第4話 彩りの世界の芽吹
「み、水琴さんっ?! あー……えーっと、連続でその席なんて、すごいね……?」
俺が声をかけた瞬間、水琴さんの肩がビクリと跳ね、その視線は左右に激しく泳ぐ。
なにもそこまで挙動不審にならなくてもいいのに……。
でもしばらくすると、再び躊躇いがちに俺を見て、こくりと頷いてくれた。
そこからしばらくの沈黙。水琴さんが真っ直ぐに俺を見つめてくるから、俺も目を逸らせない。その沈黙に耐えかねて、俺は絞り出すように口を開いた。
「隣の席、だね……?」
──コクコク
「たぶん、二学期の間は……またずっとこのまま、なんだろうね?」
──コクコク
返事はない。でも、頷きというリアクションはあった。俺の中で、水琴さんのイメージが少しずつ変わっていくような気がした。
思っていたほど、とっつきにくい人じゃないのかも……?
って。
「それじゃ……しばらくは隣の席だと思うから、水琴さん、よろしく、ね?」
──コクコクコクコク
今度は激しめに頷きが返ってきて、なんだかそれがとても可愛らしく見えた。まぁ、表情は相変わらずの『無』なんだけど。
思わず笑いそうになったが、そこに横槍が入る。
「全員間違いなく移動できたなー? んじゃ今日はこれで終わりだ。明日からは通常通りに授業が始まるから、早めに夏休み気分は抜いておけよーっ!」
最後までどこか適当な先生は、解散を告げると、さっさと教室を出ていってしまった。
途端に喧騒に包まれる教室内。帰る者もいれば、友人とお喋りに興じる者、様々だ。
俺としては教室に残り続ける理由もないので、早々に帰宅する派閥に加わることに。鞄を手に取り、立ち上がろうとした時だった。
制服の左腕の袖を、ちょこんと摘まれた。その手は、確認するまでもなく水琴さんのものだった。
半袖の端を摘む水琴さんの指が、微かに二の腕に触れている。相手が水琴さんだからなのか、それとも、初めて女の子にこんなことをされたからなのか、心臓の鼓動が速まるのを感じた。
「水琴、さん……?」
そう問いかけるので精一杯だった。水琴さんに引き留められている、ただそれだけのことが理解できずにいた。
またしても、見つめ合うだけの不思議な時間が流れる。水琴さんの身体は微かに震えている。その緊張が、袖を摘む指先から伝わってきた。
俺は水琴さんの意図がわからずに、ただただそれを見守っていた。
やがて、水琴さんの唇が震えた。静かに、ゆっくりと、でも確実に開いていく。その様子は、なぜか植物の芽吹のように感じられた。
でも、それは大きな間違いだった。
芽吹いたのはたぶん、俺の方。
水琴さんが、言葉を紡いだ。蚊の鳴くような声ではあったが、はっきりと、俺に向けて。
「──あの……夏休みのあの日……ありがとう、ございました……」
その瞬間、全身に電流が走った。これは喩えなんかじゃない。確かに走ったんだ。
俺は、見惚れるしかなかった。初めて見る、水琴さんの笑顔に。
水琴さんの目はふっと細められ、頬はふわりと緩み、口角がにこりとわずかに持ち上げられていた。
他の人と比較してしまえば、笑顔と呼ぶにはぎこちなさすぎるのかもしれない。でも、紛れもない笑顔だった。常に無表情が張り付いていた水琴さんにとっては、たぶんこれが全力の笑顔なのだろう。
その光景は、俺の瞳に焼き付いた。網膜を燃やし、視神経を焼き、脳を焦がし、それでも足りずに余波は電流となって俺の身体を駆け巡った。
繰り返して言おう、これは決して比喩ではない。
痛かった。とんでもなく痛かった。でも、うめき声を上げる余裕すらなかった。
まさにその直後、俺の視る世界が変化したのだから。
俺の目が、不思議な光を捉えた。水琴さんの輪郭を縁取るように揺らめく、オレンジ色と、空色の光を。
な、なんだ、これ……?
なにが起きているのかは、さっぱりわからない。今までに、こんなことはなかったはずだ。
俺は瞬きも忘れて、食い入るようにその光を見つめた。それは、この世のものとは思えないほど美しかった。まるで、水琴さんの笑顔につられて、花が咲いたのかと錯覚してしまうほどに。
いつまでも見ていたい、そう思わずにはいられなかったが、ついに限界が訪れた。開き続けていた瞳は乾き、無意識に瞬きをしてしまう。
すると、世界は元に戻ってしまった。幻覚でも見ていたかのように光は消え失せ、水琴さんが反応を伺うように俺を見つめていた。
「……日向、くん?」
名前を呼ばれて、そこでようやく我に返った。俺がその視線に気付いた時、いつの間にか、水琴さんの手は俺の袖を解放していた。
「ご、ごめん。ちょっと、びっくり、して……。でも……うん、役に立てたのなら、俺も嬉しいよ」
どうにかこうにか笑顔を浮かべる。うまく笑えている自信は、あまりない。
水琴さんは伏し目がちに俺を見上げ、また、こくりと頷いた。それから慌てた様子で立ち上がり、鞄を手に足早に教室の出入り口へ向かった。
俺はその背中に向かって、声を振り絞る。
「水琴さん、また明日っ……!」
水琴さんの歩みが、一瞬だけ止まる。だが、振り返ることもなく、下校する人たちの波へと消えていった。
「ふぅ……」
俺はつい、大きく息を吐いた。
さっきのあれ、なんだったんだろう……。
身体には、まだ痺れが残っている気がする。
なんか、すごく綺麗だったなぁ……。
また、見られる、かな……?
理屈も理由もさっぱりわからない。ただ、とんでもないことが起きた──そして、これから起こる予感がする。
その予感に、やけに胸が躍った。