そこは憩いの場所
太陽が沈み始め、外も段々と橙色から紺色、そして墨の色と深くなっていった。さて、今夜もお出かけの時間だ。
うちの宿屋は村の賑やかな所にあって、それと比べると山を後ろにして静かなそこは、毛色が違う場所。宿屋から少し歩いて、村の表通りを抜けると綺麗に手入れされた庭が見える。その庭を通って玄関の扉の左右にはドラゴンの彫刻がお出迎えしてくれる。片方は口を開いていて、片方は閉じている。悪いものが来たら食べてしまう様に、そして逃がさないようにという守り神らしいんだ。この彫刻を私は気に入っていて、必ず撫でてから入る事にしている。
カランコロンと、静かに入り口の鈴が鳴る。
「マスターこんばんは~」
「いらっしゃい」
渋いバリトンの声でマスターが声をかけてくれる。黒色の髪、黒い服に素敵な髭の渋めのおじ様だ。ここは『烏龍亭』私のお気に入りの喫茶店。いつも座るカウンター席の端っこに、いそいそと向かう。お店自体はあまり大きくはなくて、20人も入ったら動けなくなりそうな感じ。こじんまりとしながら、お洒落な物が色々と配置されている素敵な空間。壁際にはフルートやバイオリンという名前らしい楽器が飾ってあって、そこからは静かに音楽が流れて来てる。マスターに聞いたら、妖精と契約してるとか。
「御注文は?」
「いつもので」
ニヤッと笑いながら頼むと、マスターもニヤリと返してくれる。いつものって言う常連さんの言い方に憧れて、二回目に来た時から私も無理矢理使ってる。尻尾が床につかないように、少し高めの椅子に座ってるんだけど、私だと足が床に届かない。足をプラプラさせながらマスターが『いつもの』を用意してくれてる様子を見ているのは楽しい。子供ぽいと笑われる事もあるけど気付いたらプラプラとやっちゃう。自分が何歳なのかは覚えてないけど、知識量やなんかで多分子供ではない…とは思う。
逆に黒髪をオールバックにしていて、銀色の前髪が何本か垂れてるマスターは渋くて素敵でいかにも大人って感じ。年齢は内緒らしい。こういうお店のマスターはそういうものだというこだわりがあるんだとか。いつかあの前髪に触ってみたいと思うけど、それこそ子供扱いされそうだから勿論口には出さない。それにしても、毎日の暮らしやお店が忙しくて基本的に忘れてるけど、自分がどこから来たか、何をしていたのか、そもそも誰なのかが分からないっていうのは結構大変だ。
宿屋で働きだした時も、お客さんに色々聞かれても何も答えられず、親父さん達に随分と助けてもらった。最近じゃ常連さんの顔も覚えて軽口を返す位に慣れてきてはいるんだけど。
そんなこんな考えている私の前でマスターは豆を計り始めた。お客さん毎に豆を入れ直すし、分量も違うみたい。昼間の内に炒って挽いておいた豆、もう粉になっている物を天秤に乗せる。小さい竜の形をした分銅が何かの単位らしく、目の前で竜が二つ三つと天秤の片側を揺らしていく。もう片方に置かれた紙の上に粉が少しずつ置かれ、揺れが止まると、素早く濾紙へと移される。そして静かにお湯を注ぐ。この瞬間・時間が私は好き。
「はいお待たせ。いつもの」
「ありがとうございます」
ニマニマしながらカップを受け取る私をマスターもまた素敵な笑顔で見つめている。持ち手も竜の彫刻になっているカップの中で上品な香りを漂わせている黒い液体は『コーヒー』だ。
「いただきま~す」
一口飲むと身体が温まって来る…のを通り越して、熱くなってくる。そして身体がぐんにゃりしてくる。そうそうこれですよ!頭の中が少し溶けながら上がるテンション。…何故か私は珈琲で酔っ払うのだ。
「相変わらず面白いなコンスケちゃんは」
「なにがですかぁ~?」
ふふっと笑うマスターに、笑い顔で返す。
「見てて飽きない」
「よくーいわれますぅー」
カップ半分位飲む頃にはもう結構へにゃへにゃだ。なんだかんだで、記憶がないというのはストレスになっているみたいで、普段は無意識に張り詰めているものがここでは緩む。初めてここに来た時もそうだった。目が覚めて親父さんに色々聞かれて何も覚えていない…というよりも、まるで何かが抜け落ちた様な空白でパニックになりかけた時、親父さんは黙ってここに連れて来てくれた。
まぁ親父さんも私がコーヒーで酔っ払うなんて思わなかったらしく、ぐんにゃりと溶けてる私を見て随分驚いていたけど。マスターは何も言わず、溶けてなんだかよく分からなくなっている私をただ優しい目で見ていてくれた。それから仕事終わりに時々来る様になり、今に至る。そして私は今日もマスターにくだを巻くのだ
。
「ますたぁぁ~きいてくださぃよぉぉお…」
「全くコンスケちゃんの尻尾に触ろうとするなんてヤツは殴っていいんだよ。この極上の銀色フサフサ尻尾を」
褒めてくれるのが嬉しくて、ゆい口から出る。
「ますたぁ、さわってみますかぁぁ」
「ほらほら、そういうのは大事なヤツの為に取っておきなさい」
そういうものなのかなぁと思いつつ、素直に黙る。マスターだけは、フルネームのコンスケで呼んでくれる。女の子なのに、なんでコンスケなのかは分からないけど、私は自分の名前がコンスケだという事だけは知っていた。大体はみんなコンちゃんと可愛らしく呼んでくれる。
マスターも誉めてくれる私の尻尾は、お尻から上に向かって頭の後ろ位まで伸びていて、少し曲がって『の』の字を描いてる。綺麗な銀色で、櫛通りもよくて私も気に入っている。寝るときは抱きしめて寝る事も出来るから最高なのだ。
絡みながら意識が段々と怪しくなる私の話に相槌を打ちつつ、マスターはコーヒーにミルクを垂らしてくれた。黒いコーヒーの上を白いミルクが綺麗に渦を巻いていく。綺麗だけど目が回ってきて、まぶたをギュッと閉じる…。マスターの声だけが遠くから聞こえて来る…。
「銀河系みたいだろ。世界の境界もこんな風に溶け切らないで曖昧だから君達が来れたのかもしれないな。なぁ、ユウスケ」
私はコンスケだよマスター。意識が遠ざかっていく中で、その謎の質問に心で答えながら私はゆっくりと夢の世界へ旅立っていった。
2013/03/15 ちょこちょこ修正
コーヒーの描写を強化しました。