歪んだ世界 十一
カラスとトカゲを合わせたような、空飛ぶ異形の生物が、真っ直ぐ船に接近してくる。
距離があるけど、その姿は図書館で調べた文献の絵と酷似していた。
前足はなく一対の翼があって、頭から尻尾に至る全身は、黒い鱗みたいなもので覆われている。翼の端から端まで、全幅とも言うべき長さは、五十メートルはあるだろうか。
あれが――。
「フェザーッ。おお、フェザーよ!」
船縁の方にいった船員達が、照明の集中した生物の名称を連呼する。
辺りの甲高い音は一段と大きくなり、雷鳴の如き重低音も響きはじめた。
唐突で、夢かとも思える光景。
けれど、目に見える赤い空、耳に聞こえる喧噪、鼻につく腕の血の臭い、舌に感じる潮の味、手に触れるオーブの感触などは、全て現実だ。
「何故だ。何故、フェザーがここに……」
この場の全員が、同じ疑問を持っているだろう。
動揺を隠せない様子のブラッドに、私は視線を向けた。
「生贄が関係? それは、あり得ん。オーブ・ライト、その娘が……呼んだのか?」
私と動かないオーブへ、独り言のようにブラッドは言ったが、
「呼んだって、フェザーを? そんなこと、あるはずないでしょ!」
言葉を返した瞬間。コンテナの間の通路を黒い影が横切った。
咄嗟に見た船の上空を、物凄い速さでフェザーが通過する。
直後、耳をつんざく騒音と一緒に、息も詰まる程の風が吹いた。
ブラッドの身体が、浮き上がるように後方へ倒れる。
その姿を最後に、オーブを抱えた私の視界がぐるぐる回った。
風にあおられて横転している。そう理解した時、背中を何かに打ちつけた。背後にあったのはコンテナで、私はどうにか起き上がる。
……が、耳鳴りと目眩に襲われ、片膝をついた。
この風や音を発生させているのは、フェザーだ。
――羽ばたきで、トルネードを起こす。
そんな情報も頭をかすめて、
「クリス、オーブ!」
声に反応し、私は顔を上げる。
……と、コンテナの壁際にいたロゼが、低い姿勢で私達の方に駆け寄ってきた。後ろには相棒と同じく、緊迫した表情のアヤさんとディランさんもいる。
そして、風で飛ばされたのであろう。自分の傍にはオーブの倒した男達もいて、その中にキッカさんが横たわっていた。
「――皆、無事ですか?」
状況を確認しながら訊いた私へ、ディランさんが心配そうに口を開いた。
「こちらは無事だ。撃たれた二人こそ、大丈夫なのか?」
「私は平気です。ただ、この子は気を失ってるみたいで」
答えると、倒れたオーブの細い首筋に、アヤさんが指を当てた。
「……脈はあるわね、頭に傷も見られない。あの銃弾は外れたの?」
「だと思います。って、ロゼ、なにを?」
見立てに頷くも、ロゼが自身のポニーテールを解いた。
「オーブは、ひとまず大丈夫だろう。お前の止血をする」
有無を言わせず、髪を結んでいた紐が私の右腕にきつく巻かれる。
「平気の一言で済む傷か。痛むだろう?」
「ううん、痛くない。というか、何も感じないんだ」
「感覚が麻痺しているな。無茶をやって、本当にバカが……っ」
「……ごめん」
憤りと悲しみを滲ませたロゼに、謝ることしかできなくて、私は空を見やる。
未だ不気味な音が響き続けているものの、そこに黒い巨体はない。
「フェザーは、どこに?」
「左の雲の上にいったが、また船に近づいてきている」
ディランさんの返答を受け、私は太陽に照らされた帯状の雲間へ目を走らせる。
「アヤさん。フェザーが何をする気なのか、わかりますか?」
問い掛けたロゼに、
「か、海上での遭遇は地上以上に稀で、確信はないけれど、人間に対する彼らの行動は一つ。攻撃よっ」
震え声でアヤさんが応じた。やっぱり、そういうことなのか。
「負傷者をつれて船内に退避しろ!」
大声が聞こえて、見れば、船橋の下に額から血を流すブラッドがいた。
男の横には、居住区へ通じる扉がある。開け放たれたそこに船員達が殺到していて、人波の間から、誰かに背負われたジャスティンの顔が覗いた。
ただ、放心したように動かない人、意味不明なことを叫ぶ人などもいて、甲板は大混乱に陥っている。さらに、ブラッドが突如、こっちを指差した。
「やつらを捕らえるんだ、急げッ」
――しまった。
命令された数人の船員が、自分達の方へ駆けてくる。
どうするか、思考した時、
「フェザーが!」とディランさんが声を張り上げて、私は空を見上げた。
光の差す雲の切れ間から、黒い塊が現れた。
頭を真下に向け、翼を閉じた状態のフェザーが急降下してくる。
その巨大な姿が瞬く間に迫り、鋭いクチバシ状の口と、無機質に輝く紫水晶のような眼球が見えた。
「あっ……」
気の抜けた声が漏れた瞬間。船の船首に、フェザーが突っ込んだ。
浮遊感を覚えた全身に、衝撃が叩きつけられる。
私は仰向けに倒れて、目の前が真っ暗になった。
同時に、金属のこすれる轟音と悲鳴が響く。
続けて、硬い物が衝突し、ガラスが割れ、幾つも水しぶきのあがる音がした。
それらさえ掻き消す風が唸り、呻きつつ私は瞼を開ける。
視界の中で飛翔したフェザーが、朝焼けの空へ遠ざかっていく。
どこかぼやけていた意識が、そこではっきりして、私は上体を起こした。
……が、明らかに広くなっている甲板後部の景色に、言葉を失う。
さっきまでの通路が無い。いや、通路をつくっていたコンテナが、全部ずれたように前へ移動していて……。多分、自分の背後にあったものが、船橋の下にぶつかっていた。
隠れて見えないが、コンテナの側面に押し潰されているのは、ブラッド達のいた扉の辺りじゃないのか?
「クリスッ」
強い口調で呼ばれて振り返ると、後ろにロゼが立っていた。
眉を寄せ、険しい表情を浮かべた相棒。その足元にオーブとキッカさんが倒れていて、隣では、ディランさんとアヤさんが起き上がろうとしている。
今度も怪我はなさそうだけど、皆の姿に妙な違和感を抱いた。
「クリス、船の前方を見ろ!」
切迫したロゼの指示に立ち上がるも、数歩よろけて、違和感の正体に気づく。
甲板が、傾いてる? まさか――。
嫌な予感がしながら、私は左の船縁に走る。
船橋にぶつかったコンテナの反対側へ目を向けた時、砕け散った波が頬にかかった。
船体の中央付近から先が、渦を巻く暗い海面下に没している。
積載されたコンテナも半ば海に沈み、船首など、もう完全に見えない。
これは……。フェザーが突っ込んできて、こうなったのか。
問題の相手はどこかに消えて、音もほぼ聞こえなくなっている。
簡単には信じられないが、現実の有様と、待ち受ける船の運命を考えて、私は急ぎ相棒のところへ戻った。
「ロゼ、この船は……」
「ああ、間違いなく沈没するぞ」
私達のやり取りに、ディランさんとアヤさんが唖然として立ち尽くした。
「そ、そんな……。このまま、死ぬの?」
泣きそうな声を出したアヤさんの肩を、ロゼが掴んで揺さぶる。
「アヤさん、しっかりしてくださいっ。救命ボートがあります」
その言葉に同意し、私も口を開いた。
「ロゼの言う通りです。フェザーがこない内に脱出しましょう」
話しつつ屈み、抱き上げようとオーブの腰に両手を回す。
けど、右腕に……力が入らない。
「いけないっ。彼女は僕が運ぶから、クリスティアさんは無理をしないで」
焦った私を見て、ディランさんが慎重にオーブを持ち上げた。
「……すみません、助かります」
ただ感謝して、私は少女のいた傍に倒れるキッカさんへ視線を移す。
「ロゼ、お願い。キッカさんをつれていって。こんな場所に置いていけない」
「――任せろ」
力強く応じてくれた相棒が、掛け声を発してキッカさんの身体を抱きかかえる。
……と、落ち着きを取り戻していたアヤさんが頷き、
「よし、行こう」
私も気合いを込めて立ち上がった。
焦げ臭い匂いが鼻をかすめる。
何かで出火したのだろう。船橋の上部にある割れた窓からは、白煙が漂いはじめた。断続的に悲鳴が聞こえ、傾きを増す甲板には、何人か倒れたままの船員もいる。
その全てを無視して、私達は左舷のボートの場所まで進んだ。
何を思っているかはわからないけど、皆、一言も喋らなかった。
確かなのは、他の誰かを助ける余裕なんて、今の自分には無いということ……。
「クリス、まずお前が乗って、オーブとキッカさんを受け取ってくれ」
「わかった」
ロゼに返事をして、私は船縁に設置された縄梯子を下りていく。
すぐ下にあるのは、七、八人乗れば満載になるサイズの、オレンジ色のゴムボートだ。形は先端が丸みを帯びた長方形で、後部に電動モーターがついている。
乗る前から少し傾いたボートは、船縁に取りつけられた滑車を通るロープで吊るされていた。滑車同様、船縁にあるロープの巻かれたリールを回せば、着水できる仕組みのようだ。
その底面に足を着き、「いいよっ」と私は合図を送る。
息を切らせつつ、ディランさんがオーブの両腕を持って縄梯子の横にぶら下げた。
私は肩に担ぐよう相手の身体を受けとめ、底面に寝かし、続いてロゼのぶら下げたキッカさんを、同じ要領で横たえる。
「ディランさん、モーターを動かせますね?」
「ああ、もちろん」
「ならば、先に乗って準備をしてください。ボートは私が下ろします」
「……了解した。アヤさんは、ロゼッタさんの手伝いをっ」
「ええ、わかったわ」
ロゼ達の会話が聞こえた後、ボートに移ってきたディランさんが、しゃがんだ私へ目配せしてモーターの前にいく。
ここは皆に頼るしかないけど、そう言えば、ディランさんとアヤさんの口調が、ちょっと前から変化しているな。
そんなことを思うと、滑車が動き、一度、揺れたボートが徐々に下がりだした。
「アヤさん、傾きは大丈夫ですか?」
「はい、そのまま下げて」
アヤさんが船縁で、姿の見えないロゼにボートの様子を教える。
その背後、目に入った船橋のあちこちでは、白煙に混じり黒煙が昇っていた。
水面までの高さは四メートルくらいか。
はやる気持ちを抑えて、私はふっと息を吐く。
次の瞬間、爆発音と共に船が軋み、船橋の方から何かが落ちた。
それは、懐中電灯を大きくしたみたいな照明で――。
「アヤさん、上ッ!」
「――え?」
私の叫びに、上を向いたアヤさんが身を捻って飛び退く。
まさに相手の立っていたところへ、照明が落下した。
けど、避けたアヤさん自身が、船縁の柵を越えてしまう。
私とディランさんは、同時に手を伸ばした。……が、ボートからじゃ届かなくて、高い悲鳴をあげるアヤさんの身体が、真っ逆さまに海へ、落ちなかった。
船縁に身を乗り出したロゼがいて、その両手がアヤさんの右足を掴んでいる。
「っ、アヤさん。今、助けます!」
ロゼが言い放ち、相手の身体を一気に引っ張り上げる。
様子を見ていて、思わず歓声が出た。ディランさんも同じだ。
「――だ、大丈夫でしたか?」
ややあって立ち上がったアヤさんが、声をかけた私に手を振った。
大丈夫らしいが、眼鏡は外れかけ、息も絶え絶えといった感じだ。相当怖かったのは想像するまでもない。
危機感が強まる中、なんとか着水したボートに大波が打ち寄せた。
立ったまま縄梯子を持っていて、私はバランスを崩しかける。
でも、ちょうど最後に下りてきたロゼがボートに乗って、それを見ていたアヤさんが、吊るされていたロープを素早く解いた。
「いけます、出してくださいっ」
私が言うのを待っていたとばかりに、ディランさんがモーターを稼働させる。
……とにかく、急がなきゃ絶対にまずい。
水しぶきをあげて、ディランさんの操作するボートが外板から離れる。
白んできた空を映す海には、木片や積み荷の残骸などが散乱していた。
全員の見つめる先――。
二十メートル程、後方になった船体は、いよいよ船橋までが沈みはじめた。
あちこちで激しい火花が散り、閃光が瞬く。
その直後、船で爆発が起きた。
一瞬、海面が真っ赤に染まる。
空気が振動し、伝わってきた高熱に、私は呻いた。
燃え盛る炎が、船橋を巨大な火柱へと変えて……。連鎖する爆音と一緒に、火の玉みたいな落下物が、次々とボートの周辺に振ってくる。
「伏せるんだッ」
ディランさんの声に全員従い、加速したボートが白波を立てた。
炎と煙に包まれる船の姿が小さくなり、やがて握りこぶし大程度の大きさになって、モーターを停止させたディランさんが、力なく座り込んだ。
ロゼとアヤさんは、無言で屈んでいる。私も同じ姿勢で、凄惨な光景から動かないオーブとキッカさんに目を向け、溜息をついた。
安堵感はあるけれど、頭が回らない……。
そこへ、騒々しいサイレンのような音が聞こえて後ろを向く。
――晴れ渡った空の下。
船体に沿岸警備隊という文字の見える一隻の船が、私達の方に近づいてきていた。