第5話 お人好しの決意
「おい、陽介」
呆然と水琴さんが消えていった教室の出入り口を眺めていた俺の視界に、ふらりと蒼汰が入ってきた。
「ん? あぁなんだ、蒼汰か……」
「なんだ、じゃねぇよ。ぼけーっとしやがってよぉ」
「ごめんごめん。ちょっと色々あってさ」
「色々、ねぇ……? お前、水琴さんに声かけてたみてぇだけど、なんかあったのか?」
「いや、別に……隣の席になったから、少し挨拶、的な……?」
どう説明していいのかわからなかった。それに、なんとなく、今の出来事は俺だけのものにしておきたいような気がして、言葉を濁してしまった。
「へぇ……? あたしも隣の席なのに、挨拶してもらってないんだけどー? そこんところ、どうお考えなのかなぁ、日向は」
俺と蒼汰の会話に、思わぬ闖入者があった。茶色かがった髪をゆるくサイドで結び、少しばかり制服を着崩した所謂ギャル系女子。俺の右隣の席に陣取っている彼女は、《たかはし》玲奈。
彼女とは、苗字を呼び捨てにし合う程度には仲が良い。クラスメイト以上、友達未満といった間柄だ。高橋は結構あっけらかんとしたやつだから、誰とでもこんな感じだけども。
とはいえ、今の今まで、彼女が隣の席にいたことすら認識していなかったのは不覚だったかな。
「あー、ごめん高橋。えっと……これからよろしく、でいいのかな?」
「うんうん、よろしいっ。こちらこそよろしくぅ」
高橋は満足気に頷くと、ニヤリと笑い、今度は蒼汰に視線を向けた。
「さてさて、お隣さんへの挨拶も済んだことだし、望月に、ちょーっと良いこと教えたげよっかなぁ」
「良いことって、なんだ?」
「ふふーん。さっき日向が水琴さんに声かけてたって言ってたけど、あれ、逆だから」
「はぁ? どういうことだよ」
「言葉通りの意味。いやまぁ……最初に声を出したのは日向なんだけどね、水琴さんがただならぬ感じで日向のこと見つめててさぁ」
「えっ、なに? さっきの……見てたの?」
「そりゃあ見るに決まってるでしょ。だってあの水琴さんじゃん? あんなの、初めてだったし。一部始終、じーっくり拝見させていただいちゃったぜいっ」
「マジかぁ……」
水琴さんとのやりとりを思い出して、なんだか気恥ずかしくなってきた。俺もめちゃくちゃ緊張していたし、途中からわけわかんなくなってたし。あれを見られていたと思うと、顔から火が出そうだ。
ただ、一度わいた好奇心はなかなか鎮まってはくれないらしい。蒼汰の目は、続きを促すように輝いていた。
「それでさぁ、日向が席を立とうとした時に『行かないでぇ……』みたいな感じで袖を掴んでてぇ。うん、あれは完全に恋する乙女の顔だったね。あたしゃ感激だよ、日向がなにしたのかは知らんけど」
「……おい陽介、話せ」
蒼汰が俺の肩を強く掴んできた。
「あー……わかったわかった。話せばいいんだろ、話せば。っとにもう、高橋が余計なこと言ったせいで……。でも、恋する乙女の顔っていうのは高橋の勝手な妄想だからな」
それって、俺に対してってことでしょ?
さすがにそれは、水琴さんに失礼すぎるよ。
「にゃははっ、めんごっ。でも、珍しいことには変わりないし、あたしも気になっちゃってさぁ」
「はぁ……まぁいいけど」
大きくため息をつきながら、俺は事の経緯を話すことにした。といっても、蒼汰との待ち合わせの前に迷子の道案内をした、という程度だけども。
俺の話を聞き終えると、蒼汰と高橋は顔を見合わせた。
「「やっぱり恋する──」」
「ちーがーうって! 本当に、ただお礼言われただけだからっ!」
「んだよ、つまんねぇな」
蒼汰は言葉通り、心底面白くなさそうに吐き捨てた。でも、高橋の反応は全く別のものだった。
「いやぁ、これはわかりませんよぉ。私の女の勘が言ってるね。水琴さんはこれから変わってくって。というかその前にさ、日向的にはどうなわけ?」
「どうって、なにが?」
「そんなの決まってんじゃん。水琴さんのこと、どう思ってんの?」
「それは──」
さっき見たばかりの笑顔が、頭の中に浮かんでくる。あれを見れば、他の皆からの印象も変わるかもしれない。
水琴さん自身の気持ちなんて俺には知りようがない。でも、独りでポツンと佇む姿はやっぱりどこか寂しげに見えてしまう。いじめにあっているわけではないが、どうしてもそれが正常な姿とは俺には思えなかった。
なら、答えは一つだ。
「「それは……?」」
俺の言葉をじっと待つ蒼汰と高橋に、はっきりと告げる。
「──そうだねぇ。仲良くなってみたい、とは思うかな」
「陽介、お前ってやつは……」
蒼汰は感激したふりをして、泣き真似をする。
「よしきたっ! 押し倒せ、日向っ!」
高橋は、なぜかテンション爆上がりでとんでもないことを言う。
「高橋……本当に女子なの? なんか発言がおっさんみたいなんだけど」
「おいこら、こーんな美少女を捕まえておっさんとは失敬なっ!」
「自分で美少女言うなや」
真顔の蒼汰がツッコミを入れた。
うん、俺もそこには同感。可愛らしい方だとは思うけど、さすがに自分で言うのはね。俺は蒼汰みたいに余計なことを言うつもりはないけど。
まぁでも、あまり深刻になられても困るし、高橋のこの軽さには助けられたかもしれない。
「うっさい、望月。でもまぁ、冗談は置いといてさ……日向のそういうとこ、あたしは嫌いじゃないよ」
「だな。なんつーか、陽介はお人好しだしな」
「……そうかな?」
「そうだろ」「間違いないね」
「そっか。なら……少しだけ、頑張ってみようかな」
具体的にどうこう、なんてプランはまだない。でも、どうやら理解してくれる人はいるらしい。
「玲奈ちー、帰るよー?」
「……レナ、遅い」
廊下から、高橋を呼ぶ声がした。
「あっ、今行くー! というわけでお二人さん、あたしはお先に失礼するよんっ」
「うん、また明日」
「あぁ、またな」
ぶんぶんと元気よく手を振って、高橋は去っていった。それを見送って、俺もようやく立ち上がる。
「俺達も、そろそろ帰ろうか」
「おう」
すっかり人の少なくなった教室を後にする。これからのことを思うと、少しだけ心配で、少しだけ心が躍る。
この翌日の朝から、俺の奮闘は幕を開けることになるのだった。