H.Dの場合。
過去編です。
結構堅苦しい話になってしまうかもしれません。
初めに光あれと神は言った。
その時はそんな言葉は知らなかったけれど、カノジョが卵の割れ目から見えた世界はとても明るく光に満ちていた。自身の身体に付いていた殻を外し、周りを見渡した時に目に入ったのは、七色に光る鱗であった。そして、遥か地上よりも高いどこかの山の絶壁に近いその場所には、他の生物の姿は無く、その壁の様に立ちはだかる絶壁には巨大な爪で引っかき書かれただろう文字があった。
『理想郷を探しなさい。彼は、L.Dはそこにいる』
世界に出でて直ぐではあったが、カノジョはそれを理解出来た。そして七色に光る鱗を大事に抱えると、確かめる様に羽を幾度か広げ、当たり前の様に空へと飛び立った。
その理想郷がどこにあるのか。勿論カノジョには分かるはずも無く、当ても無く飛んでいった。幾日か飛んでいたであろうか。高い山の泉に、同属の気配を感じカノジョは降り立った。ちょうど水を飲もうとしていたカレに理想郷を、L.Dを知らないかと尋ねた所、何といきなり知っていると答えが返って来てカノジョは驚いた。
「L.Dね…。あの鼻摘まみ者の話をこんな所で聞くとは」
何でもL.Dという者は、この種族にあるまじき事に、一切肉を口にせず、草や蜂蜜酒や豆などを常食とし、ヒトと関わって生きている為、種族のつまはじき者であるらしい。そんなはぐれ者が作ったのが理想郷だという。場所はどこなのかは興味もない、そんな事をとうとうと語った後、口に付いた水滴を顎を振るう事で弾いたカレは、さらにこんな事を言ってカノジョを驚かせた。
「なぁ、そんな事よりも俺の卵を産んでくれよ」
その眼は、カレなどという者では無く、【オス】の物。自身を明らかに、カノジョという固体では無く、【メス】としてしか捉えていなかった。そんな【オス】の視線に本能的に怖気を感じ、カノジョは口早に礼を述べると、慌ててその場を逃げ出した。
それから三日程、辺りを伺いながら逃げ続け、【オス】から逃れる事が出来たカノジョ。非常に不快な数日ではあったものの、収穫はあった。しかし、あの文字は何故そんなはぐれ者を探せというのか。ここ数日、空腹を覚える度に口にしていた香草を食みながら、カノジョは疑問を抱え続けた。
きっと、その理想郷に行けば答えが分かるはずと、高度をグッと下げ、街道らしき場所へと舞い降りた。折りしも馬とその後ろに何やら荷物が見える。種族は違うが、先日の様な何か悪い事が起きなければよいと恐れつつ、その馬に話しかけるカノジョ。
「うわ! 何でこんな街道に竜が!」
馬の後ろの席に掛けていたヒトが悲鳴を上げる。勢いよく引っ張られた繋がれた紐で馬が苦しそうだと、近付いてそれを爪で切ってやる。それを見て、さらにけたたましい声を上げると、ヒトは荷物をそのままに去ってしまった。馬も少し困った様に後ずさっていたが、こちらが敵意が無いのが分かったのか。荷物から開放され、近くの草を食み始めた。
「すいません、理想郷をL.Dをご存知ないですか?」
のんびりと草を食んでいた馬は、自分は詳しくは知らないが、噂はヒトがしていたのを聞いた事がある。この先の大きな建物のヒトなら知っているかもしれないよと、優しく教えてくれた。礼を述べると、教えてくれた方向へとゆっくりとカノジョは飛んでいった。
そこは大きな建物だった。その周りには深く掘りがあり、水が湛えられている。ゆっくりと滑空して近付くと、高い所にいたヒトが慌てて何かを飛ばしてきたので避けつつ入り口と思しき辺りへと舞い降りる。先程の様に驚かせてはいけないと、翼を畳み、出来るだけ丁寧な口調で声をかける。
「申し訳ありません。理想郷とL.Dの事をこちらで伺えば分かると聞いたのですが」
それを聞いて、先程何かを飛ばして来たヒトは得心いった様に、手を上げると建物の中に誰かを呼びに行った。
「まさか、カレの名前をあなたの様な竜から聞ける日が来るなんてね」
そういって、こちらを一切怯えも驚きも無く見詰めるのは、金属製の服…鎖帷子を着た壮年の男性だった。建物…城からテーブルを出してきてお茶を振舞ってくれる。このままでは飲みづらいと相手の姿に合わせようと思っていると、どうやらヒトと同じ姿に自分もなれた様だ。男性が驚いている。
「これはこれは、淑女の方でありましたか。失礼致しました」
お茶菓子と持ってきてくれた優しそうな婦人と、一緒にとても幸せそうに笑う二人。ここが理想郷なのだろうか。そう尋ねると、それには至ってはないと言う。
「L.Dが作ったあの場所はまさに理想郷だった。我々もそこを目指して日々過ごしております」
何と彼らは実際にその理想郷に住んでいた事もあり、L.Dと言葉を交わす日々を過ごしていたという。場所を詳しく教えてくれたが、その表情が暗く、まるで過去の事を話している様な二人に気がかりを覚えながら、再び本来の姿へ戻ると教えてくれたそこへと翼をはためかせカノジョは向かった。
遠くからでもラベンダーの香りが分かる。そこは谷の中に作られた隠れ里…だった。そう、そこは既に人の気配も何も無く、沢山のラベンダーで覆われた廃墟であった。呆然としながらも彷徨ったカノジョは奥で決定的な物を見つけてしまった。
『偉大なるL.Dに捧ぐ』
それは墓。沢山のラベンダーで覆われたそこは、かつての理想郷の跡、そしてL.Dの墓標であった。彼は本当に皆に愛されていたのだろう。既に草が好き勝手に伸び、建物が朽ちてはいたものの、とても静かで落ち着く場所であり、墓標も非常に丁寧に作られているのがよく分かる。何故か流れる涙を拭いつつ、理想郷だった場所を後にした。
L.Dの事を教えてくれた男女…夫婦の元に気付けば戻っていたカノジョを二人は温かく迎えてくれた。
「あなたに教えなかった事があります。私はかつてL.Dと戦った事があるのです」
驚いて声も出ないカノジョに彼は、騎士は語る。しかし、戦闘の前に諭されたのだと。争いは愚かであると、そして理想郷へと連れて行かれそこで暫く過ごしたのだと。
「昔、L.Dに聞いた事があります。かつて意思を同じくする雌竜に出会い、想いを同じにし…、そして別れたと」
恐らくあなたはその一粒種ではあるまいかと。
「L.Dは…私の父…」
恐らくと、静かに頷く騎士の言葉に、自分が無意識に流したあの時の涙の意味をカノジョは理解した。あの生まれて直ぐの場所に刻まれた文字の意味も。あれは…母の物であったのだろう。胸元から取り出した鱗をカノジョはそっと抱き締めた。
「これから、どうなさるのですか?」
「世界を、見ていこうと思います。父の目指した物の為にも」
婦人の声に、そう言って静かに笑うカノジョ。
「我々も、L.Dがなそうとした事を、可能な限りここで再現したいと思います」
いつか、ここが理想郷になるのだろうか。ヒトの生ある内に為せるのだろうか。分からないけれども、この二人の笑顔を信じてみたいと思った。
カノジョは長い時間をかけて世界を見て回った。その中で神、さっちゃんに出会いこの世界へと誘われた。
「まさか、一緒に世界を作ろうなんて誘い文句を言われるとは思わなかったわ」
「ふふふ~。私も世界を彷徨う竜がいる何て聞いて随分探したんだよー」
H.Dの家の傍、屋外に出したテーブルでお茶をする二人。結局母の行方はしれなかった。騎士夫婦は事を可能な限り成し遂げたと聞く。子供達も出来る限りそれを守っているという。
「ここは…H.Dの言う理想郷になったのかな」
その問いに、ローズヒップの紅茶が入ったカップを見詰めながらH.Dは答える。
「理想郷なんて物はね…。常に追いかけ続けるからこそ、生まれる物なのよ」
完成した物は、きっともう理想郷ではない。それが世界を見て回ってカノジョが自分なりに出した結論だった。
「だってねぇ…」
リーフタウンからやってくる狐の姉妹の姿が遠くに見える。
「あの娘達に出会って、我が神も考えを変えたし、何が良いことになるか分からないわ」
さて、と立ち上がったH.Dを柔らかい笑顔で見送る半神たるコウモリの羽を持った女の子。
「新しいお客様の為に、お茶を入れて来るわ」
長年姿の変わらない彼女の為に、新たな仲間狐の姉妹の為に、お茶菓子とお茶を
用意しながら思う。きっとこの世界はまた少しずつ形が変わっていくのだろう。そう、人生の様に。
「ねぇ…父さん、母さん」
墓標は父の物しかない。母はきっとどこかで母なりの理想郷を作る為に動いていると信じているから。
後ろから賑やかな声が聞こえる。今日はきっと楽しい食事になるだろう。それを考えただけでも嬉しくなる。
「そういうのも、一つの理想郷だと思わない?」
本当はもっと長かったのですが、延々と哲学を語ってもうっとおしいだけなので、かなり削りました。
次は誰になるかは書き上がり次第投稿します。