故郷のこころを胸に……
単身、東京に出てきてから衝撃的な出来事を次々と体験した華月は、その後佐竹のもとに戻ることなく忽然と行方がわからなくなった。しかし佐竹は今回、華月や秀美と出会った後のさまざまな出来事が、さも何事もなかったかのように、以前と全く同じペースで彼曰く『男と女の何でも屋』の仕事を進めていた。
そうしてあたかも季節が早送りのようにめぐりめぐって、暑い夏が過ぎ秋が過ぎて冬を迎え、翌年も過去何事もなかったかのように春が告げられ、一年後の初夏を迎えた。
ある日、佐竹はJR山手線田町駅を出て第一京浜国道をわたった先の通りで不思議な男が道端に腰掛けているのを見掛けてふと立ち止まった。その男は、妙な感じのあご髭を生やした痩せ型の中年男だった。佐竹は、そんな風変わりな男には一度会えばはっきりと記憶に残るはずであるから、まず初めて会う男であろうと考えたが、それでもどこかで会ったような不思議な感覚が伝わってきた。
佐竹は気になって翌日も、その翌日もその男のいる通りに向かった。何も用があるわけではないので、立ち止まることはなかったが、何度も通りを往復してその男の様子を伺った。
男は毎日夕方くらいから、路上で布製の小さな折りたたみイスに座りヘンな本を売っている。ゴザの上にはジャンルを問わず、薄汚れた古本の単行本やコミック本、絵本、さらには辞書などがずらりと並んでいた。最初のうちは、全く売れないとみえて、いつでも同じものが並んでいるように感じられた。 ところが、ある日ある時からその妙な髭の男の脇にはやたら化粧の濃いサングラスをかけた若い女性が並んで座るようになりだした。ちょうどその頃だ。佐竹には、何故か並べている本の表紙がどんどん変わっていくように感じられるようになった。
――ひょっとしてあんなものが売れてるのか?
一体、いくら位なのだろう、と近寄り覗いてみて佐竹は我が目を疑った。
安いもので二万円。そして、三万円……。さらに高価なものは五万円もの値を付けられた本があった。
そしてある時、佐竹は酔っ払ったサラリーマン風の男が、本を買う瞬間を真近で遂に目撃した。その男が手にとった本は旺文社の漢和辞典と単行本。彼は、その場で旺文社漢和辞典の表紙をめくって何やら真剣に勉強をしている。酔っ払ってふらふらとしながら……。
――その旺文社の漢和辞典にはたしか五万円の値札が付いていたはずだ。
酔っ払った男は旺文社の漢和辞典をもと置いてあった場所に戻し、こんどは単行本の表紙をめくった。小説か何かだろうか。何やら酔っ払った男は真剣に読んでいる。
――冒頭からそんなに夢中になるような本とは一体誰の書いた本だろう。
佐竹はそのことにすごく興味を持ち、脇から男が真剣に見ている裏表紙を覗き込んだ。
男は佐竹に気付き、慌てて本を隠した。
「あっ。だめだめ。冷やかしは厳禁だってさ。だめだめ!」
「……ひっ、ヒヤカシ?」
――ああ、そうかあ。こいつら春を売り買いしてやがる。本が伝言板で隣の若い女は完全なおとりだ。実際の商品のほうは年増のばばあか、三段腹の女がせいぜいだぜ。しかし、それにしても五万とはぼったくり過ぎだ。
佐竹はかつて華月を弄んだ男たちに一回につき六万という法外な金額を請求したことをすっかり忘れていた。
いや、法外などといっても、もともと『法』など存在しない。
酔っ払った男は頷いてその場で三万円を髭の男に渡した。
「ありがとうございます!」
髭の男の脇にいた元気な若い女性の声がした。
佐竹にとってそれは決して忘れることのない声だった。
――華月!
その時、男の手に持たれた本の表紙が佐竹の目にとまった。
――『こころ 夏目漱石』
「…………」
いい年をした酔っ払いおじさんが、薄汚れた古本の『こころ 夏目漱石』を三万円で買っていった。
佐竹は髭の男の顔を見た。それは、よく見ると付け髭とわかり、前髪に隠れた目は明らかに権三郎、いや、秀美の輝きだった。
佐竹は髭の男に向かって笑いながらぼそっと言った。
「権三郎。いやいや秀美。お前もとうとう焼きが回ったな。そんな田舎の小娘を構っていったいどうするつもりだ。それとも養ってやってるようなつもりか。とんだおままごとだぜ」
秀美は佐竹の正面に向き直って言った。
「ところが、その小娘は、体を売ることだけはしないんですよね。ふふっ、残念でしたね。この世界にいてもこの子は心も体も売らない。何人もの私の仲間がこうして目の前で稼いで金を手にするのを見ていてもですよ。何故だかわかりますか? 佐竹さん。この子の心は今でも生まれ育った故郷にあるのですよ」