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第7話 微かに色付く兆し

 この日から、俺は朝と帰りに水琴さんに声をかけ続けた。


 朝は、


「おはよ、水琴さん」


 と。


 帰りは、


「水琴さん、また明日ね」


 と。


 それだけ。それ以外は、一切話しかけなかった。あまり押し付けがましくするのは避けたかったからだ。


 返ってくる反応は、相変わらずだった。こっちを見てはくれる。そして、目配せのような、うっかりすれば見落としてしまいそうなほどの瞬きだけ。


 そんなことが三日も続き、早くも俺の心は折れそうになっていた。自分がなにをしているのか、なんのためにしているのかわからなくなりそうだった。とてつもなく、不毛なことをしてるんじゃないかって。


 でも、やめなかった。きっと、俺は意地になっていたんだと思う。一度やり始めたことを途中で放り投げたくないって。


 微かではあるが、無反応じゃないのがせめてもの救いだった。それがある日を境に、少しだけ変化し始める。


 二学期も二週目に突入し、誰もが通常通りの学校生活に戻り、慣れ始めたそんな時分だった。


 週明けの朝、俺はいつも通りに教室全体に声をかけ、席に座りながら水琴さんにも挨拶をする。


「水琴さん、おはよ」


 この頃になると、さすがに俺も過度な期待をしなくなっていた。お馴染みになりつつある目礼を見届けようとしていると、水琴さんの視線が左右に揺れた。そして、ゆっくりと、躊躇いがちにその頭がぺこりと下がった。


 俺は呆然と、水琴さんの濡羽色の髪がふわりと靡くのを眺めていた。


 ……無駄じゃ、なかったんだ。


 胸の内が、じんわりと温かくなるのを感じた。


 取るに足らない変化なのかもしれない。でも、確かな変化だ。これを喜ばずにいられるだろうか。いや、いられるわけがない。


「水琴さんっ、今週も頑張ろうね!」


 気付けば、俺はさらに言葉を続けていた。また、こくりと頷いてくれる。水琴さんは無表情のままだけど、今はそんなことどうでもいい。


 期待が持てた。希望はあるんだって、感じられた。なら、まだこの先も続けていける。


 この日から、水琴さんは俺の言葉に会釈を返してくれるようになった。


 *


「また明日ね、水琴さん」


 ──ぺこり


 水琴さんは、俺に軽く頭を下げてから足早に教室を出ていった。水琴さんは、登校も早ければ、帰るのも早い。


「うんうん、今日も健気だねぇ、日向くんや」


「……なんだよ、高橋」


 水琴さんとは反対側の隣人は、今日も今日とてテンションが高い。朝からずっとこれを維持しているのだから、ある意味尊敬する。主に、その有り余る体力と精神力に。


「いやぁ、水琴さんの心を開こうと日々頑張ってる日向を見てるとさぁ、なんかこう、胸にくるものがあるよねぇ」


「……そう思うなら、高橋も声かけてあげたらいいじゃん」


 別に、俺だけしかしちゃいけない、なんてことはないんだからさ。


「んー……」


 唸りながら腕を組んだ高橋は、珍しく難しい顔をしていた。


「なに、なんかあんの?」


「ほーら、あたしってば、こんなんじゃん? 水琴さんにはぜーったいウザがられると思うんよねぇ」


「そうならないように、抑えたらいいだけじゃ……?」


「無理無理っ! あたしにそんな繊細なことできるわけないし」


「あ、自覚はあるんだ?」


「もちろんっ。だって、それがあたしがあたしである所以だからさっ。うははっ!」


 特に気にした様子もなく、豪快に笑う高橋。こういうところ、本当に取っつきやすいやつだって思う。


「それは……確かに。高橋がそんなことしてたら、真っ先に体調不良を疑うよね」


「でっしょー? というわけで、これからもあたしの分まで頑張りたまえよ、少年っ!」


「自分の分で精一杯だってば。でもまぁ……うん。やれるだけはやってみるよ。はっきり拒絶されない限りは、ね」



「……こりゃ、あたしの勘、本当に当たっちゃうかもなぁ」



 ポツリとなにやら高橋が呟いたが、その声は小さすぎて俺に届く前に喧騒に掻き消された。


「え? なんだって?」


 なにを言おうとしていたのかを問いかけると、それ以上言葉にするつもりはないのか、ぴょんと椅子から立ち上がる。


「いーやっ、こっちの話さぁ。んじゃま、あたしもそろそろ帰るよ。まったねー、日向っ」


「えっ、あぁ、うん……また明日」


 高橋はシュビッと手を上げて、教室を出ていく。そのまま廊下にいた他クラスの友人と合流して去っていった。


「なんだったんだろ……?」


 わからない。わからないけど、高橋は行ってしまった。俺は深く考えることをやめた。


「まぁいっか……俺も帰ろ」


 鞄を手に立ち上がる。そして、特等席で疲れ切り、机に突っ伏したままの蒼汰を迎えに行く。


「おーい、蒼汰。いつまで潰れてんのさ」


「あぁ……陽介。俺はもうダメかもしれん。しんどい、死ぬ……」


「早く慣れなって」


 席替えから一週間が経っているというのに、蒼汰は毎日放課後にはこんな感じになっていた。疲れるのはわかるけど、大袈裟がすぎる。


「それができたら苦労しねぇっての……」


「……いいから帰るよ」


 俺は強引に蒼汰を立たせ、引き摺るようにして帰路につくのだった。


 *


 翌朝。


 教室に着くと、やはり水琴さんは俺よりも早く登校していて、また窓の外を眺めていた。


「おはよ、水琴さん」


 朝と帰りだけだけど、俺も水琴さんに挨拶をすることに慣れてきた。なんといっても、なにかしらアクションがあるってのはいいよね。やる気も出るってもんだよ。


 水琴さんは俺を見て、ぺこりと頭を下げてくれる。


 うん、今日もちゃんと反応してくれた。そのことに安心して、鞄を開き、教科書やノートを机にしまっていく。


 そんな時だった。


「…………おはよう、ございます」


 耳を疑った。でも、決して聞き間違いなんかじゃない。


 水琴さんの声は、絹糸を弾いたようにか細く、けれど確かに俺の耳に届いたんだ。


 驚きつつも急いで左を向くと、すでに水琴さんの視線は窓の外に戻っていた。


 少しだけ残念に思ったその瞬間、また、俺の世界が変容を遂げた。


 水琴さんの後ろ姿、その周囲に淡い薄紅色がふわりと揺らぐのが見えた。それはまるで、早朝の東の空にほんのりと差す朝焼けのようで。


 あ……これ、こないだと、同じやつ。

 また……見えた。


 思わず、息を呑んだ。揺らめく光があまりにも美しくて。


 前回とは異なる色。そして、今回は傷みも痺れも襲ってはこなかった。ただただ、色鮮やかな光が水琴さんを彩っていた。


 ……もしかして、水琴さん、照れてるのかな?


 なんとなく、そんな気がする。水琴さんの纏う薄紅色の光は、恥ずかしい時に頬に差す色に似ていたから。


 やがてその薄紅色は濃さを増し、しだいにオレンジ色へと移り変わっていく。


 陽が、昇った。


 不思議と、そう感じた。


 その色の意味するところもも、色が変化した理由も、俺にはさっぱり理解できなかったけれど──


 また少しだけ、水琴さんに近付けたような気がしたんだ。

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