1.戦うために
美咲は分からなかった。
目の前の男がキャンキャンと吠えている理由が。
理解できなかった。
自立した大人が「俺の飯ぐらい用意しとけよ」と豪語していることが。
この人には理解できないのだろうか。
美咲の腕の中に泣き叫ぶ子どもがいることが。
ここには頑張っても自立できない赤ん坊という存在がいるのに、なぜ自立している大人が場を荒らげているのだろうか。
美咲は理解して笑った。
「おまえ、いらないわ」
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「特殊課程卒業20名、危険指定薬物対策部への配属を歓迎する。」
やっと。やっとここまで辿り着いた。
ーー危険指定薬物、通称名「危薬」。
ようやく危薬を取り締まることができる立場になれたのだと、相沢海斗は万感の思いだった。これで『赤夜』に復讐ができるのである。
昂る気持ちを落ち着かせるため、海斗は息を吐き、大袈裟に肩の力を抜いた。
その瞬間にけたたましく警報音が鳴り響く。
「危薬第一部隊第1班、出動指令。繰り返す。危薬第一部隊ーーー」
特殊課程を卒業した20名にピリッとした緊張が走る。一方、歓迎挨拶中の部長はまるでコントのように大きく項垂れた。
「あー、まぁ9年前に危薬が見つかってからはこんな調子だ。心してかかるように。」
そう言って部長は手元の冊子を開く。
「皆知っての通り、危薬部隊は人手不足だ。よって、新人の諸君も出動してもらう。」
「第1部隊配属は相沢海斗、朝倉陽葵、桐生誠、小林悠真、長谷川湊、以上の5名は出動準備にとりかかえれ。その他新人は5名含め、後ほど部隊と班を発表する。」
「「はい!」」
名前を呼ばれた5人は急いで出動準備に取り掛かる。何度も何度も緊急出動の訓練を行なってきた。覚悟はできている。今回がデビュー戦なだけだ。
「…海斗、落ち着いて。」
周囲の雰囲気を乱さぬように横から小声で諭される。
「うん、ごめん。ありがとう。」
彼女の名前は朝倉陽葵。海斗の幼なじみである。
陽葵は本来こんなところに来なくてもよかった存在だが、ここにいる。そんな陽葵に注意されるなんて。どうやら肩の力は入り続けていたようだ。
陽葵のおかげで海斗はようやく落ち着けた気がした。
部長の指示で出動車両に乗り込むと、恐らく第1班の先輩方が既に乗車していた。
「部長、導引ありがとうございます。」
「まぁ人が足らないしな。肩書きだけだから。」
危険指定薬物対策本部部長、門倉恒一郎。部長としての役割もありながら、海斗たち特殊過程の教師もしていた。
彼の言うとおり、この現場はかなりの人手不足のようだ。
「新人には酷なんですが、現場報告を聞くに呼吸器型かと思われます。」
「呼吸器型…。被害状況は?」
「最初に現場へ駆けつけた警察官2名が殉職、応援で向かったもう1名は無傷ですが…。」
「…なるほど、悲惨な現場みたいだな。」
デビュー戦には相応しくない現場だと感じ、新人らに緊張や恐怖、不安が走る。
海斗自身も喉が鳴るのを感じた。
「新人5名、お前たちの任務は現場に残った一般の方々を守ることだ。呼吸器型は微細な音にも反応することがある。たとえ隣人のチャイムであってもだ。だから避難をさせられない。」
「隣接した住民が出てきそうになったら、すぐに案内する。静かにしていただく。それが今日の仕事だ。対戦は先輩に任せておけ。」
門倉部長がまっすぐ海斗たちの目を見て指示をする。海斗の背が自然と伸びた。
車が静かに止まった。
危薬者を刺激しないよう、隊員全員が慎重に降りていく。
現場はどこにでもあるファミリー向けマンションだった。
「(こんなところでも危薬が…。)」
管理会社より受け取った鍵でオートロックを解除し、事件現場である602号室に向かう。
各階3部屋ずつのため、上階に長谷川、下階に陽葵、避難経路の遠い603号室側には小林と桐生、そして601号室側に海斗という配置になった。
第1班の八田と西川と共に、新人3名は6階へエレベーターで向かう。
エレベーターの扉が開いた。
目の前に目が開いている警察官が横たわっていた。手に無線機が握られているが、その目に光はない。602号室前には力なく投げ出された警察官の足が少し見えた。
海斗は驚いた。いや実感した。
危薬は簡単に人々を巻き込むこと。そしてその被害に、危薬部隊は間に合わないということ。「仕方ない」と受け入れざるを得ない状況が腹立たしい。
小林が声を出さないように手で強く口を押さえている。桐生も顔が強張っている。
小林と桐生の背中を先輩の八田が優しく摩る。彼らは602号室前の警察官を越えなければならないのだ。八田は2人と目を合わせて、行けるか?と目で確認した。
桐生は度胸のある男だ。強く頷いた。
小林は少し震えながらも頷き、八田の目を見る。
それぞれ静かに配置場所につき、西川が現場前で無線機を静かに撫でる。
無線から微かにコツ、と音がなった。
作戦開始の合図である。
現場前の2人が非常に穏やかな顔になり、602号室のチャイムを鳴らした。
「……….はい。」
弱々しい声がチャイムから聞こえる。
「すみません、僕たちこういうものです。ご主人の件でお伺いしたいことがあるのですが、今お時間大丈夫でしょうか。」
「…主人はしばらく戻ってきてません。先ほども聞かれました。」
「先ほど、というのは交番の者でしょうか。」
「……はい。」
「大変申し訳ありません。今、その者たちが6階で倒れているのですが、何かご存じありませんか。」
刺激しないはずじゃなかったのか、と海斗は驚く。これでは挑発である。
実際、女性の声が聞こえなくなった。
しばらくの沈黙。しかし突然に扉が開く。
八田と西川が瞬時に横に動いた。
すると彼らがいたであろう空間がゆらゆらと揺れているように見える。
遠くで赤ちゃんの泣き声も聞こえた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私は捕まるわけにはいかないの!」
白い霧に包まれたなにかがそこにいた。




