貴方と共に 五
長い石造りの階段を上り終えると同時に、私の隣にいたアヤさんが歓声をあげた。
岬の展望台から見えたのは、空と同じく澄み切った青い色の海だ。
水平線の彼方まで続く、美麗なラバー湾。そこから吹き込む冷涼な潮風が、周囲の草木を小さく揺らし、どこからか海鳥の鳴き声が響いた。
「静かで、綺麗なところね」
歩きながら呟いたアヤさんが、日除けになっている木の下で深呼吸する。
その傍に立って、私は腕の関節を伸ばした。
「んー、今日が平日で良かったです。ここ、休みの日だと結構人がいるんですよ」
「わかる。町からも近いし、散歩とかするには最高の環境だもの」
そう言ったアヤさんが、人気の無い辺りを見回した。
昨日、約束したアヤさんの買い物に朝からつき合い、すでに時刻は夕方近い。
アトリ百貨店を中心に案内した店は全て気に入ってもらえたようで、服や雑貨、珍しい観光土産などを購入している内に、時間は瞬く間に過ぎていった。
一通り買い物は済み、最後にどこか落ち着いた場所で話でもしようとなったのが、三十分程前のこと。街中の飲食店でも構わなかったけど、せっかくなんでラバー市の観光スポットである旧市街の海岸沿いに位置した、この公園にやってきていた。
階段を上がって汗ばんだのか。ジャケットとジーンズは同じだが、昨日と違う柄のキャミソールの胸元を摘まんであおぐアヤさんは、なんとも色っぽい。昼間、自分用に買っていた服も布地の少ない物が多くて、訊けばやっぱりこういう服装が好みらしい。
そんなアヤさんに比べ、襟のついた半袖のシャツとスカートを身に着けた今の私の格好は、どうしても幼く思える。ただ、自分が相手みたいな服を着ても似合わないことは重々承知していた。
せめて、もうちょい胸があればな……。
「クリスティアさん、どうかした?」
「あ、ああ。なんでもないです」
じーっとアヤさんを見ていたら、訝しむように声をかけられて慌てた。
無い物ねだりはやめよう、虚しいだけだ。
私はバカな思考を消し去り、木陰の中のベンチに座る。
すると、隣に腰を下ろしたアヤさんが、一つ息をついた。
「ならいいんだけど、今日はごめんね。忙しいのにつき合わせちゃって」
「いーえ、お気になさらず。それに忙しいって言っても、研修の準備とかは正式に決まらないとやりにくいので……。あの二人と違って今日は私、暇だったんです」
私が笑うと、アヤさんは思案するように顎の先へ指を当てた。
「オーブさん。病院で研修に参加するのを、止められたりしてないかな」
「これまでの経緯を考えても、まずそういうことは無いはずです」
表情を変えず言った相手に答えて、私は相棒の顔を思い浮かべた。
問題が起こるとすれば、こっちだ。
今朝、ロゼは私より早く車で出かけてしまっていた。
昨日、帰ったアパートにて、「明日は家族の人に会ってくる」とだけ言われたが、それ意外のことは教えられていないので、どこへ向かったのかもわからない。夕食までには戻るらしいから後で会うことになるものの、その際、何か話があるのかだって不明だ。
「……なら、心配なのはロゼッタさんね」
「あー、はい」
似たようなことを思っていたらしいアヤさんの問いに、私は言葉を濁した。
一応、相手にはロゼとオーブの用事の内容を伝えてある。
そして、この国最大の海運会社、ネレイース商船を経営しているバーンズ家の末娘がロゼだというのは、すでにアヤさんやディランさんも知っていることだ。
そういった人間であるロゼが、何故に遺跡調査員をやっているのか。アヤさん達から今まで特に訊かれてこなかったのは、事情があるのを察した為だろう。
ロゼはその辺りのことを、いずれオーブに明かすと言っていた。
でも、アヤさん達にはどうするつもりなのか。
「……まあ、ロゼの方も大丈夫ですよ。何があっても絶対、一緒にきてくれます」
わからないことを悩んでも仕方ないので、私がそう切り出すと、向き合っていたアヤさんがすっと眼鏡の奥の目を細めた。
「どうして、クリスティアさんはそんなふうに言えるの?」
「えっ」
どことなく鋭さを秘めた相手の口調に内心驚くも、私は答える。
「ロゼの性格とかを考えれば、大体わかることなんです。これでも短くない時間、相棒としてつき合ってきたんで……」
「相棒として、か。その言葉に、嘘や他意は無い?」
問いには更なる鋭さが感じられて、
「ありませんが、なんでそんなことを?」
戸惑いながら訊くと、アヤさんは意を決したように口を開いた。
「――クリスティアさん。私ね、ロゼッタさんのことが好きになってしまったの」
「……は?」
漏れ出た間抜けな声を最後に、私は言葉を失った。
真っ白な頭の中で、アヤさんの台詞が反響する。
ロゼのことを好きになったって、どういうこと?
「驚かせちゃったよね? ただ、貴方にこれを打ち明けないと、話が先に進まないから」
「ま、待ってください」
私は困ったように笑うアヤさんを制し、大きく息を吐いた。
「アヤさんは、その、女の人が好きなんですか?」
「……ええ。それで、ロゼッタさんを、恋愛の対象として見ているの」
あっさりと認められ、二の句が継げなくなる。
「一体、何時からロゼのことを?」
なんとか訊いてみた時、やや強い風が吹き、アヤさんはなびく赤毛の髪を押さえた。
「初めて会った瞬間から、目鼻立ちの整った凛々しい姿に惹かれたわ。性格とかも含めて、信じられないくらい自分の理想通りの相手だった。本気になったのは、脱出する船で海に落ちそうなところを助けられた時かな」
私はアヤさんの言った場面を思い返しつつ、状況を整理していく。
さっきから胸の鼓動が速まっていて、身体まで熱くなってきた。
「クリスティアさんは、女性同士の恋愛っておかしいと思う?」
「いや、全然っ。ロングランドは昔から同性婚も認めているので、そういうのをおかしいとか思ったことは無いんです!」
眉を寄せて笑ったアヤさんに、そうまくしたてていた私。
何故、焦っているのか自分でも不可解だが……。
「ロングランドの制度は知っていたわ。実は帝国にも同様の法律があるのよ」
「帝国も?」
初めて聞いた話に驚くと、頷いたアヤさんが目を瞬かせた。
「確認させてね。クリスティアさんは、女の子が好きってわけじゃないんだ?」
「は、はい。同性の恋愛も理解できますが、私にそういう気持ちはありません」
自分の主義を明言して、私は汗の滲んだ両手をスカートの上で握る。
……と、アヤさんが思慮深げな眼差しを向けてきた。
「それなら、ロゼッタさんはどうなの? はっきり言って、彼女は貴方に気があるとしか思えないんだけど……」
苦しい胸中でいるはずの、アヤさんの問い掛け。
それを聞いて、ようやく相手の考えなどがわかってきた。恋人同士に見られたことも一度や二度じゃない私とロゼの関係は、相手にとってさぞや気掛りなことだったろう。
「……アヤさん。ロゼがバーンズ家の人間だっていうのは、もう知ってますよね?」
誤解を解く為とはいえ、相棒のいない場所で事情を話すのは後ろめたい。
その心情が伝わったのか、アヤさんが表情を引き締めてベンチに座り直した。
「ええ。四人兄妹の末娘で、お兄さんが三人いるのよね?」
答えたアヤさんは、どうやら色々調べているようだ。
「はい。要するにロゼは資産家のお嬢様で、唯一の娘ってこともあって、それは大切に育てられてきたんです」
私の返事に、アヤさんがふっと笑みを見せた。
「でしょうね。可愛がられる様子が目に浮かぶもの」
「その通りの恵まれた境遇にいたロゼですが……。家の躾けは凄く厳しくて、大切に扱われるあまり、自由な行動とかをほとんど取らせてもらえなかったそうです」
以前、ロゼから聞いた話を続けた途端、アヤさんは表情を曇らせた。
「子供の頃、近所の友達と外へ遊びに行くなんてこともなかった。通う学校は似た境遇のお坊ちゃま、お嬢様が集まった特別なところで、バーンズ家の人間であるロゼは誰からも顔色を窺われ、気を遣われるように接せられたみたいです。真面な友達なんて、一人もできなかったと言ってました」
私は一旦、口を閉ざして、アヤさんを見据える。
黙っている相手だが、その顔はロゼへの同情を物語っていた。
相棒が自分の境遇を受け入れて、普通に暮らせる人間なら問題は無かったのだろう。
しかし――。
「ロゼは昔から自立心が強かったみたいで、大人になるにつれ、なんでも与えられるだけの日々の暮らしに、心底うんざりしていったそうです。自分の力で生きたいと望み、曾祖父の方に憧れていたのもあって……」
「遺跡調査員になったというわけね」
私の言葉を引き継ぐように、アヤさんが言った。
「けれど、それは大変なことだったんでしょう?」
「具体的にどんなことがあったのか私もよく知りませんが、当然、家族の人達からは猛反対されました。話し合いにすらならなくて、結局、ロゼは縁を切る形で、成人になると同時にバーンズの家を出ちゃったんです」
私が質問に応じると、アヤさんは身体を震わせた。
「絶縁した状態は、ずっと変わっていないの?」
「ええ。今回のことで、何かややこしい事態にならなきゃいいんですけど」
私の答えに、アヤさんは天を仰いだ。
ただ、相手にとって重要なのは、ここからの話。
「私がロゼと最初に会ったのは、遺跡調査員を養成する学校でした。ペアを組んだのは、偶然なんですが……。その頃のロゼって、頭良いし運動能力も凄いんだけど、訓練で単純なミスを連発して何時も教官に怒られてる、ちょっと残念な子だったんです」
「あのロゼッタさんが?」
アヤさんは呆気にとられたような顔をしたが、無理もない。一人だけ怒られた後、激しく落ち込んでいたロゼの姿など、今は想像もつかないだろう。
「ロゼ、自分のやりたいことの為に家を出たけど、実際は不安で一杯だったんですよ。集中できないままミスをして、焦って、それがまたミスに繋がる悪循環に陥っていた。そこを上手いことフォローして、頑張るように励ましてきたのが……私なんです」
私は敢えて軽い話し方をして、唇を結んだアヤさんに笑いかけた。
「実際、大したことはやってません。ただ、ロゼの言うところによると、私は精神的に辛い状況を救ってくれた恩人で、初めてできた本物の友達らしいです」
「……だから、ロゼッタさんはクリスティアさんを特別に見ているのか」
自分とは対照的な、重苦しいアヤさんの一言にひとまず頷く。
そして、私はすぐに口を開けた。
「けど、ロゼが私に向けてるのは、あくまでも友情です。それに、言いにくいですが、同性への興味も無いと思います」
「貴方は、そう思っているんだ」
意味深なアヤさんの呟きに困惑する。
加えて、ゆっくりと上体を乗り出してきた相手へ、
「本当ですよ? 本人が私は親友だって宣言してますし……。色々理由があって、男の人とつき合ったりしたことは無かったみたいですが、別にロゼは女の人が好きでもない」
私は早口でそう言った。
それを難しい表情で聞いていた、アヤさんの片眉が上がる。
「仮に、ロゼッタさんがクリスティアさんへ恋愛感情を持っていたとして……。それを、同性に興味の無い貴方へ伝えられずにいると考えたことはない?」
「――な」
事実、まったく考えたこともない話だった。
でも、私は首を横に振る。
「ありません。アヤさんの推測は間違っています」
ちゃんと説明できてないけど、私は偽りのない言葉を口にした。
「そう……」
アヤさんが身体を引いて呟くまで、しばしの間があった。
思いは様々だろうけど、相手の様子にホッとして、私は額の汗を拭う。
「取り敢えず、知りたかった貴方達の関係がわかって良かったわ。クリスティアさんと二人きりになれた今日は、絶好の機会だったし」
気まずそうに微笑む、アヤさんの言葉にハッとした。
「――それじゃ、元々こういう話をするつもりで?」
「ええ。皆が帝国に来るって聞いて、なんとしても早めに確かめておきたかったの。ごめんね、騙すようなことをして」
ロゼとオーブに用事があったのは偶々とはいえ、この人は……。
「アヤさん。案外大胆っていうか、いい性格してますね」
皮肉を込めて言ったが、相手は笑みを浮かべたままで流されてしまった。
これが大人の対応ってやつなの?
「クリスティアさん。ここでの話は誰にも言わない方が、お互いの為だと思うの」
「同感です」
アヤさんに言って、さらに、
「あのっ、アヤさんは、ロゼに告白する気なんですか?」
どうしても訊きたかったことが、口からこぼれた。
「……まだ、わからない。もっとロゼッタさんのことを知ったりしないと、なんとも言えないわ。ただ、そうする時は、貴方に教えた方がいい?」
返答に、一瞬思考が止まった。
「アヤさんの好きにしてください。私がどうこう言えることじゃないですから」
無意識に発した言葉は中々に無愛想だったが、自分の率直な考えでもあった。
アヤさんの告白で、私やロゼの関係が変わったら、それはもう仕方ないことだ。
けれど、私は……できれば、今のままでいたい。
「――わかった。さて、これ以上、車を待たせるのも悪いし、そろそろ戻る?」
くすくすと笑うアヤさんが、階段の下にある駐車場の方向へ視線をやった。
「そう、ですね」
私は答えたけど、動かずに顔を俯ける。
全身へ広がっていく疲労感が、なんともやるせない。
「それにしても、クリスティアさんは本当に女の子が好きじゃないの?」
「うー、だから違いますって」
明るく訊いてきたアヤさんに私は反論するも、情けない声しか出なかった。
「じゃ、今まで男性とつき合った経験とかは?」
「皆無です」
……悲しい返事だ。
「交際を求められたりしたことはあるんでしょう?」
「何回かありましたよ。全部断ってますけど」
続く質問にも私は事実を返したが、「それは、どうして?」と問われて後悔する。
面倒な、誤魔化した方が正解だったか。
「……単に、気に入った相手がいなかったからです。決して男の人に興味が無いとか、そういう理由じゃありませんので」
正直に言えば、私は恋愛自体にそれほど興味が無いんだけど、嘘はついていない。
「ふうん。何にせよ、こんなに可愛い子が独り身でいるなんて、勿体ないわね」
「はぁ、どうもすみません」
「私は真面目に話しているのに、適当だなぁ」
非難するようなアヤさんの声を受けて、私は愛想笑いしつつ顔を上げる。
……と、何時の間にか、相手がすぐ横に座っていた。
「ちょ、なんです?」
「クリスティアさんは、可愛いわ。つり気味のぱっちりした目とか素敵だし、ふわふわの白い髪なんて綿菓子みたい」
喋るアヤさんが、手で私の頬に触れて、頭を優しく撫でてきた。
「だあ――ッ!」
恥ずかしさの他、色んな感情がわき起こり、私は咄嗟に立ち上がる。
「アヤさんはロゼが好きなんでしょ! 私に変なことしないでくださいっ」
上ずった声で叫び、相手に指を突きつけた。
「はいはい、ごめんなさいね」
反省の色もなく、ベンチから腰を上げたアヤさん。
さすがの私も、これには苦笑いだ。
しかも一人だけ、さっさと階段の方に歩いていくし、なんなのよ。
とにかく、良くも悪くも、相手の見方を改めないといけない。
私はそう思いながら、陽光に照らされて輝く、穏やかな海を見つめた。




