貴方と共に 六
日中の熱がようやく引き始めた、薄暗い空の下――。
私は路肩に停車した車を降りて、自分の住む古びたアパートを見上げた。
アヤさんから衝撃的な話があった公園を出た後、旧市街のここまで送ってもらったが、時刻はすでに七時を過ぎている。
三階建てのアパートには白色の照明が点灯していて、建物脇の駐車場に目を移せば、朝は無かったロゼの車がとまっていた。
「ロゼッタさんと一緒に住んでいるのは聞いていたけど、素敵なアパートね」
車のドアが開く音に続いて、背後から声がした。
「そうですか?」
振り向いて返すと、車の傍に佇むアヤさんが顔をほころばせた。
「ええ、とっても」
私は、アヤさんと自宅である三階の角部屋を交互に見て、
「あの、よければ家にあがっていきませんか? ロゼも帰ってるみたいですから、会って話でもしていけば……」
言うべきかどうか、迷った言葉を口にした。
それにアヤさんは、ゆっくりと首を横へ振った。
「遠慮しておくわ。明日の連絡だけ、お願い」
「……了解しました」
明日、レイモンド所長と話をして、何も問題が無ければ研修を受けることになる。
その結果を大使館へ伝えることを確認した時、アヤさんが車内の運転手さんに視線を向けつつ、私に歩み寄ってきた。
「気遣いありがとう。でも、いいのよ。クリスティアさんが、そんなことしなくても」
声をひそめて喋った相手に、なんと応じればいいのだろう。
悩む私を、アヤさんはおかしそうに笑った。
「私は、ロゼッタさんのことが好き。けれど言った通り、すぐに告白したり、自分が同性を恋愛対象として見ていることを明かそうとは考えていないの。だから、できればこれまでと同じように接してくれない?」
「それは、わかっています」
なんともきまりの悪い気持ちで、私は頷いた。
今日、公園で明かされたことは誰にも話さないと約束した以上、何事も無かったようにしてないといけないし……。言われた通り、変に気を回す必要もなかった。
そう思い直すと、私と並んで立つアヤさんが軽く首を傾げた。
「クリスティアさんは、私の行動に口を出す気はないって言ってたわね? つまり、それは私とロゼッタさんが、どんな関係になっても構わないという意味?」
「え、ええ。二人がどうなろうと、私にとやかく言う権利とかはありません」
私の答えに、アヤさんは胸の前で腕を組んだ。
「権利はなくても、貴方自身はどうなってほしいと思っているの?」
憂いを帯びた表情で続けられた質問。
「私は、なるべく、今の関係が変わらないことを望んでいます。何かあって、仕事に支障とか出るのが一番困るし……」
ここは本音を語る場だと考え、私は思いを隠さず告げた。
「そんなに、仕事が大事?」
「はい。私から遺跡調査員の仕事をとったら、何も残りませんので」
自分にしてみれば、当たり前のことだ。
しかし、驚いたようなアヤさんが、眼鏡越しの灰色の瞳で私を見据えてきた。
「意外でしたか? 私がこういうこと言うのって」
なんだかわからないまま、相手に訊いてみると、
「ううん。クリスティアさん、ずっと遺跡調査員になることを目指してきたんだし、仕事に情熱を持っているのはわかってたんだけど……。今なにか、怖いくらい真剣な表情をしたから、びっくりしちゃったの」
そんなことを気遣うように言われて、今度はこっちが呆然となった。
意識せず持ち上がった手で自分の頬に触れ、大きく息を吐き出す。
「や、すみません。真面目な顔つくったんですが、やり過ぎました」
もちろん、故意なんかではないが……。私は手を下げて、ペロッと舌を見せる。
すると、アヤさんは、たれ気味の優しい目を吊り上げた。
「なに、それ? わざとやったの?」
「アヤさん、怒れる立場ですか? 私なんて今日、何度貴方に驚かされたことか」
言い返したら、ふき出した相手が笑い声をあげて、私に一言謝ってきた。
「けど、私。クリスティアさんのことが、少し理解できたわ」
「――どういうことです?」
私は訝しみ、改まった調子のアヤさんを凝視する。
「貴方は、仕事のことを本当に大切に考えているんだ」
「はい。ってか、そんなの誰だって同じですよ」
私が即答すると、アヤさんは頷きつつ眉を寄せた。
「ただ、クリスティアさんの場合、ちょっと余裕の無い感じがするな」
「……余裕が無い?」
指摘にぽかんとした時、アヤさんが口元に微笑をたたえた。
「そんな印象を受けたってだけ。あんまり気にしないで」
「はぁ」
一応、返事をするも、私は首を捻る。
「けど、私のことなんかわかっても、アヤさんは嬉しくないでしょ?」
冗談混じりに訊くと、相手が笑みを深くした。
「いいえ。綺麗で可愛い女の子のことは、なんだって興味があるもの」
「……節操の無いことばっか言ってて、大丈夫なんですか?」
「その辺りは、きちんと弁えているわ」
半ば呆れた私に、自信たっぷりな顔をしたアヤさん。
そこまで言うのであれば、心配はないか。
しかし、最早、自分の中にあった相手のイメージは完全に崩壊している。アヤさんにしてみれば、こちらが素顔なんだろうけど……。
「じゃあ、私、帰ります」
「うん。お休みなさい、クリスティアさん。ロゼッタさんによろしくね」
交わした会話を最後に、私はアパート前の歩道まで下がる。
ややあって車が動き出し、車内で手を振るアヤさんを、私も手を振って見送った。
小さくなる車の後姿。
それも、やがて見えなくなり、私は夜風に揺れる前髪をかき上げた。
考えなきゃいけないことが、たくさんある。
今、その中で気掛りなのは、アヤさんに言われた……仕事のことだった。
私自身、余裕が無いとか思ったことはない。
ただ、自分にとって遺跡調査員の仕事は、本当に全てだ。
家族などのいない自分が唯一、人や社会と繋がれて、生きていく為の術。生きるだけなら他に手段もあるが、遺跡調査員でない自分など想像もできない。
――それを失いたくなかったから、私はオーブのことで嘘をつくと決めたんだ。
「ロゼ、帰ったよー」
アパートの部屋に入り、私はそう言って、居間に通じる扉に手をかけた。
「お帰り、クリス」
「ごめんね、遅くなって」
聞こえたロゼの声に応じながら、扉を開ける。
――瞬間、視界に映った光景に、ぎょっとした。
電灯の点いた明るい居間で、椅子に座ったロゼが私を見ている。
それはいいんだけど、問題なのは相棒の格好だ。
何時かの朝と同じ、完全なる下着姿。
形の良い胸からくびれたウエストまで、下着をつけているとはいえ、均整のとれた見事な身体をさらしちゃって、まあ……。
「あんた、なんて格好してんのよ」
「ああ。部屋が暑くて、着ていた服を脱いでいったら、こうなってた」
窓全開で扇風機が回っているものの、確かに部屋の中は若干暑い。
だが、とろんとした目つきに加え、気だるげに喋ったロゼは明らかに様子が変だ。
そして見れば、木のテーブルには、茶色いガラス瓶と氷の入った空のグラスが置かれていた。ほのかに漂う匂いといい、間違いない。
「ロゼ、お酒飲んでる?」
「ん、少し」
私の問いに首肯した相棒が、ガラス瓶を掴み、茶色い液体をグラスへ注いでいく。
あれはロゼが自分で買ってた、結構値の張るラム酒だ。
私は困惑しつつ、グラスを煽るロゼの正面の椅子に腰を下ろす。
こんな事になっているとは考えてなかったが、アヤさん連れてこなかったのは正解だった。この場にあの人いたら、色々やばかっただろう。
「珍しいね、あんたが飲むなんて」
滅多に飲酒をしないロゼに、まずは声をかけてみた。
あられもない姿については、この際不問だ。
「偶には、な。別に、いいじゃないか」
微かに頬を赤く染めたロゼが、テーブルに頬杖をついて呟いた。
普段、ポニーテールにしている金色の長髪が今は解かれていて……。乱れた髪が、すべらかな肩や鎖骨にかかっている様は、艶めかしいの一言だ。
「お前も飲むか?」
「いらないよ」と誘いを断り、私は着ているシャツの襟元のボタンを外していく。
弱いこともあって、私はお酒が苦手。
ロゼは普通なんだけど、この状況は心配だ。
「大丈夫? 飲み過ぎじゃない?」
「私は、もう十七歳の大人だぞ。適量は心得ている。それに、この酒は自分が働いて買った物で、飲むことに誰も文句は言えないはずだ。そうだろう? クリス」
「その通りだし、私は文句をつけたつもりはないのよ」
酔うと絡んでくる性質のロゼに、私は話を合わせた。
「んで、何があったの? あんたの様子からいって、好いことは無かったみたいだけど……。よければ私に言ってみなよ」
続けて探りを入れると、置いたグラスの縁を指でなぞるロゼが、
「今日はカイント市内の街で、ウィル兄さんと会ってきた。食事などをしながら、事件や研修のことを話してな。一時間程前に帰ってきて、その後はごらんの有様だ」
疲れを滲ませた声で、そう答えてきた。
ウィル兄さん……ウィリアム・バーンズさんは、ロゼの六歳年上のお兄さんだ。
「兄妹では一番歳が近く、仲の良い自分の理解者だった」と前にロゼが語っていた人。
相棒が乗っている車も、実はウィリアムさんから送られた物だったりする。
家族の人に会う時点で、相手がウィリアムさんなのは読めていたが……。
「ふーむ。街ってことは、お屋敷には行かなかったんだ」
私は言って、カイント市郊外に存在する、バーンズ家の豪邸を思い浮かべる。
その途端、ロゼが濡れた唇を歪めた。
「はっ、まさか。あの家の門は、二度とくぐらないよ」
美人は怒ると怖いらしいが、今の相棒は正にそれだ。
「ウィリアムさんはどんなことをっ?」
急いで訊いた私に、再度、グラスを煽いだロゼが視線を向けてきた。
「私の身を案じる以外、ウィル兄さんからの話は何も無かった」
「へ? そんだけ?」
呆気にとられて、私は疑問を口にした。
「兄さんは、父の伝言役として使われたんだ。今回のような事件に巻き込まれて、何故、連絡をよこさないのか、とか。そもそも、遺跡調査員などになったから、危険な目に遭うのだ、とか。私への文句が詰まった内容なら、散々聞かされたよ」
「親の不満を、仲の良いお兄さんが代わりに伝えにきたってこと?」
わかったことをまとめた私に、ロゼが頷いた。
バーンズ家の人間であり、ネレイース商船で働いていて、しかも重要なポストにいるというウィリアムさんから連絡があれば、事務所はロゼに対応を求めざるを得ない。ロゼの方も、その頼みは断れないから、今日みたいな事態になったんだけど……。
「ロゼのお父さん、言いたいことがあるなら、直接会いにくれば良いのに」
私の呟きに、ロゼは口を閉ざしたまま、そっと首を左右へ振った。
複雑な事情があるのは理解している。
ただ、私はロゼに家族の人と仲直りしてほしかった。縁を切ったといっても向こうだって心配してるんだし、あらゆる意味で、それがベストなのは確かだ。
「まあ、色々言われたが、それで決着はついた。味わった嫌な思いを忘れる為に、こうして酒など飲んでいるが……。私が研修を受けることに変わりはないぞ、クリス」
喋ったロゼが、椅子の背に寄り掛かって微笑んだ。
「――そっか。いや、これで一安心だ。後は、明日会うオーブがなんて言うかだね」
相棒の艶然とした表情に目を奪われ、私はそう言い募っていた。
なに意識してんだか。これも全部、アヤさんの話を聞いた所為だ。
勝手に決めつけた時、
「ああ。ところで、アヤさんとの買い物はどうなった?」
ロゼに何気ない感じで問われて、身体が硬直した。
……落ち着け。今日の動きは、帰ってから話すことになってたんだから。
「うん、案内したとこ大体気に入ってもらえて、特に何事もなく無事に済んだよ。あっ、ディランさんはまだ体調悪いみたいなんだけどね、私達が研修受けるって知って、すっごく喜んでたってアヤさんが言ってた」
ディランさんのことなど、事実を含めて用意していた答えを、私はつらつらと喋った。
オーブに嘘をつくのとは、また違ったやましさを覚える。
でも、これだって仕方の無いことだ。
「それは、良かったな」
笑顔を絶やさず言ったロゼを前に、私は安堵する。
同時に、今までちゃんと確かめたことの無かった、相棒への疑問が頭をよぎった。
「ロゼはさ、女同士の恋愛ってどう思う?」
「突然、なんだ?」
酔った状態の相手なら、多少、変なことを言っても平気だろう。
そう予想した私を、ロゼは驚いたように見てきた。
「うにゃ、今日、買い物の途中で女同士のカップルらしい人達を見たのよ。それ今、思い出して……。あんたはそういうの、どう考えてるのか気になったんだ」
開き直って、適当な言葉を並べたが、ロゼに怪しんでいる素振りはない。
ただ、相手の表情から笑みが消えて、私の背筋に緊張が走った。
「女同士の恋愛を理解できるが、自分にそういう気持ちは無い。それが、お前の考えだったな。私も同じだ」
アヤさんには悪いけど、やっぱりね。
言い切って、また笑ったロゼの答えは想定していたモノだ。
これ以上、何を訊くことも無い。
けど、もう少し突っ込んだ質問をしようとした時、
「ふぁ……」
ロゼが手を口に当てて欠伸をした。
「ありゃ、眠くなった?」
「ん、眠い」
私に応じつつ、潤んだ目をこするロゼ。酔いからの眠気は強烈だろう。
「あんたの考えはわかったし、明日に響いてもいけないから寝ていいよ?」
「……そうか。ではシャワーだけ浴びて、先に眠らせてもらおう」
気遣う私に答えたロゼが、グラスを片手に立ち上がる。
けど、なんか危なっかしい足取りで、私は口を開いた。
「それ、置いといて。私、夕食適当に食べた後、一緒に片付け――」
言いかけた瞬間、不意にロゼがよろけて、
「ちょっと!」
その身体を、私は慌てて支えた。
「く、クリス。すまない」
立ったまま、正面から抱き合う形となったロゼに謝られる。
でも、相手の胸に顔が埋まっていた私は、呻くことしかできなかった。
吸いつくような素肌の感触。アルコール混じりの甘い女の子の匂い。
感覚を刺激するそれらに、頭がカッと熱くなるも、
「こんの、酔っ払いめ。しっかりしなよ」
私は平静を装って、やんわりとロゼを引き離した。
「マットレスとか私が敷いておくから、さっさとシャワーいってきなさい」
「あ、ああ。本当に、すまなかった」
なんとか笑顔をつくった私に、再び謝ったロゼが、ふらふらしながら洗面所へ入る。
その背中が扉の向こうに消えた後、私は小さく吐息を漏らした。
まったく、冗談じゃないわ……。