跡があれば、海だろうと山だろうと出向いていく遺跡調査員たるもの、泳げないなんて言ってらんないんだから」
「……やっぱり、そうなんですか?」
「当たり前だ」
問いに即答したロゼを見て、オーブの表情が俄かに引き締まった。
まずいとは思っていたっぽいな。
「泳げないと遺跡調査員にはなれない、ってわけじゃないのよね?」
真面目な顔で質問してきたのは、アヤさんだ。
「一応は、ってか、遺跡調査員になろうとする人は泳げて当然なんで、水泳能力の有無を問われること自体がないんですよ。ただ、仕事に支障をきたすこともあるし、この前みたく船の沈没に巻き込まれたりした場合、生死にかかわる問題にもなるから、オーブには泳げるようになってほしいんです」
「あー、言えてるわね」
私の話を聞いたアヤさんがそう呟くと、オーブが胸の前で両手をグッと握りしめた。
「わ、わかりました。わたし、習ってみます」
「おおっ、やる気になったか」
はっきりと宣言した少女に、私は微笑みかける。
「大丈夫。あんたの身体能力なら、少し練習すれば絶対に泳げるようになるわ」
「だといいんですが……」
自信なさげに笑ったオーブだが、まあ、心配はないだろう。
そう楽観的に考えながら、私はプールへと足を向けた。




