航路 三
「――どうぞ」
「ありがとう。クリスティアさん」
微笑を浮かべたアヤさんが、扉を開けた私の横を通り、客室の中に入ってきた。
「二人とも、こんばんは」
「はい、アヤさん」
部屋のソファに座っていたロゼとオーブが、笑顔でアヤさんと挨拶を交わす。
その様子を見ながら、私は厚い木の扉を閉めた。
「ごめんなさい。お邪魔しちゃって」
「いえいえ、お気になさらず」
私は謝ってきたアヤさんに応じて、部屋のベッドに腰を下ろす。
さてと、話ってなんなのかな。
船内のレストランにて夕食を済ませた後、私、ロゼ、オーブの三人で宿泊する六階の客室に戻ろうとした際、「少し話があるから、あとで部屋にいきたい」とアヤさんに言われたのが、一時間程前だったか。それから、こっちはずっと待っていた次第だが、このあと、どこかへ向かうってわけじゃないだろう。
現在、時刻は夜の九時過ぎで、寝るにはまだ早い。でも、旅の初日ということもあって今日はバーなどに繰り出したりせず、全員、ゆっくり休む予定になっているし……。
「――うん、聞いた通りか」
眼鏡越しに部屋を見回していたアヤさんが、安堵したように言った。
「なんのことでしょうか?」
問い掛けたロゼと共に、オーブが首を傾げる。
私も、なんのことだかさっぱりだ。
「ああ、夕食の時に部屋の話をしたじゃない」
アヤさんは眼鏡をかけ直して、壁際にある二つのベッドを指差した。
「ソファが簡易ベッドになるから、三人まで泊まれるって言ってたけど、やっぱりここは二人部屋なのよね」
「え、ええ。そうですね」
意味を理解して、ひとまず頷いた私は、自分の周囲に視線を向ける。
シャワーやトイレに加えて空調まで完備されている、薄茶色を基調とした落ち着いた雰囲気の室内。その窓からは海が一望できるなど、ある一点を除けば、まさに高級ホテルを思わせる良質な部屋に私達はいる。
しかし、こんな部屋もこの船では最も標準的なタイプの客室で……。大使館が手配したという、アヤさんとディランさんがそれぞれ宿泊する七階の上級客室は、さらに内装とかが豪華らしい。
「アヤさん、わたし達の部屋の様子を見に来たんですか?」
怪訝そうにオーブが訊くと、アヤさんは苦笑した。
「それもあるんだけど……。皆、この部屋、狭く感じてない?」
アヤさんの問いに、私は眉をひそめる。
部屋の唯一の難点をズバリと指摘してきたが、そう言われたところで反応に困るのだ。
「まあ、狭いっちゃ狭いですね」
「そうよねっ、クリスティアさん。ロゼッタさんはどう?」
「――は?」
アヤさんに勢いよく話しかけられたロゼが、びっくりした顔で口を開いた。
「その、狭いとは思います。ただ、本来、二人用の部屋を三人で使っているので、それは仕方がないことかと……」
現状を的確に説明したロゼは、他に何を喋っていいかわからなかったんだろう。
首肯したアヤさんの質問の意図も不明だけど、取り敢えず、事務所が取ってくれたこの部屋が狭いのは事実だ。持ってきたトランクとかの荷物は収納スペースに入れたものの、小物類は机の上や部屋の隅に置かれていて、それがまた狭苦しい印象を強めてる。
ここに限らず、アムリーテの客室は、基本的に全て二人部屋となっていた。だから三人で宿泊する場合は、それが可能な部屋を一つ取るか、部屋を二つ用意するしかない。そして、事務所は前者を選んだ。その選択に私達が関わる余地はなかったが、後者だと余計にお金もかかってしまうので、ある意味当然の結果だ。
「仕方なくても、帝国までは長旅だから色々大変でしょう? 誰か一人はソファで寝なきゃいけないわけだし、ちなみに今日は誰なの?」
「今日は、ロゼですね。明日は私で次はオーブと、ソファに寝る人は日替わりで交代していこうって、前に話し合って決めてたんです」
心配そうなアヤさんに、私は不可解な気持ちで応じた。
心遣いはありがたいけど、部屋のことは今更どうしようもない。
それは、相手だって承知しているはずだが……。
「えっと、私達、別に不満は無いんですよ。タダで船に乗れてるのに、この上、もっと良い部屋に泊まりたかったとか文句をつけたら、上司や同僚に怒られちゃいます」
私はアヤさんに言って、鋭く目を光らせるエイミーさんの姿を思い出す。
「でも、できれば全員、普通のベッドで眠りたいわよね?」
「そりゃそうですが、他の客室に移ったりするのはさすがに自費になります。せっかく費用を出してもらえているのに、そういうのでお金を払うのは勿体ないですよ」
真剣な顔で当たり前のことを訊いてきたアヤさんに、私は返事をして、息をのんだ。
ちょっと待て。もしや、この人は――。
「うん。そこで考えがあるんだけど、皆の中で一人、私の部屋に移ってこない? そうすれば両方人数がピッタリになって、狭さとかの問題も解決するわ」
アヤさんの提案に、ロゼとオーブが揃って驚きの表情を見せた。
……そんなことを、言うんじゃないかと思ったんだ。
予感が当たった私は、黙ったままベッドの上で身じろぎする。
「さっきフロントに確認したらね、差額を払えば、この部屋の乗客が上級客室へ移動することも可能だって言われたの」
話を続けるアヤさんが、すっと視線をロゼに向けた。
「そのお金は私が持つから……。ロゼッタさん、良ければ私の部屋に来ない?」
「私、ですか?」
意表をつかれたのか、誘いにポカンとしたロゼ。
予想した展開だけど、差額まで払うとは、アヤさん本気すぎる。
「ええ。昼間みたいに世間話の相手になってほしいんだけど、私と同室は嫌かしら?」
「い、いえっ。そんなことはありませんが……」
若干、暗い声を出したアヤさんに、ロゼは首を横に振った。
ずるい訊き方だなー、今のは。
「アヤさんの言う通りにすれば、確かに状況は良くなります。しかし、何故、そこまでしてくれるのですか? 貴方には、私達の部屋のことは関係ないのに」
困惑気味のロゼに、アヤさんが軽く笑いかけた。
「これは、自分の為なのよ。部屋割りを知った後、二人部屋に一人で泊まるのは寂しいから、誰かと一緒にいたいなってずっと考えていたの」
実に単純で、頷ける理由。
それを聞いたロゼが、「なるほど」と呟き、ソファから立ち上がった。
――納得しちゃったか、無理もないけどね。
「……わかりました。そういうことでしたら、遠慮なく部屋を移らせていただこうと思います。二人とも、構わないか?」
腰に手を当てたロゼが、私とオーブを交互に見た。
理由が純粋な善意によるものであれば、ロゼは誘いを断っていただろう。
ともかく、この場で私が意見することは何も無い。
「あんたがいいなら、いいんじゃない?」
「わ、わたしも構いませんっ」
多少、素っ気なく答えた私に、何か焦った様子でオーブが続けると、アヤさんは嬉しそうに顔を輝かせた。
「じゃあ、決まり。皆、ありがとうね」
「うにゃ、感謝しなきゃいけないのはこっちですから」
お礼を言ってきたアヤさんに、私は愛想笑いをする。
なんというか、やれやれだ。
自分の荷物を持って、アヤさんと共に部屋を出て行ったロゼ。
二人の関係がどう変わろうと、以前に思った通り、私は受け入れるしかない。
もちろん、アヤさんの恋を妨げるなど、もってのほかだ。誰が言ったか知らないが、「人の恋路を邪魔する者はフェザーに食われて死ぬ」なんて恐ろしい言い伝えもあるし、そんな目に親子で遭ったりしたらたまらない。
バカなことを考えながら、私はシャワーを浴びて濡れた髪をタオルで拭った。
水気は、もう大体とれたかな。
タオルを浴室内の洗面台にかけて、鏡に映った下着姿の自分を見つめる。
セミショートの白金の髪、淡褐色のつり目、胸の小さいやせた身体など……。そこにいるのは、いつもと同じ、変わらない私だ。
「よし、いくか」
寝る準備が整ったことを確認し、私は洗面台に置いていた白いガウンに袖を通す。
客室に部屋着として備えてあった木綿のガウンは着心地よく、しかも涼しい。室内には空調も効いているので、これなら快適に眠れるだろう。
浴室を出て、すぐ目に入ったのは、窓際に立つ黒髪の少女の後ろ姿だった。
「オーブ、なにしてんの?」
先にシャワーを浴びていて、同じくガウンを着た相手に話しかけると、
「――月を、見ていました」
振り向いたオーブが、ふっと微笑んだ。
笑っているけれど、どこか寂しげな、美しいその表情にハッとする。
いや、なに見蕩れてんのよ、私……。
「すごく綺麗なんですよ」
「へえ、どれどれ」
私は一つ頭を振って、オーブに歩み寄り、窓の外を眺めた。
水平線の果てまで広がる、満天の星空。
その中で神秘的な輝きを放つ、三日月――。
視界一杯に映ったのは、まるで宝石箱をひっくり返したような光景で、
「ほんと、綺麗ね」
しばし、目を見張っていた私は、無意識に呟きをこぼした。
「はい。でも、わたし、変な感じがしていて……」
「変な感じ?」
突然の言葉に驚いて、私はオーブに視線を移す。
「うまく言えないんですが……。わたし、月を見ていたら、なにか懐かしいような思いが込み上げて、胸が苦しくなってきたんです」
躊躇いがちに告げてきたオーブを、私は呆然と見据える。
「それって、記憶を思い出せそうな感覚なの?」
「……わかりません」
私の問い掛けに、少女は肩を落とした。
「ごめんなさい、本当によくわからなくて……。こんなこと言われても、困りますよね」
「そ、そんなことないわよ。もしかしたら、あんたロングランドへ来る時に、今みたく船から月を眺めたことがあったのかもね」
何故、そういう状況になったのかは別として、考えられる可能性を言った私に、オーブが小さく頷いた。
月を見て懐かしい気持ちになった、か。
現段階では、その感覚が何を意味するのか判明しない。とはいえ、記憶が回復する手掛かりになりそうなことが増えたのは、良い傾向だ。
そう思った瞬間、空に一筋の光が走った。
「流れ星――」
「大きいね」
素早く囁いたオーブに応じて、私は窓の向こうを凝視する。
闇夜に光の尾を引いた星は、一瞬で消えてしまった。
「……残念、願い事すれば良かったな」
「なんですか、それ?」
きょとんとした顔で質問してきたオーブだが、あれ、知らないのか……。
「流れ星が見えている間に三回願い事を唱えると、その願いが叶うって話、聞いたことない? 外国はどうかわからないけど、ロングランドじゃ有名な言い伝えなんだ」
「初めて、聞きました。素敵な言い伝えですね」
感動した様子のオーブが、一転して表情を曇らせた。
「でも、あの一瞬に、三回も願い事を唱えるのは難しいです」
「あはは、普通はできないよね」
正しいことを言われて、笑った私は、
「そういや、六月のはじめ頃。ラバー市で、五秒近くも光る大きい流れ星が見えたんだってさ。それくらいのやつが運よく見れれば、願い事をすることも不可能じゃないわ」
新聞かなにかで知った情報を、オーブに伝えた。
「それならできるかもしれませんが、大きい流れ星って、ちょっと怖い気もします」
「あー、古代文明を滅ぼしたような、隕石になって落ちてきそうだから?」
訊いた私に、オーブは不安げな眼差しを向けてきた。
「……はい。ああいった隕石って、今も存在しているんでしょうか?」
「うーん。そういうのを調べるために、帝国の研究者が天体観測とかをやってるらしいけど、さすがにわかんないわ」
私は答えつつ、今日見た映画に思いを巡らせる。
失われた理想郷だと、天文学者達が巨大な望遠鏡を用いて、地球に衝突する隕石を、衝突の二年前に発見していた。しかし、現代の技術で同様のことを行うのは、とてもじゃないが無理だろう。
「まあ、またでかい隕石が落ちてきても、人間にはどうしようもないでしょ。こればっかりは、運が無かったと諦めるしかないわよ」
私は結論を言って、机の上の置時計に視線をやった。
ロゼの部屋の変更手続きなど、なんだかんだあって、時刻はもう十二時近い。
「ねえ、オーブ。あんた、どっちのベッドで寝る?」
「――え?」
考え事をしていたような少女が、私から室内のベッドに顔を向けた。
左右の壁際に位置したベッドは、形や大きさも同じもので、特に違いはなさそうだ。
「私はどっちでもいいから、好きな方を選んで」
「好きな方、えっと……」
私をチラリと見て、えらく複雑な面持ちになったオーブ。
どうしたのか。右か左かの二択だし、悩む要素なくない?
「クリスさん」
「なあに?」
呼び掛けに、私が小首を傾げると、
「わたし、クリスさんと、一緒のベッドで寝たいんですが……」
オーブは微かに声を震わせて、そう言った。
「――なんでよ?」
私が反射的に言葉を出した途端、オーブの紫色の瞳が泳いだ。
「や、やっぱりいいですっ。その、少し不安な気持ちがあって、クリスさんと一緒なら、それが消えるかもって思っただけなので……。すみません、気にしないでください」
慌てた口調で喋った少女を見ながら、私は髪をかきあげた。
弱ったな……。
原因は月を眺めた影響だろうけど、今、この子は少しって感じではなく、相当不安な気持ちでいる。そうじゃなかったら、こんなことを口にしたりはしないはずだ。
なんにせよ、うん、わかった……とか言って、ほっといて眠るわけにはいかない。
「いいわ、一緒に寝ましょ?」
私が意を決して切り出すと、オーブは大きく目を見開いた。
「……本当、ですか?」
「ええ。でも、今日だけよ」
私はオーブの問いに頷いて、優しく笑った。
照明を消した部屋の中、同じベッドに仰向けで寝て、タオル地の毛布を身体にかけた私達。別々なのは枕のみという状態で、その枕が並んだ距離もかなり近い。
「っ、すみません」
肩が触れて、謝ってきたオーブの吐息が、私の頬にかかった。
さらに、なんとも言えない良い匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
「――シングルベッドに二人寝てんだから、触っちゃうのは仕方ないわよ」
一瞬、言葉に詰まった私はそう呟いて、左隣にいる少女の整った顔を見つめた。
……普段、ロゼと生活していても感じることだけど、シャワーを浴びたり、お風呂に入ったりした後の女の子って、なんでこんな良い匂いがするんだろう。
「あっと」
「す、すみません。クリスさん」
ぼんやりして動かした手が、オーブの腰に触れてしまって、また謝られた。
今のは私が……って、ええい、めんどくさい!
私はオーブの右手に、自分の左手を重ねた。
「――わっ」
少女の驚いた声には応えず、指を絡めて繋いだ手を、そっと握りしめる。
そして、一度息を吸った後、言った。
「私ね、なんか急に心細くなってきて、誰かと一緒に寝たいなって本気で思ったの。それで、今はお互いの望みが叶った状況でしょ? だから、オーブが一方的に遠慮とかすることはないんだ」
「クリスさん……」
私のバレバレの嘘に、何を考えたかは定かじゃないけど、オーブは静かな笑みをたたえた。
「悪いけどまだ心細いんで、もうちょっとの間、手、握らせてね」
「はい……!」
オーブの短い返事を聞いて、私は目を閉じる。
それ以上の会話は無い。
ただ、控えめに握り返された手の感覚が、とても可愛く思えた。




