第6話 奮闘の第一歩
二学期二日目の朝。
昨日の決意を行動に移すべく、俺はまず簡単なところから始めることにした。
クラスメイトとして、隣の席の住人として、当たり障りのないものと言えば、思い付くのは一つだけ。
そう、挨拶だ。
おいおい、そんなことかよ、とは言ってくれるな。
別に日和ってるわけじゃないからなっ!
たかが挨拶と侮るなかれ。他人とコミュニケーションは、これがなければ始まらないと言っても過言ではない。基本中の基本だ。
教室の前にたどり着いた俺は、ドアを開けつつ声を張る。
「おはよー」
と、ここまではいつも通り。
すでに登校しているほとんどのクラスメイトから返事があるのも、窓の外を眺めている水琴さんから返事がないのも、全部ひっくるめていつも通りである。
いつも通りなのだから、特に思うこともない。
いや……ちらっとこっちを見るくらいはしてくれるかな、なんて期待をしていなかったと言えば嘘になる。昨日のことがあったから、なおさら。
ただまぁ、本番はここからだ。
新たに手に入れたばかりの席へと歩み寄る。机の上に鞄を置き、呼吸を整えた。緊張はするけど、あくまでも自然に、それが肝心。
椅子を引き、腰を下ろしながら、しっかりと水琴さんを視界におさめる。
そして──
「水琴さん、おはよ」
努めて明るく、声をかけた。
ピクっと、水琴さんの肩が跳ねる。濡羽色の艶髪がふわりと揺れた。そして、油を差し忘れられたロボットのようなぎこちない動きで、僅かに顔がこちらに向く。
そのまま水琴さんは、つり目がちな瞳をぼんやりと開き、微動だにしなかった。俺も返事を待つ意思を込めて、水琴さんの顔を見つめ返す。
瞬きは、しなかった。だから気付けた。水琴さんの瞼が動いたことに。
まるで会釈をするように薄く閉じ、元に戻る。それが済むと、もう用は済んだとばかりにまた窓の方へ顔を向けた。
うーん……これは、なかなか大変そうだなぁ。でも、全くの無視ってわけじゃないし、諦めるには早いよね。まだ初日、これからこれから。
いきなり飛ばして鬱陶しがられても困るので、ひとまず水琴さんから意識を外し、切り替える。鞄を開け、教科書やノートを机の中に移していく。
そんな時のことだ。
「みんなーっ、おっはよーんっ!」
一際大きくて、朗らかな声が響き渡った。茶色いサイドテールと短めのスカートを翻して現れたのは、高橋だった。
高橋は周囲に持ち前の愛想を振りまきながら教室に入ってくる。俺の右隣の机にキーホルダーがジャラジャラとついた鞄をぽいっと投げ置き、人好きのする笑顔を向けてきた。
そして、
「うぇーいっ!」
謎のテンションで手を掲げる。そのノリにつられて、俺はそこにパチンと手の平を叩きつけた。
「おはよ、高橋。今日も朝から元気だねぇ」
「んーにゃ、そうでもないのよぉ、これが。もうさぁ、暑すぎじゃなーい? 汗でメイク崩れそうだし、ゲンナリなわけ。おわかり?」
おどけた様子で顔をしかめる高橋に、俺は苦笑いで応えた。
「いーや、全然わかんないね。それでそんだけ元気なら十分すぎるでしょ」
「にゃははっ! まっ、それがあたしのチャームポイントってことでっ」
ケラケラと笑う高橋を見ていると、細かいことなんてどうでもよく思えてきた。
「んで、首尾の方はどうなん?」
急に声を潜めて、顔を寄せてくる高橋。
「昨日の今日で首尾もなにもないよ。俺から挨拶して、こっち向いてもらった。それだけ」
「おーう……さすがは難攻不落。一筋縄ではいきませんなぁ」
「まぁ、俺も簡単だとは思ってないよ。でも……もう少し続けてみるよ。継続は力なり、ってね」
「いやぁ、漢だねぇ、日向は。これで日向じゃなきゃ、うっかり惚れてたねっ」
……どっちなんだよ。適当なことばっかり言ってさぁ。
ジト目を向けてやると、なぜか背中をバシバシ叩かれた。
痛い。
普通に痛い。
高橋は力加減というものを知らないんだ。
その痛みに顔を顰めていると、ゾンビのような顔をした蒼汰が教室に入ってきた。
「おい……こっちは今日から地獄の席だってのに、それは俺への当てつけかぁ……?」
「あっ、蒼汰。おはよ」
「おっす、望月ぃ!」
高橋と揃って普通に挨拶をしてやると、蒼汰の顔がむっとした。
「くそっ、最後尾の席だからって余裕かましやがって……」
蒼汰はそれだけ吐き捨てると、よろよろと、教卓ド真ん前の自分の席へ向かっていった。
「やーやー、荒れてんねぇ」
「まぁでも、直に慣れるでしょ、俺もそうだったし。といっても、俺もまたあの席になるのはごめんだけどね」
「うん、あたしも普通にあそこはヤダわ」
俺と高橋は顔を見合わせて頷き合った。
それからも続々と残りのクラスメイトも登校してきて、教室内はさらに賑やかになっていく。その喧騒は、先生が来るまで続くことになった。
そして、水琴さんがここまでの一部始終を見て、聞いていたことなど、俺には知る由もなかったのだった。
◆side雫◆
うぅ……また、やってしまいました……。
せっかく、日向くんが挨拶してくれたというのに。
日向くんが、私から視線を外したのを確認してから、横目で様子を伺うことにしました。昨日みたいに、じっと見つめる勇気はありません。あの時は、お礼を言わなきゃって、必死だったんです。
しばらくすると、高橋さんが来て、日向くんと仲良くお喋りを始めました。ちょっぴり──ううん、とっても羨ましいです。
私も高橋さんみたいになれたら……そうしたら、もっと……。
あぁ、ダメですね。また、自己嫌悪です。こんな自分の性格が憎くて仕方ありません。
……はぁ、やめましょう。
ところで……日向くんはなぜ、急に挨拶をしてくれたのでしょう?
昨日、よろしくって、言ってくれたからでしょうか?
わかりません。わかりませんが……
また、してほしい、かも……です。
なーんて、返事もできないくせに求めるだけなんて、そんなの烏滸がましいですよね。
でも……もし、もしも次チャンスがあれば、その時は私も──