上野駅にて
師走月の上野駅は歩く人波でごった返していた。
駅構内スピーカーからはいくつもの声が騒がしく流れていて、それに隣のホームの発車音が重なり、喧騒に慣れていない華月は思わず耳を塞いだ。
華月は正面の大きな広小路口の改札口から荷物を転がしながら出て、人の流れのない隅のほうに歩いていってそこで『ふうっ』と一つ大きなため息をついて立ち止まった。
――これからが、私の本当の始まり。今までは飛行場の滑走路。
華月は、仙台市内の借間で最後に書いた日記の言葉を思い出していた。
構内のホールの外にはいったい何があるのか、華月にはほとんど想像ができなかったが、とりあえずは今日から住むところと働くところを探すことが先決であることくらいはわかっていた。
――テレビで見ていたような、ホームレスにだけはなりたくない。
構内の出口まで百メートルくらいあったので、人波の流れを避けながら再び荷物を転がして歩き出した。出口にかかるかかからないかというところで、華月は背の高いスーツ姿の男に声を掛けられた。
場所は上野駅の遠距離列車のホームから出たところ。華月の姿は私服ではなく学生服を着て、手には小さめのスーツケース。そして顔は東北の田舎の方でよく見かけるような赤い『りんご』のほっぺた。メモのような紙や、地図や、携帯なども一切手に持たず、ただきょろきょろとしながら、とぼとぼ歩いている姿。あたかも『私は家出娘です……』という看板を掲げて歩いているような格好である。
「お嬢さん。誰か人と待ち合わせ?」
華月は知り合いのいるはずもない初めての地で突然声を掛けられ、自分ではないと思ったが、その男のほうを見るとどうやら自分のほうを見ている。
「いいえ」
男はわざと驚いたような顔をして、そのあとすぐにっこりと微笑んで言った。
「今日泊まるところとかあるの?」
「まだわかりません」
「ん? まだわからないって……。変な言い方だね。いつかはわかるわけ?」
華月は少しうつむきながら答えた。
「いつかは……あの。わかりませんけど……」
「そうか。きみ。お金、全然持ってないんだろう? 全然」
完全な誘導尋問である。遠くから出てきた家出少女がまったく金を持っていないことは普通有り得ない。
華月は思わず自分のスカートの右ポケットを抑えながら、
「いいえ、お金は持ってます」と言った。
「嘘! セイゼイ持っていたって二・三千円くらいだろう。そんなもんじゃ持ってるって言わないよ」
「もっと、ちゃんとありますから」
「じゃあ見せてごらんよ。そのポケットの中」
華月はポケットから十八万円の入った封筒を出して中味の札を半分引き出して男に見せた。
「いくらあるの?」
「十八万円よ」と華月は男の誤解に抗議の目をしてみせる。
「そうか。疑ってごめんね。そんな大金一人で女の子が持っていたら、ここではすぐ盗まれちゃうよ。すぐに」
そう言って男は背広の内ポケットから自分の札入れを出し、その中から一枚の紙を取り出した。それからその紙にペンでなにやら字を書き込み名刺入れから出した名刺と一緒に華月に差し出して見せた。
その紙には、こう書かれてあった。
『お預かり証・金壱拾七萬円也 正にお預かり致しました・三菱東京UFJみずほ銀行 上野広小路支店』
上野広小路支店の脇には角印社版の朱印が押されてあった。金額のところだけは手書きで、その他は活字である。また、名刺は、『三菱東京UFJみずほ銀行 上野広小路支店 支店長代理 瑞穂浩一郎』とあった。
「銀行の人?」
「そうですよ。そこの上野広小路支店の……ああ、知らないか」
男は続けて言った。
「とりあえず危ないから十七万お預かりしましょう。残りの一万円は取られないようにしっかりね」
そして銀行の封筒らしきものを出して、そこに十七万円入れるよう促した。
「すぐそこ、五分くらいのところに店舗がありますから、カードと通帳はそこで作りましょう。それまではこの預り証で……」
「はい」
華月は十七万円を移し入れた封筒を男に渡し、預り証と名刺を受け取った。出口をくぐった先三〇メートルくらい先に別な背広の男がいて、手を振っている。
脇にいた背の高い男は、
「ああ、支店長だ。ちょっとここで待っててくれる?」と言って華月の渡した封筒を持って手を挙げている男の方へ走って行った。
あっという間に人ごみに紛れて男の姿は二人とも消えた。
華月は十五分くらい待ったが、男は現れなかった。華月はうろうろと出口付近の男を捜したが、そのうちまた口がへの字になってきた。そして封筒に残った一万円札を確かめ、小さく折って再びポケットにしまった。