歪んだ世界 十
目を見開いたキッカさんが、顔を正面に戻す。
その身体が崩れ落ちて、照明に照らされる甲板へ仰向けに倒れていく。
時間が止まったような感覚の中、私は駆け出した。
走りながら、ジャスティンさんを信じ難い思いで見つめた。
相手は、拳銃を持っている。ジャスティンさんが、キッカさんを撃った……!
「キッカさんっ!」
私は膝をつき、背後から抱きとめた相手に呼び掛ける。
キッカさんは喘ぐように口を開いた。
しかし、出たのは言葉ではなく血塊だ。
「く、クリス」
「ロゼ、ロゼッ、血を止めなきゃっ」
傍にしゃがんだ相棒へ、私は叫んだ。
ちくしょう、どこを――。
「胸を撃たれている。もはや助からんよ」
「なっ」
聞こえたブラッドの声に、私は絶句した。
その間にも、咳き込んだキッカさんがまた血を吐いて……。
触れている黒衣がじっとりと湿り、私の手や服も赤に染まっていく。
待って、なんとかするから待ってよ!
心の中で喚いた時、血で濡れたキッカさんの口元が、微かに動いた。
「クリス、ちゃん」
「キッカさん、しっかりしてくださいッ」
私は、苦しそうに呻くキッカさんに呼び掛けた。
「……ごめんね。助けられ、なくて」
「なに言ってるんですか。謝らないでいいから、しっかりしてよ!」
消え入りそうな囁きに大声を返し、私はキッカさんの身体を抱く手に力を込める。
同時に、相手の全身が痙攣して、
「わたし、ばかだった……。ジャス、ティン……」
そう呟いたキッカさんの、涙のこぼれる目が、静かに閉ざされた。
「……キッカさん?」
重さの増した身体を揺すり、私は何度も名前を呼ぶ。
けれど、反応が無くて、
「う、あぁ」
眠っているような相手の有様に、私は声にならない声をあげた。
様々な感情が一度に溢れて混乱する。
胸が引き裂かれるように痛み、激しい吐き気に襲われた。
なんでよ、なんで、こんなことに……。
「か、彼女は?」
私の後ろから聞こえたディランさんの問いに、ロゼは目を伏せて首を横へ振った。
「そんな……」
アヤさんの声がして、ディランさん共々、言葉を失った気配が伝わってくる。
「何故、撃った?」
ロゼが低い声で問うと、ジャスティンさん……いや、ジャスティンは手の銃へ視線を落とした。
「この期に及んで、まだキッカが抵抗するようならば、俺が殺すと決めていた。そうなっただけだ」
沈んだ口調の男の答えに、
「馬鹿な真似をしたとはいえ、なんとも悲劇的な結末だな。しかし、射撃は練習中らしいが見事な腕だったぞ、ジャスティン」
そうブラッドが続けて、私は目眩がする程の怒りを覚えた。
銃の扱いを学んでいたのは、大切な人を、キッカさんを守る為じゃなかったのか。
「キッカさんは、ジャスティンさんのことが好きだったんです……! 貴方は、そうじゃなかったんですかッ?」
私の横に立つオーブが、声を震わせた。
「俺もキッカを愛していたさ。だから、この場の誰よりもキッカの死を悲しんでいる。こうなってしまったことを、心から後悔しているよ」
応じたジャスティンが、顔を歪めて嘆息を漏らした。
「もっと早く、なんとしても、キッカに真実の記録を見せるべきだった。そうすれば、彼女は死なずに済んだ」
「なによ、それ。そんなことを、本気で悔んでるって? ふざけるな!」
私は言葉を叩きつけたジャスティンを睨む。
命の価値は人によって違う。そして、今、一番悲しいのは確かにジャスティンだろう。
でも、これじゃキッカさんがあまりに救われない。
キッカさんの行動を、無駄にしてたまるか――。
私はコンテナの間の通路を見据えた。
六メートル程先にジャスティンが、その後ろにブラッドと船員達が佇んでいる。
ブラッドを人質にしようとした、キッカさんの判断は正しい。それ以外、この状況から船を脱出する方法はないだろう。
私は抱きとめていたキッカさんの身体を、そっと甲板に寝かせた。
続けて、足に力を入れ、大きく息を吸い込む。
多分、ブラッドも銃を持っていて、私が動けばジャスティンと共に撃ってくる。ただ、相手が躊躇えば、或いは弾が当たらなければ、つけ入る隙はあるはず。
恐れるな、行け……!
私は突進し、ポケットのスタンバトンを引き抜いた。
起こった人のざわめきを耳にしつつ安全装置を解除する。
「と、止まれっ」
前方に立ちはだかったジャスティンから銃口を向けられるも、遅い。
突き出したバトンの先端が相手の太股に触れる。
瞬間、私は電撃の作動スイッチを押した。
「がッ!」
短い苦痛の声を聞き、私は真横へ跳躍する。
すぐさま甲板を踏みしめ、低い体勢をとった後。再度、足に力を込める。
その時、視界の端でジャスティンが倒れ、正面に捉えたブラッドが腕を高速で動かした。男が瞬時に手にしたものは、拳銃だ。
――間に合え。
何かに祈り、私は足を踏み出す。
しかし、同時に、強い衝撃と灼熱感が右手に走った。
握っていたバトンが手から落ちて甲板に転がる。
ロゼや皆が何か叫んだけど、私は答えられず反射的に前腕を見た。
痛みは無い。でも、猛烈に熱く、つなぎの袖には小さな穴が開いている。その周囲が赤く染まりはじめて、撃たれたことを実感した途端、額から汗が噴き出た。
……完全に、しくじった。
「速いな、クリスティア・ライト。攻撃を警戒してはいたが、ジャスティンは撃つ暇も無かったか」
銃を私に向けたブラッドが、そう言って冷笑を浮かべた。
「ジャスティンは……生きているな。冷静に俺だけを狙って人質にとろうとしたのか。大した女だ」
嘲りを含んだ男の言葉を聞いていて、止血する左手に力がこもる。
ただ、ブラッドの動きこそ、速いなんてものじゃなかった。
銃の腕といい、この男……強い。
それで、ここから、どうする。
思案していて、急に身体がよろめいた。
数歩、後退した足と背中がコンテナの側面にぶつかり、そのまま体重を預ける。
出血がひどい。掲げた右腕の肘から先はすでに赤一色となっていて、熱さがおさまる代わりに痺れてきた。
「おっと、誰も動くな。ロゼッタ・バーンズ、お前もだ」
青ざめた顔で立ち上がっていた相棒が、牽制してきたブラッドに鋭い眼差しを向ける。
「抵抗はしない、クリスの傷を見させてくれ」
感情を押し殺したような低い声と共に、ロゼがポケットのバトンを放り投げた。
……が、対するブラッドは、にやりと笑って首を左右に振る。
「治療はこちらでやる。なに、腕に穴が開いた程度で死にはせんよ。それよりも、クリスティア・ライトの様をよく見ておけ。ああ、なりたくなければ――」
男の話が一旦、途切れた中。私の前に人影が立ち、その小さな背で、風に吹かれるセミロングの黒髪が揺れた。
――オーブ、なにを?
「大人しく指示に従え。理解したかな? オーブ・ライトよ」
ブラッドの忠告に、少女は反応を示さない。
焦って声をかけようとするも、
「まあ、いい。二人を捕らえろ」
ブラッドに命じられ、四人の船員が私とオーブの方へ詰め寄ってきた。
全員素手だが、身長二メートル近くある男達で、こっちの動きに目を光らせている。
捕まったら最後だ。でも、ちくしょう、今の私に何ができるのか。
考えてもわからなくて、ただ唇を噛みしめた時、
「……さがって、ください」
不意にオーブが、聞いたことの無い暗い声を発した。
それは、言われた男達にも届いていた。
しかし、気にもとめない様子で、一人が無造作に少女へ手を伸ばす。
瞬間――、
「さがれえぇッ!」
怒号をあげたオーブが、眼前の男の腹部へ下から拳を突き上げた。
その一撃だけで相手は低く呻き、甲板の上に倒れ伏す。
「――な」
驚愕した別の男の前で、オーブの身体が旋回する。伸び上がるような回し蹴りを顎に受け、そいつは驚いた顔のまま白目をむいた。
「お、おまえッ」
違う男が雄叫びと共にオーブへ掴みかかるも、逆に手をとられる。そこから力任せに投げられた相手の身体が、明け始めた空を舞った。
甲板に落ちて悶絶する仲間を目にした男が、猛然と拳を振りかぶる。
大振りの一撃。それを踏み込んでかわしたオーブは、お返しとばかりに前蹴りを繰り出した。下腹部の辺りに爪先をめり込ませ、後方へ吹き飛んだ男が動かなくなる。
「凄い……」
肩で息をするオーブの背中を見たまま、私は無意識に呟いていた。
激昂して、普段おさえているという力を出したのか。全員生きているようだけど、男達を倒すまでの時間はわずか数十秒。オーブの身体能力の高さを知ってはいたが、こんなに強いとは……。
「――いや、驚きだ。オーブ・ライト、ただの小娘かと思っていたが、やはり遺跡調査員の女は侮れんな」
感心したような声で、私は我に返る。
「だが、揃って愚かでもある。一歩でも動けば撃つ」
続けたブラッドが、オーブへ銃を向けていた。
「お前達のやっていることは悪足掻きに過ぎん。どれだけ暴れようと、ここにいる同志を全て倒すことは不可能だ」
話すブラッドの隣に、バトンやパイプを手にした船員達が並んだ。
また、通路後方にいた人間も距離を縮めてきて、ディランさんとアヤさんが顔を強張らせる。
「そもそも、俺を人質に取ったところで意味など無い」
「どういうことだ……?」
ロゼの問い掛けに、オーブを狙ったままブラッドが口を開いた。
「俺は取引に使われるくらいなら死を選ぶ。例え殺されようとも、同志を退かせる気はないというわけだ。残念だったな」
他人事のような相手の答えを聞いて、私の背筋を悪寒が駆け上がる。
――嘘だ。そうじゃなかったら、もう為す術なんてない。
「クリスさん、わたしッ」
「動かないでっ」
私を見やり、硬い声を出したオーブに言葉を返す。
けれど、少女の瞳に険呑な光が宿った。
「ああっ、やめて!」
制止も遅く、飛び出した少女が私の落としたバトンを拾い上げる。
同時に銃声が響き、私の視線の先で、オーブが……うつ伏せに倒れた。
ロゼが、ディランさんが、アヤさんが、少女の名を叫んだ。
でも、私は呆然としたまま、動けないでいた。
誰の声も遠く聞こえて、頭の中が真っ白になっていく。
「警告を無視した上、元々人質の価値も低く、生かしておくのは危険。以上の理由で娘を撃った。弾は頭部に命中し、即死だろう。俺の行動に対してなにか疑問はあるか?」
「ッ、おまえは――!」
ブラッドに問われ、私は無我夢中で駆け出した。
目の前が赤く明滅する。
もう何がどうなってもいい。
向かう先にいるブラッドを、この男だけは殺してやる。
そう考えた時、視界の隅で、オーブの身体が確かに動いた……!
私は足を急停止させ、すっと立ち上がった少女に向き直る。
……生きてた。弾は、外れたの?
無言で俯いているけど、しっかり立ったオーブの姿に思わず安堵する。
ただ、すぐに怒りが再燃し、私は呆気にとられたような表情をしているブラッドを睨めつけた。
直後、オーブが顔を上げて、
「う、あア、うあああ――ッ!」
絶叫が、朝焼けの空に轟いた。
少女の口から放たれたそれは、もはや咆哮に近く、呼応するように起きた突風が甲板を吹き抜ける。
そして、再びオーブが倒れて、私は息をのんだ。
なにが起きたのよ!
私は急いでオーブの傍にしゃがみ、動く左手でその身体を揺さぶる。
しかし、叫んだことが嘘みたいに、瞼を閉じた少女はぐったりとして意識がない。
「そいつは、一体……」
「く、ブラッド!」
かすれた声に驚き、視線を上げると、私の傍にブラッドが立っていた。
食い入るような目つきでオーブを見ている男。その口が開いて何か言いかけた時、強風と一緒に奇妙な音が聞こえ始めた。
次第に大きく、甲高くなる音は、大気そのものが振動しているようで……。すでに船員達も気づき、口々に何かを言い合っている。
自分の周囲では、アヤさんとディランさんに加えて、ロゼが空を見上げていた。
すると、俄かに人が騒いで、私は顔を船橋へ向ける。
そこにあった照明の光が、一斉に上空を照らした。
「ブラッド様、太陽の方角です!」
船橋に立つ船員の告げた方向を、私は凝視する。
……と、陽が差した赤い空に何かが浮かんでいた。
鳥かと訝しみ、でも、迫りくる黒い巨体が陽光に輝いて目を見張る。
「フェザーだ」
その生物の名称を言った誰かの声が、吹き荒ぶ風の中で聞こえた。




